日本の技術が奪われた?苦い経験

F-2開発では、「日本の技術を米国に奪われた」とのイメージがあります。

岩﨑:私は、F-2開発に関して日米交渉の全てを知っているわけではありません。技術に関するいろいろな評価がありますが、私の個人的な意見は「共同開発とはそんなものなのでしょう」ということです。

 米国は当時、F-15とF-16の組み合わせで戦う構想を持っていました。そして、F-16はF-15とともに、米国が運用を確立した素晴らしい戦闘機でした。私たちは、米国からF-16の設計思想から装備構想までのほとんどを学ぶことができました。これにより、我々の開発リスクを大きく低減させることができた。極めて大きなメリットであったと思います。

 ただし、米国は交渉の中で、当初はF-16に関する全てを提供すると言っていたにもかかわらず、ソフトの中心であるフライト・ソースコードの国外提供について議会を通過させることができませんでした。不開示となったのです。

 また、当時の我が国が誇る「複合材の一体成型」技術を米国に提供することになりました。この技術は、軽量化のためF-2の主翼に適応することとしたもの。当時、「複合材の一体成型」は我が国のみができる技術で、米国もできない技術でした。米国は「米国も主翼を生産したい」との意向を示し、日本は最終的に合意せざるを得ませんでした。

 また、F-2の主輪(タイヤ)に使う、日本が誇るタイヤ技術をめぐって、米国が急に「その技術は派生技術」(F-2を製造することによる技術=米国の技術)と主張し、論争まで起こりました。

 我が国のタイヤ技術は素晴らしいものでした。私がパイロットとして最初に乗った戦闘機F-104J。当時、「世界一速い着陸速度の航空機」との異名を持つ戦闘機です。ブリヂストンや横浜ゴムなど日本製のタイヤは10数回の着陸に耐えることができたものの、米国製のタイヤは数回でタイヤ交換を余儀なくされたことを覚えています。

 以上のように、確かに、我が国の技術を米国に提供せざるを得ないことがあったのは事実です。しかし、我が国も大きな技術的恩恵を米国からもらったと考えています。

 共同生産の大きなメリットを紹介します。私が訪米時にロッキード・マーチンを訪ね、F-35Aの製造ラインを拝見させてもらったときのこと。偶然にも、F-35Aの傍らに見覚えのあるブルー系統の迷彩塗装の主翼があったのです。明らかにF-2の主翼でした。

 ご承知のとおり、東日本大震災と津波で空自の松島基地が大被害を受け、当時所在していた全航空機が海水につかってしまいました。この中に18機のF-2戦闘機も含まれていた。その後、回復を試みようとしましたが、18機の機体から使用可能な部品などを集めても、数機の回復しか望むことができませんでした。

 しかし、米国はF-2の主翼などの製造基盤を維持していたのです(F-2開発を担った三菱重工はF-2の維持整備はできても、再度の主翼生産などはできなかった)。このとき、米国と共同製造にしたことのメリットに改めて感謝した次第です。もちろん、先ほどお話ししたように、結論に達するまでいろいろな議論がありましたが。

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