僕が小説家になりたくない理由
- 2020/09/07
- 09:04
なろう系(=テンプレ)が存在するということは、当然なろう系に対するアンチテーゼ(カウンターカルチャー)である非テンプレも存在します。しかし、非テンプレの呼称を「非テンプレ」としてしまうのは、まるでなんだか「テンプレではない作品だから、非テンプレなんだ」と言っているみたいで消極的です。もっと積極的な名前はないのか、と考えて新しい名前をつくりました。それが「なるな系」です。言葉の意味は、「なろう系と正反対の作風の小説」、「なろう系に対するカウンターカルチャー」です。もちろん、僕も「なるな系」を書いています。
「なるな」というのは「小説家になるな」の略です。「小説家になろう」に対抗するから、「小説家になるな」なのです。つまり、僕は小説家になりたくないのです。
では、僕は何故小説家になりたくないのでしょうか? それは、職業小説家というのは小説を売って生計を立てる職業であり、ある程度以上売れる小説を書ける人でなければ絶対になれないものだからです。
当たり前ですが、小説を書くのが得意=小説家になれる、ではありません。単に小説を書けるだけの十分な文章力や想像力があるというだけでは、小説家にはなれません。小説家になるために欠かせないのは、少し意地悪な言い方になりますが、つまらない小説だと分かっていてもそれを世間が求めていると分かれば、「はいはい、分かりましたよ」と素直にそういうものを書く態度です。別の言い方をすると、世間に媚びる態度ですね。本質的には、職業小説家には表現の自由など全くないのです。職業小説家が書きたいものを自由に書く権利は、読者によって奪われているのです。
では、世間に媚びたくない人、自分が本当に好きなものを自由に表現したい人はどこで、どうやって、どんなアプローチで小説を書けばいいのでしょうか? 少なくとも「出版社」でないことだけは確実です。
その答えは一つしかありません。作家以外の仕事で生計を立てて、執筆活動はお金を1円も稼がない趣味だと割り切ることです。すごく皮肉なことですが、本当にいい小説を書きたい人・書ける人ほど、「職業作家」からは遠ざかるようになっているのです。そういう人は、あえて作家にはならず、サラリーマンになって生計を立て、執筆活動は趣味としておこなっています。それが今の出版業界の姿です。
すごくキツい言葉に聞こえるかもしれませんが、お金を稼ぐために世間に媚びたり、自分がつまらないと思う物語を嫌々書いたりすることは、僕に言わせれば「悪魔に魂を売る」にも等しい行為です。当然、批判や反論、否定的意見はたくさんあるでしょうが、それを承知の上でこんな過激な文章を書いています。僕はなろう系が本当に本当に憎くてたまりません。ジョージ・オーウェルのディストピア小説「一九八四年」に「プロレフィード」という小説が登場していますが、なろう系はまさに現代日本のプロレフィードそのものです。なろう系のような低俗な退廃芸術を愛好する輩の感性は、独裁政権の支持者となんら変わりません。誰が何と言おうと、この考え方は僕の中では正しいのです。他人から見れば、何の正当性もないただのエゴなのは僕も理解しています。それでも僕は、こういう思想を持つのをやめることはできないのです。
大多数の大衆は芸術のセンスなど全くないのですから、彼らが金を出して育てるコンテンツは間違いなくつまらないものだらけになって腐敗します。面白いものはつまらないと言い、つまらないものは面白いと言ってしまうのが愚かな大衆です。正直なことを言えば、僕は彼らのことを憎んでいますし、心の底から軽蔑しています。人気のあるコンテンツを追いかけるミーハーが日本のサブカルチャーを汚染し、腐敗させ、衰退させようとしているのです。もちろん、今のサブカルチャー界には、まだ名作や良作もたくさんありますが、そういう豊かな状態が今後もずっと続くとは僕には思えません。良いものと悪いものの区別もまともにできないミーハーが、そういう名作や良作をバッシングして潰すからです。web小説だけに限ったことではありません、ライトノベルもアニメも漫画もゲームもそうです。
この状態を放置しておけば日本のサブカルチャーは間違いなく滅びます。なろう系以外のジャンルが全て消滅する状態、すなわちディストピアならぬ「ナロウトピア」になるでしょう。SFもサスペンスもミステリーもホラーも学園ものも時代劇も消滅し、なろう系だけが日本のサブカルチャーの全てを支配するナロウトピア時代が来ます。ナロウトピアのあまりのレベルの低さに、世界中の人々が日本のサブカルチャーを嘲笑するような時代が来るでしょう。だからこそ、僕は日本のサブカルチャー界に革命を起こしたいのです。こんな腐り切った世界は変えなければなりません。その重要な役割を担う戦士の中の一人に、僕はなりたいのです。僕の影響力が全くなく、無力に等しい人間だとしても、戦いたいのです。味方や賛同者が全くいなくて完全に孤軍奮闘であったとしても、戦いたいのです。僕は徹底的に戦います。もう後戻りはできません、僕が進むべき道はこれしかないのです。
なろう系レーベルの書籍が異世界テンプレ系だらけになった惨状を見れば分かるでしょう。人気が出ないものや、趣味でやるもの、金にならないものにこそ芸術的な価値があるのです。しかし、プロのクリエイターが食べていくためには、本人がたとえ「大衆媚びが嫌」ってスタンスだったとしても絶対にある程度は「大衆媚び」を避けて通れないのです。それを避ければ(書籍の売上が)爆死する可能性が高まり、儲かりません。
そういった「お金の縛り」で常にクリエイターを苦しめ続ける資本主義は、芸術との相性が最悪です。金のかかったコンテンツが偉い、たくさんの人から支持されているコンテンツが偉い、商業コンテンツが偉い、そういう発想は権威主義です。そういう権威主義を僕は全力で否定し、全力で批判し、全力で拒絶します。
僕がもし小説を完成させたとしても、おそらく僕の小説の良さはほとんどの人には理解できないでしょう。それどころか、僕は「底辺作者」「無能」「ゴミ」などとアンチから蔑まれる事の方が多いかもしれません。それでも書きます。書くことが出来れば本望です。誰も僕の作品を評価しませんし、逆に「罵倒」「冷笑」「嘲笑」などを浴びせられるだけです。褒められる事はほとんどありません。ただ作品を完成させたいという考えのみで行う、無欲の取り組みです。本当に、本当に悲惨です。胸が引き裂かれそうな気持ちになります。どれだけ寂しくて、どれだけつらくて、どれだけ苦しくて、どれだけ悲しいか。誰も僕の思想を理解してはくれません。これは哀れな敗北者の悲鳴です。魂の叫びです
本当に面白い小説を書きたくて、小説の作風に強いこだわりや信念や理念があるならば、小説家になってはいけないのです。そういう人こそ、最も小説家になるのに向いていないのです。だから、僕は小説家になりたくないのです。僕はなろう系ではなく、なるな系を書きます。壮大な世界観、手に汗握るダイナミックなストーリー、圧倒的に情報量の多い設定、重厚で硬派、そして複雑で、なおかつ古典的な作風、それがなるな系です。
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