嘘松厨は価値観が「本当と嘘」だけのかわいそうな存在なので無視しよう!

ひろゆきインターネット
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哀れな嘘松厨

「きさらぎ駅」「リゾートバイト」等珠玉の名作とされるネット怪談は既に死に絶え、そしてもう永久に戻ってこないと思います。

語り手の不在、オカルト好き人口減だけが原因ではありません。

遍く適用されるとされていた、西村博之氏の「あの」迷言を真剣な顔で箴言と捉える人が増え過ぎたためです。

嘘を嘘と見抜けないとネットを使ってはいけない時代

西村博之ことひろゆき氏が00年代前半に発した「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」はインターネット史における一つの金字塔、あるいは一里塚として認知されています。

ひろゆき氏の名言

これ自体は確かにそうなのかもしれません。

ウェブサーフィンをしていたら、自分に無益な情報、糞の役にも立たないような「使ってみました!」系アフィ、ページ作ったまま放置されたゲーム攻略ページなどがヒットして私たちを辟易させます。

かといってTwitterやインスタグラム、Facebookに情報を見出すなら、企業アカウントやサクラを見抜いて商品を購入しなければ容易く騙されます。

ウェブの広告にも悪質なデマは蔓延っており、最近の「宿便がドバッ!インターネットが炎上」みたいなタイトルの記事系広告(nativeに関連記事に入り込むので質が悪い)になんて騙されたら人生おかしなるで…

騙されて購入して効かないのだと憤っている人達がサプリ会社のGoogle Mapで騒いでいたりしますが、そういうのも全部「ネットリテラシイ」なるものの欠如と説明されます。

だから嘘を嘘だと見抜くことは、自分がカモにならないために重要なのです。カードが配られて周りを見て誰がカモかわからなければ自分がカモになるしかありません。

後はふんだくられて終わり。

「嘘松認定」厨の増加

問題はこれを全てに敷衍しだす輩が現れたことでした。言葉が人間の思考を決めるとはよく言ったもので、敷衍の動きは嘘松なる忌まわしき単語がネットに現れてからさらに激しさを増しました。

きっと日本ネット史を揺らしたあの有名なコピペの何割かは「嘘松」でしょうが、以前はそのことを指摘する人はおらず、嘘だとわかっていても黙っておく、楽しむのが不文律だ、という了解があったように感じます(感じるだけです)。

それが今やどうなったか?

嘘松だガセだ話が出来すぎてるなどと、一個人の体験を書いたツイートごときに何の実入りもない無益なリプが所狭しと並び、真贋を見分けることの「無意味さ」を我々にはしたなく開陳しています。

カモにされたくない欲が強すぎて、ゲーム自体をイカサマだと言ってみせるプレイヤーが増えてます。

これがL.A.のカジノなら営業妨害でセキュリティガードに即肩を掴まれて寒空に放り出されるオチ。

「嘘松指摘なんて無意味だ」という反論にひろゆき氏の箴言画像を貼って何かを言った気になる奴らまでいる……。

これじゃもうネットは救いようがないな、と思います。

騙されないようにする必要がある、とひろゆき氏が言ったのは

さもなくば個人の呼びかけに騙されて現実で変なことをしでかしたり、企業の宣伝に都合よく使われるネットに一方的義憤を感じてしまったりするからであって、

ほのぼの話やケースバイケースの問題解決法にまで「真贋」という命題を敷衍するためではありません。

確かに真贋を見分ける能力は(現実世界で生きる上では)必要かもしれませんが、感性を鈍らせてはいけないのです。

ぱさぱさになって乾いた感受性の人達が、

思考実験スレなんかで平気で「でもこんなことは起こり得ない」

と得意げに口にしているのを見て、もうこの人達はダメだ、人語を解するだけのクリーチャーでしかないなと感じました。

そもそも真贋を見分ける能力の何が大事なのか?

あるいはこう言うこともできるでしょう。真贋を見分ける能力が高いとして、なぜそれが人間を人間たらしめるのか?と。

真贋なんて人間だけじゃなく、動物も見抜くことができるはず。

それは動物界に「擬態」という防衛手段があることから逆説的に導かれるでしょう。見抜く力があるからこそそれを上回る手段が台頭するんです。

あるいはこれを実感したくばネコかイヌでも飼えばよいと思います。彼らはエサとそうでないものの違いを的確に見抜きます。

ネコが猫草を好むからといってすべての草を食むわけではない。イヌにカリントウをあげれば食べるかもしれないが(甘いものはあげたらダメですよ!)似ているフンは食べない。

動物でさえ物事の正しさをある程度見抜いてみせるのだから、人間が見抜けないはずもない。だから本来、嘘松を嘘松だと分かる能力は特段、人間を人間たらしめない

もちろん物体の区別とお話の虚構性の区別は話が違うだろうという反論も考えられるでしょう。

が、嘘松厨はたぶんそんなことまで考えておらず、何となく自分が嘘だと思えばそれは全て嘘で、本当だと思えば手放しで批判あるいは賛成してみせるのです。

だからそのような「反論」を思いついた人は、ちゃんと物事を考えている人なのかもしれません。

嘘と真実を慎重に区別し、疑問に思えばソースを調べにかかったり、語り手に質問して情報強度を測ることで見極めようとする能力…

確かにそれぐらいあれば「それは確かに人間らしいな」と私も感じるし、それはひろゆき氏のあの名言に合致すると認めたいと思います。

でも思考停止で「嘘松!嘘をついた!この話は考える価値がない!」と棄却検定1級所持者みたいなことを言っていても大脳や感受性は鍛えられない(棄却検定は検定の名前ではないのでよろしく)のです。

ときにはそれを嘘だと結論したうえで「でももしこの話が本当なら、自分はどうすればいいだろう?この人の立場ならどうするのが正解なのだろう?」と考える必要もあるかもしれません。

全ての物事に対して本当か嘘かの判定しかできなくなった存在はあまりに哀れですね。

そういえばもう一つ哀れなのが相対主義者です。こちらの記事もどうぞ。

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