|
【河辺メモ】
S53.2.7. A(=阿部教学部長=日顕)面談 帝国H(=ホテル)
一、戒旦之御本尊之件
戒旦の御本尊のは偽物である。
種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、その他は時師か有師の頃の筆だ。
日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
一、G(=猊下=日達法主)は話にならない
人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。
一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻るだらうと云う安易な考へを持っている。
※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが賣に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの。(弘安三年の御本尊)
------------
「河辺メモ」とは、日蓮正宗参議・北海道大布教区宗務大支院長の河辺慈篤が極秘で記録した備忘録のこと。
日顕は、良く似せて書写された贋作本尊も「ワシが見れば判る」と自慢するほどの鋭い「鑑定眼」を持つと自信満々だった。その日顕が大御本尊と日禅授与の本尊の筆跡を鑑定し、その結果、「戒旦の御本尊のは偽物である」と断じた。その事実を河辺が記録した。
河辺はメモの発覚後、「私の記録ミス」と言わされて「本門戒壇の大御本尊様の御威光を傷つけ」「御法主上人猊下の御宸襟を悩ませた」と謝罪した。仮にそうであれば擯斥か降格の厳しい処分がある筈だが、その直後の平成11年9月、日顕は河辺を札幌の日正寺から都内一等地の新宿区内の大願寺に異動させた。この栄転は「記録ミス」ではなく、日顕に強要された河辺がウソを言った見返りだということを裏付ける。
http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs/22022
https://www.youtube.com/watch?v=YLStjuDa1f0&t=7m18s
https://www.youtube.com/watch?v=We6kAksCXYE&t=58s
「河辺メモ」が流出する以前、日顕自らが「御本尊鑑定の専門家」を気取っていた自慢話から紹介する。
これは平成四年九月二十一日、熊本・法観寺の寺号公称・落慶入仏法要の席での日顕の説法である。
日顕は「まず間違いなく大聖人様の御真筆であると拝せられる御本尊が、日本全国のあちらこちらに格護されてあるのです」と述べた後で「ニセものの本尊も多い」と強調した。
続いて「それらニセものにも、もし等級をつければ、超一級から一級、二級、三級、五級、さらに十級ぐらいまでありまして、まず二級から下は全く話になりません。でも、なかには超一級というものがあります。これはすごいものです。ちょっと見ただけでは、まず大聖人様がお書きになったものと見分けがつかないように、特殊技能者によって非常にうまく書写してあります。これは臨書で書写するのですが、しかし、こういうものの数はごく少ないのです」
このように「ニセもの」も約十種類の等級に分けられると語り、「特殊技能者」によって書写された数少ない「超一級」のニセモノもあるが、自分は見ただけで「臨書」(横に並べること)で書写した本尊だと分かると自慢していたのである。
更に「中世の人ですが、なかなかよく似せて書いた人があります。これは九州でも出てきました。ここにいる支院長の高野法尊房が、以前に熊本で見つかった御本尊だけれども、どうかと言ってお山に持ってきたことがありました。ちょうど、その時に私が総本山に行っておりまして、拝見いたしましたが、私はこの人の字を知っているのです。比較的よく似ていると言えるが、やはり違うのです。このようなものは一級程度でしょう」
日顕は本尊鑑定について自信満々に語っていた。
「総本山に行って」いた時ということは、昭和五十四年七月の「盗座」以前という訳だが、日顕は教学部長の頃に「中世」の「ニセ御本尊」を書いた人物の筆法・筆跡を熟知するほど数多く鑑定していたと告白していたのであった。
そして「たいていの人は間違ってしまいます。大聖人様の御本尊だとだまされて、二十年前に五百万円で買ったなどという人もいました。しかし、私が拝すると、これもやはり少々違うのです。そのような非常にめちゃくちゃで、わけの判らない御本尊がいっぱいあり、日本国中ではかなりの数があると思います」
以上の日顕の話は平成四年九月、熊本・法観寺での「日女御前御返事」を講義した時の説法である。
日禅授与の本尊が昭和四十五年春、法道院から本山に納められた際、異常なほどに関心を示したのが日顕であった。宗内史料の専門家で、富士学林の図書館長も務めた山口範道(故人)の興味深い証言がある。
「昭和四十五年春、日禅授与の本尊が法道院から本山に納められる直前、いまの日顕猊下に京都の平安寺へ呼ばれて、二泊三日滞在した。そのとき猊下が写真を見せてくれた。大キャビネのカラー写真だった。猊下は大変にご満悦で、写真を手にしながら、『どうだ、君、素晴らしいだろう』と何度か言い、『これが今度法道院から山に入るんだ』と、私にその写真を手渡して見せてくれた。私はそれを見て『あー素晴らしいですね。これは本物ですね』と言った」と。
日顕が昭和四十五年ごろから、すでに日禅授与の本尊の大判のカラー写真を所持していたという証言も重大である。なぜなら、これがあれば、戒壇の大御本尊の筆跡との照合も可能になるからである。
山口は続けて証言する。
「日禅授与の本尊が実際、東京・法道院から大石寺に奉納されるとき、いまの日顕猊下を中心とした役員三人が立ち会い、日禅授与の本尊を検分した」
確かに宗門機関誌「大日蓮」(昭和四十五年五月号)には、日禅授与の本尊が本山に納められた直後、四月七日の虫払法要で初めて宗内にお披露目された際、この本尊について、当時の阿部教学部長が説明したとの記録が残っている。
日禅とは日興上人が選んだ六人の高僧の一人で、日興上人と一緒に身延を離山し、大石寺の南之坊を開いた人物であった。その日禅に大聖人が弘安三年五月九日に授与した本尊がどういう経緯で東京・法道院に入ったのかについても、山口範道は詳しく語った。
「もともと日禅授与の本尊は、往古(おうこ)に悪者のために紛失し、伯耆(ほうき)の国(現在の鳥取県)の米子藩主のところに流れた。それを米子藩主が天文八年、北山本門寺に奉納したと言われる」
天文八年(一五三九年)とは、室町幕府十二代将軍・足利義晴のときであり、大石寺では十三代法主・日院の時代である。
「それ以来、ずっと北山にあったが、明治になって北山が金に困って日禅授与の本尊をブローカーを通じて売りに出した。それを法道院の開基である五十六世日応上人が買った。それで明治四十三年に法道院に入った。応師が買う際、ブローカーから、北山から買ったとは言わないでくれと口止めされたという」
この山口の証言は、河辺メモで補足的に付いている「※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して購入したもの。(弘安三年の御本尊)」の説明とも完全に符合している。
さらに山口範道は、「昭和四十五年に法道院から本山に奉納されてから、大奥対面所で虫干しをした。日禅授与の本尊にかぎらず、ときどき、対面所で虫干しすることがある。日禅授与の本尊は、本山の虫払法要では、正面に向かって左側、西の二番にかける。日禅授与の本尊は大御本尊ぐらいの大きさだ」とも語った。
こうして日顕は、戒壇の大御本尊と日禅授与の本尊の照合を思いつき、鑑定の結果、河辺メモに記されている通り「戒壇の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)」と断じたのであった。
山口は「河辺メモが記された昭和五十三年当時、宗内で、御本尊を鑑定できるのは日顕猊下だけだ。猊下はずっと前から御本尊の鑑定を専門にやってきているんだ」とも証言していた。
「河辺メモ」流出についてだが、これは誰かが盗み出したものではないのだ。日顕は「盗座」してからは思い上がって河辺の言うことを聞かなくなった。そこで河辺は日顕を脅迫するために意図的に流出させたメモなのである。
当時、河辺は還俗をも覚悟のうえで日顕との対決を決意していたことは「大御本尊偽物発言」のメモの後に第二弾のメモを流出させたことで明白である。
この第二弾のメモとは、僅かに三行の簡潔な内容である。メモの表題は「メモの件」となっているが、これは日顕の「大御本尊偽物発言」を記した河辺の直筆メモの件である。
メモの件
1、当局の云う通りやるか
2、還俗を決意して思い通りでるか
3、相談の結論とするか
7/9
自坊tel
宗務院より「河辺の感違い」とのFAX(宗内一般)
この七月九日(平成十一年)の日付の入った第二弾のメモは、翌十日の謝罪文を書くに至るまでの河辺の心の動きが伝わってくるようだ。
このメモに「7/9 自坊tel」と記してあるが、これは「七月九日に自坊、つまり日正寺に電話を入れた」ということである。このことから分かる通り、この日、河辺は寺にいなかった。宗門関係者によると、九州のホテルに滞在していたという。
そして、この夜、折から福岡・開信寺の法華講対策のために来ていた総監の藤本日潤、庶務部長の早瀬義寛(現在の日如)、同副部長の阿部信彰の三人に会って、翌十日付で出すことになる「通達」について密談したとのことである。この第二弾のメモは河辺が、藤本や早瀬らとの密談に臨むに当たって、その後の身の処し方について思索していたことを物語っているようだ。
このうち第一の「当局の云う通りやるか」は、日顕や藤本ら宗務当局が河辺に懇願する通りにやるか、との意味である。日顕や藤本らの懇願とは、河辺に全責任を被(かぶ)せ、謝罪させて決着をつけることであったと思われる。
第二の「還俗を決意して思い通りでるか」とは、日顕らの依頼を蹴って、還俗を覚悟の上で日顕と全面対決し、自分の思い通りにやるか、という意味だ。
第三の「相談の結論とするか」とは、藤本ら宗務当局と話し合ったうえで結論を出すということであろう。
結局、河辺が選択したのは第三の道であった。
|
|