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堀日亨上人の記述から判る「宗門の実状の憂慮」

 投稿者:サム  投稿日:2020年 3月 4日(水)02時32分55秒
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  堀日亨上人の記述から判る「宗門の実状の憂慮」


①堀日亨上人御自身が「楠板本尊」建立を大聖人出世の本懐とは見ておられず、後世の作と見ておられた。

『大聖人は、興上弘教の熱誠を賞し、その功績の重大なるにともないて、法難の熾烈なるは、実に末法怨敵の当鉾なりといえども、これまったく日蓮出世の本懐満足の画期として、これを記念するために、弘安二年十月十二日に、本門戒壇の大御本尊を興上に親付し、万年広布流溢の時、大戒壇に安置すべく堅牢の楠板に書写せられたり』(堀日亨著「富士日興上人詳伝(上)聖教文庫159-60頁)

上記から堀日亨上人は、日興上人の弘教に対する熱意と功績大なるを賞賛しつつも、本音として、
A. 日蓮出世の本懐は、(広宣流布を予想できる)法難を伴った妙法の弘教拡大にあった。
B. この時代を区切る本懐満足を記念する為に、大聖人は、弘安二年十月十二日に、本門戒壇の大御本尊(大聖人真筆の真の三大秘法の御本尊、紙幅)を日興上人に授与した。
C. 広宣流布の暁に大戒壇に安置する為に、(その後、大聖人以外の関係者が)堅牢の楠板に書写された。
と考えられていた様です。


②堀日亨上人は、富士日興上人詳伝下の「十、本門の本尊」の項目(215及び217頁)では、「楠板本尊」の記載なく、「本門寺重宝」の紹介しかしていません。

「聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。(中略)
日興が云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事1606頁)

と、日興上人の「富士一跡門徒存知の事」を紹介されているが、「楠板本尊」の記載は一切ありません。
「本門寺重宝」との添字現存御本尊8幅中4幅を紹介しているだけなのです。


③堀日亨上人御自身は、身延離山時に、「楠板本尊」を持ち出していないと推考されていた。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」(富士日興上人詳伝上280頁)
「現存大石の多数のものは、南条の下之坊保管の物であり、興師の延山時代には関係はない。すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない」(富士日興上人詳伝上280頁)
「日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻・公方・聖教・世事雑具等皆悉く御墓所に之を置く可きの由、衆徒に相触れられし時、面々供奉の人々一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである。」(富士日興上人詳伝上281頁)

と記述されている通り、身延山の常住物は何一つ持ち出していないとのお考えなのです。


④堀日亨上人は、疑義のある後加文を峻別していた。

「又後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて、読者の注意を促がす便とせり」(堀日亨編纂 富士宗学要集第1巻25頁)

とある通り、堀日亨上人は宗門上古において、後加文により法門を作りゆく事に疑義を抱いていたのです。


⑤「なかにも百六箇御相伝の付記(富士宗学要集第1巻相伝信条部22頁)に(省略)とある。この付記は相伝書以後二百年は下るまい。」(富士日興上人詳伝上280-281頁)

百六箇抄の付記を御遷化後200年以降の後加文として認めておられますが、それでもこの文中には「楠板本尊」「戒壇本尊の名称」の影すら見えないのです。
後加文章の「又五人並に已下の諸僧等・日本乃至一閻浮提の外・万国に之を流布せしむと雖も・日興嫡々相承の曼荼羅を以って本堂の正本尊と為す可きなり」(富要集1巻21頁)がその証拠なのです。


⑥堀日亨上人は、宗開両祖及び上代宗門が「楠板本尊」を秘匿しておく理由は、全くない(誰からも強奪されるほど関心を持たれていなかった)と認めておられます。

「伝説とは、身延が大御本尊を略奪にくるのを畏れて井出家の穴に隠していたところ、湿気のために四隅が朽ち欠けてしまったというもの(趣意)」(富士日興上人詳伝上288-9頁)
「建武初年の争いに、大石寺の正御影を持ち出す時、戒壇本尊に手を掛けたが、大石の大衆鎹(かすがい)を打っていたから持ち出せなかったと書いておる。」(富士日興上人詳伝 上289頁)
「自分が貫首代に役僧を立ち会わせて密査したのに、以上の伝説は真赤な虚説であり、全面堅石のごとき楠板で、少しの瑕瑾(きず)もない」(富士日興上人詳伝上289頁)
「四箇の謗法の重点は、立像仏再興にある。 正御影も、戒壇本尊も、身延山に波木井に直接関係はない(中略)当初の日円入道には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。 本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山徒が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた無稽の沙汰である」(富士日興上人詳伝 上289-90頁)
「これをもって以後三百余年、これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」(富士日興上人詳伝上290頁)

と述べておられる様に、私達が考え方を変える必要があると仰せなのです。
波木井日円だけでなく五老僧も板本尊を渇仰する思想がなかったのか、存在していなかったと思っておられた様ですが、堀日亨上人御自身が宗門責任者であるが故にこの程度に収めたのではないでしょうか。


⑦堀日亨上人は、宗門に「聖僧たる」の無い事を憂慮されていた。

「開山上人がこの法度に『先師の如く聖僧たるべし』と定められ、先師大聖人が無戒であるが、放埒破戒でないことを、証明せられており、日順・日尊にもまた放埒を誠めた文もあるが、この淑行聖僧というのは、現今の在家同然の僧行を認めたものでない。ややもすれば、多少の反省心より汚行を恥づる有羞僧を見て、 かえって身心相応せぬ虚偽漢と罵り、全分の生活まったく在家同然で、心意またこれに相応し、たんに袈裟衣を着てるだけの違いを、かえって偽らざる正直の僧侶と自負する者があるやに聞く。このていの放埒ぶりを標準とせば、この条目はいまは死んでおる。自分はいまの状態は一時の変体と見ておる。」(富士日興上人詳伝下272頁 )

『先師の如く聖僧たるべし』の条目の死は、現在更に、堀日亨上人の御心配以上に深刻なのではないでしょうか。


「すでに原殿抄(原殿御返事のこと)の末文にあるごとく、延山(身延山久遠寺のこと)の常住物は何一つ持ち出していない。涅槃経の中の二巻を御使用のまま持ち出されたので、十二月十六日に返還せられてあるくらいで、したがって日尊実録の中にも『身延沢御退出の刻、公方、聖教、世事雑具等、皆悉く御墓所に之を置くべきの由、衆徒に触れられし時、面々供奉の人々、一紙半銭も持ち出ることなし』と書いておる。とうぜんのことである」(日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨の著書「富士日興上人詳伝」212頁)

つまり、日蓮正宗大石寺59世法主堀日亨は、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」と、自ら断言しているのである。
そして「日尊実録」の文の意味も、まさにこの意味であり、当然の事である、とまで言い切っているのです。
にもかかわらず、日蓮正宗では、信者に「日興は身延離山の時に、すべての重宝を持ち出した」と教えている。そういうことにでもしないと、日興が日蓮の遺骨やら「戒壇の大本尊」なる板本尊を持ち出したことの説明ができなくなってしまう。
しかし、大石寺59世堀日亨が言う様に、「日興は身延離山のときに、身延山久遠寺から何も持ち出していない」という事になると、大石寺にある「戒壇の大本尊」なる板本尊も、日蓮の遺骨も、御肉牙も、最初仏も、そして「二箇相承」も「唯授一人血脈相承」も、何もかもニセモノという事になる。
よって、「原殿御返事」という手紙は、堀日亨はよほど都合の悪い文書だと思ったのか、堀日亨が自ら編纂した「富士宗学要集」には収録せず、後に「富士日興上人詳伝」の中で、こっそり載せているのです。

 
 
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