日本大百科全書(ニッポニカ)「博物館」の解説
博物館
はくぶつかん
museum
日本では、1951年(昭和26)社会教育法の精神に基づき、「博物館法」が制定された。その法律によれば、博物館とは「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管(育成を含む)し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関」と定められている。
この規定のなかには、美術館、資料館(民俗、歴史など)、動物園、水族館、植物園、科学館(自然科学、技術など)が含まれている。日本博物館協会では、博物館の種類として、総合、郷土、美術、歴史、自然史、理工、動植物があるとしている。しかし、一般的に博物館という場合には、動物園、植物園、水族館などとは区別されている。
博物館が、今日のように近代的な機能を整えて、広く一般に公開されるようになったのは19世紀に入ってからである。その契機はフランス革命(1789)であったともいわれている。フランス革命後に、ルーブル宮殿が開放されるようになって以降、文化財を一部の者だけの占有物にせず、広く社会的に役だてるような形態がとられるようになり、文化財が教育、鑑賞、調査研究などに供されるようになった。「博物館」ということばは、英語ではmuseumであり、その語源は非常に古い歴史をもっている。
紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の死後、彼の大帝国は3分割された。そのうちエジプトのプトレマイオス王国はもっとも栄え、その中心都市アレクサンドリアが、アテネにかわって政治・経済の中心地となり、その王宮内には「ムセイオン」とよばれる国立の研究所が建てられた。この「ムセイオン」が「ミュージアム」の語源である。
プトレマイオス1世、2世は、ともに科学を保護することによって、王国の利益がみいだせるとして、ムセイオンを建てたといわれている。ムセイオンの中には、各地からの学者を集めるための宿舎も設備され、天文台、解剖室、動物園、植物園を付属施設としてもち、図書館も整備されて、50万~70万巻の文献が所蔵されていたという。ムセイオンは、当時のいろいろな研究の中心的な役割を果たしていた。
自然の認識に関する研究もここで大きな発展を遂げている。それは、ストラトンの空気に関する研究などから、観察・実験を重視する気風がムセイオンのなかにつくりだされたからで、そのような気風から、人体解剖を伴った解剖学、生理学が生まれたり、観測天文学や幾何学などが発達した。このような点で、博物館の語源になったムセイオンは、その当時の科学研究のメッカの役割を果たしていたということができる。しかし、この施設を今日的な博物館の最初のものであると規定することは議論のあるところである。
日本で「博物館」ということばがいつから使われ始めたかについては、正確にはさだかでない。しかし、江戸時代の末期に日本に移入された蘭書(らんしょ)などには、ロンドン大英博物館、ベルリン博物館、パリ自然史博物館の紹介記事が載っており、「博物館」ということばに翻訳はしていないが、そうした施設があるということは、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の学者たちにはわかっていた。
1860年(万延1)に、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカに渡った使節団が、アメリカで博物館を見学し、その際の記録をいろいろな人が残しているが、そのなかには「百物館」「我国の医学館の類」「博物所」「奇品はた究理の館」など、さまざまな名称で博物館を紹介しようとしている。
その2年後にロシア、ヨーロッパに派遣された使節団の人々は、「古物有之館」「博物館」「展覧場」「展観場」「鳥畜館」「草木館」などの名称を使っている。そして、福沢諭吉が1866年(慶応2)に『西洋事情』を著し、そこで「博物館ハ世界中ノ物産、古物、珍品ヲ集メテ人ニ示シ、見物ヲ博スル為(ため)ニ設ルモノナリ」と記したことから、しだいに博物館ということばが定着していったと考えられる。
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今日、世界の各国の博物館の総数は数万としかいえないほどの多数に上るが、各国、各地域ごとにその発展の過程をみてみよう。
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ヨーロッパ
物を収集し、陳列するということの当初が、それを後世に伝えようとするようなものでなかったことは明らかである。奴隷制社会になると、部族間の抗争などで得た戦利品を神殿などに並べ、自部族の戦意の高揚や統一のためにそれらを利用したともいわれている。
ギリシア時代には、美術品の収集も盛んに行われた。おもだった都市には収蔵庫がつくられ、収集された品々は一部の特定者だけが観覧できるようになっていた。
ローマ時代にも、貴族、富豪、将軍などが絵画、彫刻などの美術品を盛んに収集していた。収集とはいえ、おそらく戦利品として奪取してくることが多かったであろう。そして、それらは「ムセイオン」のように研究の対象にされるのではなく、収集者たちの邸内につくられた絵画館、図書館などに陳列されて彼らの力の誇示に使われた。来客があればそうした絵画館などで接待することが流行し、美術品に限らず、宝石、武器なども並べられていた。さらに自然物なども収集されたが、それらも珍しいということだけが目的とされ、研究の対象にはされなかった。庭園では、動物・植物の飼育・育成が行われ、今日の動物園、植物園に準ずるような形のものが芽生えている。大帝国として文化を誇ったローマ帝国の時代は、いってみれば個人の収集が流行したが、それは虚栄と社会的地位の誇示に使われるという、次元の低いコレクションに堕していたといえる。
こうした状況下にあったが、数多くの絵画や彫刻などが貴族、富豪の邸内に私蔵されることに反対をした者もいた。たとえばM・アグリッパは絵画・彫刻は公衆のためにあらねばならないと主張し、美術品などを私蔵すべきでないことを論じている。
ローマ帝国の衰退とともに、キリスト教の力がしだいに大きくなり、偶像崇拝的な異教を否定したために、それまで収集されたコレクションの多くが散逸し、破壊されていった。
中世になると、キリスト教会を中心に学問、文化が形成されて、教会にさまざまなものが収集されるようになった。教会は豪華な儀式の用具、祭服、聖遺物箱などを収集し、神聖な儀式の際にそれらを信者に見せ、さらに珍しいものを収集、展示して民衆をひきつけ、教義の普及を図ったりもした。また呪術(じゅじゅつ)や祈祷(きとう)の力のもとと考えられていた真珠、化石、象牙(ぞうげ)などが、宝石と同等の価値あるものとして扱われるようにもなった。動物・植物についても聖職者たちによって研究が進められ、その成果が百科事典、博物誌などに編纂(へんさん)されるようにもなった。
14~16世紀にかけて展開されたルネサンス文化運動は、大商人たちが封建貴族にとってかわり、都市共和国を形成するというところから始まった。商人たちは反封建的な文化、世界観をつくりあげようとして、古代文化の復興を掲げ、その中心として「ヒューマニズム」を据えたのである。
イタリアのフィレンツェはその中心地となったが、そこではレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロらが輩出した。これらの人々が活躍した背景には、メディチ家の存在が大きくあった。15世紀前半からフィレンツェの政治を動かしていたメディチ家のコジモ・イル・ベッキオは、学問・芸術の保護育成に大きな役割を果たし、貢献した。それと同時に美術品を大量に収集し、宮殿などの邸内をそれらで飾った。一時期、メディチ家が没落したとき、これらの美術品も散逸してしまったが、力を取り戻すと、ふたたび散逸したコレクションを収集するとともに、その収納のためにウフィツィ宮殿の建設を開始した。この宮殿は、展示の効果を高めるために窓を大きくしたり、遠近法的効果を考えたりするくふうが凝らされた、美術館として考えられた最初の館ではないかといわれている。また、ルネサンス期は古代遺跡にも関心が集まり、ローマなどで彫像などが発掘され、宮殿の庭などに陳列されていたようである。
一方、15世紀末から16世紀初頭には、コロンブスの新大陸の発見、バスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓、マジェランの世界一周航海などによって、人々は新しいもの、未知のものへの好奇心を募らせた。新しい世界への航海は、非常に珍しい物を数多く提供し、学者ばかりでなく、一般民衆もそれらに強い関心をもつようになった。
そうした状況のなかで、ドイツではブンダーカマーWunderkammer(驚異の部屋)とよばれるものがはやりだした。このブンダーカマーには、アルコール漬けの動物・植物の標本、物理・化学の実験道具、自動装置の機械類、民族学的な標本、そして地理学上の発見・探検などが行われた際の収集品が展示された。このような科学コレクションはイタリアでもみられるようになった。またヨーロッパ各地に大学や科学アカデミーなどが創設され、科学研究が盛んになるにつれて、科学機器のコレクションなども始まった。
この時期の展示は、整理されたものではなく、ただ物を陳列するだけというものが多く、分類学に基づいた展示は時を待たなくてはならなかった。
17世紀になると科学的研究が飛躍的に進歩した。近代科学の成立の影響も受け、17世紀末には世界最初の公共博物館がつくられた。イギリスの旅行家・探検家であるトラデスカントJohn Tradescant(1570―1638)と同名の息子(1608―1662)の2代にわたって収集された資料をアシュモールElas Ashmole(1617―1692)が入手し、その後、彼自身も資料収集を続け、その全資料をオックスフォード大学に寄贈した。これを中心にして、1683年オックスフォード大学付属のアシュモリアン博物館が設立された。これがイギリス最初の科学博物館であり、世界初の公共博物館であるといわれている。
この博物館の利用者の多くがオックスフォード大学の学生であることはいうまでもなく、大学の科学研究において重要な位置を占めた。研究・教育と博物館施設とが一体をなして発展した例として注目すべきものがある。
18世紀には、公共博物館のいっそうの飛躍がみられる。たとえばイギリスの医学者で収集家として有名であったスローンHans Sloan(1660―1753)は、国が自分の膨大なコレクションを購入し、それを博物館で公開するように遺言書で提案した。1753年にこの案件が国会で承認され、1759年スローンのコレクションを中心にして国立博物館(大英博物館)が開設された。
これと前後して、1748年ウィーンに自然史博物館、1759年ロンドンにキュー王立植物園、1764年サンクト・ペテルブルグにエルミタージュ美術館などが設立された。大英博物館をはじめ、これらの博物館は、当時、一般には公開されず、特定の者に限って入場が許されていた。
一方、フランスでは王室のコレクションの一部を公開する動きがあった。フランス王家歴代のコレクションが期日を限ってリュクサンブール宮殿で公開されるようになり、さらに1789年に始まったフランス革命によりコレクション公開は決定的になった。
1891年、パリに招集された国民議会は、没収した王家のコレクションをルーブル宮殿に集めて一般に公開することを布告した。と同時に中央美術博物館を設立することを決定し、1893年には共和国立美術館(ルーブル美術館)が開館した。こうした動きの影響を受けて、パリ植物園、ベルリン・ダーレム植物園、キュー王立植物園など各国の王家が管理していた庭園が公開されるようになった。また、1894年10月の国民公会の政令に基づいて創設されたパリの国立工芸博物館(現在の国立科学技術博物館)が国民教育の場として公開され、当時としては施設・内容とも充実しており、世界の理工学関係の博物館に対して大きな刺激を与えた。
一方、博物館の資料の収集については多くの問題があった。たとえばナポレオンの例をみても明らかなように、彼のヨーロッパ各国やエジプトへの遠征の目的の一つに遠征地の文化財・芸術品の略奪が含まれており、略奪品がルーブル美術館に展示されたりしていた。ルーブル美術館のミロのビーナス、大英博物館のエジプトに関する収集品もそうした類のものであり、古代文明遺跡調査に伴う発掘品の収集についても同様のことがいえた。
19世紀中ごろになって、ようやく現地保存という考え方が生まれてきた。遺跡のある場所に遺物を保管・管理するための博物館をつくる計画がみられるようになった。
エジプトでは、1863年にカイロの近郊にあった倉庫を一時的に博物館とし、エジプト文明の遺物の保存に努めた。この博物館がその後エジプト博物館となり、エジプト全体の遺物の管理にあたり、そのセンターとしての機能を確立していった。
1851年、ロンドンのハイド・パークで開催された第1回万国博覧会は、その後の工芸博物館、科学博物館、個別専門博物館の創設に多大な影響を与えた。とくにイギリスでは、この博覧会事業そのものが大成功を収め、莫大(ばくだい)な収益金をあげることができた。この収益金を科学・技術の振興のために使用することとなり、用地買収・施設建設の費用にあてられた。博覧会開催の翌年から、イギリス政府は、博覧会に出品されたものを購入し展示する博物館を建設した。その後、この博物館は収集品が増大し、1857年にサウス・ケンジントン博物館を創設したが、さらに規模が大きくなった。そのためにビクトリア・アルバート美術館、科学博物館、自然史博物館、地質博物館の4館に分離され、それぞれの専門的な立場で発展・充実が図られてきた。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、新しいタイプの博物館が登場した。それは、北ヨーロッパを中心にして盛んに創設された野外博物館であるが、これも万国博覧会が誕生の契機になっている。
1878年、パリで開催された博覧会で、スウェーデンは伝統的な農家とその衣服などを出品するに際し、伝統的な民族資料を建物ごと復原し、野外にそれらを展示した。これがきっかけとなって、1891年にはストックホルムにスカンセン野外博物館が世界で最初の野外博物館として開館した。この博物館は、家を移築しただけではなく、家具・調度品もいっしょに移して展示し、さらに炭焼き小屋、風車小屋などいろいろな建築物も展示するようになった。これ以降、野外博物館としてデンマークのフリーランド博物館、ノルウェーのノルウェー民族博物館・リレーハーマー民族博物館、フィンランドのセルラサーリ野外博物館、オランダのアルンヘム野外博物館などが創設された。
20世紀に入ると大規模な博物館が創設されるようになる。1906年、ミュンヘンに創設された科学博物館(ドイツ博物館)がその一つの典型である。この博物館の特徴は、ただ単に機械などを展示するだけでなく、見学者自身がその機械装置を駆動させる実験に参加できるようにしたことである。第一次世界大戦の影響などのために本格的な開館は1925年になったが、この博物館が現代的な科学技術博物館の見本をつくったといってよいであろう。
ロシア革命後のソ連では、いろいろな博物館が整備されていった。革命博物館、労働保護博物館など革命後らしい博物館が建設されたり、科学・技術教育に関係する農工博物館がつくられた。また社会主義社会になり、王家や教会などが所有していた美術品・工芸品が文化財保護令によって国有となり国家的に保存されるようになった。
第二次世界大戦は、ヨーロッパの多くの博物館に大打撃を与えた。爆撃などによる博物館そのものの破壊、収蔵品の破壊、時の権力者による収蔵品の略奪・競売による散逸など危機的状況を呈した。戦後、各国はその破壊された博物館の復旧、発展に努力を払い、戦争を告発する博物館も創設された。
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アメリカ
アメリカの博物館の歴史は、合衆国の歴史とともにあるといえる。ヨーロッパの博物館は、個人のコレクションが集約されるといった形で形成されていったが、アメリカでは個人の充実したコレクションがその始まりになったというより、まず公立で博物館組織をつくり、そこに珍しいものを市民が持ち寄って資料を形成するという形であった。
アメリカで最初につくられた博物館は、1773年サウス・カロライナ州につくられたチャールストン博物館である。この博物館は、新聞広告によって市民に自然史にかかわる資料の提供を呼びかけ、数年後には大量の資料が収集できた。また当時のヨーロッパでは公開している博物館は少なかったが、この博物館は最初から公開された。19世紀になって文学哲学協会が管理することになったが、自然史関係資料も充実させていった。
また企業としての博物館もアメリカにあった。フィラデルフィアのピール博物館が有名である。これは画家のC・ピールが自宅の画廊に肖像画を中心に展示し、一方で客寄せのために自然史関係の標本を置き、それに解説をつけて公開し、入場料もとったというものである。好評を博したため、その規模をしだいに大きくしていき、企業として成り立つまでにし、ニューヨーク、ボルティモアにまでピール博物館をつくった。しかし結局は経営に行き詰まり、収集した資料も競売にかけられるなどして散逸してしまった。
アメリカ独立後、約100年で、アメリカには200以上の博物館があったといわれる。ニューヨークのアメリカ自然史博物館、メトロポリタン美術館など第一級の博物館が創設される一方、大学にも博物館がつくられている。1859年に設立されたハーバード大学比較動物学博物館がその最初のものといわれ、1866年には実業家ピーボディーGeorge Peabody(1795―1869)の寄付金によりエール大学にピーボディー博物館が生まれた。
各州に州立大学が設立されていく際に博物館が併設されていくケースも非常に多くあった。それは州政府が大学をして州内の地勢・産物・埋蔵資源の調査などにあたらせようとしたためだといわれている。
アメリカにおける国立の博物館設立の契機になったのは、イギリス人スミソンJames Smithson(1765―1829)からの寄付の申し出であった。1835年、当時の大統領ジャクソンは議会に対して、スミソンより10万ポンドの寄付があり、それを人類の知識の増進と普及のための機関の設立に使用してほしい旨、申し出があったと報告した。議会はこの寄付の取り扱いについて10年間かかってようやく決定し、基本計画が作成された。これによってアメリカで長い間唯一の国立研究機関としてその機能を果たしてきたスミソニアン・インスティチューションが設立された。
この協会は、学術調査研究センターの役割を果たし、学問的成果に対しては賞金を出したり、調査研究に対して研究費を出したり、専門書を刊行したりしている。こうした事業のほか、図書館、博物館、美術館を併設するとともに、気象、天文、民族、考古、美術などに関して大きな研究成果をあげている。今日、その傘下に、歴史技術博物館、自然史博物館、航空宇宙博物館やアメリカ史博物館、ポートレート・ギャラリーなど数多くの国立博物館がある。
ヨーロッパの博物館が万国博覧会の影響を受けたことを前述したが、アメリカの博物館も同様である。とくに1867年フィラデルフィア、1893年シカゴ、1915年サンフランシスコ、1962年シアトルでそれぞれ開催された博覧会のあとには、美術館、科学博物館が設立されている。
シカゴで開催された万国博覧会は、コロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念して企画され、夜間照明、電気仕掛けで動く機械を多く用いて人気を博した。この博覧会の跡地を利用して、シカゴ博物館設立の計画が練られ、実業家フィールドMarshall Field(1834―1906)からの大口の寄付を基礎に、自然史を中心にしたフィールド博物館が設立された。このフィールド博物館は、現在、世界有数の自然史博物館へと発展している。また、美術館の建物として使われていたものが、シカゴ科学産業博物館になっている。
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アジア
アジア地域における博物館は、歴史の長さからすれば、中国が中心となるところである。しかし、中国で近代的な博物館が創設されるのは辛亥(しんがい)革命(1911)以降のことである。それ以前、宮廷は多くの美術品をはじめとする文化財を収集していたが、他方、在野の収集家たちも相当な力をもっており、絵画、書、陶磁器、染色品、工芸品などあらゆるものを収集していた。
1914年、清(しん)朝の離宮にあった宝物が北京(ペキン)に集められ、北京古物陳列所が設けられて展示された。ついで1925年には故宮(こきゅう)とそこに収蔵されていたものがすべて開放され、それらを中心に故宮博物院が創設され、一般にも公開されるようになった。日中戦争が始まり、日本軍の侵略が開始されると、日本軍による略奪を防ぐため、博物館資料は上海(シャンハイ)などに疎開させなければならなかった。1936年に南京(ナンキン)に設立された国立中央博物院も、日中戦争の影響で、準備段階で一時、閉鎖を余儀なくされた。
第二次世界大戦後、疎開させられていた博物館資料もそれぞれの博物館に戻り、その活動も再開された。しかし国内の革命運動が激しく展開され、1949年に中国共産党の指導のもとに中華人民共和国が成立する。
これ以前、1948年中国共産党の指導に反対する勢力は、故宮博物院南京分院、中央博物院の貴重な収蔵品を駆逐艦で台湾に持ち込んだ。これらの資料は、1965年に台北に設立された故宮博物院に展示されている。こうしたことのため、中国の故宮博物院の資料は解放後に収集されたものが多くなっているといわれるが、それでも世界有数の博物館に数えられている。
革命後、1961年に前述の故宮博物院をはじめとして、歴史博物館が北京の天安門広場に新築、開館され、あわせて中国革命博物館も創設された。この歴史博物館と中国革命博物館は2003年に統合され中国国家博物館となった。また、北京市ばかりでなく、上海市、南京市、山東省済南(さいなん)市、河南省鄭州(ていしゅう)市、湖南省長沙(ちょうさ)市など、各省各地に博物館が設立されている。
こうした博物館とは別に、各地で進められている遺跡の発掘の成果を、そのまま発掘地に生かして博物館を創設するという試みが積極的に行われている(秦(しん)始皇兵馬俑(よう)博物館、半坡(はんぱ)博物館など)。
アジアの他の地域の博物館については、植民地時代を抜きにして語ることはできない。インドネシア、フィリピン、インドをはじめとしてアジアの諸国の博物館は、多くが植民地時代に支配国が創設したものである。独立後にそれらの博物館を国立、州立博物館にしたりして、独自の博物館につくりあげてきたものが多い。
たとえば、オランダ政府は1817年にインドネシアのジャワ島に、熱帯植物の開発・収集のためにボゴール植物園を設置した。この植物園は、今日では国立生物研究所となり、植物園、植物研究所、標本館、博物館などを備えた機関にまでなっている。
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日本
日本の場合、博物館の原型として宝物殿、絵馬堂などがあげられ、その典型として奈良・東大寺の正倉院などがあげられる。
江戸時代には、各地の産物を集めて展示するという物産会も開催され、そのおりには、動物、植物、鉱物などを分類整理することが行われていた。また、幕末には蘭書(らんしょ)を通じてヨーロッパの博物館のようすが紹介されたり、遣米使節団に参加した者たちが現地で見た博物館について紹介したりしており、博物館の効用は理解されるようになっていた。
明治維新後、1870年(明治3)大学南校に物産局仮役所が設置され、翌年、文部省設置とともに省内に博物局が設けられた。そして1872年、文部省博物館の名称で、東京・湯島の聖堂で博覧会が開催された。この博覧会は50日間余りにわたって開催されたが、非常な好評を博し、会期終了後も毎月一と六のつく日に限って開館された。これによって、博覧会という一時的な展示から、常時展示をする博物館へと姿を変えていくようになる。
このときの博覧会の展示品は、すでに集古館建設の準備や古器旧物の調査が行われていた経緯もあって、古器旧物を中心にした遺跡出土遺物、書画、古楽器、古面、調度品、古瓦(こがわら)、武器武具、古銭、古印などと、自然物を対象にした鉱物、岩石、化石、動物、植物、また日本各地の特産品などであった。
文部省博物局は、博覧会終了を見越し、総合博物館、動物園、植物園、図書館を備えるような構想を抱き、「博物局博物園博物館書籍館建設之案」を提出し、本格的に博物館創設を進めることとなった。
一方、1873年にオーストリアのウィーンで開催される万国博覧会に日本も参加することが決定され、博覧会事務局が設置された。そして湯島の博覧会の名称であった文部省博物館、書籍館、博物局、小石川薬園が博覧会事務局に統合された。
1875年(明治8)になって内務省管轄の博物館が設置された。この博物館は明治時代だけでも管轄と名称が(内務省)博物館から、(農商務省)博物館、(宮内省)博物館、図書寮附属博物館、帝国博物館、東京帝室博物館と変わった。第二次世界大戦後、国立博物館となり、1952年(昭和27)に現在の東京国立博物館になった。
一方、内務省管轄の博物館ができたとき、文部省博物館がふたたび独立し、1877年(明治10)東京・上野公園内に教育博物館が設立された。この博物館では、物理、化学、動物、植物、地学などの標本が展示・公開された。この博物館も明治、大正、昭和にわたって、教育博物館、東京教育博物館、(東京)高等師範学校附属東京教育博物館、ふたたび、東京教育博物館、東京博物館、東京科学博物館となり、1949年(昭和24)に現在の国立科学博物館になった。
この間、東京だけでなく、1895年(明治28)に帝国奈良博物館、1897年に帝国京都博物館が開館している。いずれの博物館も東京の帝国博物館を母体としたものであり、歴史部、美術部、美術工芸部、工芸部(奈良にはない)が置かれ、歴史美術系博物館として成長していくのである。
これら帝国博物館以前にも、1877年(明治10)ごろには、札幌、函館(はこだて)、秋田、新潟、金沢、京都、大阪、広島、福岡、鹿児島などにいろいろな形で博物館が設置されている。それらの博物館で盛んに博物館資料が収集され、展示されるようになった。また1900年以降は特色を強くもった博物館が創設されるようになった。特許品陳列館、郵便博物館、大倉集古館、鉄道博物館、赤十字参考館、名和昆虫博物館などの個別専門的な博物館がその例としてあげられる。
1923年(大正12)の関東大震災は、東京帝室博物館、東京博物館に甚大な被害を与えた。とくに東京博物館は、建物が全壊し、資料もすべて失われるといった状態であった。しかし、東京博物館はただちに仮建屋を建設し、震災に関する資料をいち早く展示していった。
その後、上野公園内に、震災の教訓を生かして建物の設計を行い、飛行機型をした、当時としてはモダンな新館が完成した(移転後、1931年に東京科学博物館と改称)。この建物は、現在も国立科学博物館の1号館として使用されている。なお、新館に移転するにあたって、展示技術についても斬新(ざんしん)さを出すことが試みられた。自然史の展示には大型のジオラマが使われたり、理工学の方面の展示には、時間は限られていたが、公開実験のデモンストレーションなどを行うことも試みられた。展示は、理工、動物、植物、地学に分かれており、注目すべき点として、一般の人にわかりやすく解説している普通展示と、研究者に利用してもらうことを目的とした研究標本室の展示との二通りの展示を用意したことがあげられる。
昭和になって、1928年(昭和3)に博物館事業促進会が組織され、『博物館研究』が発刊されるようになった。3年後、促進会は日本博物館協会と改称され、博物館の建設促進を目的として活動を続けている。通常は毎年、全国博物館大会を開催し、博物館施設の振興、博物館における研究の発展を期している。なお、1933年より全国博物館週間が設置された。現在は10月の第二週を全国博物館週間として、各種催し物を行うなど振興、啓蒙(けいもう)に努めている。
関東大震災以後、日中戦争、第二次世界大戦などが続き、博物館も国策に沿った展示を強要されるような立場にたたされてしまった。たとえば逓信(ていしん)博物館の「軍事郵便と航空安全展」、電気奨励館の「電気関係代用品展示展」、東京科学博物館の「北支資源展覧会」「代用品工業振興展覧会」などがそれであり、戦時下とはいえ、真理を追究する博物館にとっては不本意な展覧会の開催であったといわざるをえない。
第二次世界大戦後、戦災の復興とともに、博物館も民主主義の下での新たな発展の方向を求めて活動し始めた。1951年(昭和26)に「博物館法」が制定され、新しい時代に向けての展示更新が始まった。これと前後して、改称された東京国立博物館、国立科学博物館は、全国の博物館のリーダー的存在として、博物館活動の先陣を切って活動を開始する。
その後、1960年代に入ると、高度経済成長政策と相まって、科学技術の振興がことさらに強調され、科学技術館の類が盛んに設立されるようになった。1970年代以降には、国立民族学博物館が創設されるとともに、国家からの若干の補助金を受けて、各地方自治体に民俗資料館、郷土資料館などが続々と設立され、国立歴史民俗博物館も設置された。
また企業のなかで、自らの生産活動に使用した道具、機械、史資料などを独自に保存し、展示するところも出てきている。さらに各種の協会・同業組合などでも独自の資料保存、博物館づくりなどを行っているところが少なくない。
1980年代になると、展示の手法にも大きな変化が現れてきている。それは、マイクロコンピュータの普及によるところが大きい。これまでは、理工系の博物館でも動的な展示を展開するむずかしさがあったが、コンピュータを駆使することによって克服されてきている。
世界的にも、理工系の博物館では大きく展示更新をしており、観覧者にはより理解度が深まるようにくふうされている。と同時に、各地に自然科学系の博物館が新たに新設されるとともに、博物館ばかりでなく青少年科学館(センター)も整備されるようになってきた。また、自然科学系ばかりでなく産業技術に関する博物館も、ビジュアルな展示手法を用いて新設されるようになっている。
1990年代には、第二次世界大戦後50年の節目を迎えるにあたって、これまで広島・長崎以外に、なかなか日本には整備されなかった平和・戦争に関する博物館を整備する機運が高まったことは特筆すべきことである。自治体を中心にしたもの、自治体と市民が協力するもの、とりわけ大学の付属施設として開設したのは画期的である。世界的にみても、平和・戦争に関する資料センター的なものは大学に設置されているところがあるが、1992年に開設された立命館大学国際平和ミュージアムは、世界で最初の大学に付属した平和ミュージアムということができる。
今後は、各博物館がいかにネットワークづくりを果たし、利用者にどれだけ便宜を図れるかが課題となってくる。すでに、資料管理のコンピュータ化が進んでいる博物館が多くあり、資料についての情報交換、資料の相互利用など、ますます公共性を強化していく必要があるであろう。
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役割とその機能目次を見る
博物館の仕事には、資料の収集、保管、整理、展示、調査研究、教育活動がある。
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収集
博物館というのは、博物館資料がなくては成り立たない。博物館資料は「物」が主体ではあるが、その「物」には、実物、標本、模型と、いろいろな形態がある。さらに文献、図表、写真、映画フィルム、レコード、録音テープなども資料に含まれる。
博物館資料の収集が展示を目的として行われることはいうまでもないが、博物館の種類や目的によって、たとえば、民俗、芸術、考古、歴史、科学、技術、自然史などによって収集物、収集方法も当然、異なってくる。したがって収集に際しては、事前に目的を明確にして系統的に収集しなければならず、その結果、いずれの場合にも収集はかなりの時間を要する仕事にならざるをえない。
博物館は、ただ「物」を陳列すればよいのではなく、その「物」に意味がなければならない。事が起こるのには原因があるように、その「物」の意味を正確に把握するためには、その「物」にかかわる系統性を明確にし、存在感を浮かび上がらせなければならない。それをするのはその「物」の周辺にある「物」であるが、だからといって、なにもかも収集して展示すればよいということにはならない。その判断は収集者(研究者、学芸員)集団の力量によって左右される。
考古資料などの場合は、発掘調査によって遺品が出土しても、すべてが完全な状態で発掘されるわけではないので、それをいかに復原するか、ということも重要である。
科学・技術の発達に関する資料については、さまざまな問題がある。とくに実物を収集し、展示・保存しようとすると、大きな困難にぶつかることが少なくない。たとえば、製鉄技術の発達過程のなかで平炉が重要な役割を果たした。その平炉が日本から消え去るから、収集し、保存しようとしても、非常に大きなものであり、現在の日本の博物館では維持・管理できる条件を備えていない。このような物についてどのように対処していくべきなのか、早急な解決を迫られている問題が多くある。さまざまな困難や問題があるが、系統的に、必要な物はすべて収集するというのがその基本であることはいうまでもない。
[雀部 晶]
保管・整理
収集した資料をどのように保管し、整理するかも大きな課題である。その基本は、資料がどのようなときでも十分に活用できるようにすることであるが、資料は一定の大きさにそろっていることはきわめてまれであり、異なる大きさの資料を整理し、その実態を把握しておくためには高度な整理・保管の方法が要求される。
博物館に入ってくる資料の流れは、おおむね、受け入れ、登録、保管ということになる。このうち、登録のときにどれだけの情報を登録しておくかが問題であり、博物館の目的や種類によって違うであろうが、資料の履歴などの登録も必要な場合が少なくない。
近年では、資料管理の機械化が進み、コンピュータによる記録の管理が多くなってきており、さらに今後は、映像ディスクなどとコンピュータとの連動による管理システムが考えられてくるであろう。
データの正確な管理とともに、「物」の保管・管理は重要であり、それに多くの労力を費やさなければならないのが現状である。大規模な歴史美術系の博物館では、科学的な保管システムについてもかなり整備されてきているが、科学・技術系の博物館は未整備の状態である。
資料保管上、資料庫の温度、湿度、防虫、光による退色防止などの管理は徹底されなければならないが、ごく一部の博物館の一部の資料を除けば、その管理はきわめて不十分といってもよい状態が、日本における資料保管の実状である。こうした点とあわせ、多くの博物館で切実になっているのが保管スペースの不足の問題である。
[雀部 晶]
展示
展示は、博物館にとってもっとも重要な仕事の一つである。展示の仕方については、特定のテーマで一定の期間に開催する特別展示会、博物館資料を外部に持ち出して外部の施設を利用して展示を行う移動展示など、いろいろな方法がとられている。どのような展示方法であれ、その基本は、展示の内容、テーマがいかに見学者に理解してもらえるかという点にあり、その意味では展示の方法に画一的なものはみいだせない。とはいえ、展示上のテクニックについては十分な配慮が求められる。たとえば、見学者の目線の位置がどの高さにくるか、見学の動線をどのように設定するか、その博物館全体の見学時間と休憩場所をどのように設定するかなど、さまざまな問題がある。
展示はつねに新鮮で魅力のあるものでなければならない。とりわけ現代の科学・技術に関する展示では、つねに展示を更新できることが必要であろうし、その一方では、単に新しさだけではない、展示物の内にある考え方の基本と真理を伝えるものでなければならない。
今日ではビデオ、スライドなどあらゆる方法を駆使して展示を行うことが可能となっており、現代の科学・技術を最大限利用した形の展示を考える時期にきているといえよう。
[雀部 晶]
調査研究・教育活動
調査研究活動は、博物館にとって、その博物館の質を決定づけるといっても過言でない。
博物館における研究の柱は、博物館資料の研究、博物館における教育効果を高める研究といわれているが、いずれにしても、現代社会における現代的課題を解決する方向での研究でなければ、なんら意味がないといっても過言ではないであろう。それは博物館に限定されず、どの分野でも同じであるが、現実に博物館において研究が保障されているかといえばきわめて不十分である。研究部が確立されている博物館においてすら、研究員は相当な量の研究以外の仕事をせざるをえない状況にある。
博物館が過去の物を展示するだけの存在であるなら、それは博物館本来の機能を十分発揮していることにはならないであろう。見学者が過去の多くの資料のなかからなにかを読み取り、展望がみいだせるようにすることが重要であり、この点で研究員が果たすべき役割には大きなものがある。
博物館の研究員には、とりわけ外部に目を向けて研究活動を行うことが求められている。それは絶えざる資料の収集とも共通するところがある。それと同時に研究者個人と博物館全体という組織をどのように調和させていくか、ということが研究上の課題となってきている。さらにより直接的な課題としては、資料保存技術の開発・研究がある。
博物館の教育活動は、展示そのものがまさに教育活動の最たるものである。このほか、講演会、講習会、講座、映画会、野外調査、製作実習など、いろいろな形で教育活動を展開している。
[雀部 晶]
今後の課題
日本の博物館にとって今後の大きな課題の一つに、国の博物館に対する政策、姿勢の改善がある。先人の文化を受け継ぎ、文化遺産を整備し、今後の文化形成に貢献していくべき博物館に対する国家予算は、文化国家というには貧困といわざるをえない。
また、博物館における研究活動の充実を図らなければ、質的に高い博物館を望むことは困難であろう。研究者が現代的なテーマに向かって研究ができるようなシステムを確立しない限り、現代の社会が求めるような内容での展示そのものも生まれてこないであろうことは明らかである。
[雀部 晶]
『古賀忠道他監修『博物館学講座』全10巻(1981・雄山閣出版)』▽『伊藤寿朗他編著『博物館概論』(1978・学苑社)』▽『日本博物館協会編『全国博物館総覧』(1986・ぎょうせい)』▽『梅棹忠夫他監修『世界の博物館』22巻・別巻1巻(1977~1979・講談社)』▽『北村哲朗他編『日本の博物館』全13巻(1981~1982・講談社)』▽『梅棹忠夫編『博物館と美術館』(1981・中央公論社)』▽『梅棹忠夫編『博物館の世界――館長対談』(1980・中央公論社)』▽『荒井伸一・早乙女勝元監修『世界の「戦争と平和」博物館』全6巻(1997・日本図書センター)』▽『大堀哲著『日本博物館総覧』(1997・東京堂出版)』▽『水藤真著『博物館を考える』(1998・山川出版社)』▽『石森秀三著『博物館概論』(1999・日本放送出版協会)』▽『川成洋著『世界の博物館』(1999・丸善)』
大英博物館
自然史博物館(ウィーン)
スカンセン野外博物館
ノルウェー民族博物館
スミソニアン航空宇宙博物館
故宮博物院(北京)
網走市立郷土博物館
石川近代文学館
NHK放送博物館
大倉集古館
京都国立博物館
倉敷考古館
国立科学博物館
国立民族学博物館
国立歴史民俗博物館
トヨタ産業技術記念館
高岡市万葉歴史館
東京国立博物館
日本銀行金融研究所貨幣博物館
広島平和記念資料館
福岡市博物館
山梨県立考古博物館