そうした意思や想いを法が同じように扱う方法が、ひとつあるように思う。それは、みんなの好きにさせるということだ。本人たちが「わたしたちは家族です」と言っているなら、それでいいとするのだ。
法は、「この人はあなたの家族である」「この人はあなたの家族ではない」という風に、誰が誰の家族なのかを強制的に決定することはない。成人同士が築く多様な人間関係のうち、異性カップルだけを家族として公式に認めたり、あるいはカップルだけを家族として公式に認めたりすることはない。つまり、線を引かないのだ。
家族と責任を分離する
自分にとって家族とは誰なのか。家族とはどういうものなのか。これについては、個々人の好きにさせてしまおう。法はこれに関わらなくていい。この家族があの家族よりも大切だなんて言うべきじゃない。これが、この記事の提案のひとつだ。
この提案には、直ちにひとつの疑問が浮かび上がるだろう。では、これまで家族というものと法的に関連付けられてきた、さまざまな権利・利益や責任は、どうなるのか。
多くの権利と責任は、当事者たちの自由な選択・合意に委ねられていいだろう。一緒に住みたいと思う人もいれば、そうではない人もいる。パートナー以外とセックスをしない責務を互いに負いたいと考える人もいれば、そんな責務は自分たちにはいらないと考える人もいる。それぞれが自分たちらしいと思う形で、好きに約束・契約するのがいいだろう。家事の分担や、共同生活の中で築いた財産の帰属先、自身の財産の死後の行方についても、当事者が自由に選択・合意すればいいのだ。
わたしたちは、誰にどのような権利を与え、誰にどのような責務を負うかを、自由に選択・合意する。法学的な言い方をすると、契約法をはじめとする私的自治の法律で対処すればいいのだ。
もちろん、全てのことが当事者たちの合意を参照するだけで解決されるわけではない。例えば外国人の入国・滞在の権利は、「家族」として暮らそうとする当事者たちだけでなく、国家という制度が関わる。また、病院での面会権などについても、患者とそれを支えるパートナーだけでなく、病院という第三者が関わっている。