第1章 真っ黒な蝶々
第1話 黒い蝶の朝
靄がかかった視界が晴れてくる。
ソファベッドから降りてシャワールームに入った。着替えは適当に洗濯機に突っ込んで、シャワーを浴びる。冷たいそれを浴びて意識を覚醒させた。不健康そうな青白い肌に、青い目と黒い髪。アゲハ蝶のような、不吉な死神のような風貌。顔立ちは客観的に見ても悪くない。高校に入って二ヶ月と少し、二人の女子から告白された。もっとも、恋愛が悲劇しか生まないことなどわかりきっているので断ったが。
「俺の人生の物語……」
夢に時々出てくる映画。大昔の映写機の映像と、カラカラ回るフィルムの虚しい音。大人の声と子供の声で執り行われるナレーション。突きつけられる罪。
「違うだろ」
青い目が鏡越しに睨んでくる。
「贖罪の物語だ」
蛇口を捻る。水を止めてタオルで拭って、適当な私服に袖を通す。書類審査と簡単なテストで入れた安っぽい私立高校で、私服通学が大丈夫な場所に進学した。妖怪はその成り立ちから金銭的に恵まれないケースが多く、社会福祉制度の改正などによって高校までの無償化が進められていた。老人による曖昧な意見の応酬に終始した政治が終わったのが四半世紀ほど前。現在、ある種の革命が起きた日本
未だ、血への渇望は消え失せない。
朝食にはコンビニで買ってきた割引の惣菜パン。さらにアプリのクーポンで二十円引きにして、六十円ほどで買った。二ついりのサンドを食べて、コーヒーで流し込む。消しゴムを咀嚼しているかのような感触で、中身のペーストされた卵は硫黄の塊を口にぶち込まれたかのような不快感。かろうじて美味しいと思えるコーヒーで誤魔化さねば、とても食べられるものではない。
血はたまに飲めばいい。だが、渇きを無視するととんでもないことになる。そして半分が人間であるために、美味くもないものを食べねばならない。最悪だ。
リュックを背負って、ミラージュフォーンと財布をポケットに。鍵を持って、玄関へ。ショートブーツを履いて、揚羽は靴箱の上の写真を見る。黒い赤ん坊を抱く女性と、寄り添う男性。どちらも見た目は人間。
「ごめんなさい」
行ってきます、という言葉は出てこない。
ドアを開ける。二〇二号室のネームプレートにはマジックで書かれた『灰原』の文字。ポストにはアルバイト募集のチラシと、よくわからないエアロビクスか何かの紙。両方を引っこ抜いて丸め、握り潰す。シリンダー錠を閉め、部屋を離れた。
錆びついて漆喰が剥がれた階段を降りる。お隣さんやなんかは知らない。挨拶不要、という謳い文句のおかげでここを選んだのだ。安っぽいホームドラマのようなくだらない人付き合いなどに時間を使いたくない。損失しかない上、利益は一切なし。そんなのあまりにも馬鹿げている。
一階の共同ガレージに停めてあるオフロードのロックを解除。ハンドルを掴んで動かし、外に出て跨った。フルフェイスをかぶって、そこで一階に住んでいる女性が手を振ってきた。
「やあ、青少年くん。通学かな」
「多分」
「多分? サボるのかい? 私も会社をサボりたい。週六日の仕事なんて辞めたいよ」
「そうですか。では、さようなら」
「……そこは、行ってきます、じゃないのかな」
二五〇ccクラスの電気バイク。値段は二三〇万円。もちろんローン。今のバイトは身入りがいいので、過酷だが辞めたくないし辞められない。
静かな電気エンジンがモーターを回す。風を切って、違反切符を切られないよう法定速度を遵守して走った。
上に住むか下に住むかで色々と差別意識が生まれたのは初めのうちだけだ。むしろ、今では差別されていた地下の方が安全であるとさえされている。地熱発電、食料プラントなどの生産施設もそうだし、何より攻撃された際には地上が盾になる。
揚羽が暮らすのは地上一層目。空と海が見える沿岸部の
それに引き換え、一定数存在する半妖は、ひどく嫌われていた。
自分が半妖だと知られれば何をされるか。違法な存在ではないが、奇異の目で見られるだろう。後ろ指もさされる。だから人間として過ごす。
バイクは高校の敷地内へ。自転車置き場の隅に駐車してキーを抜く。ヘルメットを抱えて校舎に入った。
朝早い校内は静かで、昇降口で上履きに履き替える。自販機でブラックの缶コーヒーを買って、一年二組へ向かった。
退屈な一日の始まりだ。
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