グラスワンダーの不可逆な愛
グラスワンダー大学グラスちゃん学部グラス学科四年次の卒業研究です。
ご査収ください。
あとこれ漫画版です。セルフコミカライズです。えっ? どういうこと?
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以下、多分閲覧後に読んだ方が良いネタバレ満載製作雑記兼Q&A
Q.途中で語られてた豆知識とかスズカのフォームとかって実際に存在するの?
A.大体嘘。そもそも人間の4~8倍の性能をするウマ娘に人間と同じ走り方をさせて、最大限にパフォーマンスを発揮できるのかはわかりませんし。大体馬って四本足で移動に長けた骨格をしているのに、ウマ娘は何故人間と同じ二足歩行で60キロとか出るんだよ……。空気抵抗や前傾姿勢、走法に関しては多少調べながら書いたけど、本当にあってるかはわからないのでそこも含めてフィクションとして楽しんでください。一応、我々一般人でも似たようなことは出来るっぽいですけど(ただし滅茶苦茶体幹が良いか慣れてないと顔面から地面にいきます)。ただしドリフトは知りません。ノリでそれっぽいことさせただけです。呼吸止めるとかに関してはガチで嘘なので信じないでください。
Q.割と史実に沿ってるっぽいけどどのくらいマジなの?
A.表面をなぞっているだけです。つまり、そんなに史実通りではない。グラスワンダーは実際には途中で筋肉痛でレースやめたり、目の怪我でレースやめたりとかしまくってます。なので、上澄みを切り取ってると思って頂ければ。創作の基本は、二割の真実と八割の嘘です。
Q.なんで音速を24メートル毎秒減らしたの?
A.計算が面倒臭くて……。
Q.『見た目から入る恋なんて夏風邪の次に性質が悪い』って何かの詩?
A.私の推しヴィジュアル系バンド『SID』の『夏恋』という曲です。ちなみにこの作品のタイトルは、初期案では『夏恋』でした。
Q.なんでグラスワンダーはトレーナーのこと好きになったの?
A.端的に言えば「縁」ですね。別に彼でなくてはならなかった必要はありませんけれど、たまたま「縁」のあった人がこのレーナーさんだっただけです。もしかしたら昼食には決まってハンバーガーを食べる男だったかもしれないし、日曜日には教会に行くような男だったかもしれません。ただ、彼がグラスと「縁」があっただけなのです。あとまあ、ウマ娘は身体性能が人間より優れているということから、そもそも男性に対し格好良いという理由で惹かれるのは少ないのではないか、と考えられます。原始時代であれば男性は狩りに行き、女性は家を守るという分業が成立していたけれど、ウマ娘がいるならば逆の可能性もあるわけで。というか、ウマ娘が狩りでそれ以外は家を守る、特に強い男性が狩りに行ける、くらいの極端な分業であったことが考えられます。とはいえウマ娘は単為生殖が出来ないため、男性と交わらなくてはいけないことから、保護欲や母性といった、可愛いモノ、自分よりちっぽけで脆弱な男性を守ることで生殖行為に繋げられるとも考察出来ます。そのため、トレーナーが自分より弱いという前提で、頑張って支えてくれるためトレセンに限らずウマ娘はトレーナーに対し庇護欲にも似た母性で接しているのではないか。そして、そんな男性に対して性的な感情にさえ及ぶ好感が生まれ得るのではないでしょうか。勿論尊敬とかもあるだろうけれど。という妄想でした。
Q.〇〇(例:グラス、スぺ)はこんな性格じゃないが? 解釈違いやめてください。
A.この手の質問には限りませんが、自分に合わないとそう思った瞬間に閲覧をやめてアニメウマ娘の視聴を始めてください。体に合わないものを無理に入れる必要はないので。
Q.なんでスぺちゃんはスズカと走り方が似てるってことになってるの?
A.実際には血がかなり近いから。というか実際兄弟なので。走り方が似るのは当然。(6/18追記:JRAだと兄弟扱いじゃないらしい……競馬会って不思議ですね~。なのでこのアンサーは無視してもらってオッケーです)
Q.スズカとグラスが互いに万全なままだったらどっちが強いの?
A.スズカが勝ちます。正直これは史実でもそうだと思います。毎日王冠でグラスが負けたのは、調整不足とかだけではない純粋なスペック差だと考えています。多分トレーナーさんもグラスでは勝てないことをなんとなく理解していたと思います。グラスもそうです。作中の怪我後のスズカとグラスはどっちも落ちぶれてしまったので、時と場合で勝敗が分かれると思います。多分、その場合はグラスが勝つんじゃないかなぁ、と思います。これが恋する乙女のパワーです。
Q.ってことは、グラスがスズカと病室で会話したシーンって……。
A.スズカは全部気付いていました。全部気付いたうえで、彼女が優先したのは友情の欠片だったのです。
Q.これが『チキチキ! 栗毛恋愛バトル』ですか……
A.そうです。スぺちゃんは黒鹿毛なので恋愛バトルには参入できませんでした。
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――音の速度は約300メートル毎秒を超えるらしい。これを時速に直せば、その速度は約1,000,000メートル毎時。改めて言語化する必要もないが、つまりとんでもない速さだということ。
人間の電気信号の伝達速度は、120メートル毎秒らしい。これがどういうことかと言えば、大脳が指を動かせ、と命令を出して実際に指先に刺激が届くまでには、それだけのラグがあるということだ。仮に人間の腕が120メートルあったとすれば、実際に考えてから動かすに至るまで、一秒もの誤差が生じてしまう。
人間の思いは音速にすら打ち勝てない。この世界の最高速度は光速。音速はそれの10,000,000分の1。我々の感情が追い付かないほど超スピードの世界では、そもそも生命など戦いの土俵にすら立てない。戦おうなどと考えるだけで無駄で――音速を超えたいのであれば、とっとと戦闘機にでも乗った方が手軽だ。
――であれば。元より、音速に挑もうとする方がバカげているのだ。
だというのに――私の目前の女は挑もうとしている。ただでさえとんでもない速度を出して走っているというのに――更に加速し、小さくなる。在り得ない光景だった。空気抵抗さえかき分け、音さえも置き去りにしてしまいそうなほどに――ただただ、速い。
ウマ娘の最高速度は90キロメートル毎時にも満たない。音速の約12分の1。敵うはずもない。考えればわかることだ。私にだってわかる。諦めが悪く、決して賢い女ではない。だというのに、目前を走る少女は更に飛ばしている。音と戦おうというのか。
どんどん離れていく感覚。私と彼女の隙間が広がっていく。手を伸ばしても、もう届かない。届くことはない。
私たちの隙間を縫うように、誰かが颯爽と潜り込む。後ろ姿でわかった。長い黒髪。エルコンドルパサーだった。
あろうことか――彼女もまた、音に挑戦しようとしている。何もかもを置き去りにする、暴力的な速度に立ち向かおうとしている。
足が重い。上手く回らない。まるで水の中をかき分けるように、生温く不自然な違和感で満たされている。末端部が少しずつ冷えていくように、思考が明瞭になっていく。熱に浮かされて、火照った考えが少しずつ浮かび上がってくる。
まともじゃない。狂気の沙汰だ。彼女はエルコンドルパサーを背後にして――更に加速する。エルでさえも追いつけない。一体どこまで走るのか。爆発的な膂力がターフを蹴り飛ばし、風を薙いでいる。
嗚呼――私では追いつけない。理解してしまった。体が認めてしまった。今の私では、何度挑もうとも彼女の見ている景色を独占することは出来ない。それは明らかだった。
離されていく。少しずつ、だけどその差は明確に。エルだけが追いすがるも、僅かに届くことはない。
――まるで流星――。
『グランプリウマ娘の貫禄――ッ!! サイレンススズカが一着でゴ――ルインッ!!! どこまで行っても逃げてやる――――――――』
〇
10月11日。毎日王冠。私は五着――入着こそ出来たものの、結果は惨敗だ。ウマ娘の世界において重要なのは、一着であるかどうかだけ。一着と二着の差は、数字の一つだけではないのだ。ほんのハナ差であったとしても、写真判定の末の一着であったとしても、0.01秒の誤差であったとしても。
だからたとえ入着であったとしても、私は負けたのだ。せめて三着でなかったのは幸いか――ウイニングライブに、どのような表情で立てと言うのか。いや、そんな後ろ向きな考えは良くない。口に出すことは出来ないな、と思った。
気落ち。そう表現するのが的確なのだろう。私は目に見えて落ち込んでいた。
誰もいない廊下を、一人で歩く。蹄鉄が土瀝青に触れて、甲高い音が鳴っている。勝者には――サイレンススズカには、今頃多くの記者や友人が駆け寄っているのだろう。多分、スペシャルウィークもそうなのだろう。一緒になって、勝利を喜んでいる。エルも悔しがるだろうが、多分「次は勝ちます」とか言って立ち上がっているはずだ。
けれど私はどうだ。これが敗者の今だ。孤独にぽつねんと歩くだけ。
控室に戻っても、彼にどんな顔をすればいいのかわからない。悲しんでいるのだろうか。それとも、もう次のレースのこと考えているのか。もしかしたら、スズカ先輩に負けるのは仕方がなかった、と諦めているのかもしれない。
音には追い付けない。どれほど早く走ったところで、私たちは音を追いかけることしか出来ないのだ。
「……グラス」
見上げれば、彼が立っていた。壁に体を預け、腕を組んでいる。
「トレーナー、さ――」
「――僕の責任だ。明らかに調整不足。怪我明けだっていうのに、焦りすぎた。まあ、僕がバカな判断下したんだ――グラスには申し訳ないと思っているよ」
そんなことはない。私は自分に出来る努力は全部行った。元より、多少調整が上手く行ったところで――私は彼女に敵わなかったのだろう。
思わず、汚い言葉を使いそうになる。
「嘘をつくな」
「初めからスズカが勝つと思っていたと言え」
「そう言ってくれれば、私は楽になるのだから」
けれど、咄嗟に彼のついた嘘に気付いて、私は言葉を変えた。変えざるを得なかった。
「……手、見せてください」
「え?」
「手」
「……いやぁ、僕の手なんて、そんなに見て面白いもんでもないと思うんだけど」
「手」
「……」
私がじろりと見つめると、彼は諦めたように右手の平を見せた。
一体どれだけのチカラで握ればそうなるのか――彼はウマ娘ではないのだ――握力は一般男性程度しかない。それに、見ればわかる細い体。だというのに――手の平に四か所の傷跡。そこから、血が滲んで染まっている。
――勝てると、本当に思っていたのだろう。だから悔しいと感じたのだろう。その思いが弾けるように、気付けば手を握って――爪が食い込んでしまった。それに気付かないほど、握りしめた。そして、私の敗北の責任を自分一人で背負おうとしている。
彼だけの責任なはずがない。私が走れなかったのが原因なのだ。自身を批難することはあれ、彼を批難することなど出来ようもない。
――ぽたり、とやや黒くなった血液が足下に落ちた。もう酸化しているのか。いや、そもそもレース結果が出てからかなり経っている。その間に彼は控室からここまで走り――私にバレないように腕を組んで手を隠し、慰めようとしてくれたのだ。
キミが負けた責任は俺にある。だから気負うな、と。
阿呆な人だ。まず先に自分の手を治療してから来るべきだ。
「あ――はは。さっき転んじゃって、ね。もういいだろ、ほら――」
「――ダメです」
手の側面を見れば、血に紛れて赤く腫れているのも確認できた。どこかに叩きつけたのだろう。どこだっていい。行き場のない思いを発散するように、叩きつけたのだ。
痛むのだろう。強く打って腫れたのなら、早急に冷やすべきだ。いや、それよりも患部を消毒しなくてはならない。冷やすのはそれからだ。
彼の手を取って――口元に運ぶ。
「ねえ、トレーナーさん」
「……」
「次は勝ちます。私」
ぺろり、と彼の手に舌を這わせる。唾液には塩分やペルオキシダーゼといった酵素が混じっているから、殺菌作用があるのだ。
「いっ――つ」
それから何度か患部付近を舐めて――血を隠す。鉄の味。彼の血は、鉄の味がする。同じ人間なんだな、と改めて――当然のことを知る。私と同じように考えて、行動している人間。
「もう貴方に、こんなことはさせない」
「……だから、転んだんだって」
「じゃあもう、転ばせません」
「……そっか。じゃあ僕も気をつけるよ」
何度も舌を動かし、彼の手を綺麗にする。艶やかな唾液が纏わりついて――てらてらと鈍く光る。
この傷は私の傷跡だ。そして、私の恥だ。決して忘れない。私一人が負けて悔しいのならば、ただもう一度立ち上がるだけで良かった。けれど、彼に生まれたその傷を癒すためには――強い奮起が必要だ。
不退転。何が負けたのは仕方なかった、だ。音に追いつこうとする彼女を見て、狂っているその様を見て、私は戦いたのだ。極限に挑戦する彼女を見て、本心から異質さを感じたのだ。
この味は忘れない。何があろうとも、私は忘れない。
〇
――その日の模擬レースは二着だった。過程がどうあれ、それは明確な敗北だった。問題なのは一着か、そうではないか。私にとってはそれだけだった。
けれども、私の走りを見ていたトレーナーたちには絶賛だったらしい。並走していた子がバランスを崩し、倒れかかってきたのだ。咄嗟に速度を落とし、それを躱した私は一気に最後尾まで遅れてしまった。スパートをかけるタイミングをかなり早め、なんとか順位を戻したものの、結局先頭を走っていた子には追い付けなかった。
曰く「あのアクシデントさえなければ、一着は間違いなくグラスワンダーのものだった」らしい。むしろ、一気に最後尾まで繰り下げられた私が、一人を除き全員を差したのを評価してくれた――らしい。
「……」
だとしても、負けは負けだった。もし私に、あと少しの末脚とスタミナさえあれば、その一人も差し切ってしまえただろう。あの時、速度を落としたのも敗因の一つだった。ウマ娘にぶつかられても負けないパワーがあれば問題はなかった。
――結局、私のチカラ不足なのだ。人間が負ける理由など、それしかない。運が悪かった等と宣うことは出来ない。あくまでも、どこまでも、私のチカラ不足が原因だ。
しばらくすると、私を囲っていたトレーナーさん達は霧散していた。きわめて張り付けたような笑顔で、淡々と「スカウトを受けるのは考えさせてください」としか言わなければ、そうもなるだろう。自分が扱いにくいウマ娘であることは、私にもわかっていた。
グラウンドを離れると喧噪も失せてしまい、冷たい風が肌を撫でていた。まだ四月だというのに、やけに涼しい。
不意に一陣の風が吹いた。トレセンの桜並木が揺れて、花弁を飛ばす。地面は桜色の絨毯のように染まっていて、歩くのも躊躇われる。
そんな中に、一際目立つ――変な男性が歩いていた。
「……」
咄嗟におかしいな、と思った。いや、鈍感な子なら気にも留めないだろう。私だって、たまたま彼のことを知っていなければ、わからなかったかもしれない。けれど、一度それを理解してしまえば――彼が何故おかしいのかを容易に把握出来た。
歩幅が狂っている。大きく踏み出したかと思えば、急に歩幅を狭め、斜めに歩いたりしている。何故そんなことをするのだろうか。
「あの、貴方――あの時のトレーナーさん、ですよね」
「ん……あ、あの時の! 迷子案内してくれた……グラスワンダー!」
彼と目が合う。確かに、あの時の男性だった。
ちらほらと、通りを歩くウマ娘が横目で私たちを見る。けれど、すぐさま顔を戻して前に歩いている。それほど気にもならなかったのだろう。無名のウマ娘と、無名のトレーナーだからだ。
「お久しぶりです」
「お久しぶり。その節はありがとう」
「いえいえ~、困った時はお互い様、ですからね」
そう言って微かに笑うと、彼も照れくさそうに微笑んだ。
「さっきのレース、見てたよ。惜しかったね」
「ありがとうございます。しかし、私の精進が足りぬ故です」
「もう、他のトレーナーからのスカウトを受けちゃったんでしょ? 残念だな」
「え? ああいえ、全てお断りさせて頂きましたよ」
「……なんで?」
――ああ、そうか。確かに彼は私を囲ったトレーナーさん達の中にはいなかった。大方、声をかけようと思っていたら人だかりが出来たから、声をかけられなくなったのだろう。そうして、トレーナーさん達が離れていくのが見えたから、私が誰かからのスカウトを受けたと思いこんだのだ。
「まあ、その、理由があると言いますか……」
「ふーん、じゃあ良かった。まだフリーなんだね」
「……もしかして、貴方も私をスカウトしようとお考えで?」
「ダメなの?」
「まだ、ダメです」
「まだ、ね。じゃあいつまでも待つよ」
そっと、備え付けられたベンチに腰掛ける。安心したように、ほっと溜息まで漏らしている。
私は彼の前に立つと――口を開いた。つい、勝手に言葉が編まれていた。
「……何故、私なんかを待つつもりなのですか? 明日にも模擬レースはありますし、その中で有望そうなウマ娘を選べば――」
「――一目惚れ、って言ったら、セクハラになる? あの時君に出会って、君が良いって思ったんだ。君じゃなきゃダメだ、とも。それに今、こうしてフリーな君を見て、運命だと思った」
ひゅう、と風で絨毯が舞う。紙吹雪のように花弁が落ちて――絨毯の模様ががらりと変わった。
「――『見た目から入る恋なんて、夏風邪の次に性質が悪い』」
「え? ごめん、風で聞き取れなかった」
「いえ、なんでもありません。それにしても、随分と恥ずかしいことを仰るのですね」
口元を隠すように、手で覆う。
「来月、私が出られる模擬レースがもう一度あります。もし一着だったら――私をスカウトしてくださいますか?」
「ああ、なるほど――そういうことだったのね」
そう言うと、彼は色々と把握したように――頷いた。そうだ。二着で満足できるほど、私は賢い女ではない。
その意図を理解してくれたのだろう。不思議だったけれど――彼には、すらすらと自分の気持ちを吐き出してしまえた。
「勿論。君が待てと言うなら、いつまでも待とう」
「ありがとうございます……あ……そうだ」
「どうかした?」
「そういえば、先ほどからなんで変な歩き方をなさっていたんですか?」
「変な歩き方? ……ああ、そうそう。僕、桜色が好きなんだ。だから踏まないようにね」
成程。そういうことだったのか。
「……桜が好きだから、ではなく?」
「桜色だから、桜は好き」
「……そうなんですね」
「うん。ほのかに暖かくて、柔らかくて、見ていて気持ち良くなるから好き。素敵な色だと思う」
なんだか少し、詩的のような、恥ずかしいような。けれど、自分の感じた素敵を言葉出来る人なんだな、とその時思った。
〇
サイレンススズカというウマ娘の異常性について、今更語るべくもないが、しかし改めて言語化するとすれば――彼女は、スパートをかけないのだ。本来後方に位置付けて、全員が疲弊したところを狙って差し切る私にとってすれば、それは実に異常な性能をしていると評価せざるを得ない。
普通の逃げウマ娘であれば、まずレースが始まって一度目のスパートをかける。大逃げ特有の、スタートダッシュだ。これでほとんどのウマ娘を大きく引き離し、レースのカタチを作る。基本的にトップスピードで前方を走り続ける彼女には、誰も追いつけない。当たり前だ。序盤から飛ばしてしまえば、最終的には体力が尽きてしまう。だから、意図的に後方で待機し、足を残すのだ。
だというのに、彼女は速度を落とさない。あろうことか、加速を続けるのだ。
スタミナがあるというのもあるだろう。序盤から終盤にかけて、トップスピードを崩すことなく走り続けられるレース感覚もさることながら、その持久力は無類だ。しかし、何より、それにつけても彼女は足が速い。
とにかく速いのだ。異常なまでに。淡々と走っているように見えるが、それは違う。後ろを走れば容易にわかる。彼女は、走りながら、加速を続けるのだ。明らかに異常なペースだ。同じ哺乳類なのかどうかを疑ってしまうほどに、異質な性能をしている。
彼女は次第に遠ざかっていく。追いつかなくては、と我武者羅に速度をあげれば、疲弊したところをアッサリ振り落とされる。それは最早、レースメイキングなどというレベルではない。走るためだけに産まれてきたとしか思えない、産まれついてのスピード狂。誰も追いつけない背中を悠々と見せつけ、誰にも触れさせないままゴールする。
彼女は誰とも競わない。誰かと競り合うこともしなければ、誰かの背後について甘い汁を吸うことを考えもしない。ただただ孤独に先頭を歩み、ただただ甘美な息を吐き、ただただ無慈悲に勝利する。それがサイレンススズカという異形のカタチだ。
怪物などと評される私だが、それは誤りだと思う。彼女こそが、現代ウマ娘――トゥインクルシリーズにおける怪物なのだ。
しかし、彼女は生まれつきの怪物ではなかった。むしろ、走りたての頃は連戦連敗――敗北数の方が多い。では、何故彼女が異常性を遺憾なく発揮できるようになったのか。
それはすべて、私の責任だった。
〇
「朝日杯――ね」
「はい、朝日杯フューチュリティステークス。出させて戴けませんか?」
「GⅠじゃん。うん、まあ……ちょっと考えさせてね」
そう彼に言ったのは、11月の中盤だった。先日京王杯――これはGⅡ――を一着で乗り切ったばかり。一月も置かずに次のレースに出ようと言うのだから、急な話だろう。
「もしかして、何か焦ってる?」
「いえいえ。ただ――私にも、着実に力がついてきたのではないか、と思いまして」
「それは事実だけど」
ここまで無敗。メイクデビュー戦に、アイビーステークス、そして京王杯を勝利している私は、波に乗っていると言っても過言ではなかった。
「確かに最近は調子も良い。体も仕上がってきてるし、出ようと思えば出られないこともない」
「でしたら……!」
「でも、なんかちょっと不安なんだよね。もう少し間を空けたい」
「もう、心配性なんですから」
「いいでしょー、僕の愛バなんだから、そりゃあ気を遣うさ」
「全く。口が軽いんですから」
彼は手に持ったバインダーをペンでとんとんと叩きながら、唇を突き出している。考え事をしている時の癖らしい。彼とは出会ってもう半年を超えている。多少は打ち解けてもきたようで、軽い雑談なんかもするようになっていた。
「大体、月一でレース出てるからね、グラス。もうちょっと時間空けた方が心置きなくトレーニング出来るんだけど」
「私は、この身でどこまで行けるかが知りたいのです。レースとは、絶好の機会ではないですか。それに――ほら。担当がGⅠ優勝バともなれば、トレーナーさんにも箔が付くのでは?」
いやらしい言い方をするな、と自分でも思った。けれど、実際はそうだ。あくまでも関係性はギブアンドテイク――トレーナーさんが指導をし、私が成長し、勝てばトレーナーさんに還元される。そういうシステムなのだ。
「言っておくけど、僕はそういうのにはあんまり興味ないから」
「でしたら何に興味があるんです?」
「僕の好きなウマ娘が、どこまで行けるのか――だよ。ターフを駆けて、陸を超え、果ての果てまで駆けのぼっていくのを、傍で見ていたいんだ。グラスならきっと出来るからね」
「……ちょっぴり、恥ずかしいことを仰られるのですね」
「恥ずかしくないよっ」
拗ねたように、彼は顔を逸らした。可愛い人だ。ついつい揶揄ってしまいたくなる。できることならばもっと色々言って見たり、ほっぺたをつんつんしたりもしてみたい。
けれど――我慢我慢。あくまでも、上下関係は弁えなくてはならない。
「しかし、どうかご熟慮ください。ウマ娘の選手生命は、特に短いのですから」
長くて五年。短ければ一年と持たないのがウマ娘だ。他のスポーツが十年近い間プロで在り続けられることを考えれば、五年でさえ僅かに思える。過酷なトレーニングで体を壊すこともあれば、レースで負傷することもある。同期のウマ娘の活躍で心を折られ、走れなくなってしまうこともある。
であれば、その間に出来る限りのことをしたいと思うのは当然だった。多くのレースに出て、結果を残し、ウマ娘の頂点へと一気に駆け上がる。余計なことをしている暇などないのだ。
「……」
勿論、彼が私の提案に困っているのも理解出来る。怪我や尚早な判断だけで決めあぐねているわけではない。私にもわかっていた。
不意に彼に目を向ければ――どこか遠くを見ている。自分も彼の視線を追えば、どうやらそれがグラウンドのマイルコースに向けられているようで。
「……お好きなんですか?」
「何が?」
「栗毛が」
「えっ!? いや、綺麗な髪だとは思うけど……!」
「ふーん。私とのトレーニング中であるにも関わらず、他のウマ娘を見る暇があるのですね」
「いや、別にそんなつもりはないから! 敵情視察ってやつ!」
「まあ、そういうことならそういうことにしましょうか」
「ほっ……」
本当はもう少し意地悪をしたかったけれど、自制が効いた。安堵のため息を漏らす彼も、見ていて中々に可愛いものだけれど――それよりも。
「サイレンススズカ――」
「スズカ先輩のスタミナは底なしですね。さっきから、一体何本走っているのか」
マイルコースを駆けていたのは、サイレンススズカだった。高等部に所属しており、これまでに八戦三勝と悪くない成績を修めている。とはいえ、最近は調子も悪いのか負け続き――オープン戦しか勝利経験がない。
苦汁を飲まされ続ければ、必死になってトレーニングに励む気持ちはわかる。私自身、賢くない女だから――現実を認められず、トレーニングに走ってしまうのだ。しかし、大抵そういった時の我武者羅なトレーニングは報われにくい。
「多分、あれが六本目――そろそろ合計で10キロを超えますよ。異常なスタミナですね……」
「スタミナは普通くらいだと思うよ。アレは、走り方が違うんだ」
「……走り方?」
「あれじゃあすぐに蹄鉄が摩耗してしまう。けれど、蹄鉄を犠牲にあれだけの速度が出せるって言うんなら必要な犠牲だよ」
「あ、あの……あの、どういうことでしょうか?」
彼が一人で話を進めてしまった。しかも勝手に一人で納得までしてしまった。少なくとも、私には説明してもらわなくては理解出来ない。見ただけで、全てがわかるわけではないのだ。
「ん……ああ、スズカの話ね。話してもグラスにはあまり実践出来ないと思うよ」
「な、なんでですかっ!?」
「体のつくりが違うから」
「……」
よくわからない、曖昧な答えだった。首を傾げる私を見たのか、彼はようやく解説を始める。
「ウマ娘とウマ娘以外で、体のつくりが違うところってどこがある?」
「……耳と、尻尾の有無でしょうか」
「うん。確かに耳と尻尾は目に見えるから明確だね。じゃあ、グラスとスズカで違うところって、どこだと思う?」
「……」
じぃ、とスズカ先輩に目を向ける。速いので、目で追うだけでも一苦労だ。やや赤い栗毛が風に靡いて舞っている。私より、幾分か赤みの差した毛色。無論、髪の色が違うなどと言う答えではないだろう。
であれば、何が違うのか。目に見えるから明確――と彼は言った。であれば、それは目に見えないものなのだろうか。足のつくり、とかだろうか。であれば、確かにジャージに隠れているし、中々目に見えるものではない。
私が考え込むようにしていると、彼が口を開く。
「ぶーっ」
「……」
「時間切れ。後で補習に来てね」
「それで、答えは何なんですか?」
「骨」
「……骨?」
「うん。そもそも僕とグラスでも、骨は違うんだ。骨格のつくりってやつかな。例えば、僕に尻尾はないけれど、グラスの尻尾は背骨、っていうか仙椎から尾椎まで繋がってる。これは、ウマ娘にしかない骨だ」
ウマ娘以外に、尻尾はついていない。だから、尾椎が必要がないのだろう。しかし、私たちにとっては遺伝子的に残され続けているらしく、その用途は不明ながらもアイデンティティとして確立している。
確か、尻尾を動かすときに使われる骨――であったはずだ。保健体育の授業で習ったことがあった。
「人によっても骨の本数って言うのは違うんだ。年齢によっても変化する。くっついちゃったりするし、砕けて別れることもある。当然、そんな個性が出る骨で作られる骨格は、人によっても異なる」
「それが、私とスズカ先輩で異なる部分、なんですか?」
「そうそう。あのフォーム、真似出来る?」
そう指を差すと、丁度スズカ先輩が速度を落とし始めた。といっても、段階的に緩めるのではない。体勢を楽にして、軽く流すように胸を張って顔を持ち上げた瞬間から、一気に速度が落ちた。
――それを見ると、彼女は思っていたよりも大きかったんだな、と思った。距離があるというのも関係しているが、それにしたって走っている彼女は一段と小さく見えた。
記憶に残った彼女の走り方を真似して、その場で軽く芝を蹴ってみる。
「……なんか、体に合いませんね」
「そりゃあそう。あの異常なまでの超前傾姿勢はバランス感覚と彼女の先天的に持ってる歩法で成り立っているんだから」
「……ちょっと、説明して頂けますか?」
「まあ、いい機会だし、敵情視察も兼ねて説明しよう」
そう言うと、彼は胸を張っていかにも「えへん」とでも言いそうな笑顔になった。そういうところは可愛いのだが、今はすぐに彼女のことを話してほしかった。
「前傾姿勢のメリットは、速度が出ること。胸を張って走ると空気抵抗があるけど、前から背中が見えるくらいの傾きなら抵抗も減らせるでしょ?」
「確かにそうですけど、この姿勢は変です。アキレス腱が千切れそうな気までします」
「それはかかとを地面につけているからだ。よし、ちょっとやってみようか」
誰もいないグラウンドで、彼は私の元まで近づいてくる。それから、腕立て伏せのような体勢をとって、足を見せた。
「まず着地はつま先から。そして、地面に触れたらすぐに離して逆足のつま先。こうすればかかとは地面につかない。本来足の裏から伝わる着地時の衝撃は前方に逃がして加速に転換できるから、どんどん加速するように見える。というか、実際に加速する。加えて膝とかへの負担も減るから、体力も温存出来る」
「……フォアフット走法、でしたっけ」
「そうそう。その極端な状態が今のスズカってわけ」
「では、私も同じように走れば――」
「いや、それはグラスに向かない。今のグラスは、序盤で足裏のかかと側から着地して踏み出し、スパートでつま先って感じだ。これは後半で差す君の戦法に相性が良い」
「……じゃあ、前傾姿勢も加えて走ってみれば――」
「それだと、アキレス腱が痛むんでしょ?」
「……」
「あの超前傾姿勢は、彼女の産まれ持った骨格と、つま先だけで走る走法、あと天性のバランス感覚に、そして何よりも純粋な足の速さから来るものだよ」
なるほど。
彼女がトレーニングを終えた際に、一気に大きく見えたのはそれが原因か。体勢を前に大きく倒すから、走っている時に横から見れば小さく見える。体勢をゆっくり戻し、ランニングフォームにすれば途端に空気抵抗が生まれ、つま先で走ることも出来なくなるから急に減速する。
そして骨格と言った。勿論、筋肉のつき方も私と彼女では異なる。鍛えられた筋肉が、逆に運動能力を阻害することもあるのだ。極限まで脂肪を削いだボディビルダーが、腕組みが出来なくなったのを悩みにすることだってあるらしい。
つまり、スズカ先輩のあの速度と体力は、彼女にしか出せないフォームから生み出されている――のだろう。それ故に、私では真似できない。
――けれど、実際にレースをすれば私が勝つだろう。それだけの自信はあった。
彼女のレースを何度か見たことがある。直近の負け試合ではあったが、そのどれもが速度を活かしきれていないものだった。
途中でスパートをかけようとしても、ウマ娘達をかき分けて前に出られない。あの前傾姿勢では、速度こそ出るが人混みをかき分けられない。加えて、あの体勢でなくては速度が出ない。集団に追いつくだけで精一杯だろう。
「きっと彼女の足の裏は柔らかいはずだ。本来よく使う部位は皮膚が硬質化するものだけれど、上手くエネルギーを逃がすことが出来れば赤子のようにふにふにとしているだろう」
「……敵を知り、己を知れば百戦危うからず――ですね」
「いやー……凄い子が……いた……もんだ……!」
「あの、そろそろ、その体勢をやめるのはどうでしょうか……」
言われて気付いたように、彼は腕立て伏せの体勢をやめ、立ち上がる。手から芝を払って、もう一度スズカ先輩を見た。
「ちょっとだけ、彼女と話してみたくなっちゃったな」
「私との練習中ですよ~トレーナーさーん?」
「あああごめんって! なんだっけ、坂路?」
「朝日杯フューチュリティステークス、ですっ」
「ああそれね! こんだけ元気があれば出られるね!」
「だから、最初からそう言っているじゃありませんか。有り余っているくらいですよ、元気」
ぐい、と彼に詰めよれば――女性慣れしていないのか――一歩引いて、目に見てわかるくらいの困惑っぷり。やはり、可愛い人だ。
「怪我とか、あんまりしてほしくないからさ」
「それはわかっています。それに、先輩方を見れば月に一度のレース出場は何らおかしなことではありません」
「ま……そうだけど。んじゃーわかった、おっけーおっけー。ジュニア級最強ウマ娘目指しちゃおう」
「はいっ、そうしましょう!」
〇
数日後。久しぶりに休日を設けよう、とトレーナーさんが仰ったので、休暇を頂くことにした。といっても、休暇に慣れていない私は当日も普段と変わらない時間に目覚め、エルコンドルパサーを起こさないように部屋を出た。
何をしよう。勝手に走れば、彼にバレてしまうだろう。のほほんとした可愛い顔をしていて、あれで結構鋭い人だ。先日のスズカ先輩の件でもそうだが、彼の知識量と観察眼は尊敬に値するレベルだ。生半可な誤魔化しでは効かないし、自分のことだ、一度走り始めると止まれない。であれば、今日はグラウンドに近づかないのが吉か。
早朝に部屋を抜け出すと、ちらほら朝練習のために起きている子をみかけた。彼女達を見ていると、どうしても私も参加したくなってしまう。逃げるようにトレセンから出ると――不意に、どこかで見たことのある背中を見つけた。
「あ」
「……あ」
咄嗟に出てしまった声に気付いて、彼も振り返った。トレーナーさんだった。
「……今日は休日って話だったよね。朝練はダメだよ」
「私服ですよ、私服。走れるわけないじゃあありませんか。それともトレーナーさん――もしかして、私の衣装も目に入らないくらい、動揺しておられるんですか?」
「……」
かちり、と彼が固まる。図星だったのだろう。まるで、悪戯を見つかってしまった幼子のように――彼の瞳が忙しなく動いた。
「どこかに行くつもり、ですね? こんな朝早くから」
「べ、別にやましいことはないから」
「そんなことは聞いておりませんが、もしかしてやましい気持ちがあるのですか?」
「……あ、う」
楽しい。彼をちくちくと言葉で責めるのは、健康に良い。
けれどあんまり虐めるのも良くないので、そろそろ自制しなくては。私は口をきっと結びなおすと、彼に向かった。
「まあ、貴方がどうなさろうと貴方の勝手です。早朝から、いかがわしいことをしようとも」
「あーもー……わかったわかった。じゃあ、ヒント」
「……ヒント?」
「14時にテレビつけてればわかるよ」
「……?」
それだけ言うと、彼は一言二言別れの言葉を吐いて、歩いて行った。14時にテレビ――とは、何のことだろうか。とにかく調べるため、私は急いで談話室に駆け込むのだった。
〇
「サイレンススズカ、九戦目――ね」
時刻は14時を少し回ったところ。液晶には、ゲートのオープンを今か今かと待つウマ娘達14人が映し出されている。勿論、その中には赤みの差した栗毛――スズカ先輩もいる。
八番人気。連敗を重ねているし――競バ場はそこまで有名な場所でもない。サイレンススズカの名が人気を呼んでいるわけでもないから、その数字は順当だろう。
やがて、ゲートが開く。それと同時に、スズカ先輩は一気に飛び出した。
「!」
意外だった。逃げ――か。レースと同時にスタートダッシュを切って、そのままずっと先頭をキープするスタイル。阿呆な選択だ。
これまでのスズカ先輩の戦法は先行待機だ。前方集団の中で待って、末脚で一気に差し切る。だというのに――これまでとは打って変わって、逃げ。
いや、違うな。大逃げ。急に戦法を変えてきたのは何故だ?
答えは簡単だ。彼だ。彼がスズカ先輩に何かを話したのだ。
大胆なことをする人だとは思っていたけれど、まさかここまでとは。ちゃんとスズカ先輩のトレーナーに話を通したのだろうか。それとも、勝手に動いたのだろうか。
――勝手に動いたに決まっている。でなくては、今朝私に見られたところであそこまで狼狽しない。間違いなく、独断専行だ。そしてスズカ先輩は、それに従った。
『サイレンススズカ、先頭ォ――ッ! 1000メートル通過時点で、既に後続との差は3バ身以上ッ! 逃げる逃げる! 最終直線ッ!』
幾ら先頭に立てようとも、関係ない。逃げの戦法はここからが弱点をあらわにする。序盤で体力を使ってスパートをかけるから、そこまで体力を温存していた後続バに差し切られてしまいがちなのだ。
例え3バ身の差があろうとも――いや、たった3バ身程度の差では、容易く差し切られてしまうだろう。
次の瞬間、私は身を乗り出すように液晶に顔を近づけた。
――――異常だ。幾ら1800メートルしかないとはいえ、あの速度で走っていれば上がり3ハロンで必ず息切れする。
だというのに、彼女は、サイレンススズカは――更に加速を続けた。後続が追いすがる。残り400。焦ったように、体に鞭打つように、後続が苦しそうにスパートをかけてきている。彼女達もまた、1000メートルを一分とかからず駆け抜けてきたのだ。歯を食いしばり、辛そうに彼女の背中を追っている。
当然だ。彼女達も、私と同じように驚いているはずだ。何故減速しないのか。あろうことか、加速を続けるのか。不自然すぎる。まるで、壊れてしまったかのように――距離が広がっていく。
――しかし不意に、不安そうな表情でスズカ先輩が後方を見た。
「――何をしているッ!」
たまらず声が出た。何故後ろを見るのか。それでは減速してしまう。そのまま突っ切れば間違いなく一着は彼女のモノだったというのに。阿呆。
加速し続ける大逃げ。誰も追いつけない、音速の向こう側。彼女なら辿り着けたであろうその境地に至ろうとして、彼女は振り返ってしまった。
「――――!」
それを見逃すはずもない。後続バに追いつかれてしまう。
『残り100メートル! スズカ追いつかれる! スズカ追いつかれる! スズカ追い抜かれる――ッ!!』
直後、もつれるように数人のウマ娘がゴールイン。
……見ればわかる。彼女は五着だった。着順表が表示されるまでもなかった。それくらい、明らかな差があった。
だが理解した。理解したと同時に、怖くなった。
彼女は不安になったのだ。初めての走り方。初めての光景。目前に広がる、ウマ娘のいない開けたターフ。加速し、どんどんと様々なモノが遠ざかっていく中で――疑問に思ってしまったのだろう。
これは現実なのか? と。もし幻覚の類であり、妄想であれば――きっと自分は最下位なのだろう。最後尾を走っていて、酸欠で頭がくらくらしている。
だから、背後を確認したのだ。後ろにウマ娘がいれば、これが現実であるとわかるから。
異常だ。ハッキリ言えば、狂人の類だとも思う。
私たちウマ娘の行動原理は、基本的に『勝ちたい』だ。レースに勝って、誰も寄せ付けない最強のウマ娘になりたい、だ。だというのに、サイレンススズカは異なるらしい。
その真実の景色が見たい――のだ。ただそれだけ。あくまで、その過程にレースで全員を置き去りにするという工程が含まれているだけ。勝つとか負けるとかは二の次で、ただその景色を目にしたいだけなのだ。
「……」
直感した。この人は――このウマ娘は、異常すぎる。とんでもない人だ。
しばらく惚けたように液晶を見ながら、私は固まっていた。
〇
翌日、トレーナーさんの執務室に急いだ。
「お、来た。見た? スズカの走り――」
「――アレは」
「……ぐ、グラス……?」
「トレーナーさんの、名采配だと感じました」
僅かに困惑するようにして固まっている彼に、そう零した。
スズカ先輩の唯一にして最大の弱点は、ウマ娘をかき分けて走る柔軟性がないことと、ウマ娘に壁を作られた際に抜け出すパワーがないことだった。
であれば、最初から誰も標的のいない場所にいればいい。先頭だ。必然的に、戦法は大逃げということになる。一番前に立てば、誰かに邪魔されることも壁を作られることもない。ただ、彼女の走りをするだけで良かったのだ。
「別に僕が指示したわけじゃないよ」
「……そうなんですか? てっきり私、昨日はわざわざスズカ先輩のために競バ場まで足を運んだのかと」
「足を運びはしたし、会って話もしたけど、別に指示はしてないよ。ただ、頑張ってねって言った時にこっそり『一番先頭に立ち続けたら見えるかもね』って言っただけ」
「……それ、指示してますよね?」
「してませーん。アドバイスの範疇でーす」
意地悪そうな顔で笑う彼。ああ、勿論そういう子供っぽいところも含めて可愛いのだけれど。
「……そのために、わざわざ遠くまで朝早くから?」
「早朝に出たのは誰かにバレると万が一があったから。グラスにしかバレなかったのは幸いだったよ」
「……」
不用心な人だ。もし他のトレーナーがいるウマ娘に勝手に声をかけて、トレーニングメニューを変更させようものなら――懲罰モノだ。懲戒免職処分を受けても仕方ないとさえ言える。
「はあ……私以外にはバレてないんですか?」
「スズカが言っちゃったら、バレるかもね」
「危険じゃないですかっ」
「でも名前は言ってないし、顔は覚えられてないと思うよ」
「そういう問題じゃありませんっ。全く、もう……」
まるで子供のような人だ。善意の押し付け――そう思われても仕方ない行為。だが、彼には彼の理由があったのだろう。
少なくとも、彼女に大逃げを打たせるという作戦は正しかった。単純な話をすれば――ただただ足が速く、ただただ体力のあるウマ娘なら、誰でも同じことが出来るだろう。けれど、どんどん加速し最終地点が最も速度が出る――なんていう異常なウマ娘は、彼女しかいないのだ。であれば、この作戦は唯一無二の、彼女でしか成し得ない作戦だ。
それが出来れば勝てるというのに、気付いていないから負けてしまう。トレーナーという立場からすれば、歯痒さも感じてしまうだろう。
ただでさえトレセンは途中退場するウマ娘が多いのだ――彼女の心が折れ、もう走れなくなってからでは遅い。だが、万が一あの作戦が大失敗していれば――本当に危険だったかもしれない。彼の首が飛んでいただろう。
「まあ、何もなければ良いですが――もし何かあってしまえば、責任逃れは出来ませんからね」
「はいはい。でもまあ彼女、これでトレーナーさんにも評価されるんじゃないかな。あの走り方は明らかに適正がありすぎている。ほぼ敵無しになるだろう」
「それ、私の前で仰るんですか?」
「だから言ったでしょ。ほぼ敵無しだと」
「……ふふ」
私に相当の自信があるようだ。そうでなくては困る。
数日後には初めてのGⅠレースも控えているのだ。そこで勝ち――彼の中の私の評価を更に高めようではないか。彼女は確かに異形だ。けれど、負けるわけにいかない。
ウマ娘の頂点という目標の前には、ありとあらゆるウマ娘の屍を乗り越える必要がある。いずれ、彼女も乗り越えるべき敵となるのだろう。その時に倒せるように――力をつけなくてはならない。
そう考えていると、ふとノックの音が聞こえた。頼りなさげな、弱々しい音だった。
「どうぞー」
トレーナーさんが声を出す。そこに立っていたのは、サイレンススズカだった。
「――――え?」
「あ、あの……あ、貴方。あの時の……」
「あの時の……って、顔覚えられてる!?」
「あー……」
ややオーバーなリアクションをとる彼を見て、私は俯いてしまった。けれど、その場で立ち尽くす彼女を放置しているわけにもいくまい。彼女をソファまで案内すると、私はお茶を淹れに簡易キッチンに向かった。
二人は軽く挨拶を交わすと、彼の名前を確かめた。どこかで調べてきたのだろう――きちんと合致しているようで、何度か頷いていた。
「えっと、それで、何かな、何の用だろう」
「えっと――二つ、要件があってきました」
用意していたかのように、指を二本立てるスズカ先輩。多分、練習でもしたのだろう――緊張したように、震える声で言葉を思い出すように重ねている。
「一つ目は、昨日のレースのことです。助言して頂き、ありがとうございました。結果として入着でしたが……私にとって、良いアドバイスでした」
「それは良かった。やっぱりスズカはずっと先頭走っていた方が良い」
「はい。レースに『たられば』はありませんけれど……あの時、吃驚しなければ、勝てていたと思います」
強く、想起するように彼女は言い切った。客観的に見ても事実だった。あの時振り返らなければ、スズカ先輩の一着は確実だった。
「吃驚って……やっぱりアレは、驚いたからだったのか」
「はい。少しだけ昔話をさせてください。私は昔、両親に小さな子供向けのレースに出してもらったことがあって――皆に囲まれて、窮屈で、息苦しくて。ここじゃない、どこか遠くに行こうと思ったんです」
「……そして一気に前に出た」
「はい。その時初めて――ああ、走るのって楽しいんだな、と思ったんです。またこの景色を見たい。静かで、どこまでも澄み渡る世界で生きたい、って」
「素敵な話だね」
「……昨日のレースで、それを思い出したんです。そうだ、私、走るのが好きなんだ――って」
「音を超えて、思いも超えて、君が見たかったもの、触れたかったもの。それが思い出せたっていうのなら……きっと、良いことだよ。きらきらしてて、何もかもが光り輝いて見える、夢みたいな話だ」
「……あ、う」
見れば、スズカ先輩の顔がそっと赤らんでいた。勿論、私も少し赤かった。
「なんて恥ずかしいセリフを仰るんですか……」
「えっ、恥ずかしかった? 僕」
二人が挟む机にお茶を置く。彼は驚いたように、私を見た。
「結構、ロマンチストなんですよ……この人」
「普通だと思うんだけど……まあいいや」
少しだけ拗ねたように、目を背ける。基本的には可愛い人だと思っているし――たまに、こういう夢見がちなことをつい言ってしまうのも、それに拍車をかけているのかもしれない。
「一つ目がお礼ってのはわかりました。どういたしまして。トレーナー冥利に尽きるね」
「こちらこそありがとうございました。私、走るのをどうしても諦めきれなくて」
「いいってこと。で、二つ目は?」
「その、三つに増えてしまうかもしれないんですけど――」
「なに?」
「――担当して頂いていたトレーナーさんに、破門されてしまいまして」
「……破門!?」
「ああいえ、実際に破門と言われたわけではないのですが……『俺の指示が聞けないならどっか行っちまえ!』と。私が彼の言っていた作戦を守れなかったことと、最後で振り返って五着に終わったこと。これが原因だったようです」
「……はあ、そういうことね。そんなことある? 普通」
「今までにも何度か逃げようと思ったことはあるんです。けれど、一度やってみたら上手く行かなくて。特に怒られてしまいましたし、もうやめようと思っていたんです」
そう言いながら、スズカ先輩は指を組む。
「昨日も、本当は少しだけ逃げようと思ったんです。最初から飛ばして、ずっと一着でいようと思って。幼い頃、レースでそうしたように」
「だったらなんで僕の言葉に従ったの?」
「だからこそ、貴方の声に背中を押されたんです」
「……」
「……」
「逃げてみよう。どのみち負け続きだし、何でもやってみようと思って。そうしたら――幼い頃のレースの時と同じ景色が見られるんじゃないかな、と。でも、トレーナーさんには先行待機と言われているし――」
愁いを帯びた表情。感情的なトレーナーであれば、楽ではないだろう。怒りをあらわにされ、得意戦法を否定されては足も重くなる。
「そうしたら、貴方の声が聞こえて。頑張って、って言ってくださいました」
「……そっち、か」
「はい。背中を押された気がしたんです。少しだけ、今日は頑張ろうって思いました。だから、逃げてみようと思って」
「その結果がアレ、か。ってことは、三つ目の話は――」
「逆スカウト。私を担当して頂けませんか?」
「……」
「私は――貴方の元で走りたい、と思ったんです」
願ってもない話だった。彼が少し迷ったように私を見たけれど――特に否定的な感情はない。
むしろ燃えるくらいだ。彼女の異常性を目の当たりにし、少し怖いくらいのものだけれど――しかし、それも起爆剤だ。相手が強ければ強いほど、倒した時に価値が生まれる。それは、相手が万全であればあるほど、である。
「トレーナーさんさえ良ければ、私は構いませんよ?」
「……ホント?」
「はい。スズカ先輩が強いのは重々承知しております。だからこそ、良いんじゃありませんか」
「……」
「本当に強いウマ娘に勝ってこそ、真の頂点へとたどり着けるものだと考えています」
なるほど、と頷くように彼は言葉を漏らした。そういえばこんな女だったな――と改めて理解しているようだった。そうだ。私はそういう、難しい女なのだ。
「……グラスが何も困らないというならば、僕としても問題はない。ただまあ、担当ウマ娘が二人っていうのはちょっとアレだけど……どうにかなると思う」
「で、でしたら……!」
「ただ一つ、どうしても譲れない条件がある」
「……は、はい」
「例えばもしスズカとグラスのレースが被ったら――僕は間違いなく、グラスのトレーニングに専念する。君を放置するということはないが、熱量で言えば差が出るだろう。そうした場合、他のトレーナーの方がトレーニングに集中できる可能性がある。二人のウマ娘を平行で担当したことはないからね――だからこそ、二人を選ぶことがあれば、僕はグラスワンダーを選ぶ」
「……」
少しばかりの、高揚感。優越感。彼に選ばれているのだと――強く、理解出来る。
「それでいいなら、願ってもない話だ――是非、スカウトさせてほしい」
「はい、構いません。むしろ、私をスカウトしてくださって頂ければ――多少の条件は飲むつもりでしたから。グラスワンダー……さんの担当なのですから、当然です。願ってもないのはこっちです。是非、お願いします」
「……よし、わかった。じゃあ書類用意してくるのと……あと、前のトレーナーさんに話をしてくるよ。足が重いけど」
「あ……ご、ごめんなさい。私のせいで」
「いいのいいの。じゃ、グラス」
「はい」
「君の方が先輩だけど、後輩だ。よろしくね」
「勿論ですよ」
それから、彼はそそくさと逃げるように部屋を出ていった。気を遣ってくれたのだろうか。私は、残されたスズカ先輩の正面に座って、彼女を見た。
「……ご紹介が遅れました。改めまして、グラスワンダーと申します。これから、一緒にトレーニングをすることになるでしょうから――よろしくお願いいたします」
「こっちこそ、よろしくね。一応、サイレンススズカです」
「存じております。互いに切磋琢磨し、ウマ娘の頂点へと続く坂道を、歩んでいきましょう」
「ええ、頑張りましょう」
〇
12月7日。中山競馬場。朝日杯フューチュリティステークス。
6枠11番。ゲートに入ると、観客の喧噪が自然と薄れ――やけに強く、自分の心音が聞こえてきた。
GⅠは初めて。緊張がないといえば嘘になるけれど、それでもがちがちに固まっているわけではない。むしろ、今日だけならば私よりもトレーナーさんの方が緊張していたようである。私以上に緊張している者がいると、かえってこちらの緊張が解れるというものだ。
ターフに向かって、何度か足を押し付ける。ぎゅう、と地面を固める。足の調子は悪くない。体調は万全とまでは言えないが、それでも幾分かマシ。常に万全の体調でレースに出られるウマ娘が、一体この世にどれほどいるのだろうか。
多少の浮き沈みは在って当たり前。そのうえで、沈みを取り戻せるほどのレースをすればいいだけだ。
最後のウマ娘がゲートインを終えると――間もなく、ゲートが開かれる。
「――――ッ!」
出る。スタートダッシュは悪くない。最初は抑えめに走る。後方集団に位置し、他のウマ娘の走りを見る。
バ場が少し荒いか。あまり後ろにいたのでは、地面が悪くて走りにくい。中団やや後方で、ウマ娘達を追走する。前方には十名近いウマ娘達。そのどれもが、重賞に名を刻む名バ達だ。
怪物と呼ばれているウマ娘もいる。だが、そのすべてに見境はなく、私の前に屍と化してもらう。
第三コーナーを過ぎる。やや展開が速いが――位置取りが良い。大外。このまま全員を素通りするには――丁度良い。
「……!」
スパートを掛ける。がちり、と自分の中でギアを入れる感覚。
血が燃えるように熱い。全身を駆け抜ける情動が、私の体を巡っている。この感覚だ。本気で走る――その時の感覚。
この位置からならば、順当に体力も持つ。一人、二人、三人とウマ娘を追い抜いていく。
マイネルラヴと並ぶ。彼女こそ、怪物と称されていた私の同期ウマ娘。だが、その称号は貴方には相応しくない。怪物の名を冠するのは、一人で良いのだ。つまりそれは――グラスワンダーの手中に収まるのだ。
「な――!」
彼女の声が、背後から聞こえた。
並ばない。追い抜く。レースに絶対はないけれど――この勝負にだけは、自信がある。
私が勝つ。
『やっぱり強いグラスワンダー!! これが新しい栗毛の怪物ッ!! 2.5バ身の差をつけ、一着でゴ――――ル!!!』
〇
思っていたよりもGⅠは普段と変わらなかった。別に見下しているわけではないけれど、レースはレースだ。重賞だからとか、オープンだからとか、そういったことで差があるわけではない。緊張も普段と変わらないし、ウマ娘達の気迫もそう変わらない。
だが、やはり――GⅠ勝利は嬉しい。
私が観客席を見れば、その場の全員が私の名前を呼んでいる。腕をあげ、声をそろえるように――「グラスワンダー」と。
観客席には彼の姿もあった。一番手前。最もレースに近い位置に――スズカ先輩と共に。
「やりましたよ、トレーナーさん」
彼に近づくと、まるで自分のことのように喜んでいる。スズカ先輩も同様のようで、笑顔が溢れている。
「凄いなぁ、グラス――」
「四戦四勝。ジュニア級最優秀賞も有り得るわね」
「だよねっ! 僕は前からグラスは凄いと思っていたんだよ!」
「ちょ、ちょっとトレーナーさん……!」
そんなに大きな声で叫ばれてしまっては恥ずかしい。彼を止めるようにすると、スズカ先輩が笑いながらこっちを見ている。
「グラスはどこまでも行けるよ!」
「――ええ。あなたと共になら、どこまでも」
言葉と同時に、大きなアナウンスが轟いた。
『レコードタイム! レコードタイムです! 1分33秒6ッ!! マルゼンスキー以来のレコードタイムです!』
「……」
「れ、レコード!?」
「確かに速い展開だとは思っていたけど――まさか」
曰く――仮にウマ娘がレコードタイムを出せば、必ず一着なのだそうで。当然と言えば当然だけれど、私は改めてその意味を理解した。
勝った時、確かに僅かだけ――いつもより早いな、と思ったのだ。だが、まさかレコードタイムとは。
「だから言ったでしょ、グラスは凄いって」
「でもさっき、驚いておられましたよね?」
〇
恙なく朝日杯を制した私は、しばらく休むこととなった。勿論トレーニングは続けているけれど、レース直前のような厳しいものではない。
むしろ、二月にレースを控えたスズカ先輩をメインに据えた練習が増えていた。彼が担当しているのは私だけではない――当然と言えば当然なのだが、もやもやするのもまたしかり。
そして、もやもやするのは純粋に彼がスズカ先輩につきっきりになっているからだけではなかった。
速いのだ。
スズカ先輩は一日ごとに異常な成長を続けている。これまでの抑える走りはもうしなくなった。最初から最後まで、常に先頭を走り続けるだけ。
そして、それが可能なトレーニングを積んでいた。基礎となる体力の向上だけではなく、足の回転速度を更に高めたり、フォームをより洗練させたり。
あの頃ならば難なく勝てただろう。けれど、今の彼女とやれば――わからない。でも、勝つしかない。
かえって燃えるという感情もあった。相手が強ければこそ、こちらもやる気が出るというものだ。
けれどもやもやの原因は――きっと、彼がスズカ先輩につきっきりになっていること。そして、それが理由だと気付いてしまったことにあった。
私と彼は、あくまでも上下関係にある。トレーナーとウマ娘。それ以上でもそれ以下でもないのだ。だから、彼がトレーナーとして他のウマ娘と関わろうと、私にそれを指図する権利はない。だというのに、彼がスズカ先輩と話しているのを見ると――どうしても、もやっとする。
それがどこか、不可思議な違和感を生んでいる。
後に違和感がカタチとなり――スズカ先輩は、二月のオープン戦で二着に4バ身差の圧勝を飾った。
〇
「――骨折ですね。右足の骨が折れてます」
「……えっと」
三月にあったトレセンの健康診断に――私は引っかかった。すぐさまトレーナーさんも呼び出され、二人で近場の特定機能病院に赴いたところ、骨折が発見されてしまった。
「――また、走れるんですよね?」
「……まあ、リハビリが上手く行けば走れるようになるでしょう。走るウマ娘は怪我と暮らしているようなものですからね――むしろ、怪我をしないウマ娘の方が少ない。早期に発見出来たのは運が良かったですね。少なくとも、もう走れないなんてことはないでしょう」
「……ほっ」
安堵のため息が出た。不幸中の幸い――というものだろうか。骨折は確かにショックだけれど、事実として受け止めることが出来た。
……まあ、それも私以上に取り乱しているトレーナーさんがずっと目に入っていたからだろう。思わず私が注意してしまい、立場がひっくり返ってしまった。
「良かった……本当に良かった」
「なんでトレーナーさんの方がほっとしていらっしゃるんですか?」
「だって……いいだろ別に。グラスは、もう僕の体の一部みたいなものだし」
「……」
「怪我に気付けたのが早めで良かった。もっと遅れていたら、取り返しがつかなかったかもしれないんだ」
――確かに。
健康診断で堂々と怪我が見つからない限り、私は走っていただろう。来月には出走も控えていたし、多少の怪我であればそのままレースに出ていたはずだ。こうして学園側から取り次いで頂けたのは僥倖だった。
それにしても――彼の慌てふためきっぷりと言ったら無かった。思い出してもにやけてしまいそうなほどだった。
「じゃあ、とりあえずまずは骨をくっつけるところから頑張ろうか」
「はい。私はまだ、ウマ娘の頂点には辿り着けていません。悔しいですが……再スタートを切りましょう」
〇
それからしばらくは病院生活となった。トレセンに行けなくなったのは寂しいけれど――毎日のように彼が会いに来てくれる。それだけで充分だった。
きっと今頃、エルは暇そうにしているか寂しそうにしているんだろうな、と思えば週末には果物を持って遊びに来た。だから多分、寂しいのだろうなと思った。
たまにスズカ先輩もやってきた。「怪我には気をつけないといけないわね」等と仰っていた。確かにスズカ先輩は怪我らしい怪我もなく、走り続けていた。既に三連勝中――波に乗っていると言っても、過言ではないだろう。
ほかにもセイウンスカイやキングヘイローも遊びに来た。心配なんてしていないぞ、という顔ではあったけれど、時折「教室が静かだ」と零していた。私がムードメーカーというわけではないのだけれど――そう思ってくれるのならば、有難い。
今日も彼がやってきて、スズカ先輩が金鯱賞をレコード勝ちしたと言っていた。重賞四連勝目――加えて、レコード勝ちはこれで二連続らしい。とんでもないウマ娘だ、と我が事のように嬉しがっていた。
「――――私は?」
「……え?」
咄嗟に、つい言葉が漏れてしまった。そんなことを言うつもりではなかったのに。
彼はパイプ椅子をぎし、と軋ませた。私の言葉に驚いたのだろう。困らせてしまったかもしれない。
「あ――いえ。なんでもないんです」
「いや、うん……」
怪我の治療は順調だった。骨折から二か月となっていないが、それでも経過は良好。九月になればまた走れるであろうことは、わかっていた。
「いや、良くないな。うんじゃないだろう」
自分に言い聞かせるように言うと、彼は不意に私の手を取った。毛布から出していたからだろう――ぎゅ、と彼に握られる。
「また走れるようになって、勝とう。スズカに負けないようにさ」
「……そうですね」
そういう意図があったわけではないのだろう。けれど、その言葉は、まるで。
――私がスズカ先輩に劣っている、ように聞こえる。
実際そうなのかもしれない。怪我もなく、重賞を連勝し続けている彼女と私。どちらが強いウマ娘かどうかは、考えるまでもない。そんなのはわかっていた。この世界は――勝って、勝ち続けなくては意味がない。
かなりナーバスになっているのは事実だろう。良くない妄想ばかりが掻き立てられる。
少し前まではメディアに名前も載っていた。けれど、今ではサイレンススズカ一色だ。私が足を痛め、病院で寝ている間に――彼女はどんどんと強くなっていった。
実際に、朝日杯の頃の私が勝負しても、勝てるかわからない。少なくとも格上、それ以上の相手なのだ。
「スズカ先輩とトレーニング、頑張ってくださいね」
酷い言い方だな、と思った。多分、私の表情も酷かったのだろう――彼は悲しそうな表情で、口を開く。
「そんなこと言うな」
「……」
「僕はね、グラスが良いんだ。これ、スズカには言わないでね――――もし二人のうちどちらかしか選べないのなら、僕はグラスを選ぶ」
「怪我をしている、私を?」
「うん」
「それは、何故?」
「何故って……やっぱりあの時、運命だと思ったからだよ。君と初めて出会って理解して、それから桜並木でもう一度会って、確信した。君だ、って」
「……」
「具体的な理由なんてないよ。それに、好きであることに理由なんているのかな」
〇
それはまだ、四月の初めの話。良い野点の場所がないだろうか、と――トレセンに越して来たばかりの私は、よく周辺を歩いていた。寮生になると聞いたので、他の者より早めに越しておいたのである。地形を把握し、土地に馴染むため――と言えば聞こえは良いけれど、ようは良い甘味処を探すためである。
その日もやはり私は外に出かけ、適当にぶらぶらと歩いては道中を楽しんでいた。しばらくすると見慣れない道に入り込んでしまったが、心配はなかった。スマートフォン。現代機器は便利なもので、容易く現在位置とトレセンを結んでくれる。
とはいえ、私はしばらく迷子を堪能することにした。優雅な遊びだな、と時折思う。わざと知らない道に入り込み、適当に歩き回る。すると、普段とは見えなかった角度から世界が見えるようになるのだ。
「……」
知らない人とすれ違う。こんな狭い路地裏にも、人は通っているのだ。けれどやはり、大通りとは打って変わってひと気は少なく、しんと静まった世界の中で私は土瀝青を踏みしめる。
ここはさっき通ったような気がする。じゃあ、別の道を歩こう。
適当な考えで、その場その場で方向転換をする。すると、先ほどすれ違った知らない人と、再びすれ違った。
「……」
「……」
互いに、見合わせるようにして横を素通り。多分、あの人も気付いていたのだろう。さっきすれ違ったのに、またすれ違うだなんて変だな、と思っているのかもしれない。そう考えると、自然と歩幅が広くなった。
なんだか気恥ずかしいものがある。散歩といっても、同じところをぐるぐると回っているのは不自然だろう。とはいえ、それが迷子の醍醐味であるため、ゆっくりと空間を開拓していくほかないのだが。
そのまましばらく適当に歩いていると――再び、私は先ほどすれ違った男性に会った。
「……」
三度目の邂逅。やはり、互いに「またお前か」という顔で見合ってしまった。
「――――あの」
先に口を開いたのは私だった。
「失礼ですが、もしかして……道に迷っておられますか?」
我ながら流暢な言葉が出たな、と思った。
彼は図星であるかのように、ややオーバーなリアクションをとった。どうやら本当に迷っているらしい。
「いやその、まさしくその通りで。先日越してきたばかりなんだけど、道に慣れなくって」
「……携帯を使えば、現在位置はわかりますよ」
無論、そのようなことは承知しているのだろう――けれど、なんとなく、私はそんなことを言っていた。
「いやほら、それはズルだから」
「……ズル?」
「うん。だって、折角知らない街で迷ったんだから――自力で抜け出せないと損でしょ?」
「……」
損。なのだろうか。よく理解出来ない言葉ではあったが――もしかして、と脳裏にとある言葉が浮かび上がった。
雅。もしくは、もののあはれ。日本人特有の価値観は世界的に見ても不思議な方だと聞く。だとすれば、こうして迷子になったことさえ楽しめるのだろうか。
いや、私も同じようなことを楽しんでいたので、批判は出来ないのだけれど。
「それに、これは縁だと思って。携帯使わなくて良かった」
「……縁、とは?」
「こんな知らない人を気にかけて話しかけてくれる――そんな素敵な人に出会えたっていう、縁」
「……随分と恥ずかしいことを仰るのですね」
「は、恥ずかしい!? そうかな……至って普通だと思うんだけど」
もし、彼のような人だけで世界が構築されているならば、もっと良かったのだろうに。
「……良ければ案内しますよ。この街に来たのは最近なのでしょう?」
「うん、昨日」
「私は三日前からいますから――少しだけ、先輩ということになってしまいますね?」
「……あはは、確かにそうだね。じゃあこちらこそ良ければ――案内してくれると、嬉しいな」
それが彼とのファーストコンタクトであった。
歩きながら話すと、どうやら彼がトレセンの関係者であることがわかり――私も、トレセンに入学したウマ娘であることを明かすと「是非スカウトさせてほしい」と言っていた。これも縁なのだろうか。そう思って、私は「また巡り合えば」とだけ言って、その日は別れた。
〇
「……」
「……」
「暑い、ですね……」
「そりゃあ、七月だからね……」
夏合宿。トレセンの恒例行事である。
秋川理事長のプライベートビーチを丸々貸し切り、ひと夏の合宿場兼特訓場として使える。砂浜を用いたトレーニングは平地の数倍と言われる――ダートの練習にもなるし、効率的だ。多くのウマ娘達は文字通り、一皮剥けるためにこぞってこの夏合宿を利用するのだ。
当然、私たちも合宿場に来ていた。スズカ先輩は長袖のジャージを折り曲げ(非常に珍しい光景である)、手で傘を作って日光を遮っている。
確かに直射日光がきつい。特に、高温多湿とされる日本の夏は――私にはやや苦しい。彼女達は毎年のようにこの気温に耐えていたというのだから、凄い。
合宿場に荷物を置くと、私たちは外に出た。既に短パンにシャツ一枚という、かなりラフな格好に着替えたトレーナーさんが出迎える。
「……随分と能天気な恰好なんですね」
「いいでしょ、これが動きやすさと通気性を兼ねているのだよ」
「浮かれているということで良いのでしょうか」
「ぐ、グラスさんっ」
「どうかしましたか、スズカ先輩」
「さっき、他のトレーナーさんと『格好良い服を買ってきた』と話してましたから、褒めてあげないと!」
「なんで知ってるんだよ……」
「それ、本人の前で言ったら意味がないのではないでしょうか……」
「……確かに。でも、新しい服を買った人は褒めるべし、と先日読んだ雑誌に書いてあったわ」
……この人もたいがい能天気な人だな、と思った。
「……それで、今日は何をするんですか?」
「うん、丁度グラスのリハビリも終わったからね。二人とも、メニューは異なるけど少しずつギアを上げていくつもり。なので今日からしばらくは、この暑さと砂浜とかに慣れてもらうようにする」
「負荷は少なめ、ということですね」
「そう。特にグラスはちゃんと見てるからね。もし僕に隠れてメニューを変えるようだったら……」
「わ、わかっていますからっ。トレーナーさんに従います!」
わざわざ口に出して言うことでもないだろう。恥ずかしいことを直接言わなくとも。
「リハビリ、大変だったでしょう?」
「いえいえ、トレーナーさんも付き添ってくださいましたし、すっかり痛みも引きました。流石に半年前のように――とはいきませんが、この合宿中にあの時……いえ、それ以上に仕上げてみせます」
「目標を言葉にするのは良いことだ。ちなみに、スズカは何か目標とか決めてきた?」
「え? そうですね……」
少し悩むように、逡巡。彼女はふわふわとした性格をしているから――目標は定めていないのだろうか。全く、天性の天才肌というほかないだろう。
「あの景色を、もっと長く見られるようになりたいです」
「……」
あの景色。
スズカ先輩がよく使う言葉だった。おそらく、ゾーンのようなものなのだろう。
ゾーン。スポーツ選手等が感じると言われる、いわばエンドルフィンの大量分泌。それが行われることをゾーンに入る、等と称することもある。
エンドルフィンとは脳内物質の一つであり、その効能は痛みを快感に変化させること――である。
極限状態で足を動かしていれば、やがて呼吸器や様々な筋肉が悲鳴を上げる。当然、痛みも生じるだろう。だが、脳がエンドルフィンを分泌してしまえば――その酸欠の息苦しさや筋肉の鈍痛は、全て快感に変わる。それ故に、もっと走れるようになるのだ。むしろ、もっと走っていたくなる。痛みが快感に変化し、走れば走るほど多幸感が全身を目まぐるしく動き回る。
エンドルフィンの快楽は大麻の数倍以上にもなる。神経が鋭敏になり、時間感覚が狂って遅く感じる。彼女が先頭に立ち、走っている時の空間認識が煌めいているのも、これが原因だろう。音が聞こえなくなり、自分と開けた道だけを感じるというのもまた、集中過敏状態であることに起因する。
無論、私にも経験はある。おそらく、ほとんどすべてのウマ娘に経験があるはずだ。
前を行くウマ娘を追い越し、一着で走り抜けた時。あの瞬間、私たちには言葉に出来ない体感時間の引き延ばしのような感覚がある。ようは、時間が遅く感じるのだ。肌を撫でる風さえも生温い水のようで、速く走っているはずなのに空気抵抗で遅く感じる。
けれど、心地良い。それがゾーン。
「ふわっとしてるね。ま……いいけど。スズカは主に持久力を鍛えたいから、白筋のトレーニングをしようか」
「……白筋?」
二人して、首を傾げる。
「お、まずは座学からやる?」
「……ざ、座学はちょっと苦手で」
「私は構いませんよ~?」
「ぐ、グラスさん……後で整理して、教えてくれると助かるわ……」
「ちゃんと聞けばわかりますよ。ね、トレーナーさん」
「そこまで露骨に引かれると解説する気が失せてしまうんだけど――まあいいや。折角の機会だし、筋肉について解説しよう」
〇
三人で一旦宿舎に戻ると、適当な会議室を一部屋借りた。中には大勢で組まれているチームなどもあるので、小さな会議室を選んだ。大部屋は残しておいた方が良いだろう。
「じゃ、説明ついでに今回の合宿の目標も話しておくよ」
黒板の前に置かれたホワイトボードの前に、彼が立った。スズカ先輩を見れば、どこかモチベーションの低そうな表情で彼を見ている。
勉強、苦手なんですね……。
「筋肉ってのはざっくり言うと二種類に分別できる。これは僕とグラス、スズカでも変わらない。ホモ・サピエンスに共通する筋肉だね」
「それが、先ほどの白筋ですか?」
「そう。白筋と赤筋。かなり雑に言えば、白筋はスピードと瞬発力が出る筋肉。赤筋はスタミナの出る筋肉だね」
「それってもしかして、お魚さんとかの刺身で見る……」
「うん、そうだね。その認識であってる」
スズカ先輩の言葉に、頷く。
「マグロとかって赤身でしょ? あれは、マグロがずっと泳いでないと死んじゃう性質に由来していて、常に筋肉を動かし続けているから赤筋が発達してるの。だから刺身のマグロは、赤い」
「でしたら、ヒラメや……サバなんかは白筋ということですか?」
「大正解。あいつらは普段のほほんと泳いでいるけど、獲物を見つければしゅばっ! と動いて捕食する。これは白筋の性質である、スピードと瞬発性のある動きに由来する」
「なるほど」
「人間にはこの筋肉は両方備わっている。専ら、無酸素運動で得られるのが白筋で、有酸素運動で得られるのが赤筋だと思えば問題ない」
話はわかった。筋肉には性質があるということ。そして、それは瞬発力と持久力を担っているのだということ。
しかし、それでは疑問が残る。
「先ほどトレーナーさんはスズカ先輩の持久力で――白筋を挙げましたよね。あれは一体どういうことなのでしょうか」
「良い質問だね、グラス。かなりクリティカルな問いだ。たんぽぽ食べる?」
「た、食べませんからっ!」
「答えは簡単。そもそもスズカに長距離走は難しいからだ」
「……」
ふむ、と考えるように俯くスズカ先輩。
確かに――少し考えれば、彼女の脚質が長距離に向かないことは容易に想像できる。
幾らトップスピードを出し続けられたとしても、その過程で体力を温存出来たとしても、それでも着実に体力は減っていくのだ。
むしろ、スズカ先輩のスタミナは一般的なウマ娘と比べれば圧倒的に少ない方だろう。私と長距離走をすれば、かならず終盤ではバテている。
おそらく、彼女がレースで見せる超前傾姿勢――あれに頼っているからこそ、長くゆっくり走る筋肉が足りていないのだ。
加速しながら2000メートルを走破出来る体力はある。2200までならどうにかなるだろう。だが、2400や2500――特にトップウマ娘の祭典、有馬記念では2500メートルを走らされるのだ。
彼女の人気と実力があるならば、今年度の有馬記念には必ず出走できるだろう。だが、実際に走り切れるかを考えれば――難しい。
「でしたら、赤筋を鍛えるべきなのではないでしょうか?」
「確かにね。スタミナを鍛えるんならそうすべきだ。でも、そうするとスズカはどうなると思う?」
「……えっと」
悩むように、言葉を振られた彼女が口を開いた。
「勝てるようになるかもしれません。でも――」
「……」
「――常に先頭では、ないかもしれません」
「うん。言ってはなんだけど、凡な走りになるだろうね。スズカの特性である加速を捨てることになるわけだから」
「……なるほど」
ようやく合点がいった。つまり、私たち一般的なウマ娘と同じように持久力を鍛えるのでは意味がないのだ。
言ってしまえばスズカ先輩の走りは個性的だ。彼女にしか出来ない走り方をする。その個性を潰すようなトレーニングをしてしまっては意味がないのだ。
「具体的に何をするかというと、足の回転速度を上げられるようにする」
「回転速度――ですか?」
「うん。平均的――と言うとアレか。まあ、優れたウマ娘は一秒間で八歩近く進めるらしい。ざっと人間の二~三倍だね。これを増やせるようにしよう」
「もしかしてトレーナーさん。スプリンターのような走り方をする――ということですか?」
「まさしくそう」
純粋に考えて、一秒間の歩数が増えれば増えるだけ速度が出ているということになる。だが、全てのウマ娘が常に最高速度で走るわけではない。序盤から中盤にかけては周囲を探るように駆け、最終直線でスパートをかける。その時には体力も使っているから、単純な最高速度は出ない。
だが、それはあくまでも中距離から長距離での話。短距離を走る者――つまり、スプリンターならば話は別だ。
1200メートルほどであれば、抑える必要はあまりない。常に最高時速で走っておけば勝てる。そういう世界なのだ。
だからこそ、私の脚質にはあわないというわけか。単純な実力だけではなく、ゲームメイキングで勝利している私にとっては天敵のような存在だ。
「話を戻そう。スズカには白筋を鍛えるトレーニングを行う。あと、秘密の必殺技も教えちゃう」
「……必殺技?」
「うん。残念ながらグラスにはあんまり使えないけど……いや、使ってもいいけどさ」
「貴方の担当バは、私でしたよね? トレーナーさん」
「別に差別してるわけじゃないからね! わかったわかった! あとで二人に教えるよ!」
思わずむっとしてしまった。まるで、私がのけ者のようではないか。
というより――スズカ先輩の方を、手塩にかけて育てているようではないか。
元々の担当ウマ娘は私だというのに。
――と、そこまで考えて思考が止まった。もやもやする。この感情はなんだろう。
気付かない方が良い気がする。言語化しない方が良いような気がする。
「……」
「グラス……?」
「な、なんでもありません。トレーニングを始めましょうか」
「うん、そうだね。じゃあ、実際に行うスケジュールについて――――」
〇
夏の練習は恙なく進んでいった。
私はリハビリ明けということもあって、軽いトレーニングから始まったけれど――改めて、ブランクを感じさせられる。
今までのように走れない。スパートをかけても、体が今までより遅い。風を切っていた感覚が、風に流れそうになる感覚へと変化している。
それだけ、半年の空白は大きかったということだ。つまり、これまでの何倍も頑張って――取り戻さなくてはならないということ。
けれど必死に取り組めば、私の足は答えてくれる。ゆっくりと――月が満ち、そして欠けるように足が戻ってくる。もちろん、それだけではいけない。今までと同じように走れることが目標ではないのだ。今までの足に戻し、そのうえで今まで以上までもっていかなくてはならない。でなくては合宿に来た意味がない。
私の頑張りに、彼が答えてくれたのも大きかった。夏合宿は大体二か月近い。その間、私はほとんど彼と一緒だった。
ほとんど、というのはスズカ先輩を見ていた時間のこと。しかしそれと、就寝時以外は――ほとんど私たちは一緒にいた。スズカ先輩のトレーニングを見ることになったとしても、私も同伴した。
彼は「なんでついてくるの?」と言っていたけれど。全く、鈍感な人なんだからとは、口にできなくて。
そういえば、スズカ先輩は笑顔が増えた気がする。よく笑うようになった――というか、感情が出るようになった。なんでも、最近になって転入してきた――私と同じクラスの――スペシャルウィークちゃんと同室だったらしい。彼女ほど明るい子といれば、自然と感情も出るようになるだろう。
私たちが歩いてくると、スズカ先輩はいつも決まったようにくるくると旋回していた。トレーナーさんは旋回癖と言って揶揄っていたけれど、スズカ先輩の癖だったらしい。レースでも左回りを得意としているから――そういうこともあるのだろう。
スズカ先輩の旋回癖は、大抵悩んでいる時に起こる。だから、トレーナーさんはスズカ先輩の旋回癖を見計らって、助言に向かうのだ。私にかけるように優しく、丁寧に指導を行う。
見ていると、やはりもやもやしてしまう。言語化したくない感情。しまっておけば良かったのに、そのままではいられない。不器用で、賢くない女だからだろう。
そんな日々が続き、私の足もほぼ昔と変わらないくらいまで仕上がってきた日――トレーナーさんは私たち二人を集めた。
「ちょっと模擬レースでもしてみようか」
ふと、思いつきのようにそんなことを言った。
「グラスも随分調子が戻ってきた。この前タイムを計ったら、半年前と変わらなかった」
「それって、離れにあるダートで計ったんですか?」
「そう。だから、ターフならもっと速いはずだ」
「……トレーナーさんのご指導のおかげ、ですよ」
少しだけ、優越感。あの頃より、私は成長しているのだ。怪我なんかに躓いてはいられない。
ウマ娘の頂点――志は、今だ遠く。
「凄いわね、グラスさん」
「スズカ先輩もタイムが更に縮まったとお聞きしました。先輩の研鑽には頭が下がります」
「そんなことないわ。それこそ――トレーナーさんのおかげ、かしら」
二人で彼を見れば、照れているようで、僅かに誇らしいようで。
可愛らしい人だ。
「というわけで模擬レースしてみようと思ってさ」
照れ隠しのように、彼は言う。
「問題ないかな?」
「私は大丈夫です」
「私も問題ありませんよ」
この長い坂道で、最も大きな壁となる者は間違いなく、サイレンススズカなのだ。そんなことはわかっている。わかっているからこそ――いずれ、彼女は倒さなくてはならない。
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。今回は先輩の胸を借りるつもりで――挑もう。
〇
グラウンドは貸し切り。芝、1800メートル。天気は良。やや陽射しがきついけれど、二分程度陽に当たるくらいなんともない。
二人してスタート位置に並ぶ。一周が1800メートルだから、ぐるっと回ってスタート位置がゴール。
先ほどのじゃんけんの結果、私が内枠。といっても、二人しかいないのだから、大した差はない。
オーディエンスはいない。その方が集中しやすいだろうから、こっそり借りといた――とは、彼の談。確かに、練習風景を大勢にみられて気持ち良いはずがない。
ふとスズカ先輩を見れば、準備は出来ているようで。私もスタート位置に立つと、彼女と共にトレーナーさんを見た。
頷いて、私たちの準備が出来たのを見る。それから、適当に手を挙げて――。
「よーし、じゃあ始めるぞ――――」
「……」
「……」
「――よーい、どんっ!」
――――声を同時に、彼女が飛び出した。まるで風が駆け抜けるように、あまりにも早いスタート――いや、クラウチングスタート!?
前しか見ていなかったから気付かなかった。彼女は今、クラウチングスタートで走り出した。いや、それにしても――そんなのアリか!?
クラウチングスタートは、一般的な短距離走で用いられる姿勢でスタートを切ること。地面に手を突いて、利き足を前にかける。そのまま走り出せば、前傾姿勢をキープしたまま速度が出せる。
だが、あくまでもそれは400メートル程度の短距離走で用いる走り方だ。勿論、速度こそ出るが体力を使うし体に負担がかかる。ウマ娘も過去の歴史ではクラウチングスタートを用いていたこともあったようだが――今ではスタンディングスタートが基本となっている。それで体を壊すウマ娘が多かったからだ。
それに加えて――そもそもその体勢ではレースを走り切れないことも多かった。序盤で体力を一気に消費するため、最後まで速度を維持できないのだ。
だが、それもそうか――彼女なら――――いや、彼女だからこそ――。
「くっ――!」
たった一瞬で、一気に引き離されてしまった。目視で1バ身。つまり、約2.5メートル。まだスタートしたばかりだというのに――とんでもない差だ。
みるみるうちに彼女が小さくなっていく。そもそも、クラウチングとはしゃがむという意味なのだ。そのままロケットのように発射された彼女は――今までのような超前傾姿勢のまま、加速していく。
「――――」
これがサイレンススズカの本領。スタートで加速して、差し続ける。どこまでも加速し続ける。そんな異常なウマ娘に、一体誰が追い付けるというのか。
「――――っ!」
泣き言を言うな。勝つのだ。たとえ模擬レースと言えど、負けるのは許されない。勝ちたい。非公式の、お遊びのようなものだったとしても――勝利をもぎ取りたい。
必死に食らいつく。普段の数倍のペースで彼女を追いかける。本来ならばバテてしまうだろうが――関係ない。1800ならいける。この夏で、体力面も大幅に成長しているのだ。
気付けば第三コーナー。左回り。彼女が手慣れたように、やや減速しながらカーブを曲がる。
「くっ――!」
速度を出しすぎた。曲がり切れないことはないが、それでも大外にまで体が持っていかれた。
遠心力。外側に向かって働く力。上手く相殺しきれなかった。
むしろ、彼女があれほどの速度を出していながらカーブを曲がれるのが異常なのだ。普通、あれほどの速度で走っていればカーブは上手く曲がり切れない。事実、普段以上の速度を出した私が曲がり切れなかった。
大きくうねるように、大外に出る。それでも、まだ彼女の姿が見える。
第三コーナーを曲がった直線は短い。ここで彼女はもう一度減速をするはずだ。そこを狙って、自分の曲がり切れる限界速度で突っ込む。それしか勝ち目はない。
目視で2バ身。つまり5メートル。かなり離れたな。大外を走っているのも要因だろうが――それを差し置いても、ゆっくり引き離されて行く感覚がある。
だが、必ず差し切ってみせる。
来る第四コーナー。やはり、彼女の歩幅が不規則になり、減速した。ここを狙って突っ込むしかない!
速度を上げる。先ほどはやりすぎたのだ。彼女を狙って焦るあまり、速度を出しすぎた。それは最終直線のために残しておくべき足だった。
だからこそ、ここで丁寧に足を残して――直線で差す!
彼女の背中を見る。栗毛が風に揺られて、蠢いている。
――その瞬間、理解し難いものを見た。
「――――――――う、お」
声に出せなかった。理解が及ばなかった。全く意味がわからなかった。
第四コーナーを曲がる際――サイレンススズカは加速したのだ。
何故。そこで。加速出来るんだ。
私は減速した。当然だ。そうしないと遠心力に体を持っていかれるからだ。だが、彼女の姿勢を見て理解した。ようやく異常性を把握出来た。
体が内枠に向かって倒れている。地面と触れ合いそうなほどに体を倒し、重心を保っているのだ。
つまり、いわゆるドリフト。バイクやカーレースでみられるような、あのテクニック。あろうことか――人体でやっているのだ。
そもそもドリフトは車輪のついた車両が、急カーブに際し即座にスピードを出せるように生み出されたテクニックだ。人間がやるのとでは意味合いが違う。車輪の回転数を下げないままカーブを曲がるテクニックがドリフトであるのに対し――スズカ先輩のものは、重心を内側に倒すことで遠心力と釣り合うようにしている。アンダーステアを打ち消している。
そんなことが可能なのか? いや、だが事実として――彼女は私の目前でそれをやってのけた。当然、ほとんど減速はない。そのまま最終直線。ずっと全力で走り続けているのだろう――だというのに、彼女は最後にもう一度加速する。
異常だ。理解出来ない。
私が第四コーナーを回り、最終直線に差し掛かったところで、彼女はゴールしていた。必死に追いかけたけれど、意味はなかった。
負けた。そう理解するのは、速かった。
「……嘘だろ」
トレーナーさんの声が聞こえる。
「1800メートルのレコードタイムだ……1分40秒フラット――――先日、スズカが塗り替えたばっかなのに……!」
遅れて私がゴールに辿り着いた時、かちりと音が聞こえて、再び声がした。
「――――1分43秒フラット。またレコードタイムだぞ……!」
3秒差。3秒差か――……大きいな。大きすぎる。縮められない。
私は膝に手を突いて、俯く。気付けば、遠くまで走っていた彼女が戻ってくる。
「あのドリフト……教えてないよね?」
「ええ。でも、出来そうだなって思って――」
「――……」
バカげている。バカげているぞ。
あの行動を、練習もなく模擬レースで閃いたというのか? いや、思いついたとしても――普通やるか?
危険すぎる。毎回のようにやっていれば膝や踝が壊れてしまうだろう。だというのに、彼女はけろっとした表情でレコードタイムを喜んでいる。
それに何より――私はまだ、まともに呼吸さえも整っていないのだ。何故彼女はもう、彼と会話出来ているのだろう。そこもまた、彼女の異常性を如実に語っている。
異形だ。怪物だ。化け物だ。
手に負えない。
これが――サイレンススズカか。異次元の逃亡者。
私が、超えなくてはならない壁。
〇
喧噪を裂くように、私は通りを歩いていた。見れば、出店が私を迎えるように両脇に広がっており、それを囲うように多くの者が楽しそうにはしゃいでいる。
見れば、見知ったウマ娘の顔も散見された。多少声を掛け合うことはあるが、そこまで。
今日はお祭りの日らしい。合宿に来ていたウマ娘達の休息日である。毎日のようにトレーニングをこなすのは良いが――やりすぎは体に毒だ。だから、このようにたまには道楽に耽り、体を休めなくてはならない。
勿論、この日もトレーニングに明け暮れる子もいるが、それはレースを直前に控えた者に限る。少なくとも、私にはしばらくレースが決まっていないのだ。ゆっくりするのも必要だと思った。
「あ、林檎飴」
ふと、隣を歩く彼がそんなことを言った。
「グラスは林檎飴と人参飴、どっち食べる?」
「どちらかと言われれば人参飴でしょうけれど……って、どこに行くんですかっ」
「買ってくるの。これまでいっぱい頑張ってくれたしね、お礼も兼ねてね」
人混みに紛れる彼を、止めることは出来なかった。全く、お金なら持っているのに。それに、彼に言われなくともどのみち買うつもりだったのだ。
彼なりの気遣いと考えれば、嬉しくもなるけれど。
「……」
不意に、熱が失せていく感覚。熱気にまみれた人混みで、一人ぽつねんと薄れていくイメージ。
ああ――それもそうだ。引きずるはずだ。
あの日、私は本調子と言っても過言ではなかった。幾らトレセンのウマ娘と言えど、日によって調子は変わる。昨晩の睡眠時間や、精神状態、朝食など――要因は様々で、刻一刻と変化する。浮き沈みがあるのは当たり前。その中でも、比較的調子が良かったのだ。
実際調子は良かった。1800メートルのレコードタイム。これまでのものを1秒半塗り替えた。非公式だから決して誇れるものではないけれど――少なくとも、骨折する前の私を上回っていた。
だというのに、負けたのだ。在り得ない、と思う。あんな異常な生き物が、のほほんと歩いていることが信じられない。今日はスペシャルウィーク――スぺちゃんと出かけると言っていたけれど、それでも彼女のことを理解出来ない。
天才。才能。そう言ってしまえば楽になる。だからこそ、とても口には出来ないのだ。
私には真似できないフォーム。私には真似できないスピード。私には真似できない……異常性。
「……」
どん、と何かがぶつかる。
「あっ、すいません!」
思わず飛びのくと、再び誰かの体にぶつかってしまったらしい。
「す、すいませんっ」
「邪魔だよ!」
「なんだと!」
「お前には言ってないだろ!」
「じゃあ誰に言ったんだよ!」
「俺もわかんねぇけど誰かにぶつかったもんだから!」
「怒りの矛先が曖昧なまま怒るなよ」
「よしわかった。お前に怒るわ」
「おっやべぇ。いうんじゃなかった。じゃあ、夏祭りらしく、そこの型抜きでケリつけようぜ」
「いいだろうやってやろうじゃねぇかよ!」
「――す、すいませんでした~っ!」
何度も謝りながら、その場から逃げるように駆けだした。ぽつんと突っ立っていたのだから、邪魔になって当然だ。道は狭いわけではないけれど、これだけの人数が集まれば歩くだけでも一苦労だ。
「……はあ」
ある程度駆けて――俯く。周囲に人はいない。気付けば、通りから外れて――雑木林の中に突っ込んでいたらしい。前も見ずに走っているからこうなるのだ。
でも、ある意味丁度良かった。喧噪から離れ、一人でいられる。今の私は誰にも見られていない。
ウマ娘の頂点。手を伸ばしても、届くかわからない。それは、最早そんなレベルではないのだ。彼女の異常性は天性のモノ。私にはそれがない。同世代の中で速かろうと――ジュニア級で最優秀賞をとろうとも――関係ない。サイレンススズカがいるからだ。
「あーあ……」
俯く理由は、それだけではない。理由は間違いなく、他にもあった。
もうとっくにわかっていた。言語化しない感情。既に言葉に出来ていた。あえて思考から遠ざけていたのだ。
もしかしたらそれは、凄く前――初めて出会った時から、そうだったのかもしれない。いや、違うかもしれない。合宿に来てからかもしれない。リハビリに付き合ってくれた頃かもしれない。詳しいところはわからない。
けれど今の私にはわかる。わからざるを得ない。
「――――ちょっとグラス、どこ行ってたんだよ。見つけるの苦労したよ」
「――と、トレーナーさん。なんで……私がここにいるって……」
振り返れば、そこには両手に林檎飴と人参飴を持った彼がいた。よくここに私がいるとわかったものだ。疑問は当然だった。
「そりゃわかるよ」
「……」
「――何故なら僕達は、目に見えなくても『縁』で繋がっているからね」
――――嗚呼、私はこの人のことが好きなんだ。
どこまでも能天気で明るくて、けれど博識で造詣が深く、そして何より――私のことを見てくれる、彼のことが好きなんだ。
だから、そんな適当な理由を吐く彼を見てもときめいてしまう。彼の額に滲んだ汗は、熱気だけではないだろう。きっと、私を探して駆けまわってくれたのだ。
こんな、どうでもいい理由であの場を離れた私を、探して。
「――見た目から入る恋なんて――――」
「……え、何?」
「……なんでもありませんよ。それより、随分恥ずかしい言葉を仰るんですね」
「そうかなぁ、至って普通だと思うんだけど……」
彼の顔を見ると、心がほっとする。さざ波が立っていた心が、凪になる。穏やかで、平坦で――落ち着いた感覚。
「そうだ、人参飴あげる。頑張ったで賞だよ」
「ありがとうございます」
受け取って、早速齧る。
甘い。飴特有の苦みを含んだ甘味。それに加えて、人参のしゃきっとした触感。
不思議な味がする。きっとこれは――恋の味なのだろう。
彼も林檎飴に齧りついている。ぱきぱき、と食感が伝わってくる。
「意外と美味しいな、これ。久しぶりだ」
「ねえ、トレーナーさん。もしよかったら――一口、戴けませんか? 林檎飴」
「ん、いいよ。じゃあ、グラスの人参飴も貰っていい?」
「どうぞ」
互いに交換する。それから、彼は人参飴に歯を立てる。逆三角のカタチをしているから――必然、私が食べた跡を食べるカタチになる。
それを見てから、私は林檎飴に歯を立てた。勿論、彼の食べた跡を選んで。
「……甘い、ですね」
「人参飴も中々いけるね」
「ええ……この林檎、とても――甘いから」
きっとこれは――初恋の味。
林檎がどんな味をしているかなんてもうわかってはいないのだけれど――私は、彼に林檎飴を返した。
ああ、全く、鈍感な人。可愛くて、私だけの人。
「……」
私だけの人。そうしたい。でもそのためには――大きな障害がある。
サイレンススズカ。彼女だ。
彼女にだけは渡したくない。彼は私のものだ。私が彼が欲しいのだ。
独占して、私だけのものにしたい。
「ねえ。トレーナーさん」
「ん、何? そろそろ花火も始まるけど――」
「私、毎日王冠に出たいです」
「……」
彼が黙ると同時に――遠くで、どぉおん、と音がした。
日本の花火は初めてだった。アメリカでも何度か花火で遊んだことはあったけれど、ここまで綺麗ではなかった。
アメリカの花火は、強いて言えば火薬遊びのようなものだ。それに対し、これは――木々の隙間を抜けて、空に打ちあがった模様は――芸術に近い。
だから花火というのか。まるで一輪の花のように、天蓋の下に咲き誇っている。
振動が胸に痛い。全身を震わすほどの爆音が、私を叩く。
音速は約秒速300メートル毎秒。だからきっと、私と花火はかなり離れているのだろう。だとしても、ここからは光り輝く花束が見えている。
「……毎日王冠、誰が出るのかわかってる?」
「スズカ先輩です」
「……」
「……」
ただ、花火の音だけが木霊す。耳がおかしいのか――驚くほど静かに感じられる。
「本当は嫌だったんだけど」
「……」
「でも、内心ではグラスならそう言うだろうと思ってたんだよね」
「……」
「だから……いいよ。出よう、毎日王冠」
「……」
「スズカに、勝とう」
「はい。私が勝ちます」
勝つ。勝つのだ。
勝って――貴方のウマ娘は、このグラスワンダーだということを理解させてやる。誰にも渡すつもりはない。同じチームの一員である、スズカ先輩にだけは。
「――見た目から入る恋なんて、夏風邪の次に性質が悪い……」
どぉおん、と音が鳴る。
〇
10月11日。毎日王冠。東京競バ場。
天気は……悪くない。復帰戦にしてはコンディションも上々。少しトレーニングの疲れが残っている気がするけど、それくらいの方が走れる。
完全にフラットな状態では上手く走れない。よくあることだ。実際のレース前に軽く走って、体に「今から動くよ」と伝えるのは大切なことだ。
芝1800メートル。あの時と同じだ。
「……」
夏合宿の時――惨敗した時と同じ。あの時と同じように走ることは出来ないだろう。私とスズカ先輩以外にもウマ娘はいるのだ。とはいえ、その人数は九人しかいない。サイレンスズカが出るからと、出走を取り消したのだ。
つまり、ここに立っているのはあのサイレンススズカと戦うつもりでやってきた猛者達。見渡せば――エルコンドルパサーもターフに立っている。
「グラス」
「……エル。どうかしましたか?」
「良い勝負にしましょうね」
「ええ。でもそれは――」
「――ええ」
それ以上は言わなかった。続く言葉はわかっていたからだ。
――スズカ先輩との勝負になるだろう。エルとの戦いという意味もあるが、それだけでは済まない。冷静に考えて、エルと争うことになるかはわからない。
だが、彼女を見ずして毎日王冠を制すことは出来ないだろう。間違いなく、一番の障壁となるのは彼女なのだ。普段から争っている私たちではあったけれど、それは言葉にするまでもなくわかっていた。
不意に首を動かせば――サイレンススズカの顔が目に入る。普段と変わりはない。緊張しているというわけでもないだろう。15戦目。充分に慣れてくる頃合いだ。対して私はまだ5戦目――メイクデビュー戦が遅れたということもあったが、場数の差がハンデとなる。
いや、元より彼女に場数など関係ないか。後方集団に位置し、レースを作っていく私にとっては場数は重要な要素となるが――彼女には関係ない。ただ、先頭を走っているだけで良いのだ。それ以外に作戦などない。
一度、深呼吸。
夏合宿が終わってからもトレーニングは続けていた。今までよりも負荷が大きいものを行っていた。間違いなく、今までで一番強い私――と言っても過言ではないだろう。
「……」
さあ、どうなるか。答えは、レースが始まればすぐにわかるだろう。
全員がゲートに入ると、横並びに全員が見える。私はそれほど身長が高い方ではないけれど、少し顔を逸らせば皆の顔が見える。
――いや、見えない。一人いない。二枠二番。
――サイレンススズカだ。間違いない。しゃがんでいるのだ。クラウチングスタート。
……本番でもやるのか。
気付いているのは私しかいないだろう。誰も横を見て、きちんと立っているかなんて確認しないから。
まずい。咄嗟に理解した。これを理解しているのが――私しかいないというのは、まずい。そう理解した。
けれど無慈悲にゲートが開く。
「――――っ!」
瞬間、爆音。地面が弾けるように、私たちの目前にターフが爆ぜた。
全員、驚いたようにして一瞬動きが止まる。理解が出来ないように、唖然とする。
サイレンススズカが速すぎるのだ。距離感覚が狂っている。さっきまで隣にいたはずなのに――もう、あんなにも小さく見える。それだけ距離が離れているように見える。
だが根本的には違う。スタートダッシュと共に前傾姿勢になっているから、小さく丸まって見えるだけだ。まだ距離はそこまで離れていない。けれど、彼女のクラウチングスタートを把握出来ていないから、一瞬で距離が開いたように見えている。私だって、夏合宿がなければ理解出来なかった。
「……!」
僅かな逡巡の後、全員が走り出す。まずいな。そう直感出来た。
ゲームにならない。展開を操作するのがゲームメイキングであるが――あくまでも、私が干渉出来るのは自分の周辺の集団だけだ。
先頭を走り、無限に加速し続ける彼女に干渉する術はないのだ。
急いで彼女を追うしかない。差しなどと考えている場合ではなかった。先行――いや、逃げるような速度で彼女に干渉しなくてはならない。
それが出来るのは私しかいないのだ。彼女を止めることが出来るのは、私だけだ。
追いかける。僅かに前傾姿勢――スパートの体勢。
「――!」
エルがそれに気付く。同様に、少しずつ速度を上げてくる。私の意図を理解したのだろう。
これは共闘だ。毎日王冠は自分の走りをすれば勝てる生半可な勝負ではなくなった。GⅡだからといっても、このレースにおいて言えばGⅠを凌ぐ激烈な死闘となるだろう。
私の後を追うように、エルが追い込んでくる。スズカ先輩との距離は、目測で二バ身。すぐさま私より加速力に優れるエルが追い付いて、私を追い越した。
まだレースは始まったばかりだ。第一コーナーを曲がってすぐだというのに――既に熾烈なデッドヒートが始まっている。
気付けば、後続のウマ娘も私たちの行動を理解しているようだった。普段のペースでは考えられない速度で駆け抜けてくる。
止めなくてはならない。サイレンススズカを、どうしても。
しかし彼女は悠々とターフを駆ける。既に五番手まで落ちていた私は、少しだけ減速したタイミングで前を見た。
まだ加速している。走れば走るほど速くなる異常性。そんなものは知っている。けれど、知っているからといって――その純粋なスピードについていけるわけではない。
重要なのは単純であることだ。誰よりも早ければ、誰かに追いつかれることなく勝利出来る。
ゲームメイキングのような戦略に頼っているからこそ、純粋なチカラを持つ者に対抗するのは難しい。
だが私はやってやる。やらなくてはならないのだ。
彼を――決して貴方に渡しはしない。
続く第二コーナー。あの時見せたドリフト――もはや地面に触れそうなほどに内に向かって体を倒し、遠心力を打ち消す。アンダーステアを相殺。前方を行くエルがぎょっとしたのが見て取れる。それもそのはずだ。
スズカ先輩はかなり小さく見える。体を横に倒して走るだなんて、並みのウマ娘では決して真似できない。純粋な速度と、体を保ち続けられる体幹が不可欠なのだ。
だが考えてみれば当然――彼女はこれまで、体幹を必要とする走り方を続けてきた。
超前傾姿勢。上手く重心を制御できなければ、顔面から地面に突っ込んでしまうだろう。
だというのに、彼女はそれをコントロール出来ているのだ。それに加えて超傾斜姿勢。できるかできないかで言えば、できるらしい。少なくとも、私の目前を歩む――彼女はできているのだから。
第二コーナーを超えて更に加速。カーブでの減速はほとんどない。対し、エルはかなり速度を落とした。上手く曲がり切れはしたが、それでも距離が開く。
「……っ!」
ならば。
私が食らいつくしかない。
第二コーナーで私もそうする。すなわち超傾斜姿勢。彼女ほどまで体勢を倒すことは出来ないから、やはり減速は生じるが――そんなのは関係ない。
出来ることはなんでもする。そのくらいでなければ、私はスズカ先輩にはかなわない。それを分かっていた。
「ぐ――――ぁ!」
膝と踝が弾けそうになる。遠心力で吹き飛びそうだ。これに――彼女は耐えているのか。
だが、彼女にできるのならば私にもできるはずだ。でなくては、嘘だ。
耐えきる。第二コーナーを突っ切る。速度をほとんど落とすことなく、再び足に速度を乗せる。
彼女に続く。直線はそう長くない。ここでどれだけ彼女に近づけるかが勝負となる。
――今やるか。いや、まだか。いや――――。
〇
「――世界で一番早く走る動物は、ウマ娘じゃない。地上最速のネコ科――すなわちチーターだ。彼らは時速120キロで走れるらしい――つまり、ウマ娘の大体二倍くらいだね」
「それは、知ってますけど……一体、それがどうかしたんですか?」
「ウマ娘とチーターには決定的に違うところがある。さあ、どこだと思う?」
「……骨格、ですか?」
「はーい大正解。偉いよ~グラスちゃん」
「……」
「あいつらは四足歩行だけど、ウマ娘は二足歩行。でもさ、これって、不思議だと思わない?」
「不思議……と言いますと?」
「人間の体っていうのは、かなり不思議なカタチをしていてね。そもそも走ることには適していないんだ。だというのに、ウマ娘は自然界でもかなりの速度で走ることが出来る――これって不思議でしょ?」
「そう考えたことはありませんでしたけど、言われてみると確かに不思議ですね」
そもそも人間が二足歩行になったのは、両手をフリーにして器用にするためだ(諸説アリ)。道具を作り、火を用い、文明を得る対価として俊敏性を失ったのだ。
しなやかな体躯に流麗な筋肉。最早人間から失われて久しいそれらは、文明と反比例して衰えていった。
対し、ウマ娘はどうか。ホモ・サピエンス。すなわち霊長類であるにも関わらず、俊敏性を保持している。
異常なことだ。そもそも、何故二本足で80キロ近い速度が出るのかさえわからない。激しく筋肉が発達しているというわけでもない。骨格が適しているというわけでもない。だというのに、彼女達が走れば何故か人類の数倍、すなわち地上でも類稀な膂力でターフを駆け抜ける。
大まかな骨格自体はウマ娘とそれ以外で大差はないのだ。勿論、筋肉量等は人間の数倍はあるのだけれど。
「だから――呼吸を止めるの。息を止めて走る」
「……あの、無酸素運動ってそういうことではありませんよね?」
有酸素運動と無酸素運動。よく言われる言葉だが、勘違いされがちな言葉でもある。
有酸素運動と無酸素運動は、別に呼吸をするかどうかではない。呼吸によって得られるエネルギーを運動中に消費出来るかどうか、という違いだ。
有酸素運動は文字通り、長距離レースなどで使われる運動となる。酸素によって生まれたエネルギーを用いる運動。対し、無酸素運動は短期間に一気にエネルギーを消費するため、酸素によって得られたエネルギーを消費する前に活動が終わる。だから無酸素運動と言うのだ。
「それは勿論知ってる。そのうえで、ちょっとやってみようか」
その場にあった、ホワイトボードを軽く持ち上げてみる。その間、わざとらしく彼は息を止めた。
「……ふぅ。チカラを出す瞬間、あんまり呼吸はしない。トレーニングでは呼吸をするように心がけているけれども」
「パワーが出せる、ということですか?」
「出し続けられる、ということ。歯をぐっと噛んで、チカラを入れる。並外れたスポーツ選手は、よく奥歯が削れているらしい。力む際にぎゅっと噛み合わせるからだ。つまり、呼吸を止めて歯をかみしめる。地面を蹴る力が強くなるし、呼吸を止めることで心拍数が下がり、歩幅のリズムを急激に変えても問題ない。これをキープする」
「……なるほど」
「勿論デメリットの方が大きい。一分近く呼吸を止められたとしても――実際のレース中では酸素が足りていないから、止められて10秒か5秒。加えて一度止めた呼吸を始めると、もう前の速度には戻れない」
「だから――必殺技」
「そう。レースのラスト100メートルを走るときになら使えるかもね。でもグラスはそういう走りをしないから、あんまり意味がないって話」
〇
――――今か。
第三コーナーを控えて大ケヤキの裏側。ここで一気に加速する。
「――――っ!?」
スズカ先輩が驚いたのがわかった。吃驚して、肩が動いたのが目に見えた。
思いっきり地面を蹴る。足の回転数を高める。一般的な人間は一秒で三歩から四歩進む。ウマ娘は速い者で八歩。おそらくスズカ先輩がこれ。
だが私は一秒で十回地面を蹴る。その音は爆音という他ないだろう。自分の耳にさえ、その音は大きく感じられる。彼女にとっては更に大きく感じられるだろう。
例えるならばプレートコンパクター。地面を均す工業用機械。それに似た音で走るウマ娘が、背後から追ってきているのだ。自らさえも踏みつぶし、地面に均されてしまうかもしれない。
――強烈な音の攻撃。加えて加速。これで彼女に追いつくほかない。
「――――っ」
呼吸が苦しい。第四コーナーに差し掛かり、頭が酸っぱくなってくる。酸欠だ。今すぐ酸素を取り込みたい。
だが、泣き言は言っていられない。一度呼吸を始めれば、意図して乱した歩幅が戻らなくなる。このまま突っ切るしかない!
『ここでグラスワンダーあがってきた――――ッ!! サイレンススズカに詰めよってきたのはグラスワンダー!!』
追いあがる。追い詰める。もう逃がさない。絶対に離してやらない。
彼女が姿勢を斜めに倒す。私も同様に、体を倒す。
――膝と踝が痛む。激しく痛い。気がする。痛みがどこか遠い。酸欠だからなのだろう。痛覚が鈍っている。
なら問題ない。まだ走れる。コーナーを突っ切る。残りは最終直線。少しテンポが速かったから、もう体力など残っていない。
――それがどうした。まだ体は動く。視界の狭窄。知ったことか。足が回っている。彼女から離れていない。まだいける。まだやれる。
『さあ三強の真っ向勝負!!!』
私。エルコンドルパサー。そしてサイレンススズカ。
エルは後方で今にも加速しそうだ。サイレンススズカは前方で更に逃げている。私から逃げようとしているのだ。当然だ。重機が押し潰さんと向かっているようなものなのだ。
勝つのは私だ。絶対に勝つ。
思考がぼやける。意識が薄れていく。どんどん頭が酸っぱくなっていく。
「――――――――」
後方からエルが駆けて来る。追い越される。理解する。それでも良い。私はスズカに追いつくのだ。
走る、走る。足はまだ動いている。なら追いつける。走り続けなくては。
何人かのウマ娘に追い抜かれる。それで良い。スズカ先輩に勝てればそれでいいのだ。
呼吸が浅い。ああ、そうか。いつの間にか息をしていた。気付かなかった。だからだろうか。
次第に引き離されていく。
――音の速度は約300メートル毎秒を超えるらしい。これを時速に直せば、その速度は約1000000メートル毎時。改めて言語化する必要もないが、つまりとんでもない速さだということ。
人間の電気信号の伝達速度は、120メートル毎秒らしい。これがどういうことかと言えば、大脳が指を動かせ、と命令を出して実際に指先に刺激が届くまでには、それだけのラグがあるということだ。仮に人間の腕が120メートルあったとすれば、実際に考えてから動かすに至るまで、一秒もの誤差が生じてしまう。
人間の思いは音速にすら打ち勝てない。この世界の最高速度は光速。音速はそれの300分の1。我々の感情が追い付かないほど超スピードの世界では、そもそも生命など戦いの土俵にすら立てない。戦おうなどと考えるだけで無駄で――音速を超えたいのであれば、とっとと戦闘機にでも乗った方が手軽だ。
――であれば。元より、音速に挑もうとする方がバカげているのだ。
だというのに――私の目前の女は挑もうとしている。ただでさえとんでもない速度を出して走っているというのに――更に加速し、小さくなる。在り得ない光景だった。空気抵抗さえかき分け、音さえも置き去りにしてしまいそうなほどに――ただただ、速い。
ウマ娘の最高速度は90キロメートル毎時にも満たない。音速の約200分の1。敵うはずもない。考えればわかることだ。私にだってわかる。諦めが悪く、決して賢い女ではない。だというのに、目前を走る少女は更に飛ばしている。音と戦おうというのか。
どんどん離れていく感覚。私と彼女の隙間が広がっていく。手を伸ばしても、もう届かない。届くことはない。
私たちの隙間を縫うように、誰かが颯爽と潜り込む。後ろ姿でわかった。長い黒髪。エルコンドルパサーだった。
あろうことか――彼女もまた、音に挑戦しようとしている。何もかもを置き去りにする、暴力的な速度に立ち向かおうとしている。
足が重い。上手く回らない。まるで水の中をかき分けるように、生温く不自然な違和感で満たされている。末端部が少しずつ冷えていくように、思考が明瞭になっていく。熱に浮かされて、火照った考えが少しずつ浮かび上がってくる。
まともじゃない。狂気の沙汰だ。彼女はエルコンドルパサーを背後にして――更に加速する。エルでさえも追いつけない。一体どこまで走るのか。爆発的な膂力がターフを蹴り飛ばし、風を薙いでいる。
嗚呼――私では追いつけない。理解してしまった。体が認めてしまった。今の私では、何度挑もうとも彼女の見ている景色を独占することは出来ない。それは明らかだった。
離されていく。少しずつ、だけどその差は明確に。エルだけが追いすがるも、僅かに届くことはない。
――まるで流星――。
『グランプリウマ娘の貫禄――ッ!! サイレンススズカが一着でゴ――ルインッ!!! どこまで行っても逃げてやる――――――――』
〇
「ぁ――は、ぁっ……っ、ぁ……」
呼吸が上手く出来ない。音がぼやけて聞こえる。瞳は開いているようだけれど、上手く景色が見えない。
――青い何かが見える。多分、空。背中には冷たく湿った何かが当たっている。大の字に寝ているようだった。
嗚呼、負けたのか。ようやく、身に染みて理解出来た。そうか、そうだったのか。出来れば知らずにいられたら――。
「……はぁ――――ぁ、っぁ……は――」
ようやく、耳の感覚が戻ってくる。きーん、と甲高い音で何も聞こえなかったのだ。
歓声だった。サイレンススズカへのコール。当たり前だ。彼女が勝ったのだから。
――勝負にさえ、なっていなかったのではないか。いや、そうだ。勝負にならなかった。
彼女はただ、走っていただけだ。誰かに合わせてリズムを変えたり、ゲームを作るなんてことを考えてはいない。先頭を気持ち良く走っていただけだ。体力を考えて走る速度を落とすことも、後続を見て抑えることもない。
ただただ圧倒的に、一人で孤独に走っていただけだ。
だからこそ、勝負にならない。話にもならない。異常な怪物。それがサイレンススズカだ。
彼女は誰とも競わない。争わない。走るだけだ。
呼吸がゆっくり戻ってくる。不規則な呼吸を行ったから、普段よりずっと乱れている。
体が動かない。指一本だ。まぶたを僅かに動かすので精一杯。
しばらくすると上半身を起こせるようになった。腕が震えているから、上手く立てない。そのまま芝の上に座って、体調が戻るのを待つ。
感覚が戻ってくる。肌を伝う汗が、乾いて飛ぶ。冷たい。ひんやりとした風が体を撫ぜている。
――――負けたんだ、私。
「……」
視界が滲んでいるのはそれが原因だった。
〇
彼の血は、鉄の味がする。少しだけ甘くて、しょっぱい。変な味だ。美味しいはずもないのに、どこか舌がびりびりと震えている。
「ぐ、グラス、もう――」
「いいから」
ぺろぺろと舐め続ける。舌先で傷跡を直接つつくと、びくんと震えて彼の動きが伝わってくる。
――誰にも渡したくない。彼を私だけのものにしたい。私だけのものでなくてはならないのだ。
だというのに。
「……ぅ」
負けた。アッサリ負けた。惨敗だった。惜しくもなかった。
私らしくないレース展開。全てスズカ先輩に引っ張られるように、無理矢理動いて、勝手に自滅した。元より、私らしいレースが出来ていたところで、彼女には勝てなかったのだろうけれど。
止まったはずの涙が、また滲んでいた。
「ありがとう。でももう、痛くないから」
「……」
そう言って、彼は私から手を離した。途端に、寒くなる。彼の体温が消えてしまう。
私は――賢くない女だから。すぐに貴方の温度なんて忘れてしまうのに。
涙ぐんだ顔をあげれば――彼が、両腕を開いている。
「グラス」
「……っ」
彼に抱き着く。スーツが頬に擦れる。痛みなど感じない。
暖かい。彼の温度がある。匂いもする。心地良い空間。私だけの場所。
誰にも譲るつもりはなかったのに。
「……ぐ、ぅ……」
涙が止まらない。何をどう言い換えたところで、私は負けたのだ。彼女と戦って、破れた。それ以上でもそれ以下でもない。
彼に堂々と勝ちますと宣言し――なんという有様か。しかも五着。接戦ですらなかった。勝負にすらならなかったのだ。
どれほど彼女を化け物と形容しようと、それは変わらない。どれほどの異形であり、天才であろうとも――負けたのだ。
「ここは……寒いね」
「いいえ」
「……」
「暖かいです……」
「……」
「……」
「戻ろう。帰って……休もう」
ぎゅう、と私を抱く腕が強くなる。言っていることと逆だ。だというのに――それが、嬉しい。
彼に見ていてほしい。彼に抱かれていたい。けれど私は、もう。
サイレンススズカには勝てない。
〇
そんなサイレンススズカが秋の天皇賞で怪我をした。私も東京競バ場で彼女のレースを見ていた。放心状態ではあったが、彼女の怪我を見てはっとした。吃驚した。そんなことがあるのか、と思った。
大ケヤキの向こう側。何が起きたのか、わかったのはスズカ先輩だけだろう。
いつにもまして大きく見えたスズカ先輩。それもそのはず――彼女は前傾姿勢ではなく、体を立てて走っていた。あの頃と同じように。それでは空気抵抗を受けてしまう。おかしいと思った瞬間には、彼女はウマ娘に追い抜かれた。
すぐさま故障が把握された。それと同時に、近くで彼女を見ていたウマ娘が、スズカ先輩に向かって走り出した。
スペシャルウィークだった。スズカ先輩のルームメイト――らしい。彼女はスズカ先輩の故障を理解した途端、受け止めに走った。あのまま走らせていれば、スズカ先輩は死んでいたかもしれない。けれど、そんなスズカ先輩に正面から向かって受け止めるなんて――それもまた、正気ではなかった。
とにかくスズカ先輩は病院に送られた。騒然とする東京競バ場を覚えている。誰もが勝つと思っていたのだ。私もそうだと思った。
だから、急に沸いた二つの感情に、我ながら驚いた。
翌日、彼女の病室に向かった。本当はその日に行きたかったけれど、意識も戻らないし夜も遅いとトレーナーさんに言われて諦めたのだ。
彼女の病室の前に立つと――中から話声。誰かがいるのだろう。トレーナーさんだろうか。
「……」
なんとなく、聞き耳を立てた。
「――――慕っていますよ」
「……えっと……それって本当に?」
「ええ、本当です。そう、はぐらかさなくてもいいんですよ。私はずっと、そう思っていましたから」
「……別にはぐらかしたわけじゃ」
「気付かないでいる、つもりなのでしょう?」
「……」
黙るトレーナーさん。慕っている――とは、どういうことなのか。
端的に考えれば、彼女がトレーナーさんを慕っているということ。つまり、好いているということ。
「いや、その……」
「……」
「考えさせてくれ」
「ええ。けれど、急がないといけませんよ」
「……なんで?」
「聞かれちゃってますから」
「――――!」
足音でバレたのか。私は咄嗟に、その部屋を逃げ出した。彼女に合わせる顔がなかった。それに――二人が何の会話をしていたのか、理解出来なかったからだ。
スズカ先輩は、トレーナーさんのことが好きなのだろうか。そして今、それを告げたのだろうか。
もしそうだとしたら?
「……」
わからない。どうなってしまうんだろう。
彼は優しいから、スズカ先輩が告白すれば、交際を始めてしまうかもしれない。トレーナーとウマ娘の恋愛なんてよくある話ではないか。
それに、もう、彼女は走れないのだ。あのような怪我をして、元のように走れるはずもない。
だからか。彼に憑りつこうと考えたのか。
病院を出ると、すぐに道路に出た。ウマ娘専用の道路。制限速度は40キロ。そのギリギリで、私は駆け出した。
行く当てはなかった。あの場所ではない、どこかに行きたかっただけだ。
彼はスズカ先輩に盗られてしまうのだろうか。そうなのかもしれない。きっとそうだ。呆気なくスズカ先輩に負けた私なんて、必要ないのだ。もし仮に走れなくなっても、スズカ先輩の方が優れたウマ娘だ。トレーナーとしても箔が付く。
――そうだ。私はあの時、スズカ先輩の怪我を見て思ったのだ。
「ああ――もう、私はスズカ先輩には勝てないんだ」
そう思った。物理的に不可能になってしまった。だって、あの大怪我だ。元のように走れることはない。そもそも、体に負担のある走り方だったのだ。あのような無理な走りをして、無事で済むはずがない。体に考えられないほどの負担がかかっていたはずだ。
それがたまたま、天皇賞で限界になっただけだ。
もう私はスズカ先輩に勝つことは出来ない。彼女がもし、もう一度走れるようになったとしても――毎日王冠のような走りは出来ない。遅くなったスズカ先輩を倒しても意味はない。
だからもう、一生、スズカ先輩に勝つことは出来ないのだ。
それと、もう一つ思ったことがある。
「ああ――これで、彼は私だけを見てくれる」
だってもう、サイレンススズカは死んだのだ。彼の担当ウマ娘は私だけになるだろう。そうすれば、他の女に盗られることを考えなくても良い。
だというのに。あの女は。
私から彼を奪おうというのか。
「……」
許せない。あの時負けた自分が許せない。少しでも負けるのは仕方なかった等と考えた、弱い自分が許せない。
彼は譲れない。あの人だけは――絶対に。
〇
サイレンススズカのリハビリが始まったのは、数か月後のことだった。
その間に行われた、年末の大レース。私は有マ記念を制した。セイウンスカイやキングヘイローもいたが、相手ではなかった。サイレンススズカのいない有マ記念など、私には大した壁ではなかった。
それからしばらくは休養となった。スズカ先輩の一件で、彼は少し過保護になった。だから、半年ほど休暇を取ることになったのだ。
その間も彼はスズカ先輩の元へ行き続けた。しばらくするとギプスも取れ、歩けるようになった。しかし、それでもリハビリともなると過酷だ。ほとんど半年近く使っていない筋肉を動かすのだ。
彼女は必死にリハビリに耐えた。彼が「スズカはもう一度走れる」と強く言い続けたからだ。それに背中を押されたのだろう。彼は懸命にスズカ先輩のリハビリに付き添った。
尤も、彼にそうするように言ったのは私だった。
「トレーナーさん。お疲れではありませんか?」
「ん? ああ……なんてことはないよ」
嘘だった。目の下にクマ。加えて瞳も虚ろで、指先も上手く動かせていない。明らかにオーバーワークだった。
「そんなに急がなくともよろしいのではないですか?」
「うん……でも、今日中にこれやってスズカのところに行きたいんだよね」
「もう。ちょっと、こっちに来てください」
「……」
私がソファに彼を招くと、慣れたように私の元に歩いてきた。
「ほら、頭を」
「……えっと、いつもやってもらってて悪いな、と思うんだけど。グラスも大変でしょ? 毎日毎日……」
「そんなことはありません。むしろ、私のお膝でトレーナーさんの疲れがとれるなら――願ってもいません」
「……はあ」
ため息を吐くと、彼はソファに腰掛け、そっと寝そべった。私の膝に頭を預けて、膝枕の状態になる。
くしゃり、と彼の頭を撫でる。少し乾きすぎているな。まともにシャワーも浴びられていないのだろう。それもそのはずだ。彼はあの日からずっと――サイレンススズカを壊してしまったことを、非難され続けているのだから。
「……うふ」
周囲からは散々な言われようだった。精神的に追い詰められているのは明白だった。だからこそ彼は、躍起になってスズカ先輩のリハビリに付き添っているのだ。
千年に一度の逸材を壊した男。そう呼ばれているらしい。彼が批難されているのは私にとっても辛いため、最近はあまりニュースを見なくなったけれど。
理事長やトレセンの人間は理解していたため、内部ではそこまで言われることはなかった。けれど、マスメディアは酷かった。水を得た魚のように、ここぞとばかりに彼を叩き始めたのだ。トレーナー寮がトレセンの敷地内にあったのは僥倖だった。もし彼が一人暮らしをしていれば――もっと大変だったのだろう。
少し前に、トレセンに押し掛けたマスコミが彼を捕まえたことがあった。まるで私刑のようだった。あってもいないような嘘ばかりを並べあげ「サイレンススズカを壊したことについてどう思いますか?」と尋ねるのだ。新しい玩具を見つけた子どものように。
彼は逃げるように仕事を始めた。人の目を避けるように病院に行き、私のトレーニングに付き合う日々。少なくとも――のんびりと野点を出来るような状況ではなくなった。
激しいバッシング――だった。見てはいないけれど、ワイドショーでも散々だったのだろう。
ネットで少し検索すれば、彼にまつわる話も容易くヒットしてしまう。名前、生年月日、実家の住所――中学校の頃の卒業文集の顔写真までが拡散されていた。話によれば、マスコミによる実家への突撃もあったらしい。インターネット時代の怖いところだ。今ではかなり落ち着いてきたらしいが、それでも親族がしばらく買い物にさえ行けなかったという。
スズカ先輩の怪我からしばらく、彼はそういう意味で有名人だった。スズカを殺した男。のほほんと生きていられる方が、いっぽど異常だ。仕事に縋って、時間が経つのを待っている。それはむしろ、当然のことのように思えた。
私はそれを可哀想に――と思う裏腹、チャンスだと感じてしまった。
彼は今、弱っているのだ。精神的に弱っている。そして、内心では理解している。サイレンススズカはもう、戻らない。だからこそ必死に一縷の望みに託し、彼女のリハビリに付き合っている。
そこにつけ込むのだ。悪い女。そんなのは、私が一番わかっていた。
「よしよし。トレーナーさんは、よーく頑張っています。私は、よく知っていますからね」
「……グラス……」
「少し休んでください。働きすぎです。まともに眠れていないのでしょう?」
「……」
「クマが酷いですよ。一時間経ったら起こして差し上げますから」
「うん――ありがとう。本当に……ありがとう。グラス」
そう言うと、彼は瞳を閉じた。
――古典的条件づけ。そういう言葉を、最近になって知った。
いわゆるパブロフの犬というものだ。何らかの条件刺激を与えることで、対象に行動の生起を促すことが出来る――らしい。そこまで詳しいわけではない。けれど、上手くいくものだな、と思う。
彼は眠れなくなったらしい。あの時のこと――スズカ先輩が故障した時――トレセンにマスコミが押し掛けた時――激しいバッシングを受けた時――を思い出して、夜は覚醒してしまうのだそうだ。
だから、最初に睡眠薬を用いた。重要なのは、私がそばにいるということ。つまり――彼は私がいなくてはろくに眠れない状態なのだ。普段は目を閉じたところですぐに見開いて、寝返りを繰り返しながら頭の中に様々な言葉が浮かぶのだという。
けれど、私さえいれば眠ることが出来る。悪夢も見ないそうだ。
「――――うふ。本当に可愛い人……」
軽く、頬を撫ぜる。それから、彼の肩に触れて、リズムよく叩く。心拍数と同じリズムは、人を安心させる。胎内にいたころの母親の心音を思い出せるから――らしい。
すぐさま彼の呼吸が深くなる。眠れたらしい。当然と言えば当然だ――彼は一日に数時間も眠れていない。そんなとき、私から眠りへの誘いがあれば――自分が安心できる存在がいれば――安らかに眠ることが出来るのだから。
不意に彼を見下ろす。油断した表情。見れば、瞳には涙がたまっている。それを軽くすくうと――口に含んだ。
汗の成分は血液と同じらしい。けれど、これはしょっぱい。あの時のような、甘くてぞわぞわする味ではない。
「……」
彼の顔を覆うように、髪を下ろす。長い髪が外気を遮断し――私と、彼だけの世界になる。まるでカーテンのように世界を遮る栗毛が、どこか嬉しい。
「嗚呼――本当に」
好き。この人が好き。
自分だけのものにしたい。しなくちゃ。いや、絶対に、する。
もうすっかり眠ってしまったようで、耳を立てれば寝息まで聞こえてくる。全く、安心しきってしまって。
顔を落とす。軽く、彼の額に唇が触れる。
汗ばんだ額。冷や汗だろう。けれど、それさえも私には愛おしい。
頬を撫でる。今の彼は無防備すぎる。私が少し悪戯をしようと思えば――なんだって出来るのというのに。例えば、唇を奪うことも。
やろうと思えば、彼の唇さえも奪えるのだ。けれど、そんなことはしない。あくまでも、最後のお楽しみだ。
これは準備期間だ。彼を本当の意味で、私だけのものにするための。
――大好き。
〇
宝塚記念にスペシャルウィークが出るという話を耳にした。
僥倖だ、と思った。彼女はサイレンススズカの意思を継ぐ者だ。常日頃から彼女を慕い、隙あらばスズカ先輩の話をしていた。ルームメイトということもあるだろう。初めて見たウマ娘はスズカさんだ――とはスぺちゃんの談。
それほど尊敬している者ならば、きっとスズカ先輩に近しいのだろう。ならば倒す。倒さなくてはならない。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく言ったものだ。私は彼女に負けるわけにはいかないのだ。
そしてサイレンススズカの意思を継ぐ者を倒すことで――彼は、スズカ以上の逸材を持っていることになる。
――そう言えば、スズカ先輩のリハビリに何度か付き添ったことがあるが、いつも彼女がいた気がする。それだけ大切に思っているのだろう。
だがそのようなことは、私にはどうでもいい。
倒すべき敵は、倒さなくてはならない。
7月11日。宝塚記念。東京競バ場。私はターフに立っていた。
宝塚記念は有マ記念と同じく、ファンからの投票が多いウマ娘が出られる。私も見事、選ばれることが出来たらしい。勿論、その場にはスぺちゃんもいた。
「……」
天気は悪くない。体調も悪くない。今日のためにトレーニングは欠かさなかった。私の一日は、座学とトレーニング、そして彼と過ごす時間だけにあてられていた。
見上げれば――遠くの客席に、似合わない眼鏡をかけた彼が立っていた。普段と違って、今日は私服だ。今でもマスコミを怯えているらしい。けれど、そんな彼の私服を見られるのは嬉しい。
いいんですよ、貴方はそこに立っているだけで。今に貴方のグラスワンダーがレースを勝ち取り――貴方を最悪のトレーナーから、最高のトレーナーにして差し上げますからね。
どれほどバッシングを受けようとも、最高の結果で塗り替えせばいい。それが出来るのは私だけなのだ。だからこそ――たまらない。
彼の何かを背負っているということが、たまらなく愛おしい。歪んでいると言ってしまえばそれまでの感情。醜く濁った心で、私はターフを見据える。
――スペシャルウィーク。彼女だ。今回の敵は、彼女しかいない。黒鹿毛の少女が、私の前に立つ。
「良い勝負にしようね」
「ええ。こちらこそ」
軽い握手。けれど、心は穏やかではない。彼女はサイレンススズカの意思を継ぐ者だ。
最早彼女の残滓は些細なモノさえ残さない。必ず潰えさせてやる。
同じクラスメイトだからといって手加減を考えるほど、賢い女ではない。全力でぶつかってやる。
スぺちゃんとはよく話すし、良い子だとも思う。良い友達でいられるとも思う。
けれど、レースが掛れば関係ない。必ず倒す。
手を離し、ゲートに入っていく。2200メートル。右回り。
全員のゲートインが終わる。間もなくレースが始まる。
ふと気になって、左右のウマ娘達に目を見やった。全員が見える。十一人。
「――――っ」
もう彼女はいないのだ。改めて――強く理解する。
ならば御せる。このレース。
ゲートが開く。同時に、数名のウマ娘がスタートダッシュを決めた。
私は軽く出遅れる。意図したものだ。スピードを出しすぎない。あの時のように――先頭を行く異常者を追いかけることはないのだ。
早速先頭集団、中団、後方集団へと別れていく。極めてポピュラーなレースの流れだ。私は後方集団に位置付け、潜んだ。
「――!」
ほんの前方を行くスぺちゃんを、追いかけるカタチ。この位置につくのは二つの利点が挙げられるからだ。
まずはスリップストリーム。すなわちスぺちゃんを風よけとして使うことで、私が使う体力を減らす。
もう一つは――このレースで最大の敵となるであろう彼女に――見られない位置につける点。
レース中、ウマ娘が周囲を確認するのは良くあることだ。どこに誰がいるかを把握し続けることは、レース展開を優位に運ぶうえで重要となる。
だが、後方のウマ娘は中々見えにくい。それなりの速度で走っているからというのもあってか、振り返るのは難しいのだ。少なくとも減速は免れないし、無駄に体力を消費する。だからこそ、追い込みや差しと呼ばれる戦法が存在するのだ。
私が警戒しているのはスぺちゃんだ。ならば、彼女にとって見えない位置にさえいられれば――それで良い。
恙なくレースは進行していく。あの時のような焦りはない。当然だ。彼女はスペシャルウィークであって――サイレンススズカではないのだから。
第三コーナーを過ぎたあたりから、スぺちゃんの様子が目に見えておかしくなっていた。といっても、誰にでもわかるものではないだろう。少なくとも普段から彼女と言葉を交わし、先ほども握手した仲であるから――私にはわかった。
焦っているな。理由は分かり切っていた。彼女の視界のどこにも、私がいないからだ。
私が彼女を警戒しているように、彼女もまた私を警戒しているのだ。だからこそ、位置を知りたい。どこを走っているのか理解したい。けれど、それは能わない。
(ここですよ――)
心の中で、一人ぼそっと言葉を吐いた。聞こえているはずもないのに。
けれど彼女の焦燥は聞こえてくるようだった。目に見えない私に怯えているな。
まだ足も残っている。体力も残してある。
「――――っ!」
第四コーナーに差し掛かった瞬間、スぺちゃんは一気に加速した。
「――――これは」
思わず言葉を使った。レース中に声を出す必要などないというのに。体力を浪費しただけだ。
だが、わざわざ言霊として放り投げるしかなかった。少なくとも、感嘆の念を覚えた。
――まるで流星――。
迸る稲妻のように――彼女は加速する。その光景を、私は知っていた。見たことがあった。
嗚呼――私は正しかったのだ。彼女は間違いなく、サイレンススズカを継ぐ者だ。その末脚。走れば走るほど加速するフォームは、姿かたちこそ違えど本質は同じ。
まるで、姉妹のようにさえ思える。血がつながっているのではないだろうか。そう思えるほどに――似通っている。
ならばこそ。打ち倒す敵に劣るは無し。
加速と同時に僅かに離される。けれど、何も問題はない。
あくまでも加速自体は理解の上だ。最終直線にかかれば、皆末脚を使う。私だってそうだ。
す――と彼女の背後から抜け出した。もう充分だ。スリップストリーム。これ以上私の前に――障壁は必要ない。
「!」
驚く彼女の声が聞こえるようだった。当然だ。ずっといないと思っていたら、実は真後ろにいたのだ。驚かないわけがない。
最終直線。どんどんと伸びていくスぺちゃんを追うように――私も加速する。
まさしくシューティング・スターか。けれどそのチカラの本質を――彼女ははき違えている。そのチカラを最もうまく扱えたのはサイレンススズカだった。そのチカラを最もうまく扱わせたのは私のトレーナーさんだった。
彼女はそのどちらでもない。理解出来ていないからだ。
「――!」
今しかない。
心を落ち着かせる。気持ちを高める。高めすぎない。適度に保つ。それこそ精神一到。そして凪の心で挑めば何事も成らざらん――故に精神一到、何事か成らざらん。
駆け抜ける。最早勝負は、ただ二人の足だけが語ってくれる。
瞬く間にスぺちゃんに並ぶ。いや、並ばない。並ぶことはない。そのまま追いついて、追い抜く。
「!?」
すれ違いざま、一瞬だけ彼女の顔が見えた。理解出来た。そうか。悔しいか。
そのようなことは私の知ったことではない。ただ、勝って、彼に勝利を持ち帰ること。それだけが私の全てだ。
一気に駆け抜ける。最早音すら聞こえない。スペシャルウィークを追い越し、そのまま1バ身の差をつけ、そのまま――。
『もう言葉はいらないのかッ!! グラスワンダー躱した!! グラスワンダー躱した!! そのまま一着でゴ――――ル!!!! 強いのは強い!!!』
〇
「見ていましたか? トレーナーさん。勝ちましたよ」
「……グラス……」
彼が駆けて来る。私に飛びつく。縋るように、みっともなく。男性らしくない。大人っぽくない。もっとしゃんとすればいいのに。
でも、それが――どうしようもなく、たまらなく愛おしいのだ。
「もう、控室に戻らないと」
「……ありがとう……」
「……ええ」
「ごめん……」
「……」
「僕のために走らせてしまった。勝ってほしいとはいつも思っていた。けれど、今日の僕は不純だった。負けたらどうしようと思っていた。また――ああなるんじゃないか、と」
「……」
ぎゅ、と彼を抱き返す。ああ、可愛い貴方。愛おしい貴方。そんなになるまで戦って。見えない何かに襲われながら。それでも今日、私のレースを見に来てくれたんですね。
懸命に、立ち上がって。
「私は勝ちますよ。貴方のためになら、勝てます。でも――」
「……」
「貴方のためでなくては、勝てないかもしれません」
「そんなこと、ないよ。グラスはきっと、僕じゃなくても勝っていた」
「卑屈なことを仰らないでください。貴方でなくては、ダメだったんですよ」
「……」
「それに、貴方は私に、色んなモノをくれたではありませんか」
「……」
「走り方。トレーニング。そして、勝利。それだけではありません。もっと多くのモノを――」
偽りのない本心だった。彼に貰ったものを挙げればキリがない。それほど、私は彼に魅せられてきたのだ。
「――ねえ、トレーナーさん。今日の勝利のご褒美、欲しいんですけれど。ねだってもいいですか?」
「勿論だよ。僕に出来ることなら、なんだってするよ。何が食べたい? どこへだって――」
「――いえ、欲しいのはモノじゃないんです」
「……だったら、何が欲しいんだ?」
「貴方が、欲しいんです」
〇
濃い匂いがする。耐えられるかな、とふと思った。そんなはしたない思いを一息で吐き捨てられないのは――私が、歪んで来たからかもしれないな、と思う。
「えっと……じゃあ、入って」
「お邪魔します」
彼が先に部屋に入って、私は彼を追う。
散らかっているわけではなかった。整頓されているというわけでもない。極端に、モノが少ないだけだ。
ほとんど最低限の家具だけが、適当に置かれている。開かれているスペースが多いから、片付いて見える。けれどその実態は――無頓着なのか、はたまた頓着する余裕さえないのか。
「僕の料理――で、良かったんだよね?」
「はい。是非一度、食してみたかったのです」
「それは光栄だね」
「それに――私がいないと、安眠出来ないのでは?」
「本当に泊まる気?」
「外泊届は出してきました。今更戻っても、エルが吃驚するだけですよ」
「……そっか。それと――そんなことないよ、しっかり眠れてるさ」
「ではなぜ、目の下にクマを作っているんですか?」
「……」
「下手な嘘ならば簡単にわかるんですよ。お疲れでしょう」
「ちょっとだけね。でも、グラスが僕の手料理を食べたいって言うんだから、頑張らないと」
可愛い人だ。私にだけ、弱みを見せてくれる。それだけ依存してくれている――ということだ。
勿論、それは裏を返せば私も依存しているということ。彼が私無しでは眠れないように――私もまた、彼がいなくては息苦しい。さながら、陸に放り出された魚だ。
すなわち共依存。歪んだ関係だった。
彼がキッチンに立つと、途端に暇になってしまう。帰り道に幾つか食材を買っては来たが――彼が手を煩わせたくないというので、私は手持無沙汰だ。
「……」
適当に座ったソファ。その向かいに置かれた机。の、上に置かれたリモコン。
特に意識せずに、それを取った。テレビでも付ければこの沈黙も一気に吹き飛ばしてくれるだろう。
「トレーナーさん。この時間って何があって――」
「――――やめろ!!」
「――……っ」
「……あ――……」
気付かない間に、トレーナーさんが私の手からリモコンを奪い取っていた。
騒然とする。顔が真っ青になっていく。血の気が引く、というのはこういうことを言うんだろう、なんて思った。
「ご、ごめん……そんなつもりじゃ――」
ぽとり、とリモコンが彼の手から離れて――フローリングに叩きつけられた。パッケージが外れて、単三電池が二本放り出された。
ころころ、としばらく動いたかと思うと――やがて止まった。部屋が静かになった。
「……」
「ぐ、グラス……違うんだよ、その――――」
声が震えている。怖いのか。それもそうか。そのはずだ。
テレビなんて、見たくもないだろう。申し訳ないのはこちらの方だ。
「……電池」
「……え?」
「抜きたかったんですよ」
上手いことを言ったな、と自分でも思った。驚くほどに冷静だった。私は少し屈んで電池を二本拾い上げると――それを机の上に置いた。
「切れてますからね、電池。どのみちテレビなんてつきませんよ」
「……」
それから、彼に一歩近づく。
「――ぁ、う」
本当に本当に可愛い人だ。私なんかに怯えてしまって。そんな必要ないのに。
貴方を癒して差し上げられるのは、私だけだというのに。
手を伸ばす。咄嗟に彼が跳ねのけようとするが、無駄だ。ウマ娘で良かった、と心から思う。私は彼に邪魔されながらも――彼の顔を、手で覆い隠した。
「ぐら、す――」
くるり、と彼の背中に回る。まるで「だーれだ」というやつみたいだ。けれど、それで良い。それくらいシンプルな方が――良い。
「貴方が見たくないモノは、全部私が隠してあげます」
「っ……」
そっと、耳元で囁く。彼の鼓膜を、丁寧に震えさせる。脳味噌を直接弄るように――音で、遊ぶ。
ぴくり、と彼の体が震える。耳は敏感な場所なのだ。
「貴方が見たくなければ、必ず私が覆い隠してあげます。だから、私だけを見ていてください」
「……」
「貴方の愛バを。貴方のグラスワンダーを。貴方だけの――女を」
視界を奪い、聴覚に訴えかける。
「ね? 良いでしょう? 貴方だけが苦しむ必要なんてないんです。貴方は悪くない。スズカ先輩が――体を上手く扱いきれなかったから、勝手に壊れただけ。それをテレビでは、大袈裟に取り上げているだけなんですよ」
思ってもいないことを言った。スズカ先輩を悪く言うつもりなんてなかったのに。
けれど私の口は――驚くほど流麗に、言葉を繋いでいく。
「けれどそれをわかってくれる人は少ない。理解してくれる人はもっと少ない。貴方を守ってあげられる人は更に少ない。そして――貴方を救ってあげられる人なんて、たった一人しかいませんよ」
「……ぐ、グラス――――」
「――――はい。私です。私だけです。貴方の愛バ。グラスワンダー。たった一人だけなんですよ――」
ふぅ、と吐息を送り込む。わかりやすく、彼は肩を震わせる。
嗚呼――嗚呼――――ぞくぞくする。たまらない。心地良い。
「深呼吸して」
「……ぁ、う――はぁ……すう……」
「良い子ですね。落ち着いてきましたか?」
そっと手を離す。彼に視界を与える。
「う――うん……ありがとう……」
「おひとりで料理をされるのは大変でしょう。私も手伝いますよ」
「で、でも――」
「いいんですよ。貴方のために、なりたいんですから」
彼の前に立つと――どこか虚ろな瞳で、私を見ている。今、この人は私しか見ていない。その事実が、激しく私を高揚させる。
「でも――その前に、少し休憩しましょうか」
「……うん。そうだね。少し……休みたい」
私がソファに座ると、彼は少し離れて横に座った。ぴたりとくっついてくれれば良いのに。彼のふとももに自分の足を当てるように――私は距離を詰めた。
「ぐ、グラス――」
「――もう」
「……」
「いいじゃ、ありませんか――」
「――――」
その言葉は、誰に対してのものだったのか。
覗き込むような視線が、私の瞳を射抜いている。彼の方が身長が高いから、当然と言えば当然。けれどどこか官能的な視線に――私は耐えられなくなった。
目を閉じる。彼に向かって、ゆっくりと手を差し出す。ぴたり、と彼の胸板に当たった。決して筋肉質というわけではない。引き締まっているとも言えない。中肉高背。そんな体躯。
彼の体を伝って――手の位置を押し上げていく。
胸――鎖骨――首――顎――そして、後頭部。彼の髪の毛を突っ切るように、指が差し込まれていく。
軽く、手に力を籠める。私に向かって引っ張る。一瞬だけ抵抗されたけれど、力を弱めないでいれば――すぐさま、その頭は私に従ってくれた。
一瞬だけ、目を開く。ああ、そこか。そこにあったのか。
私のとっておき。最後のお楽しみ。
――――私だけの、唇は。
軽く、唇が触れ合う。柔らかい。しっとりと湿っていて、思っていたよりも冷たい。外気に触れているから当然か。
脳がびりびりしている。粘膜接触。つまり、事実上の性交だ。私は彼の唇を味わおうと――何度も、鳥のように啄む。
「ちゅ――ん、ちゅ――ぁ――」
脳味噌が溶けている。どろどろになっていく。思考が固まらない。不定形だ。
美味しい。たまらなく気持ち良い。
もっと欲しい。もっともっといっぱい欲しい。
私だって我慢してきたのだ。いつでも食べられる果実が目前にありながらずっと我慢していたのだ。
だから少しくらい――良いでしょう?
「ちゅっ――……んちゅ……」
足りない。全然足りない。体が渇望している。貴方が欲しいの。だから、もっと――。
「ん――――ぁ、ふ」
舌を伸ばす。一瞬の抵抗。しかし、何の意味もないとわかったのだろう――ゆっくりと、唇が私を受け入れる。
――熱い。まるで溶岩の中みたい。私の敏感な舌を溶かすように――彼の唾液が、どろりと溢れてくる。
彼の舌と私の舌が触れ合う。ざらざらしている。触感は――悪くない。それどころか、私の敏感なところを幾つもの突起が撫で上げ――気持ち良い。
ばちばちする。脳内の神経伝達物質が暴れ狂っている。味わったことのない快感。これだ。これが欲しかったのだ。
視界が明滅する。呼吸の仕方さえ忘れてしまう。それでも構わない。少しくらい息を止めるのは――慣れているのだ。
更に唾液を求める。彼の遺伝子だ。ずっと欲しかったものだ。唾液、唇――いや、もっとだ。
もっともっと。全部が欲しい。彼が欲しい。
彼の手も、足も、指先も、足先も、髪の毛も、瞳も、お鼻も、まつ毛も、眉毛も、耳朶も、首も、胸も、お腹も、腰も、皮膚も、脂肪も、筋肉も、骨も、声も、血液も、感情も、ため息も、希望も、絶望も、感嘆も、驚愕も、喜怒哀楽も、視線も、未来も、過去も、心も、魂も、何もかもが欲しいのだ。爪の垢までもが私を狂わせる。小さな逡巡一つであろうとも、大きな決断であろうとも。彼を取り巻くありとあらゆるものが――――どうしても、欲しくてたまらない。
好き。大好き。愛してる。どれだけの言葉を尽くしても、貴方への思いが足りることはない。
どんな言葉で伝えても、どれだけの言葉で伝えても、どのように言葉で伝えても、貴方に伝わる思いはほんの少しでしかない。
私だけを見てほしい。ほかの女なんていらないでしょう。私と、グラスワンダーとだけ歩みましょうよ。二人の前に邪魔者は必要ないでしょ。だから、いらないの。二人だけいればいいの。ね?
軽く、彼の胸を押す。すると、呆気なく彼はソファに背中から倒れた。
「はぁ――はぁ――は、ぁ……っ」
息が乱れていた。私も視界も僅かに上下していたから――きっと、二人とも呼吸が出来ていなかったのだろう。
頭がぼうっとする。酸欠の症状にありがちなものだ。けれどどうでもいい。もう止められない。止まるつもりもない。それに、酸欠には慣れている。
「……」
上着を脱ぐ。制服はセーラータイプだから、ボタンはついていない。
がば、と脱ぐと――大して見ても面白くないだろう、私の下着が見えてしまう。
けれど彼は咄嗟に、自分の顔を手で覆った。初心な人だ。もう、男女が二人、熱い接吻を交わしてしまえば――後に残るのが何なのか、わからないはずがないだろうに。
「トレーナーさんも脱いでください」
「ぃ、ぁ、グラス……」
「それとも、着たままするのがお好みなんでしょうか?」
「……だ、ダメだよ、やっぱり」
「……」
「こんなのダメだ。君に悪い。まるで、弱みを見せて引きずりこんだみたいじゃないか」
本当に――本当に、貴方という人は。
変わらないのですね。そんなところも愛おしいですよ。
「違いますよ。私が貴方の弱みに付け込んだんです」
「……」
と言っても、彼は信じてくれないのだろうけれど。きっと、今頃私が嘘をついたと思っているはずだ。本当は、そんなことないのに。貴方の弱みに付け込んで、男女の関係になろうとしている――悪いウマ娘だというのに。
貴方は優しいから、わからないのだ。私を庇おうとしているのだ。
「ね? だから――良いじゃありませんか。傷を舐め合って、どろどろと沈んでしまいましょう? 今日だけは――――それが許されるんですよ」
「な……なんで……」
「祝勝会ですから」
祝勝会。そうだ。私は勝ったのだ。
不意に、唇に唾液が垂れているのに気付いた。最早どちらの唾液かもわからない。
啜る。はしたないと思ったけれど、私の唾液ならばなんの問題もない。彼の唾液ならば、もっと問題はない。じゅる、と音が部屋に響いた。
まるで舌なめずりだ。今から食べる獲物を前にして、コンディションを整えているのだ。
「それとも、私では興奮しませんか?」
「そっ――んな、こと……」
「ですよね。存じておりますよ」
彼に乗った私にはわかった。下着に直接触れている――何か硬い突起。これが彼のモノ。すなわち私の獲物だ。
少しみじろぎをしてやると、彼は苦しそうに呻く。それを見るのが楽しい。まるで、耐えているようではないか。私という刺激に耐えているようではないか。
「ほら――今まで散々な目にあってきましたよね。痛い思いをしたでしょう。苦しい思いをしたでしょう」
「……」
「でも今だけは――それも忘れて」
「……グラス……」
「――気持ち良いことだけ、考えていましょう♡」
そして、彼の首に歯を立てた。
〇
翌日、私は生まれて初めて学校に遅刻した。一限どころか二限にさえ間に合わなかった。経験したことのないことだったから、凄く慌ててしまうのだろうな、と思った。けれど実際には淡々と時計の針が進んでいるだけで、学校に遅刻したからといって、何か天罰のようなものが下るわけではなかった。
今日は学校を休もう。無断欠席だ。どうせ、今から支度をしても間に合わない。行ったところで四限か、良くて三限。それくらいならば行かない方が良い。驚くほど冷静だった。
横では彼が眠っている。ベッドで寝ている彼を見るのは初めてだった。こんな体勢で眠るのか。まるで子供のように体をぎゅっと縮めて、何かに縋るように毛布を抱いている。
表情は穏やかに。安心しきっているように。
「……ああ、可愛い人」
呟いて、彼の頭を撫でた。少しざわついた髪質。私のシャンプーを使えば、もう少し艶も出ると思う。
「……なんてね」
毛布を払ってベッドを出た。乱れた衣装を綺麗に整える。床に散らばったセーラー服を掴むと、少しだけ皺が付いているのがわかった。一晩も放置されていれば当然か。
それから、部屋の窓を開ける。私には、少し匂いがきつい。勿論彼の匂いと思えばなんということはないけれど、定期的な換気は重要だ。
「……」
不意に、何か歪んだアイデアが閃いた。閃いてしまった。
そんなこと思いつくんじゃなかった。けれど、それは私にとってあまりにも――魅力的なアイデアだ。
すぐさま衣装の皺を伸ばすと、部屋を出た。どのみち今日は完全に休むつもりなのだ――ゆっくり、目的地まで歩こう。
年末の街は、どこか冷たく感じられた。
〇
「――お久しぶりです、スズカ先輩」
「ああ、グラスさん。本当に久しぶりね。中々来てくれないものだから、寂しかったわ」
そう言って、スズカ先輩はベッドから身を乗り出した。
もう骨折はとっくに完治していた。今はリハビリを集中的に行っているだけだ。話によれば、今週中にでも退院してしまって、早速トレーニングに移る予定なのだという。勿論、そのためにはトレーナーさんも練りに練った段階的なトレーニングを用意していた。
けれど、もうそんなものは必要ないのだ。
「少し、お話があってきました」
適当なパイプ椅子に腰かける。スズカ先輩は、本当に嬉しそうに笑っている。確かに会うのは久しぶりだった。宝塚記念があったというのもあるけれど、それにしたって少し気まずかったのだ。
――この女は私からトレーナーさんを盗ろうとした女だ。それだけで、気まずい理由には充分すぎるくらいではないか。
「宝塚記念の話かしら。見てたわよ、そこのテレビで――」
そう言って、備え付けられたテレビを指さす。
「――一着おめでとう。自分のことのように、嬉しいの」
「それは……ありがとうございます。恐縮です」
彼女は本当に、本心からそう思っているように微笑む。
だがそんなことを言っていられるのも今のうちだ。内心ではどうか。何を考えているかわかったものではない。
「昨日、スぺちゃんが泣きながら病室に来てね。負けちゃいました~! って。私はどっちが勝っても嬉しかったのだけれど、どっちが負けても悲しかったのよね――」
「――トレーナーさんが」
「……」
「様々な場所から批難を浴びているのは、ご存じですよね」
不意に、二人の視線がテレビに向いた。
「……ええ。私が、無茶な走りをしたから。あの人のせいではないのに」
「勿論私も知っています。けれど、事実がどうあろうとも――マスメディアでは、そうなのです」
「……」
「お話というのは他でもありません。トレーナーさんに――会わないでください」
「……それ、は……」
「彼は今、弱っています。わかるでしょう? 必死に貴方のリハビリを応援しようと尋ねてくるたびに、クマが広がり痩せていく。私よりも、貴方がわかっていたはずです」
「……」
「加えて、もう一度走れるかも――わからない。走れたとしても、異次元の逃亡者になれるかは、わからない」
酷いことを言っている自覚はある。残酷なことを言っている自覚もある。けれど、事実だ。
一度の故障で本調子を失い、今までのように走れなくウマ娘は星の数ほどいるのだ。それがスズカ先輩である可能性も、ある。
「だから、彼には会わないでください。もし衰える貴方を見れば――どうなるかはお分かりですよね。もし貴方に時間をかけて、再起が果たされなければ。中途半端に再起してしまえば。マスメディアが何を行うのか――……低い確率にかけて壊れてしまうくらいなら……」
「……そう」
俯く。何かを反芻するように――私の言葉に、響くように。
「えっと……うん、そ……」
「……」
「――そうなのね。ありがとう、教えてくれて」
震えた声でそう言って、スズカ先輩は笑った。
おかしな女だな、と思った。
〇
――あれから、スズカ先輩が失踪したと聞いたのは、翌週の話だった。
彼がそんなことを考えるはずもないのに。むしろ、彼であればどうにかスズカ先輩が再起するための手段を思いつくだろう。もしなかったとしても、必死に作り出す。そういう人だ。
けれど、思いのほか順調にコトが進んでいた。スズカ先輩の失踪はかなり話題になった。あくまでもトレセン内に限った話ではあったけれど、スクープに慣れていない学園の子には激烈だったようで。
私は同じトレーナーの担当ウマ娘ということもあって、よく質問をされた。シンボリルドルフや、理事長にも質問攻めにされた。けれど、本当のことなど言えるわけがなかった。
「知らない」の一点張り。スズカ先輩が消える際、誰にも告げなかったのが大きかったようだ。少なくともその要因となった私は、原因に挙げられていなかった。
それでもしばらくすると話題も落ち着いてきた。今ではどこにいるのかわからない。トレーナーさんも必死に連絡を取ろうとメールを送っているらしいけど、一月もして辞めてしまった。もう意味がないと教えてあげたからだ。
――だって、スズカ先輩がいなくなる理由なんて、一つしかないから。
走れない自分に意味はない。そういうことを、平気で言ってしまうウマ娘なのだ。
そう気づいてしまえば、こちらから連絡を取ることはなくなった。だってもう、スズカ先輩が折れてしまったということなのだから。幾ら彼がまた走れると言っても、彼女にそのつもりがなければ無意味なのだ。
思い通りに話が進んでいた。不思議な高揚感と――胸に残る、ざわついた感情。
「……」
歩きながら、不意に目を落とした。床に、黒い染みがついている。
一見するとそれは、ガソリン染みのようにも見える。けれど、私はそれに見覚えがあった。
血だ。東京競バ場。その廊下には、一滴の染みが残っている。
もう一年になるのか。改めて実感する。
一年前――私は毎日王冠で負けた。悔しくて、悲しくて。
けれど今日は負けなかった。サイレンススズカのいないレースなど、負けるはずがなかった。
「……」
一瞬だけ立ち止まって、血の染みを見る。彼の血。一年前までは、私のものではなかったけれど。
今では私だけのものだ。
控室に戻ると、彼が待ってくれていた。今日は変な眼鏡もつけていなければ、スーツに身を包んでいる。比較的、血色も良い。スズカ先輩から解放された――そうとも言える。最早スズカ先輩に関する話題で頭を悩ませる必要はないのだ。
そして、私だけを見ていてくれれば良い。
「おめでとう。勝つと信じていたよ」
「トレーナーさんのおかげですよ。私だけの力ではありません」
「いや、そんなことはないよ。っと……ウイニングライブまでもう少しあるな。まあ、ゆっくりしててよ」
そう言うと、彼は部屋から出ていこうとする。
「あ、トレーナーさん」
「え、何? 何か飲みたい?」
「ああいえ、そういうわけではなくて――いえ、まあ、そういうわけかもしれませんが」
彼を制止して、扉の前まで歩く。がちゃり、とカギをかける。
「……グラス……」
「ご褒美が、欲しいです」
「……」
私がそう言えば、彼は逆らえない。彼を支えているのは私なのだ。
もし拒絶し、私が離れてしまえば――彼にはもう、何も残らない。サイレンススズカは消えた。彼の手元に残っているのは、グラスワンダーだけなのだ。
だから彼は、諦めたように私に身を任せた。
身長差は20センチほど。だから、彼の首に手を回すと、自然と体をかがめてくれる。
もう私の体に慣れてしまったみたいだ。それがどうしても嬉しい。
「ん――――ちゅ」
唇と唇を重ねるだけの、簡素なチュウ。勿論、それだけでは足りない。私が甘えるようにゆっくりと舌を出すと、彼も舌を出してくれる。
粘膜と粘膜を絡める。ざらざらした触感。もう彼の味など、覚えてしまったというのに。
体の奥底から渇望している。もっと寄越せ、と。もっと体中の骨の髄まで触れ合って、どろどろに溶かして、混ぜ合わせたいと。
彼に触れるたび、彼に触れられるたび、お腹の奥がじゅくじゅくしている。何かどろどろしたものが生まれている。頭にぱちぱちと電気が流れるように、私のそこが待ちわびている。
――嗚呼、私、恥ずかしいほどに、雌だ。
一年前の私が見たらどう思うだろう。控室で殿方と接吻――顔を真っ赤にして、暴れだしていたかもしれない。
けれど今の私は、そうでもない。恥ずかしいことだとは思うし、もし誰かにバレれば大変なことになるともわかっている。
でも、いや、だからこそ、か。
この爛れた関係が、退廃的な関係が、倒錯的な関係が――。
どうしても、心地良いのだ。
控室に備え付けられたテーブルに、背中から寝転がる。彼の後頭部を持っているから、彼も雪崩れ込むように私にウマ乗りになってしまう。
「ぐ、グラス――流石に……」
「……あはっ♡ 良いじゃありませんか。構いませんよ――」
「……」
「良いんですよ、トレーナーさん。全部私のせいにしちゃって」
「……そんな、こと――」
「全部全部、私のせいなんです。貴方はなーんにも、悪くない。今だって、昂った一匹のウマ娘に無理矢理襲われているだけなんですから――♡」
耳元で囁く。彼をかどわかす。これは免罪符だ。建前だ。やむを得ない事情だ。
私に襲われた。無理矢理はしたない行為をさせられてしまった。そういうことにすれば、人は容易く行動出来る。
「だから――ね?」
「……」
「――来て♡ ずっと我慢してたんですよ♡ もう、待ちきれないんですから♡」
〇
「――ねえ、グラスちゃん」
有マ記念。その日、私は再びスぺちゃんと相見えた。
個人的に気まずかったというのもある――私が、彼女のあこがれであるサイレンススズカを殺したのだ――当然、会話もしづらい。軽く挨拶をしたり、日常会話を行うことはあるけれど、二人っきりでお出かけしたり、時間を共有することは私には難しかった。
けれど、廊下を歩く私の前に、彼女は凛として立ちふさがった。
「ああ――スぺちゃんじゃないですか。今日はお互い、頑張りましょうね」
そう言った。しかし、彼女を纏う並々ならぬオーラが、私の足を止めた。
――何かあるな。まるで、覚悟しているみたいに。そんな表情で、いつにもまして真剣な彼女が、立っている。
「えっと、ターフに出ませんか。そう塞がれていては、通れませんよ」
「通さないつもりなの」
「……それは、何故?」
「聞きたいことがあるから」
普段とは違う声音。僅かに震えている。緊張しているのだろうか。それとも、恐れているのか。
――何を?
「後にしましょう――と言って、引き下がれる話ではないようですね」
諦めて、足を地面に止める。話を聞こうではないか。
どのみち、宝塚記念の時と同じように――この有マ記念の主役は私たち二人なのだ。多少遅れていく分には問題ないだろう。
「それで、話とは?」
「スズカさんのこと」
「――」
いきなり切り込んで来た。彼女は交渉や話術が巧いタイプではない――正面から行くほか、ないのか。
「彼女のことは私も探しました。けれど、見つからなかった。今ではどこにいるのか――」
「――私、会ったんだよ」
「……」
「私もいっぱい探した。スズカ先輩の故郷にも行った。家族の人は知らないって言ってた。けど、必死に探してたら、教えてくれたんだ。実は、遠い町にいるって」
「そう、だったんですね。お変わりないようでしたか?」
「――スズカさんは、変わってた」
ぎゅ、と手を握りしめる。その音が、私の耳にまで届いた。
「もう走るつもりはないって。私が何度も何度もまた走りましょうよって言っても、走らないって」
「……」
「教えてくれた。全部教えてくれた。ねえ、グラスちゃん――――」
「……」
「私、あの時病室にいたんだよ!? グラスちゃんが病室に来て、スズカさんに会う前に帰っちゃったとき!」
「……そ……!」
「あの時なんて言ってたか知らないの!? スズカさんが、トレーナーさんと私たちに何を言ってたか!」
「――阿呆な女だと、笑っていたのでは?」
「そ――んなこと、するわけないじゃん!!!」
慟哭。そう表現するのが正しかった。
「スズカさんはずっとグラスちゃんのことを思ってたんだよ!! 初めて出来た友達だからって!! グラスちゃんがトレーナーさんを見る目は、ウマ娘の目じゃなくって、グラスちゃんっていう女の子の目だったって!!!」
「……」
「友達として応援してあげたいって!! 初めての友達だからって!! 生まれて初めて出来た、仲間だったからって!! なのに――――なのに……!」
「……」
「――なんであんなこと言ったの!? スズカさんを追いやるようなことを言って!!! もう走らないって!! どうしてあんなことが言えたの!?」
叫ぶ、叫ぶ。土瀝青に響いて、跳ねる。
彼女の言葉は、痛いほどに刺さる。
その通り、なのかもしれない。何故あんなことが言えてしまったのだろうか。自分でもわからない。
けれど私の口は、驚くほど流麗に言葉を紡いでいた。
「――彼女を追いやるのが目的だったから、ですよ」
悪い女、だと思う。その言葉が腹に立ったのだろう、スぺちゃんは一歩一歩踏みしめるように私まで歩き――。
――手を、あげた。
「――――このっ……ば……ばかぁあっ!!」
ウマ娘の平手。しかし侮ってはならない。彼女ほどのウマ娘であれば、軽く叩くだけで――。
「――――っ!」
――咄嗟に顔を守って差し出した左腕を、へし折った。
ぱきり、と音がした。間違いなく折れた。そう実感出来た。
骨が肉を突き破って、僅かに肌から露出している。裂けた皮膚を見れば、薄黄色のリンパ液がとろとろと溢れ出ている。同時に出血も始まり、リンパ液と混じってピンク色の液体になった。
「あ――ぅ、ち、違うの――――そんなつもりじゃ……!」
加害者が狼狽えている。対する私は極めて落ち着いていた。自分でも困惑するほどだった。
顔を怪我するわけにはいかないのだ。彼のグラスワンダーなのだから。最早この体は、私だけのものではない。
だから、左腕の骨折で済んで良かったくらいだった。
そう、考えられるくらいには落ち着いていた。
「……」
「こんなつもりじゃ……ぐ、グラスちゃん――――」
たらり、と血が流れる。私の指を伝って、地面に落ちた。
舌を伸ばして、患部を舐める。突き出た骨が引っかかった。けれど、周辺の血を舐めまわして、綺麗にする。
――私の血は鉄の味がする。けれど彼の味とは違う。忘れられるものか。だから、それとこれが違うのは決定的だった。
「大した怪我ではありません」
嘘をついた。大した怪我だ。骨折なのだから。
しかし――折れたのは左手の中指。彼女の位置からでは、突き出た骨まではわからないだろう。それに、人を殴った経験もあまりないはずだ。今の一撃で、私が骨折したことなど――理解できようはずもない。
「もし今日のレースで貴方が勝てば……」
「……っ」
「貴方が正しいのかも、しれませんね」
そう言うと、私は彼女を置いて歩き出した。レースだ。それで、勝たなくてはならない。トレーナーさんを、より私だけのものにするために。
「私――勝つよ!!!」
「……」
「勝つ。勝って、グラスちゃんが間違ってるって証明してみせる!」
「ええ。そうしてください――」
――そうすれば、私は戻れるのかもしれないから。
まだギリギリ、崖っぷちだったんだ。もうとっくに、滑り落ちてしまっていたのだと思った。けれど、まだ――戻れるのかも、しれないのか。
それはとても、魅力的だ。
ふと患部を見ると、もう血は止まっていた。まるで人間じゃないみたいだな、と思った。
〇
12月26日。中山競バ場。天気、芝状態ともに良。
4枠7番。中枠。
体調は――最悪。吐き気がする。胸がむかむかする。内臓がむずむずしている。骨折時の併発症状だ。
勿論中指も痛い。少しだけ腫れてきている。骨が外気に触れているのだ。つまり解放骨折。本来解放骨折は患部から雑菌が入る可能性が高いため、治療は早急に行わなくてはならない。
しかし、今更骨が折れたといって医療室に駆けこめばどうなるか。少なくともレースには出られなくなるし、スぺちゃんと戦うことも出来ない。
不調であろうとも、このコンディションでやるしかない。私にはその責任がある。
最早癖となったように、私は周りのウマ娘を見た。13人。全員いるな。誰も屈んではいない。
そもそも有マ記念は2500メートル――サイレンススズカのような無茶な走り方を出来るはずがない。体力が持たない。
だが仮に彼女が走っていれば――どうだっただろうか。やはり、体力が切れてしまうのだろうか。それとも、呆気なく最後の最後まで加速を続け、勝ってしまうのだろうか。
「……」
今となってはわからない。もう知ることは出来ない。そのままでいい。わからないままでいい。知らないままでいい。
構える。コンディションがどれだけ悪かろうとも――勝つしかないのだ。
――ゲートが開く。
全員が一斉に駆け出す。流石有マ記念――優秀なウマ娘が揃っている。大きな出遅れは見られない。
すぐさま前方集団、中段、後方集団へと別れていく。無論、私は後方から行く。
加速しながらも速度を上げすぎない。全体を見渡せるように、後方に位置取る。
「――――」
スぺちゃんは――いない。前方にはいない。前方に見えるウマ娘が約10人だから――後方3人の中の誰かが、スペシャルウィークだ。
なるほど、そういうつもりか。これは意趣返しなのだ。あの時を真似ている。すなわち、私はスぺちゃんに勝った、宝塚記念の時を。
おそらく最後方。そこからレースを行うつもりだな。わざわざ彼女の後ろについてやるつもりはない。このまま彼女の前方を走り続けてみせる。
私が後方集団にいたのは、それが定石だからという理由につけて――もう一点あった。
腕を力強く振れないのだ。ただでさえ解放骨折は他骨折との併発が有り得る――あまり乱暴に手を振っては、怪我が増える可能性がある。
それに加えて、単純に痛む。これが大きかった。レースのことだけを考えていたいのに、激痛が思考を蝕む。まともに考えられない。骨折はこれが初めてではないが――まともに治ってもいない状態で走るのは、これが初めてだ。
ずきずきと痛む。抑えているとはいえ、大きく腕を振っているから外気と擦れる。僅かに露出した、折れた骨が空気と摩擦して、痛む。むき出しの神経がはらはらしている。
「――――っ!」
じわり、と指に生暖かいものが触れているのがわかった。間違いない。私の血液だった。患部の肉が裂け、再び出血しているのだ。
皮膚が裂け、皮下脂肪までもが滲み出ている。更に外気に触れる骨面積が増えた。
体温が下がっていく。冷や汗が滝のように流れている。指先が氷のように固まっている。
けれど走るしかない。それしか残されていない。
本気で腕を振って走るのは最終直線。すなわち第四コーナーを回ってからだ。そこから数秒間だけなら、痛みを無視して全力を出せる。
しかし第三コーナーを回ったところで、ゆっくりとスぺちゃんが加速を始めた。
シューティング・スター!? 今!?
前回のレースよりタイミングが速い。いや、考えてみれば当然か。走れば走るだけ、加速すればするだけ無限大に加速していく異常性。
スタミナさえ持つならば、速めに使うべきなのだ。
ならば負けていられない。少し早いが、私もスパートを掛けに行かなくては。このまま後方集団に飲まれていては、一着などありはしない。どのみちそろそろ抜け出すつもりだったのだ――良い頃合いとも思える。
スリップストリームから抜け出す。感覚はあの時と同じく。そのまま僅かに斜めに走って、バ群から抜け出す。
大外。内を最短ルートで走ることに比べれば幾分か体力を持っていかれるが、そんなことには慣れている。
「――!?」
スぺちゃんの前に出る。壁のように、進路を塞ぐ。このまま突っ切ることは出来ない。外法ではあれど――私はただ、前に出るだけだ。
そのまま速度を上げていく。少しずつ姿勢が前に倒れていく。前傾姿勢。サイレンススズカほどの異常なフォームは不可能だ。アレは彼女の天性の体幹と速度によって生まれるものだ。私に真似は出来ない。
信じられるのはこの身だけだ。私を支えてきた足。そして自信と自負がそうさせた。
大外回って第四コーナー。優秀なウマ娘が揃っているということもある――決して千切れない。僅かに前に出たかと思えば、すぐに抜かれる。それの繰り返し。
――最終直線。差し掛かった瞬間だった。
「……っ!」
――やはり。やはり来たか。
恐ろしいほどの追い上げ。私の更に大外を回って――スペシャルウィークが並んできた。
「――――ぅ、ぁぁああああっ!!!」
彼女の叫びが聞こえる。それは悲鳴に似ている。慟哭でもなければ雄叫びでもない。
純粋に、私を捻じ伏せようとしている――――敵の声だ。
負けるわけにはいかない。全力で腕を振って速度を出す。気付けば呼吸も忘れていた。酸素が熱く、喉を焼いている。
手が痛む。ずきずきと神経を撫でられる。たまらなく痛い。いますぐにどうにかしたい。いっそ、手首から斬り落としてしまいたい。
次第に痛みも、苦しさも、薄れていく。ランナーズ・ハイ。心地良さだけで満たされていく。
残り50メートル。横一列に、四人のウマ娘が並んでいる。だが、頭一つ抜けているのは私とスぺちゃんだけだ。ほかの者は一歩引いて、それを見るだけ。
私が勝つ。私が勝つのだ。
ぴり、と嫌な音がやけに体に浸み込んだ。皮膚が更に裂けた音だった。
指を走る毛細血管が弾けている。過度な運動に耐えかねて、その身を砕いている。ぷちぷち、と音が聞こえてくる気までする。
周囲に血が飛び散っている。構わない。気にもならない。私の左側から駆けてくるスぺちゃんの顔が見える。
――驚きと、理解。全てをわかったようにして、彼女は――――。
『外から最強の二人!!! やっぱり最後は二人だった――――ッ!! 最後はやはり、最強の二人ッ!!』
〇
写真判定。それが私たちに残された答えだった。
スペシャルウィークとグラスワンダー。どちらが勝っているのか。それはまだ、私たちにはわからない。
左腕を、ぷらんとぶら下げる。最早痛みさえ感じない。麻痺してしまった。おそらく――アドレナリンのせいだ。しかし、いずれ脳内麻薬が切れた時――どうなってしまうのか。
火照った体に、乾いた喉。浅い息を繰り返しながら、私たちは電光掲示板を見ていた。
本当に、どちらが勝ったのかはわからない。スぺちゃんも緊張した面持ちで、私と同じように見ている。
――――やがて、ハナ差という文字が表示。それから、着番が表示された。
7番。
グラスワンダーの、ハナ差勝利だった。
「――――ぅ、そ……」
スぺちゃんがその場に崩れる。思わず、涙が出ていた。痛みからかもしれない。それか、彼女に勝てたからか。
詳しいところは何もわからない。けれど、私はようやく――――実感を得た。
勝った。勝ったのだ。
その結果と同時に――担架を持った医療スタッフが駆けてきた。それもそうか。あれだけ目立った走りをしながら、血液を振りまいていれば――吃驚もするはずだ。
勝利の余韻に浸りながら、私は医療スタッフに向かって歩く。不意に振り返って、彼女を見る。
――――可哀想に。
本当は、負けるのも仕方ないと思った。もしここで負ければ――いや、彼女が勝てば、自分が間違っていたのだとわかるから。スズカ先輩に酷いことを言った自分を否定して、彼との不可逆な関係も終えて――健全に生きていけるかもしれない、と思った。
しかし、勝った。ほんの数センチに満たないモノだけれど、勝負の世界ではほんの数ミリが勝敗をわける。その結果がこれだ。
だから私が、正しいのだ。負けた貴方は正しくなかった。それだけだ。
担架を拒否して、歩けることを示すと――彼らに連れられた。ターフを去ると、途端に寒くなってきた。手の痛みも増してきたように感じられる。
けれど、その痛みに――人間であることを実感出来た。
〇
骨折を機に、私は引退することにした。といっても、トレセンから離れたわけではなかった。
彼のトレーナー補佐として、仕事を任せられたのだ。引退から一年が経った今では、彼もすっかり元通りで――新しくウマ娘を担当にし、育成に励んでいる。
「――今日もお疲れだったでしょう」
「ううん、そんなことないよ。グラスが待っててくれるからね」
「すぐにそんなことを仰って。まあいいです。ご飯とお風呂、どっちにしますか?」
「ご飯かな。お腹空いちゃった」
「うふ。じゃあ、温めてきますね」
私たちは同棲を始めた。それも当然のことだったのだと思う。サイレンススズカを殺した男――その名前は、今ではグラスワンダーを育てた男に変わったのだ。
彼が批難に苦しみ、耐えている時に傍で支えたのは私だ。彼のために結果を出し、有マ記念を二連覇したのも私だ。何度も肉体関係に及び、繋がりを深めたのは私だけだ。
本来、表立ってトレーナーとウマ娘の恋愛は肯定されていないけれど――少なくとも、私と彼だけは特別のようだった。私が結果を出せたというのもあったけれど、ほとんど特例として彼の傍にいることを許されたのだ。
それから彼はトレーナー寮を出て、一人暮らしを始めた。私と同棲するためだった。一人で住むには広すぎる部屋に転がり込んで――今では、当然のように暮らしている。
彼が他のウマ娘の育成を行うことに、邪な感情が芽生えないわけではない。けれど、それも最近では減ってきた。最早彼は私から逃げることは出来ないのだ。それは、私が彼から逃げられないように。
彼が椅子に腰かける。ゆっくりとスーツを脱いでいる。嗚呼――私だけの匂い。独占出来ているという優越感。それがたまらない。
たまらなくなって、彼の背中から抱き着いた。匂いが濃い。汗の匂いがする。もうすっかり嗅ぎ慣れた匂いだとしても、それが私を狂わせることに変わりはない。
「ぐ、グラス――」
ぎゅう、と抱きしめる。彼のうなじの顔を突っ込んで、匂いを嗅ぐ。
「ちょっと。恥ずかしいって」
「良いじゃありませんか。誰が見てるというわけでもないんですから」
「そりゃあ、そうだけど――」
ぺろり、と首筋を伝う汗を舐めた。美味しい。私の汗と何が違うのだろうか。
「……グラス。ご飯が食べたいぞー」
「はいはい。名残惜しいですが、あとにしましょうか」
「――――あと、ね」
「はい、あとで」
くるりと振り返ると、エプロンがゆっくり翻った。彼曰く、割烹着を着ているイメージ――だったそうだけれど、流石にこの時期になると暑い。冬場であれば、着てあげてもいいだろう。
「――――あ、そうだ。ひとつ良いニュースがあるんですよ」
「ん? 何々、どうかしたの?」
――サイレンススズカは消えた。スペシャルウィークは潰えた。二人とも、私が終わらせた。彼女の意思はもう、どこにも残っていない。
残っているのは、グラスワンダーだけ。私だけだ。彼の場所にいるのは、私だけなのだ。これが私の望み――故に、その願いは叶っている。
長い道のりだった――と思う。苦しい道だった。しかし、その過程で何を取りこぼしてしまったとしても、何を失ってきたとしても。私はもう、戻れない。戻ることは出来ないのだろう。
それが不可逆な破壊。不可逆な愛。彼を私のモノにするために、全てを投げ捨ててきたのだから、当然だ。
再び彼を向いて、そっと近づく。彼に顔を近づけると――未だ初心なのか――僅かに頬を赤らめ、そっと私に耳を傾けた。
「――――出来ちゃったみたいです♡」