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羽生結弦の涙 愛した四人の女性

「週刊文春」編集部

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 ソチ、平昌、北京。羽生結弦の傍らには、彼を愛した4人の女性がいた。別れの道を選んだ人もいれば、自らの夢を諦めた人もいる。そして“ラストダンス”まで支え続けたのは――。誰も書かなかった「絶対王者」の物語。

 

▶2人の女性と離別 最後に残ったのは…

▶本番3日前まで地元リンクで深夜2時練習

▶叔母が告白「身を退いた4歳上の姉」と「母の支え」

▶ソチの因縁、ファンの中傷…髙橋大輔との“本当の仲”

▶個人事務所の社長は元東京地検特捜部の敏腕弁護士

 2月5日午前、男子フィギュアのショートプログラム(SP)を3日後に控えた北京の首都体育館。実際のリンクで行われる最後の公式練習に「絶対王者」は姿を見せなかった。会場には、彼のフリー曲「天と地と」が鳴り響くだけだった。

 その日の深夜。北京から2000キロほど離れた「アイスリンク仙台」(宮城県仙台市)からは煌々とした灯りが漏れていた。ここは、新型コロナウイルスの感染が拡大して以降、喘息の持病を抱える羽生結弦(27)が拠点を置く地元リンクだ。日付が変わっても一向に消えない灯り。羽生家の車が自宅マンションに戻ったのは、深夜2時のことだった。

深夜までリンクには灯りが

 翌6日朝、深夜の練習から休む間もなく、仙台空港から成田で乗り継ぎ、昼に北京の空港に降り立った羽生。本番2日前という直前での現地入りは、五輪では異例だ。選手村にも入らず、調整を重ねたという。

 迎えた8日のSP。ところが、冒頭の4回転サルコウが1回転になり、8位に終わってしまう。自らの不運に、演技後はこみ上げる涙をこらえるようだった。

北京五輪SPでの演技

 振り返れば、栄光に彩られたかに見えるその道のりは、試練や別れの連続でもあった――。

 羽生は1994年12月、宮城県仙台市で生まれた。中学教諭の父・秀利、百貨店に勤めていた母・由美、4歳年上の姉という4人家族。フィギュアを先に始めていたのは、姉だった。

 羽生が初めてスケート靴を履いたのは4歳の時。30分の個人レッスン中は遊びたくて集中力がもたない。だが、ジャンプは見よう見まねで跳べてしまう。その才能は一目瞭然だった。荒川静香らトップ選手も練習を積んでいた当時のリンク。彼らの目にも、羽生は特別な存在に映っていた。

「うちのユヅだけ、みんな集まってくるんだよな。才能でもあるのかな」

 父・秀利がこう漏らすのを、羽生の叔母は聞いていた。叔母が振り返る。

「兄は、有名な選手に、ユヅくんが声を掛けられると言っていました。最初の頃から(息子をフィギュアの道に進ませようと)決めていたと思います」

浅田真央を見てアクセルに挑戦

 由美は息子の衣装を自ら縫い、憧れのエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)と同じ髪型にカットした。

「食事には苦労していました。ユヅくんは小学校低学年まで、お寿司1つ食べさせるのも大変な少食だったんです。餃子が好きで、そこにチーズや野菜といった好きな物を入れて作ったり、本当に手間をかけて、工夫していました」(同前)

 名伯楽・都築章一郎の指導を受け、実力をつけていく羽生。だが、フィギュアはレッスン料や用具代など出費がかさむスポーツだ。羽生家は家賃5万円の県営住宅で暮らすごく普通の家庭。そんな中、才能溢れる羽生を見て、夢を諦めた女性がいた。高校生でフィギュアを辞めた姉だ。

「成績が伸びなくなっていたこともあると思います。弟がぐんぐん伸び、お姉ちゃんは察して身を退いた感じ。『違う道を』ということになったみたいです。幼い頃は口喧嘩ばかりしていたようですが(笑)、本当に弟想いで母性愛が強い子。後に弟と母がカナダに行ってからは、仕事で忙しいお父さんのために家事も頑張っていました」(同前)

 家族のサポートを得た羽生。小学6年生になった羽生の指導を都築から受け継いだのが、振付師としても活動する阿部奈々美だ。

「阿部も仙台市出身で女子シングルの選手でした。引退後は浅田真央のコーチとして知られるタチアナ・タラソワらに師事。荒川らの振付も担当してきました」(フィギュア担当記者)

 当時の羽生を知る恩師の一人が振り返る。

「羽生はジャンプを練習したがる男子の中では珍しく、ダンスが上手で表現力が抜きん出ていた。阿部コーチも『体が柔らかく、自分の演技を表現できる』と、才能に惚れ込んでいました」

 今では羽生の最も得意なジャンプとなったトリプルアクセルをマスターしたのは、13歳の時。2008年夏、有望な若手を発掘する野辺山合宿で“あの選手”のジャンプを見てからだ。

「なかなかトリプルアクセルを跳べなかった彼が、真央ちゃんを見て『僕もやれるよ』と言って、すごく練習したんです。リンクは夜8時までなのに、『練習を終わりにしないで』と続けようとして。こちらが『もう終わり』と練習を打ち切ろうとした時、ようやくトリプルアクセルを跳べたのをよく覚えています。空中での姿勢のコツを掴んでからは、次々跳べるようになっていきました」(同前)

14歳でジュニアGPファイナルを制覇

 阿部コーチのもと、09年に史上最年少でジュニアGPファイナルを制覇。高校に進学した10年にシニアデビューを果たしたが、翌11年3月、彼の人生を大きく変える出来事が起きる。

 東日本大震災だ。アイスリンク仙台も使用できなくなり、羽生は都築が当時指導していた横浜のリンクを借りて練習を続けた。そこで都築から、海外に拠点を移すことを勧められる。

 都築本人が明かす。

「震災後はスケート場もなくなり、日本では練習できる場所がなくなっていた。羽生自身は日本を離れることを望んではいなかったんですが、『海外へ行ったほうがいいんじゃないか』とお母さんに話したんです。そこから城田さんに紹介して、(ブライアン・)オーサーのもとへ行くことになりました」

 95年から日本スケート連盟の理事を務め、“女帝”と呼ばれていた城田憲子。06年に発覚した不正会計問題で引責辞任したが、

「その後も海外との豊富なコネクションを持ち続けていました。彼女は、有望な選手とこのコーチを組ませたら伸びる、というマッチングが得意な人。オーサーには、バンクーバー五輪(10年)で彼の教え子のキム・ヨナが金メダルを獲った時から、『いずれ日本の選手もお願いします』と約束していたそうです」(スポーツ紙デスク)

 海外行きを決めた由美は、阿部と今後について話し合いを持とうとした。が、阿部は多忙を理由にかわし続けたという。12年3月の世界選手権で3位になった羽生。その試合を最後に阿部のもとを去り、オーサーが待つカナダのトロントへと渡る。阿部は周囲に、

「ヤフーニュースで(カナダ行きを)知った。こんな悲しいことはない」

 とこぼすのだった。

 羽生をここまで育てた女性コーチの阿部。ボタンの掛け違いもあり、二人は以来、別々の道を歩むことになる(阿部は「取材は全てお断りしています」と回答)。

 一方の城田は、トロントの住居やスポンサー探しなど競技に専念できる環境を整える役回りも担った。翌13年から、羽生はANA(全日空)に所属。16年には、城田自身もANAの監督に就任している。

携帯を持たず、外出もしない

 トロントでは、母子の二人暮らし。自宅マンションとリンクのあるスポーツ施設「クリケットクラブ」を往復する毎日だ。練習を終えると、スケートの動画を見ながら、フォームのチェックをする。ただ、相手はコーチではない。フィギュア経験は一切ない由美だ。羽生は「意外な視点が役に立つんです」とその理由を語っている。

 10代後半の年頃だったが、携帯電話も持たず、母と二人、フィギュアに専念する日々。クリケットクラブで共に練習していた3歳上の中村健人は、羽生と出掛けることはなかったという。

「仲間のハビ(羽生の元ライバル、スペインのハビエル・フェルナンデス)とは、ピザ屋に行ったりアイスを一緒に食べたり、よく出かけました。でも、結弦は全ての時間をスケートに注いでいた。その結果、彼は誰も成し得なかったことをやってのけたのです」

ソチには揃って出場した

 14年2月、羽生は初めて挑んだソチ五輪で金メダルを獲得。3月の世界選手権でも初優勝を果たす。

 そうして羽生が頂点に立ったのとは対照的に、メダルが期待されながらもソチ五輪では6位に終わったのが、髙橋大輔だ。結局、髙橋はこのシーズンで現役を引退する(後にアイスダンスに転向)。日本の男子フィギュアを牽引してきた髙橋だけに、彼のファンがネット上で羽生を攻撃し、羽生ファンが応酬するというバトルも珍しくなかった。

「羽生は意外にも『2ちゃんねる』のような掲示板を見たり、エゴサーチをするタイプ。『あれを見て悪い所を直したらいい』と口にすることもありました。一方で、ファン同士が中傷し合う書き込みに心を痛めたりもしていた。そうしたこともあり、髙橋について余計なことは話さないと決めていたようです。羽生の囲み取材では、髙橋に関する質問がNGになることもあった。ただ、本人同士は表彰台で話すなど仲が悪いわけではありません。互いにその実力を認め合った関係なのです」(連盟関係者)

18年の平昌五輪で女子選手に囲まれて

 ソチから4年後の平昌五輪。本番を3カ月後に控えた17年11月、羽生はNHK杯の練習中、右足関節外側靱帯を損傷してしまう。だが、不死鳥のように復活を遂げた。痛み止めを飲んで臨んだ18年2月の平昌五輪で金メダルを獲得。2連覇を果たしたのだ。

 そして、羽生はこう口にするようになった。

「4回転アクセルを初めて公式試合で決めたい。それが、今の夢です」――。

 五輪での金メダル獲得から、4回転半の成功へ。新たな「夢」を抱くようになったこの時期を境に、彼を支える“チーム羽生”にも変化が起きていく。

「平昌後、トロントで4回転半の練習を始めましたが、コーチのオーサーは乗り気ではなかった。彼の口癖は『トータルパッケージを大切にしなさい』。ジャンプだけでなく、ステップや表現力も研ぎ澄ませてほしいということです。オーサーとの話し合いを重ねたものの、両者の溝はなかなか埋まりませんでした」(前出・フィギュア担当記者)

14年の中国杯では頭部から出血

 同じ頃、オーサーと羽生を結び付けた一人の女性もまた、羽生と別離することになる。城田だ。18〜19年シーズンを最後にANAの監督も辞めている。

「世界のフィギュア界で影響力を持つ城田さんの存在が、プラスに働く面があったのは事実。ただ、羽生サイドは、もう彼女がいなくても、うまくマネジメントできると判断したようです。城田さんは『羽生が負ける姿は見たくない』と、北京までの現役続行にも後ろ向きでした」(城田の知人。城田に取材を申し込んだものの、回答はなかった)

母の派遣が決まった連盟理事会

 実は、羽生は13年10月に、マネジメントや肖像権などを管理する個人事務所「team Sirius」を設立していた。当初は由美や城田と縁のある女性が取締役を務めていたが、18年11月、フィギュア界と縁の無さそうな人物が代表取締役に就任している。

 元東京地検特捜部検事で、現在は、企業コンプライアンスなどを専門にする弁護士の政木道夫だ。

「東京地検の久木元伸検事正らと同期で、花の司法修習41期。04年に弁護士に転身しました。原発事故を巡る東電旧経営陣の裁判では、弁護士として被告の一審無罪を勝ち取った。伊調馨がパワハラを告発した問題では、レスリング協会の調査を行う第三者委員会の委員を務めました。羽生家とは18年11月以前から付き合いがあったそうで、事務所の社長に就任したといいます」(社会部記者。政木は「回答は差し控えさせて頂きます」と回答)

 オーサーとは溝が生まれ、城田が去る一方、ヤメ検敏腕弁護士が加わった“チーム羽生”。だが、このまま北京まで順風満帆とは行かなかった。20年春、世界中で猛威を振るい始めた新型コロナが彼らを襲う。

「喘息持ちの羽生は、他の選手以上にコロナを警戒していました。海外渡航の自粛が解除されても、トロントに戻ることはなく、アイスリンク仙台を拠点に練習を続けたのです。主に、ジャンプコーチのジスラン・ブリアンからリモートで指導を受けるようになりました」(前出・連盟関係者)

 羽生が約3000万円を寄附し、被災から再建したアイスリンク仙台。ただ、練習できる時間は限られていた。昼は阿部奈々美が自身の生徒を教えていたからだ。

「感染対策もあり、日中は家族が暮らす仙台のマンションからほとんど出ない生活。夜中にリンクに向かっては、深夜2時、3時まで4回転半の練習を続けていたのです」(同前)

 ところが、羽生になおも試練が立ちはだかる。昨年11月、右足関節靱帯を再び損傷。ストレスから食道炎を患い、発熱もした。

「もう辞めちゃおうかな。こんなにやっているのにできない。これ以上、やる必要あるのか」

 思わずそう漏らすこともあったという。

 だが、迎えた12月の全日本選手権では果敢に4回転半に挑戦。回転不足に終わったものの、6度目の優勝を果たした。コーチ不在の仙台で孤高の闘いを重ねる羽生。それゆえ、北京五輪では“最愛の女性”がどうしても欠かせなかった。

 1月14日、オンラインで開かれた連盟の理事会。理事の一人が証言する。

「この日の理事会で、由美さんを“支援スタッフ”として北京に帯同することが決まりました」

“支援スタッフ”とは、どんな立場なのか。

「日本食を作るシェフや選手個人で雇っているトレーナー、用具整備を担当するメーカー社員ら選手の支援をするスタッフです。今回はコロナ対策もあって、支援スタッフに付与するパスの数を絞っていました」(別の連盟関係者)

 そうした中、連盟は羽生の希望を叶える形で、異例なことだったが、由美の北京帯同を認めたのだ。

「由美さんはこれまで国内外の試合で必ず同行してきました。パンが苦手な羽生は海外でもコメが必須。本人の体調、精神状態を誰より把握しているのが、彼女です。一方で羽生はオーサーをコーチとして登録するのを見送りました。最後の舞台で、オーサーより母を選んだのです」(同前)

 冒頭のように2月6日昼、北京に降り立った羽生。傍らに寄り添うように歩いていたのは、由美だった。

 そして――。

 目に涙を滲ませたSPからの挽回を期す10日のフリー。羽生が初めて氷の上に立ってから、実に23年の歳月が経過していた。最後まで支えた母、夢を諦めた姉。彼を愛する家族の想いも乗せ、不屈の絶対王者は“ラストダンス”の舞台に立つ。 

(文中敬称略)

source : 週刊文春 2022年2月17日号

genre : エンタメ スポーツ

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