(ひがきかいせん・たるかいせん)
菱垣廻船とか樽廻船ってなんのこと?
菱垣廻船・樽廻船とは、大坂(上方)の商品を江戸に運ぶために仕立てられた船のこと。最初は菱垣廻船のみだったが、のちに酒類を早く江戸に届けるため樽廻船が登場した。
たとえば大阪・京都から東京へ商品を輸送する場合、現在ならトラックで高速道路を使って運ぶだろうけど、江戸時代は船を使うのが普通だった。
「天下の台所」と言われた大坂(上方)から、一大消費地である江戸へ商品をはこぶ貨物船が菱垣廻船
菱垣廻船を利用して大坂から江戸へ商品を送りたい荷主は、菱垣廻船を運用している廻船問屋に輸送を依頼するわけだね。菱垣廻船は江戸時代の始めころからあり、大坂から江戸までは十数日から長いときは2カ月くらいかかったらしい。
ところで当時は、今とくらべると原始的な構造の輸送船を使っていた上、航海術も未熟だったから、途中で遭難して積荷がなくなってしまうことも少なくなかった。嵐で船が沈みそうになると船を守るために積荷を捨ててしまったりするのだ。廻船問屋はこんなことで責任を取らないから荷主にとっては大損だ。それどころか船乗りのなかには悪いヤツがいて、嵐にあって積荷が流されたなどとウソをつき、その積荷をこっそり売りさばいてしまうこともあったという。
そんなこんなで、荷主と廻船問屋との間でトラブルが絶えなかったから、荷主のほうで運送の主導権をにぎるために団結したんだね。そして積荷が失われたときに損害を少しずつ平等に負担する保険のような仕組みも取り入れた。この荷主の団結が江戸では「十組問屋
ところで、菱垣廻船は1つの船にいろんな種類の品物を載せる。1回の航海でなるべくたくさんの荷物を運んで利益を上げたいから、荷物が十分に集まるまで出航しないのだ。灘や伏見の酒を江戸に運びたい荷主が「はよ舟出さんかい。酒が腐ってまうわ!」と怒鳴っても「これっぱかりの荷ではよう出しまへん」などと断られてしまうというわけだ。当時は今のように保存・貯蔵技術が発達していないから、酒は傷みやすかった。
享保15年(1730年)、江戸・十組問屋のうちの酒店組が「菱垣なんかでチンタラ運んでたんじゃラチ開かねえ!」とキレて、独自に酒専用の樽廻船