徳川慶喜/草彅 剛
徳川斉昭の七男に生まれ、一橋家を継ぎ、江戸幕府最後の将軍へ。側近・平岡円四郎の目利きで渋沢栄一と出会い、財政改革に手腕を発揮した栄一を重用する。幕府終焉(しゅうえん)の時を迎えてからも、慶喜と栄一の厚い信頼関係は終生に及んだ。
渋沢家・中の家(なかんち)の長男。幼いころから人一倍おしゃべりで剛情っぱり。従兄(いとこ)である惇忠たちの影響を受け、草莽(そうもう)の志士として倒幕を目指すが、計画は失敗。平岡円四郎との出会いから一橋家の家臣となり、命拾いする。
慶喜の家臣となった栄一は、父・市郎右衛門ゆずりの商才を生かし、一橋家の財政改革に邁進(まいしん)していた。ところが、慶喜が徳川宗家を継ぐことになり、まさかの幕臣となってしまう。失意の栄一に、パリ万国博覧会の使節団の一員としてパリ行きが命じられる。
徳川斉昭の七男に生まれ、一橋家を継ぎ、江戸幕府最後の将軍へ。側近・平岡円四郎の目利きで渋沢栄一と出会い、財政改革に手腕を発揮した栄一を重用する。幕府終焉(しゅうえん)の時を迎えてからも、慶喜と栄一の厚い信頼関係は終生に及んだ。
病にかかった慶喜の婚約者の代わりとして正室になる。一橋家の未亡人である徳信院と慶喜の恋仲を疑い、自殺未遂の騒動を起こした。つかず離れずの夫婦であるが、やがて慶喜のよき理解者となる。
一橋家当主・徳川慶寿(よしひさ)の正室となるも、若くして死別し、出家して「徳信院」と名乗る。慶寿の後継も亡くなり、慶喜が次いで後継となったため、わずかな年齢差で養祖母となる。ふたりは特別な信頼関係で結ばれた。
孝明天皇の妹宮。幼いころより許婚(いいなずけ)がいたにもかかわらず、幕府が目指す公武合体の象徴として、将軍・家茂との縁組みが浮上。和宮は固辞するもかなわず、泣く泣く降嫁した。しかし、家茂の誠実な人柄に触れ、次第に心を開いていく。
薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の養女から、家定の正室となる。実は、家定に後継として慶喜を認めさせるという密命を背負っていた。ところが家定が早世。天璋院と名乗り、徳川の女性として生きる決心をする。
渋沢一族の一家、「新屋敷」の長男。栄一より2歳上で、幼なじみとして育ち、生涯の相棒となる。直情的だが情に厚く、弁が立つ知性派の栄一とは正反対の性格。幕末の混乱の中で彰義隊を結成し、栄一とは異なる道を歩む。
若い頃から英才の誉れ高く、水戸・弘道館の訓導として藩士を教育した。将軍後見職となった慶喜を補佐するため、一橋家で働くことになる。円四郎の暗殺後、禁裏御守衛(きんりごしゅえい)総督に就いた慶喜の側近として重要な役割を果たした。
慶喜の側近・平岡円四郎の部下として柔軟に動き、鋭い目つきで情報収集に努める。江戸の酒場で見かけた、威勢のいい栄一と喜作に最初に目を付けた。攘夷派から命を狙われる円四郎のそばに付き、護衛を務める。維新後、静岡に移り住んだ恵十郎は、意外な形で栄一と再会する。
万延元年(1860)に遣米使節として渡米。そこで近代産業に驚き、造船所のネジを持ち帰る。帰国後は勘定奉行として理財の才を発揮。貿易会社の設立や軍備の拡大を進めるため、栄一も派遣されたパリ万国博覧会参加の実務を担い、その裏で、フランスからの融資実現に向けて奮闘する。
幕府の奥詰医師を免じられて蝦夷地へ左遷されるも、箱館奉行組頭としての功績が認められて目付となり、さらに外国奉行に昇進。勘定奉行の小栗忠順とは若い頃に同じ私塾で学び、公私にわたって親交を結んだ。幕府の財政問題を解決するため、栄一らがいるパリへと向かう。
ペリー来航後、海防掛に就任。海防参与となった徳川斉昭の過激な言動に振り回される。将軍継嗣(けいし)問題では一橋派に属していたため、安政の大獄にて罷免された。やがて慶喜を補佐する立場となる。
長崎で蘭学を学び、外国奉行の通詞として活躍。幕府の使節の一員として2度渡欧したことで開かれた文化を体感し、新聞記者への夢を抱く。維新後は大蔵省に入るが、やがてジャーナリストに転身。友人である栄一から、慶喜の伝記を編さんしたいという相談を受ける。
中の家(なかんち)の作男。栄一を兄貴のように慕い、仕事のかたわら剣術稽古にも精を出す。やがて一橋家の家臣となった栄一から誘いを受け、伝蔵も武士となって一橋家に仕官することになり、須永虎之助と改名。
第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男であり、慶喜の異母弟。清水徳川家を継ぐまでは松平昭徳(あきのり)。将軍となった慶喜の名代としてパリ万国博覧会へ出向くことになり、随行した栄一と特別な絆を結んだ。大政奉還によって帰国を余儀なくされ、最後の水戸藩主となる。
パリ万国博覧会の使節団では全権公使を務める。フランス人の通詞・カションと折り合いが悪く、仲たがいする。追って日本から来た後任の栗本鋤雲に代わり、ひと足早く帰国した。維新後は静岡へ移り、学問所の頭取として教育に力を注ぐ。
愛称は田兄(でんけい)。遣欧使節団の一員としてフランスに渡った経験を持ち、昭武に随行するパリ万国博覧会メンバーとして再びパリへ。このパリ万国博覧会で、幕府とは別に薩摩藩が独立して出品しようとしたことから、薩摩藩の代理人・モンブラン伯爵に猛抗議する。
徳川昭武の随員としてパリ万国博覧会へ派遣される。そこで栄一と親交を深め、やがて家族ぐるみのつきあいをするほどの仲に。維新後は静岡へと移り、やがて明治新政府に出仕して、栄一が立ち上げた民部省改正掛(みんぶしょうかいせいがかり)の一員となり、前島 密らと郵便の仕組みを築く。
一橋家の軍制所に勤める医師であったが、慶喜が将軍を継承したことで、幕府の奥詰医師となる。昭武のお付き医師として、栄一らと共にパリ万国博覧会へ随行。そのまま留学生としてフランスで医学を学んで帰国。旧幕府軍と新政府軍が戦った箱館にて、敵味方の区別なく治療にあたる。
徳川昭武の傅役(教育係)としてパリの使節団に随行。パリ万国博覧会の後、スイスをはじめとする昭武の諸国歴訪にも同行する。その後は傅役を免ぜられて留学生の取締役となる。
池田屋事件で功績を挙げた新選組の副長。幕臣になった栄一とある任務で出会い、同じ百姓出身ということもあって意気投合する。鳥羽・伏見の戦いで敗れるが、官軍に抵抗して各地を転戦。榎本武揚(えのもと・たけあき)や栄一のいとこ・喜作らと箱館に渡り、占領した五稜郭を拠点に新政府軍と壮絶な闘いを続ける。
努力と才能で勘定奉行まで上り詰めた切れ者。幕末の外交問題に欠くことのできない存在となる。師と慕う人の息子である平岡円四郎に目を掛け、徳川慶喜の側近として円四郎を推薦する。
吉原の売れっ子芸者であったが、放蕩(ほうとう)無頼の生活を送っていた武士・平岡円四郎に見初められてその妻となる。とびきり美人だが気はめっぽう強く、粗野で破天荒な円四郎もやすには頭が上がらない。
息子である薩摩藩主・茂久(もちひさ)の後見となり、「国父」として藩政を動かす。公武合体を推進するため、薩摩より兵を率いて上洛した。雄藩の政治参画を実現するため「参与会議」を発足させる。参与メンバーである慶喜とは横浜鎖港をめぐって対立する。
久光が目指す公武合体実現のため、流罪を赦免されて藩政に復帰。大坂にある薩摩藩士・折田要蔵の塾に、一橋家の命で偵察に来ていた栄一と出会う。やがて倒幕を決意した西郷は、王政復古のクーデターで暗躍。明治政府の誕生に大きな功績を立てた。
薩摩藩の実権を握る国父・久光の側近として、公武合体を実現するために上京。裏工作に奔走しつつ、腹の内が読めない慶喜を強く警戒する。やがて、明治新政府では大蔵卿に就任するが、部下となった栄一とは近代化をめぐる路線の違いで対立する。
薩英戦争で捕虜となるも釈放される。長年の長崎遊学から世界情勢に通じており、貿易による富国強兵を唱えて渡英。留学中にパリ万国博覧会の情報をいち早く得て、薩摩藩としての参加を実現し、幕府の威信を落とす。このとき、幕府側の一員として参加していたのが栄一だった。後に「西の五代、東の渋沢」と称される実業家となる。
「才ある美しいものを好む」という気質からか、慶喜の英邁(えいまい)さをいち早く見抜いてすっかり心酔。慶喜を次期将軍に押し上げるべく奔走する。安政の大獄で隠居した後、慶喜と共に京へ上り、政界に復帰する。
第8代宇和島藩主。将軍継嗣問題では慶喜擁立に関わったことから、安政の大獄では隠居謹慎に処された。島津久光の公武合体運動によって政界に復帰し、朝議参与に任命されるが、久光や松平春嶽らと共に開国の道を唱え、慶喜と衝突する。
第15代土佐藩主。安政の大獄では、将軍継嗣に慶喜を推したことで隠居謹慎を命じられたが、その後、朝議参与に任命される。容堂の酒好きは有名で、伊達宗城からは酔狼君(すいろうくん)とあだ名されたほど。容堂が慶喜に建白したことで、大政奉還が実現した。
強力な軍事力を誇った会津藩の藩主。文久2(1862)年、過激な攘夷派が横行する京の治安維持のため、幕府から会津藩に白羽の矢が立てられた。容保は病床にあったが、徳川家への忠誠心から上洛し、京都守護職に就任。容保の下で、市中警護のための浪士隊「新選組」が活躍した。
14歳の若さで婿養子に入って桑名藩主となる。定敬は同い歳だった第14代将軍・家茂からの信任が厚かったため、家茂の上洛とともに初上洛。京都所司代を命じられ、兄・容保と共に京都の警護にあたる。鳥羽伏見の戦いの際、容保・定敬兄弟は第15代将軍・慶喜と行動を共にした。
朝廷改革を志す公家。桜田門外の変で井伊直弼が殺害された後、公武合体を計画する幕府と交渉する立場にあった岩倉は、和宮降嫁を後押しする。しかし尊王攘夷派から佐幕派とみなされ、排斥の圧力によって孝明天皇からも疑われるようになり、やがて蟄居(ちっきょ)を命じられる。
公武合体派の中心人物。安政の大獄で一橋派として処分されるが、井伊の死後に赦免される。孝明天皇の信頼を厚くし、薩摩藩や会津藩と手を結んで、急進的な攘夷・倒幕を唱える長州派の公家を京都から追い出した。やがて孝明天皇の死によって求心力を失う。
「中の家(なかんち)」を立て直すため婿養子として入る。骨身を惜しまず働く勤勉家で、家業の研究に余念がなく、藍玉づくりの名手と呼ばれた。四角四面で厳格な父だが、破天荒な栄一の生き方を誰よりも支援した。
冬には羽織を手にして栄一を追いかける姿が「羽織のおゑい」と呼び親しまれるほど、栄一を愛情深く育てた慈愛の母。お人よしで情け深く、「みんながうれしいのが一番」の精神を幼き栄一に教える。
惇忠、長七郎の妹。栄一よりひとつ年下で、喜作も交えた三人は幼なじみとして育つ。控えめで口数は少ないが、心の芯はめっぽう強い。栄一と結婚してからは、多忙な栄一に代わって渋沢家を守り、内助の功を発揮する。
栄一の姉。優しい母とは打って変わり、歯に衣着せぬ物言いで、栄一にとってはおっかない存在でもある。年ごろに育ったなかの縁談を巡って騒動が起きるが、栄一に救われて解決。吉岡家に嫁ぐ。
栄一の妹。年の離れた栄一にかわいがられ、天真らんまんなお兄ちゃん子となる。栄一にとっては、何でも話せ、生涯にわたって信頼のおける肉親だった。やがて栄一の妻となる千代の心の友に。
尾高家の末っ子。偉大な兄たちの背中を追いかけ、姉の千代を心から慕い、文武両道で心優しい美青年に育つ。栄一のパリ行きに伴い、栄一の養子となるが、そのことがきっかけとなり幕府崩壊の動乱に巻き込まれていく。
情熱的な喜作にひと目ぼれし、みずからアプローチ。結婚後は、喜作がすっかり尻に敷かれるようになる。栄一と喜作が京へ旅立ってからは、千代のよき相談相手となって、共に夫の留守を支える。
渋沢一族の中で最も財をなした「東の家(ひがしんち)」の当主。血洗島村の名主として、栄一の父・市郎右衛門と共に村をまとめる顔役のような存在。甥(おい)の栄一には、時に口うるさく小言を言う。
宗助の妻であり、栄一の伯母。人はいいが少々おせっかいな性格で、親戚である「中の家(なかんち)」でも何かにつけて世話を焼きたがる。宗助とのコンビネーションが絶妙で、なんだか憎めないおしどり夫婦。
惇忠、長七郎、千代、平九郎の兄妹を育てあげた尾高家の母。やがて惇忠たちは尊王攘夷の思想に突き進んでいく。いやおうなく幕末の動乱に巻き込まれていく子どもたちを心配しつつも温かく見守る。
尾高家の長男。従弟(いとこ)である栄一や喜作に学問や剣術を教える。早くから水戸学に傾倒し、栄一らに大きな影響を与えた。明治維新後は富岡製糸場の初代場長となり、栄一を支える。
惇忠の妻。各地から草莽(そうもう)の志士が訪れるほど、文武に精通した人格者の夫を寡黙に支える。長男の務めがあるため、家を出ることができない惇忠の歯がゆさを、言葉にはしないがひそかに感じている。
惇忠の弟、栄一の従兄。長身で堂々たる体躯(たいく)の長七郎は、神道無念流(しんどうむねんりゅう)の剣豪として名をとどろかせるようになり、栄一にとって憧れの存在に。兄の惇忠に代わって江戸や京へ遊学に行き、世情を栄一らに伝える。