Studio 54は、ニューヨークの、最も輝かしく、最もバカタレな伝説になっている。
70年代から80年代にかけて、夜毎夜毎、このクラブを訪問して、酔っ払って、あるいはハイになって、バカ騒ぎを繰り返していたひとびとの名前を並べると、アンディ·ウォーホル、ダリ、カポーティ、シェール、Monique Van Vooren、Debbie Harry、Grace Jones….
この時代の「パーティ·ピープル」の図鑑が出来そうな顔ぶれが、ずらりと並んでいて、大西洋の向こうからも、例えばデイビッド·ボウイのような名前も常連として名前を連ねている。
クラブのフロアで、白馬をのりまわすビアンカ·ジャガー、酔って正体がなくなった当時のトップ·モデルたちの写真は、画像から、そのまま嬌声が聞こえてきそうで、華やかさと、よく見ると、そこここに顔をのぞかせている欲望の残酷さが強烈な印象を残す。
このStudio 54の東京バージョンが「ビブロス」で、やや客層は落ちるが、地価の秘密のトンネルでビブロスとつながっていた「ムゲン」であったようです。
よせばいいのに、好奇心に駆られて何度かビブロスに出かけていたらしい義理叔父の証言によると、毎週水曜日に、二階席に現れて、盛大に1万円札をまきちらして、たいていタレントやファッションモデルの、その夜の相手と一緒に消える不動産会社の社長や、山本寛斎とチークダンスを踊るデイビッド·ボウイがいて、そのころ通学の途中で見かける、いかにも清楚なイタリア系アメリカ人と日本人の母親のあいだに生まれた、義理叔父の、旧式にいえば、「マドンナ」が、酔っ払って、男の人の膝の上で媚態を示しているのを目撃して、泣きたい気持ちになったり、金曜日の夜は、ミニStudio 54が繰り広げられて、ああいう場所に自分のような一般人が出入りすると破滅するくらいダメだよね、とおもいつつも、ついつい足が向く、というふうであったらしい。
飯倉のキャンティは、いまでは、ふつうの日本語人にも名前を知られるようになったが、当然に、むかしは、なにしろ六本木や青山で夜遊びをする人間の数が少なくて、有名人でもなければ、富裕層でもない人間は、そんな世界が存在することすらおもいもかけないことで、週末の夜遊び世界自体が、自然天然の会員制クラブのようなもので、川端康成や三島由紀夫は、ダンスクラブではなくて、こちらのほうの常連で、いまでも活躍しているひとならば、加賀まりこなどは「キャンティ出身」と述べたくなるくらい、キャンティの華で、川端康成たちに、猫かわいがりに可愛がられて、やがて、その奔放な美しさに目をつけた映画人やテレビのプロデューサーたちの手で、大スターになってゆく。
なんの話をしているのかというと政治の話をしようとしている。
むかしは、政治家の繫がりというのは、閨閥や役所の同期、大学の同級というようなのが多かったが、麻生政権安倍政権のことから、どうやら「夜遊び世界のつながり」が、出来ていったように見えます。
Studio 54でも判るように、週末の夜の中心になる店の看板は芸能人がおおくて、そこに集まってくるのは広告代理店の社員や、ワナビータレント、オカネモチの家に生まれた息子や娘たちです。
有名政治家や財界人の二世三世が幅を利かせる世界であるのは、世界中おなじ事情で、早い話がオーストラリアのような田舎国でも、ボンダイビーチのアイスバーグのようなクラブへ行けば、半分公開で、二世三世たちが、どうやってネットワークをつくり、父親の後を襲う形で、議員になり、大臣、首相になってゆくかが判りやすい。
国が健康なあいだは、ちゃんと「そういうことでは立ちいかなくなるから、いかんだろう」という、おっかない人がいて、二世や三世の頭を抑えつけているが、国が病むと、たちまちのうちに、遊び人の二世たちが我が物顔に振る舞いだす。
「本を読まない人たち」という素朴な表現が、わしは好きだが、いかにもまともな本を読まなさそうな、弛緩した、ゲスまるだしの顔が、内閣に並ぶことになる。
都会で頭角を顕すイナカモン、というのは、パターンがあって、ネガティブな、ダメなひとたちのほうは、日本で会ったひとたちをおもいだしてみると、なんだか無暗懸命に勉強して、イメージでいえば、親は地方の名士で、ロータリークラブの会員だかなんだかで、本人も苦学力行、東京に出て、東京の大学に入って、もっと遠くまで行くのだと頑張る人は、大学院も、それもなるべくなら東京よりも更にhaloが輝く、欧州かアメリカの大学で、PhDを取って、故郷に綿を、じゃないや、錦を飾る。
こういうひとたちに多いタイプとしては、自己評価がやたら高くて、他人など眼中になくて、目の横に覆いを立てた競走馬ではないが、他人への評価が低く、というよりも他人への関心そのものが欠落していて、常に「自分はもっと認められるべきだ」と考えて、そのせいか、常にフラストレーションを抱えていて、やたら攻撃的であるか、嫌味であるか、いずれにしろ自分のなかに育った敵愾心と悪意の罠に、自分で囚われて失墜する。
慌ててよいほうも書いておくと、都会で育った子供のように、余計な、装飾的な知性の習慣を持たないので、エネルギーがストレートで、だから社会を根本から変えてしまうようなパワーのある知性の持ち主も、やはりイナカモンが多いようです。
そういうイナカモンと都会人が邂逅して、本人なり両親なりが「有名である」という浮薄の甘美に浸る場として、Studio 45があり、キャンティがあり、ビブロスが存在していた。
政治のネットワークに、そういう遊び人お坊ちゃん2世の世界が加わったのは90年代からでしょう。
日本も、ご多分に洩れず、マスメディアにも、「国民大衆」にも不可視のネットワークがあって、例えば軽井沢に行けば、旧軽井沢には鳩山家を中心とした政治家のネットワークがある。
もう最後に日本にいたときから時間が経っているので、ちゃんとおぼえていないが、ブリジストンの石橋家も鳩山家と近くて、たしか別荘が隣り合っていたと記憶している。
ソニーの大賀典雄のように同じ軽井沢族でも芸術を通してネットワークをつくっていった人もいる。
当の芸術家たち自体は、軽井沢のなかでも、もっとずっと西の、離山より西に位置する追分や、あるいは隣の御代田町の東の山側で、芸術家だけのコミュニティをつくっていたりしていたはずで大賀典雄さんのような芸術を通じて、富裕層のコミュニティをつくっていった人たちとは、似ているようで、まったく異なっている。
ついでなので、述べると、天皇家はむかしから軽井沢の政治世界に呑み込まれることを警戒して、軽井沢には別荘をもたない不文律が存在していて、
毎年、わざわざ千ヶ滝のプリンスホテルに滞在することになっていた。
いまはプリンスホテルが閉館になったので、富士通の社員寮かなにかに滞在しているはずです。
多分、昭和天皇の意向なのでしょう、他国の王族に較べると、現実政治から距離をおくという点では、徹底していて、見ていて、マジメじゃん、という気分にはなる。
霞ヶ関ネットワークが、夜遊びネットワークに移行して、安倍昭恵さんが政治のなかで見た目よりも遙かにおおきな役割を担えたのは、中心が役所から夜遊び世界に移ったからでしょう。
そこで一目おかれるのは広告代理店の敏腕社員であり、夜遊び好きのマスメディアのディレクターであり、プロジェクトとして、おニャン子クラブやAKB48を成功させた敏腕プロデューサーのような存在で、
要するに、夜のクラブで、一歩足を踏み入れると、気付いたひとたちが、羨望の耳打ちをするひとたちでした。
書いていても現実感のなさでヘンテコリンな感じがするが、日本の最近の、激しい社会としての実質の喪失や、「おれが言えば、それが事実」の言語の真実性の崩壊、名状し難い世界への理解の浅さ、考えてみると、すべて、
華やかさに彩られた夜の歓楽の世界の特質で、
ときどき、やっぱり、そういうことなんじゃないかなあー、とおもう。
昼間の権力世界(例:霞ヶ関)から夜の享楽世界への「エリート」中心の移行は、案外、いま日本で起きていることの、かなりの部分を説明できそうです。
お遊び国家なんじゃないかしら。
夜の世界では、努力してのしあがった人なんてのは、しっしっ、向こうへ行きな、で、生まれた家に恵まれ、容貌に恵まれ、初めから努力の必要のかけらもなかった人間だけが君臨する権利を持っている。
そうして、その世界に属さない人間たちは「ダッサイ世界」で蠢いている影のような存在でしかない。
なあんだか、日本の「支配層」そのものじゃん、と考えて、げんなりした気持になっていたのでした
パンの代わりにブリオシュを食べろと言われる日が来るのかも知れませんね
ははは
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