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大石寺には「本門戒壇の大御本尊」と称する真っ赤な贋作「板本尊」があると日顕は言う。
法主日顕は「戒旦の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画
判定)多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」と。
このように筆跡鑑定によって「偽物」だと「解った」という戒旦の大御本尊は、
法華講から銭を巻き上げるため、大石寺のカラスの奉安堂、通称体育館に見世物として置かれている。
この板本尊の文字は、すべて浮彫ではなく彫下げであり、表面は黒漆が塗布されていたが、
明治十四年の日蓮聖人六百遠忌の時に、本尊の文字の部分のみに金泥を入れた。
本尊の下部にある脇書「仏滅後二千二百二十余年之間未曾有之大曼荼羅也」その下にある
「右為現当二世造立如件、本門戒壇願主弥四郎国重 法華講衆敬白、弘安二年十月十二日」の文字には金泥は入れなかった。
板本尊の「金泥を入れた本尊の文字」と「金泥を入れない脇書の文字」とでは、その筆跡が全く異なっている。
故に板本尊は三人の人物の筆で書かれたものであることが明らかなのである。
板蔓茶羅の書体は弘安三年三月以降に初めて見られる書体。
年号は日興上人の筆
弥四郎云々は他筆
身延時代は紙幅
板に彫ったのは宗祖滅後数百年のち。
「右…造立…本門戒壇」という腰書が記された"台座"部はその上の板漫荼羅本体とは別で、
裏から楔でつないであるだけ、首の継げ換えなど簡単にできる構造なのです。
大石寺法主の文献に初めて『本門戒壇の大御本尊』が登場するのは天正元年(1573~?)、なんと大石寺14世日主上人。
大石寺第14世(1555~1617) 年少で貫首となった一人。下野国(栃木県)の人で俗姓は「一色」。
父は上杉家代々の家臣で館林の城主。幼少の頃に出家し裕福な良家の出身であった故か第14世となる。
相承の年月日軋不明。『富士年表』では天正元年(1573)、18歳ですでに貫首の立場にあったとされている。
大石寺板蔓茶羅の形式・相貌は、弘安三年三月から八月までの間に見られるもので、
現存するものでは弘安三年四月から同五月までの宗祖文字蔓茶羅に完全に一致している。
従って、「弘安二年十月十二日」の図顕年月は不審といわざるを得ない。
大石寺所蔵の戒壇板本尊は、弘安二年に造立されたものではなく、弘安三年五月九日に顕された日禅授
与の御本尊を模して造立されたのであり、従って、日蓮の造立ではあり得ないと判断されるのである。
(日蓮と本尊伝承 大石寺戒壇板本尊の真実 )
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