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あるいは、衒学

物語る、説明する、思考する

06th Feb 2022

文章は物語る、説明する、思考するの三軸があって、三次元ユークリッド空間内の単位球面上に配置することができる。要は100%を各要素に分配することができると言っているだけだが。

この文章はおそらく(0.1, 0.5, 0.4)くらいの座標にあって、おそらく物語るたぐいの文章ではほとんどない。

このページには、あるていど整形された文章が脱文脈的に羅列されていて、それらは先の単位球面のどこかに位置する。時系列的なつながりや論理的な帰結は見当たらず、すべては私という文脈のみに依存する。

巨視的に眺めたとき浮かび上がるそれは、一体なにであろうか。

06th Feb 2022

どこまで承認欲求から距離を置けるかが大切な気がする。

06th Feb 2022

 明かりを完全に消した六畳一間は、それでもいくらかの光がカーテンの隙間を縫って流れ込んでくるから、完全な闇とはいかなかった。私は白装束に身を包み、十人の大人に囲まれながらその中央で正座をしていた。毎年、この時期になると下ろしたての白装束が手渡され、大人たちの目の前で着替えなければならない。冷えたガーゼ生地が肘のあたりにこすれ、なぜだが反対の耳の裏がかゆくなる。

 大人たちは中途半端な暗闇の中で、各々が自分のペースで何かをつぶやいている。それらはどれも小さく早口で、私にはみんなが何かしらに対して(例えばこのような状況に対して)言い訳をしているように感じられた。

 かなり長い時間この部屋にいたからだろうか、暗闇に目が慣れてきてかなり詳細に周囲の状況がわかるようになってきた。大人たちは私が着ているものと同じ素材の、灰色の生地に身をつつんで円形に正座をしていて、唾の混ざった生暖かい吐息は彼らの膝の上に落ちてゆく。私はただ黙って彼らの様子を仔細に眺めていればよく、なんだってこんなところでやきもきしているのかの結論も出せないままに時間だけがいたずらに過ぎていった。

 私の正面には老齢の男性が脇息に肘をかけて座っていて、彼だけは口を真一文字にしてこちらを睨んでいた。かけている老眼鏡はてらてらとした金属製の輝きをもっていて、対象的に彼のしわんだ肌が動物的な匂いを予感させた。どういうわけか彼の周りだけが不思議と仄明るく(物理的な明るさというよりは印象が明るいと言ったらいいんだろうか、彼自身は悲しみの底に囚われているのにもかかわらず、周囲の空気が対照的に明るい印象を放っていた)、その明るさとともに残りの九人の口々の呪詛が私に向かって届けられているように感じられた。

 とつぜん正面の老人が叫び声を上げ、かけていた老眼鏡を私に投げつける。大きく開かれた口は喉の奥まで開かれていて、私はずいぶん遠くまで来てしまったようだった。残りの大人たちは目を見開いて押し黙ってしまい、宙ぶらりんの空気だけが私に重くのしかかる。

 思い出したように私は額を畳につけ、土下座の格好をした。目を強く瞑ることで光は完全に遮断され、はじめて完全な闇が生まれた。

 頭の向こうで布擦れが聞こえて、どうやら彼が立ち上がったらしかった。

 前に数歩出てきた老人は、その足で強く私の後頭部を踏みつける。髪が引っ張られる痛さにしばらく耐えると、ぞろぞろと重みのある足音が部屋の外へと消えてゆき、私はそれでも土下座を続けていた。

 まだ完全な闇は私のなかで生まれ続けていた。

06th Feb 2022

リズムで文章を書くことがよくあるので、ぜんぜん例(喩)えたくないのに「たとえば」などと書いている。あるいは、「あるいは」や「も」などといった接続詞・助詞がセミオートに挿入されて、並列の事例に頭を悩ませることもしばしばある。これでは文章を書いているのか文章に書かされているのかわからない。

もちろん、読み返したときに心地のいい位置に読点がくるのだから、個人的な文章としての満足度は高い。必要なのだから自分にたとえや並列を要求し、パズルを埋める要領で文章の密度とリズムを調整する。

文章の構成要素は、内容・リズム・密度なのかもしれない。内容はさることながら、文の長さと読点の位置によってリズムを調整し、漢字を閉じたり開いたりすることで密度を調整する。文字に記された文章は、視覚的な側面の密度、聴覚的な側面のリズム、そして総合的な認知としての内容でもって味わっているのかもしれない。

06th Feb 2022

J.S.ミルの唱える「他者危害の原則」において、他人を不快にさせるのみで危害を加えるほどでもない行為はこの原則に当てはまらない、ということがどうも引っ掛かった。また、この原則から導き出される考え方として「愚行権」なるものがあるらしい。喫煙に代表されるような自らの身体に有毒な行為であっても、他に配慮し害を与えなければその行為を行使する権利があるというものである。しかし、本当に愚行権を容認してしまってもよいのだろうか。そもそも、他者危害の原則は現実に即した合理的原則なのだろうか。

まずはじめに、他者を不快にさせる行為が他者に危害を与えていないという解釈を一度吟味する必要があるだろう。たとえば通勤ラッシュでない時間帯の電車において、床に座り込んだ成人男性がいたとしよう。車内は非常に空いており、通行の妨げになるような位置に彼は座っていないということを前提とする。この場合、彼は同列車に乗り込んだ私に対してなんら危害を加えていないので、他者危害の原則に即するならば、私ないし公権力に干渉されるべきではないという判断が下される。

果たしてこの審判に納得がいくだろうか。いや、どうも腑に落ちない。その場面に遭遇したならば車両を移す人も少なからずいるだろう。実際、現代では駅係員による注意喚起、当該人物の排除といった実力行使が発生しかねない。

そもそもミルが生きた時代は19世紀であり、この頃はデカルトの唱えた心身二元論が依然として優勢であった。すなわち、精神は思惟を本質とし、身体は延長を本質として相互に独立して依存しあわないものものであるという感覚が多勢であったのだ。ここにおいて、ミルは危害を被りうるものとして身体のみを挙げるに尽き、精神的害といった発想には露も至らないのである(精神と身体の二者が両義的なものであるという考えに至るためには、メルロ=ポンティの生まれる20世紀まで待たねばならない)。ゆえに他者危害の原則は当時の常識を色濃く残したものであり、現代版にリメイクするならば原則の範疇を精神的危害にまで敷衍してしかるべきなのではないだろうか。

また愚行権という存在さえ疑わしいこの権利を認めたしまったならば次のような不合理が生じる。それは自殺の容認である。飛び降りなどによって公共あるいは通行人への危害を加えることは例の原則に合致しているだろうが、富士の樹海での首吊りなどはこの通りではない。著名な哲学者の頭脳を通してもなお、自殺が許諾されてしまうのはやはりいただけない。自殺を絶対悪として扱うつもりは毛頭ないが、しかし絶対善であり推奨されるべき行動でないことは自明であろう。

自ら命を絶ち、意識のない身体を現世に置き去りにした場合、その処理等に費やされる他人の労力、親族による諸々への金銭は十分危害として捉えうるし、関わってきた他人の心に傷や穴を作ってしまうこと、もはやこれも立派な危害行為なのではないだろうか。

06th Feb 2022

Twitterのタイムラインにいわゆる丁寧な生活的ツイートが頻繁に流れてくるようになった。推測するところ、現在Twitterは1ツイートの視聴時間や干渉行動によって関心度を測定していて、それに基づいたサジェストを行っているのだと思う。だから私自身が興味を持っているコンテンツに丁寧な生活が含まれることにも異論ないし、近日の引っ越しイベントに際して生活における丁寧さを形作ろうと躍起になっていることはまず間違いない。

丁寧な生活とは何であろうか。辞書的意味として(1)整頓された部屋、非怠惰的生活、(2)(1)をネット上にアップする行為の2つくらいが含まれているだろう。ネットで主に嘲笑の的となっているのは(2)を通した(1)であり、要は「わざわざうp乙、誰もお前の丁寧な暮らしぶりなんか興味ないわ」的なニュアンス。

(1)の先あるものというか、対象がいないことが問題なのかもしれない。頑張った先に自認がなければ、認めてくれる人が現れるようにアウトプットの矛先は外、特にネットに向く。

昔の人は、承認欲求をどう処理していたのだろう。

06th Feb 2022

数字が増えることに単純な交感神経の興奮効果があるような気がする。数字はおおむねコレクション数であり、数多くのコンテンツを体験して累積したその証に興奮するのだと思う。

Spotifyのお気に入りやYouTubeの高く評価した動画、Twitterのツイート数やScrapboxのページ数など、気に入ったものや作り出したコンテンツそのものから、堆積したその数字自体に目的が遷移しつつあることを自覚している。

本質的ではないし、コンテンツそのものともっと向き合いたい。

06th Feb 2022

歌詞のない音楽をよく聞くので、曲に関するサーチャビリティがすこぶる下がる。Yahoo知恵袋などで楽器隊や特徴的な音を文字起こしして、有識者が当該の曲を当てるといった離れ業をこなしているが、あいにく探索性の向上には貢献していない。

音楽認識アプリたるShazamは鼻歌でも検索できるとの能書きをどこかで目にした気もするが、できた試しがない。

結局は音楽を聞くたびにジャケット写真とタイトルを記憶して、ふと聴きたくなったときに逆引きをするといった至ってシンプルな手段をとるしかないのかもしれない。

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