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「失われた夏」から半年、小山田圭吾との再会 次会う時にどうしても聞きたいこと

検証ルポ「小山田圭吾事件」#5

中原 一歩
ニュース 社会 音楽

※連載第1回(「コーネリアス」にも「渋谷系」にも興味がない私が小山田圭吾にインタビューした理由)から読む

定期的な「プチ炎上」を誘発した“種火”

 どうしても小山田氏に聞きたいことがあった。それは事実と異なる内容を語ってしまった「ロッキング・オン・ジャパン(1994年1月号)、同(1995年7月号)」、「クイック・ジャパン(1995年8月号)」が発売された当時のことだ。もし、社会的影響力のある雑誌に事実と異なるインタビューが掲載されたならば、すぐに訂正の申し入れや場合によっては抗議するのが当然だ。メディアにとって「事実誤認」は重大な過失であり訴訟に発展するリスクもある。もし、掲載直後に小山田氏が雑誌側と話し合い、ひとつの結論を出していれば、四半世紀の時を超えて、去年の夏のような大炎上騒動は巻き起こっていなかっただろう。

 2021年9月初旬、私は「週刊文春」のインタビューで本人に直接この点を指摘している。

——誌面を見た時、事実ではないことが書かれていると感じたのであれば、抗議や訂正を申し入れることをしなかったのですか?

「確かに違和感はありました。その後(雑誌発売後)、ずっと引っかかるようになっていて、自分の胸に重くのしかかる感情が湧くようになりました」

 

——雑誌に記事が掲載された後、雑誌の担当者と連絡は取らなかったのですか?

「『クイック・ジャパン』のライターの方とはこの時以来、会っていないと思うんです。『ロッキング・オン』については記事が出た後、訂正はしませんでしたが違和感は伝えていたというふうに自分は記憶しています」

 小山田氏は「違和感」という言葉を繰り返したが、訂正や抗議を申し入れる事態だとは受けとめていなかった。しかし、改めてインタビューを読むと、その内容は極めて人権感覚に欠け、悪質で目を背けたくなるようなエピソードが点在する。これを放置する感覚が全く理解できない。況してや、いじめのターゲットとなった被害者や家族の気持ちを考えるといたたまれない気持ちになる。納得いかない私は「なぜ事実ではないことを語ってしまったのか」と重ねて質問している。当時、小山田氏はフリッパーズ・ギターを解散し、コーネリアスとしてのソロ活動を始めたころだった。

「それまで自分に何となくついてしまったようなイメージを変えたいなという気持ちがあったんだと思います。それであえてきわどいことを言ったり、露悪的なことを言ったり。自慢というつもりでは全然なかった。どちらかというともっと自虐的というか、あえてそういうことを言うということをしてしまっていた時期だったんです」

——具体的に払拭したいイメージとは?

「(フリッパーズギター時代の)ポップでアイドルのようなイメージを払拭し、もっとディープでアンダーグラウンドな感じを演出したかった」

 小山田氏は「本当に自分は浅はかだった」と当時を振り返る。そして数年後、その“後悔”が小山田氏を脅かすような事態に発展する。インターネット上の掲示版で、このインタビューが話題になったのだ。幸いにも、この時は世間を巻き込む「大炎上」には至らなかったが、その“種火”は定期的にネット上での「プチ炎上」を誘発するようになる。そして、くすぶり続ける種火は、やがて小山田氏のアーティスト活動に影響を与える決定打となるのだ。

 2011年と2017年、小山田氏が「コーネリアス」名義で楽曲を担当していたNHKの教育番組(Eテレ)宛に、このインタビューについて視聴者から問い合わせがあったのだ。この時、小山田氏は番組を通じて「インタビューには事実ではないことが含まれている」との見解を示し謝罪しているが、その対応はあくまで個別であり公に説明、謝罪することはなかった。小山田氏が最後の説明と謝罪のチャンスを逃した瞬間だった。

 この時、小山田氏は孤立していた。この問題をどのように対処すればよいのか。誰かに打ち明け、相談することができなかったと、私のインタビューで告白している。

「この問題を自分から取り上げてしまうことによって、またそれが大きくなってしまうことに対して正直、恐怖もありました。それに事実でない部分を含んでいたので、訂正や謝罪をどういう場でどうやっていいのか分からなかったのです。そのうちにドンドン時間が経ってしまっていて……」

 最大の不幸は当時、すでに当該雑誌の担当者との縁が切れてしまっていたことだ。本来であればインタビュー掲載直後、そして、その後に問題が顕在化した時点で、雑誌の担当者と所属事務所、そして本人の3者が協議の上で対処すべきだった。

「クイック・ジャパン」と「ロッキング・オン・ジャパン」に問い合わせると

 そもそも、この騒動の震源地でもある雑誌の担当者は何を思っているのだろうか。私は9月16日の段階で「クイック・ジャパン」を発行する太田出版宛に取材依頼をしている。「クイック・ジャパン(1995年8月号)」の「いじめ紀行」という記事を書いた村上清氏は現在も太田出版に在籍しているからだ。数日後、村上氏からはこのような返信があった。

〈ご連絡ありがとうございます。太田出版編集部の村上です。週刊文春の小山田さんインタビュー記事、拝読しております。ご依頼の取材の件ですが、昨日20時に弊社HPにて公開した私個人名義での文章がお伝えできるすべてでありまして、現在、対外取材は一律でお受けしていない状況です。悪しからずご了承いただけますと幸いです。太田出版 村上清拝〉

 

 村上氏はその文章の中で「現場での小山田さんの語り口は、自慢や武勇伝などとは程遠いものでした」と証言している。であるならば、なぜあのような誌面になったのかということは、どうしても聞いてみたい。村上氏が文章の名義を会社ではなく敢えて個人の名前にした点は、村上氏なりの贖罪の気持ちの表れなのだろうか。

 同日、同じ内容の取材依頼を「ロッキング・オン・ジャパン」の山崎洋一郎氏にもしている。返信があったのは18日、以下のような回答だった。

〈昨日メールでお送りいただいた取材のオファーに関してですが、申し訳ありませんがご希望には沿いかねます。 何卒、ご了承いただけますようお願い申し上げます。
ロッキング・オン・ジャパン編集長 山崎洋一郎〉

 当時、「ロッキング・オン・ジャパン」は、編集方針として掲載前の原稿チェックなしを公言していた。小山田氏もそれを承知の上で取材を受けた。フリッパーズ・ギター時代のイメージを払拭したかった小山田氏と、当時、小山田氏の起用を起爆剤にして部数を稼ぎたかった山崎氏の間には、ある意味の「共犯関係」が成立していた。

 しかし、出来上がったインタビューは、本人も違和感を感じる正確性に欠いたものだった。事前の原稿チェックなしという条件があるからと言って、事実とかけ離れた話をインタビュアーが面白おかしく「書き飛ばして」よいはずがない。私は今の時点では、当該インタビューで「話を盛った」のは小山田氏ではなく、むしろ雑誌の側ではないかと考えている。なぜならば、同級生や過去の小山田氏の発言を精査しても、彼が特定の弱者をターゲットにして執拗にいじめる、もしくは、ヘイトクライムのような発言をした事実は浮かび上がってこなかったからだ。

 小山田氏は中学、高校時代から目立っていたのは間違いない。ただいつも集団の外側にいるアウトサイダーだった。若くしてスポットライトを浴びていたので、一部からは「調子乗っている」と思われていた節はある。また、取っつきにくく、もしかすると意地悪な人と思う人がいてもおかしくないだろう。しかし、彼が根っからの悪人で、弱い者をいじめていた証言は見当たらない。だからこそ尚更、あのインタビューには「違和感」を感じるのだ。だから、その真意について担当者に話を聞いてみたいと思っている。

 少なくとも小山田氏は村上氏、山崎氏の署名の入った原稿が発端となって炎上し、社会的にも経済的にも大きな制裁を受けた。その事実をどのように受けとめているのか、本人の弁を聞いてみたかった。何があろうとも取材協力者を全力で守るのが編集者の矜持であり、そのことに時効はないと私は思う。

DOMMUNEに出演しようと思った理由

 2021年暮れ。私は渋谷PARCOにある「DOMMUNE(ドミューン)」のスタジオでアウェー感に苛まれていた。インターネット配信番組「2021 SUPER DOMMUNE YEAR END DISCUSSION小山田圭吾氏と出来事の真相」に出演してもらえないかという依頼が主催者の宇川直宏氏から舞い込んだのは、その2週間前だった。DOMMUNEの存在は何となく知ってはいたが、まさか自分が登壇することになるとは夢にも思わなかった。

 その日、初めて顔を合わせた面々は、コアな音楽関係者ばかりだった。明らかに私は場違いだった。それでも私が出演を了承したのは、小山田氏のいわば身内である音楽関係者が、今回の騒動をどのように受けとめているか直接、聞いてみたかったからだ。

 

 番組は3部構成で、私のパートは第2部。打ち合わせは一切なし。当日まで誰と対談するかも正確には聞かされていなかった。顔合わせもほどほどに「じゃあ、やりましょうか」と声がかかり、あれよあれよという間にマイクを握らされカメラの前へ。登壇者は私以外に2人いた。ヒップホップミュージシャン・高木完氏とライターで編集者の北沢夏音氏。両氏ともフリッパーズ・ギター時代から小山田氏と交流があり、世に言う「渋谷系」の黎明期を知る音楽業界の有名人だということを知ったのは、大変失礼な話だが、収録後のことだった。

 収録は2時間に及んだ。高木氏と北沢氏がこの収録を引き受けた目的は「小山田氏の名誉回復」で、私とは若干の乖離があった(そもそも、この配信番組の目的もそうだったように思う)。古くから親交のある友人としてその気持ちも分からないでもないが、私は小山田氏を擁護しようと思ったことは一度もない。何しろ、この騒動に初めて触れた時、私は「小山田氏が障がい者いじめを実際にやっていたのではないか」と勘ぐった。そして、私はその「ウラ」を取るために取材をスタートさせ、当時を知る複数の同級生に接触した。しかし、その事実は確認できなかった。それなのになぜ、小山田氏が障がい者を直接いじめたというインタビューは掲載されてしまったのか——。それが小山田氏にインタビューをしようと思った最大の動機だった。

 私は今の段階では、大手新聞が拡散した「小山田氏が長期的に障がい者を虐めていた」という事実はなかったと結論づけている。だが一方で、小山田氏は「3つの罪」を犯してしまった。「小山田氏は上級生のいじめの現場を目撃したが、それを止めることができず傍観してしまったこと」、「自分のイメージを変えるために、事実と異なる話を雑誌上で複数回、語ってしまったこと(荻上チキ氏が指摘している“いじめ語り”)」、「雑誌掲載後、事実を訂正し、謝罪と説明するチャンスはあったにも関わらず、それをしなかったこと」だ。これら3つの罪については小山田氏が今後の人生をかけて向き合い、償っていく必要がある。

 しかし、全ての問題が小山田氏本人の行動のみに総括されるのは違う。むしろ問われるべきは、インタビューを掲載した当該雑誌の担当者。意図的に小山田氏を貶めようと誹謗中傷を繰り返す一部の個人ユーザー。そして速報性を優先するあまり、小山田氏が本当にいじめの加害者なのか取材をせずに事実誤認の情報を拡散した大手メディアの責任だ。

久しぶりの短い再会

 年が改まった2022年1月。4カ月ぶりに小山田氏本人と顔を合わせる機会を得た。表立った活動は控えているものの、ようやく徐々に音楽に向き合える時間を持てるようになったそうだ。あの夏から半年。1日としてこの騒動のことを考えなかった日はないそうだ。自分がやってしまったことへの後悔、被害者への謝罪の気持ちは変わらないという。

 

 短い再会だったが、私は次に会う時にどうしても聞きたいことがある。

 それは、自分はやっていないのに、まるで加害者だと信じてバッシングし、自分や家族を追い込んだ社会についてだ。小山田氏はそんな社会を恨む気持ちはないか、ということだ。

 果たして小山田氏は許されたのだろうか。許されていないのであれば、どれだけ謝り続ければ良いのだろうか。そもそも、社会は彼を許す日が来るのだろうか。これは決して小山田氏だけの問題ではない。小山田氏の「失われた夏」から半年——。禊ぎの果ての物語を今後も取材し続けようと思っている。

(連載完)

source : 週刊文春

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