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ほぼ日刊イトイ新聞

2022-02-06

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・家でごろごろしてテレビを見ていたら、
 「マツコ・有吉」コンビの番組で、
 「ありがたがられすぎているもの」のことを言っていた。
 これは、もちろん彼らと放送作家の
 主観で描かれたエッセイみたいなものなのだけれど、
 「ぼくも黙ってたけど感じていたこと」に重なって、
 なんだかおもしろかった。
 その「評価高すぎ疑惑」の代表ふたつが、
 「ローストビーフ」と「マカロン」だったのがお見事。
 しかも、そのふたつの「ありがたすぎるもの」を
 貶めて踏みつけるようなことをするのでなく、
 やわらかく現在のカルチャー論に持っていったのも、
 たいしたものだなぁと感心してしまった。
 この展開は、ひとりの作家だけではとても表現しにくい。
 マツコ、有吉という、似て非なる「個性」がそれぞれに
 ふたつの視点をつくり、裏で放送作家がもうひとつ加わる。
 ひとつのものごとを「三面図」にして表現しているのだ。
 こういう方法でなら、おおぜいが見られて、
 しかも個人の視点をつぶしてしまわないことができる。
 感心しながら、ぼくも「ローストビーフ」と「マカロン」
 のことを考えたりしていたのだった。
 前々から、そんなにありがたくはないよなぁ、とね。

 実は、ぼく個人としては、もうひとつ
 「そこまでありがたがってはいない」ものがあるのだが、
 これはあくまでも個人的な視点からのものとして、
 遠慮がちに言うしかないと考えいた。
 全人格的な立派さを併せ持つ人もいるのだろうが、
 「ノーベル賞」は、受賞した部門以外のところで
 ありがたがられすぎではないだろうか
 …と書いたところで、はっと気がついた。
 世の中のあらゆるものごとは、すべて! 
 「ありがたがられすぎ」であったり、はたまた
 逆に「軽んぜられすぎ」なのだということか! 
 それはもう、「大統領」でも「オリンピック」でも、
 「バイト」でも「水商売」でも「パン」でも「お茶」でも、
 「インターネット」でも「書籍」でも、なんでもかんでも。

 「ありがたがられすぎ・かろんぜられすぎ」は、つまり、
 あなたのことでも、ぼくのことでも同じことなのであった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
すぎることなく、かすかに多めくらいに好かれて過ごせたら。


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