『「化学修士」を名乗る人の『表現の影響論』が酷すぎるのでツッコミを入れておく【『フィクションが現実となるとき』批判の総論編】』の続きです。
前回から日が空きまして、今回の更新です。時間が空いたのはこの度最終回を迎えた『トロピカル~ジュ!プリキュア』をみていて、「いま一番大切なこと」をやるべきだよなぁと思った結果、論文を書いて新しい研究の設計をしてウェイストランドでレイダーの頭を吹き飛ばした後にネオ神河もチラ見していたからです。忙しい。
前回の記事ですでに書いたように、本来であればこの記事は蛇足に過ぎません。ここで扱うのは各論としての事実誤認や誤読の範疇に留まり、それは枝葉末節に過ぎないからです。前回指摘したような全般的な態度の問題は、ここで指摘する枝葉末節を凌駕する問題であり、それを指摘するだけで当該記事の信頼性は否定できるはずです。
とはいえ、こうした理屈を理解しないのが、彼らが自由戦士たるゆえんです。ですから、ここできっちりと指摘をし、事実すら認識できない論考が妥当性のあるものとして流通することを防ぐべきでしょう。
前回同様、引用は特に言及がない限り『表現悪影響論を支持する書籍『フィクションが現実になるとき』の批判的検討』からです。
私の表現と悪影響に関する主張をまとめると以下のようになります。
①表現には多かれ少なかれ悪影響がある。
②少なくとも、表現に悪影響がないとする主張には根拠や妥当性がない。
③表現の悪影響の程度は不明な部分が多い。
④表現に悪影響があることは、必ずしも規制の理由にはならない。
よく私を「表現の規制派」などと実態を無視した表現で呼ぶ人間がいますが、私はその表現が他者の権利を侵害する場合を除いて表現規制を主張したことはありません。ましてや、表現に悪影響があることを理由に規制をせよと主張したことはありません。いうまでもなく、ここでの規制とは法的な規制を指します。
そして、これも勝手に妄想されていることですが、実は私は表現には「現実の犯罪を増やすほどの」悪影響があるとも主張したこともありません。あくまで、悪影響はあるだろうが、現実にどこまで影響するかはわからないという立場です。それはまだ心理学が明らかにできていないところだからです。ですから、私に「表現が現実の犯罪を増やすという証拠を挙げろ!」と求めるのは全く支離滅裂な要求なのです。
ではなぜ、わざわざ聞く耳を持たない相手に「表現には悪影響がある」と指摘し続けるのでしょうか。これは一種の職業的な倫理観によるものです。「表現には悪影響がない」と主張する人々の多くは、論文を曲解した議論を行い人々の心理学に対する理解を妨げています。Wikipediaに至ってはデマや捏造に等しい記述をもっともらしく書く有様です(『Wikipediaの出鱈目「ゲーマーゲート論争」記事を否定する その1』参照)。百歩譲って、それだけなら悪影響はないと主張する論文を過大評価するだけとも言えますが、彼らは当該noteのように悪影響が存在すると主張する論文を、歪曲と一方的な価値判断で過小評価することもします。そのような振る舞いは心理学の名誉にもかかわることと言えるでしょう。
そうした事態を出来るだけ解消し、より正しい心理学の理解を広めるのが心理学者としての職業倫理であると考えています。自由戦士は私の主張に聞く耳を持たないかもしれませんが、幸いにしてまだ自由戦士になっていない人がこれを読んで道を踏み外すのを踏みとどまれば幸いです。
最初に扱うのは『「巧みにたとえている」のではなく、信頼性のフリーライド』と打たれた見出しの部分です。議論にまとまりがなく引用しにくいのですが、最後のまとめの部分を示しておきます。
このまとめ部分の誤りは後で指摘するとして、最初に大筋の方針の問題点を明らかにしておきましょう。それは、例えという表現や行為の性質が全く理解できていないという点です。noteの筆者は『ゲームと犯罪と子供たち――ハーバード大学医学部の大規模調査より』を引用し、ゲームの悪影響を煙草と肺がんの関係に例えることを批判します。その批判の方法は、煙草と肺がんの関係と犯罪とゲームの関係の相違点を列挙し、違いがあることをもってその比較の不当性を強調するというものです。
しかし、これは的外れな批判です。というのも、例えというのはそもそも、あるものをそれとは違うものを持ち出すことで説明しなおす行為だからです。AがBのようだというとき、AとBが違うのは当たり前です。ですから、AB間の違いを列挙することはその例えが誤りであることを指摘することに繋がりません。
AをBに例える行為がおかしいと指摘するには、違いを列挙するのではなく「重要な要素」に違いがあることを指摘しなければなりません。例えば自由戦士は、批判を放火に例えることがありますが、これは前者が合法的な行為であるのに対し後者が違法行為であるという「重要な要素」が異なるため、不当な例えであると指摘することができます。一方、放火は批判と違うのだと主張するとき、火を使うかどうかが違うなどと言ってもあまり意味はありません。そこは別に重要ではないからです。
そして、ゲームと犯罪の関係と煙草と肺がんの関係の例えを否定しようとする筆者(および『ゲームと犯罪と……』の著者)の試みは、ことごとく失敗に終わっていると指摘できます。まず筆者が引用した3点を順にみていきましょう。
まず因果関係の点ですが、これは『フィクションが現実となるとき』を全く読めていないが故の反応です。というか、『フィクションが……』を読んでいるのになお『「暴力的メディア→暴力」という明確な証明はなされていない』と主張できるのはどうしてなのか理解に苦しみます。筆者は後続の記述で『フィクションが……』が紹介する研究の問題点を指摘していますが、仮にそのすべてを受け入れるとしても、因果関係を指摘する研究はほかにも多く紹介されているはずです。ここから、彼が批判する書籍を十分に読みこなせていないことが窺えます。
ちなみに、ゲームと暴力の関係が双方向であり得ると書いていますが、そのことはゲーム→暴力の方向の影響を否定する根拠にはなりません。意味のない記述です。
次に、生理学的な側面についてです。確かにメディアの暴力への影響については生理学的な知見が不十分です(少なくとも私は知らない)。しかし、そもそも心理学は生理学とは別のアプローチで人間の行動を明らかにする学問ですから、このような主張は寿司屋に焼き肉を求めるようなものでしょう。また、心理学的なアプローチの利点の1つは、技術的な限界から生理学的なエビデンスを望めない分野に関しても、物事の影響や行動の変容といった「現実に出力されるもの」を明らかにできる点にあります。もちろん、生理学的な知見も積み重ねられるに越したことはありませんが、それがないから心理学的な知見も全否定するというは、まさに前回指摘した一方的で狭量な価値観による判断でしょう。
最後に、診断基準に関してです。確かにゲームの悪影響を研究する場合、悪影響の定義が研究によりまちまちであるという問題点はあります。そうした不一致を問題視する考え方にも一定の妥当性があり、それを否定するつもりもありません。しかし、そうした不一致は一方で、フィクションが多様な影響を持つことを明らかにすることにも繋がっています。それこそ、『フィクションが……』では様々な影響が論じられ、その存在を示す研究も存在します。
問題があるとすれば、そうした研究間の不一致を無視して、あたかも「悪影響」という巨大な概念が存在するかのように粗雑に議論することでしょう。つまり、『フィクションが……』の著者が指摘するように、悪影響があるならゲーム屋の前に死体の山が築かれていないのはおかしいと主張するような態度です。
結局、この研究間の不一致を(ゲームの悪影響を否定する目的で)問題する態度も、再三指摘するように「一方的で狭量な価値観による判断」に過ぎません。個々の研究にはそれぞれの目的があり、その目的に応じた従属変数を用いている(少なくとも用いようとしている)のに、その結果生じる不一致を理由に知見の価値を全否定しようとする態度は妥当ではありません。
こうした点から、note筆者の議論が極めて不正確で一方的なものだとお判りいただけると思います。
ちなみに、まとめでは列挙されなかった点も指摘しておきましょう。まず『電子メディアが人気を集める以前から、攻撃的行為は珍しくはなかった』ですが、フィクションの悪影響を否定する根拠にはなりません。上述の「例えを否定することにならない相違の列挙」の1つです。そもそも、議論は『電子メディア』に限られてはいませんし。個人的な見解・推測ですが、メディアが暴力を助長するメカニズムはそのまま「直接的な暴力を目の当たりにする」ことで暴力が助長されるメカニズムに援用できるので、「周囲に暴力があるので暴力が助長される」とまとめることができるし、そう考えれば煙草の蔓延と肺がんの台頭と同じように考えることもできると思います。
もう1つ、『暴力的なゲームと未成年者による暴力犯罪などの現実世界の犯罪件数を比べた場合』肺がんと異なりあらゆる属性の集団で犯罪件数が相関するわけではないという点ですが、これも「例えを否定することにならない相違の列挙」の1つです。ゲームと犯罪の関連を媒介ないしは調停する要因があることは、当然悪影響を否定する理由にはなりません(悪影響が限定的だと主張することはできるが)。また、議論に現実の犯罪件数を用いる問題は前回の記事で指摘しました。
しかし、結論から言えば、これもやはり「一方的で狭量な価値観による判断」に過ぎません。
まず、過去の重要な文献に言及していないという指摘は割と普通のことですが、そこには必ず「その文献が言及されないのはおかしいくらい重要なものである」という前提があります。筆者は『ゲームと犯罪と……』が『フィクションが……』の8年前に出版されたことを強調していますが、ある文献でそれよりも過去に出版された文献全てに言及できないのは当然なので、時系列上の関係だけでは何の理由にもなっていません。
では、『ゲームと犯罪と……』に言及しないのは不自然でしょうか。私の考えではそうではありません。もちろん文献の評価は個々人の考え方によるところもありますが、少なくとも言及しないことが『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』と言われるほどのものではないことは事実です。
なぜそう言えるのでしょうか。理由は主に2つあります。第一に、どの論文を引用しないのが『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』と言えるのかは文献の議論の流れや目的に応じて判断されるものであり、『フィクションが……』の目的を考えれば『ゲームと犯罪と……』に触れないことは別に『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』というものではないと考えられるからです。『フィクションが……』の目的は一般に向けて表現の影響について議論することであり、それは『ゲームと犯罪と……』に触れずとも可能なものです。
もちろん、『ゲームと犯罪と……』およびそこで言及されている批判に言及していないのは事実ですから、こうした批判を引用して本書に疑念を差し挟むことは可能ですし、それ自体は不当ではありません。しかし、『フィクションが……』がそこに触れていないのは、単に本書の目的が個々の研究の妥当性を論じることや立場の違う人たちと論争することにないために過ぎません。文献が特定の言説に触れていないこと「だけ」をもって『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』などと、あたかも研究者が悪意を持って言説を捻じ曲げたかのように表現するのはあまりにも不当です。
2つ目の理由は、文献それ自体の独立した評価にかかわるものです。note筆者は、そして日本のネットで活動する自由戦士のなかでは『ゲームと犯罪と……』は表現の影響に関する重要な研究であり、最も評価すべきものだとみなされている節があります。が、実際にはそこまでのものではありません。そうした評価はあくまで日本の、しかもネットにおけるごく一部のコミュニティの評価に過ぎません。アメリカの心理学者の中での評価はまた違います。
じゃあアメリカの心理学者は『ゲームと犯罪と……』をどう思っているんだと尋ねたいところでしょう。日本の心理学者である私には実感をもって理解するのが難しいところですが、少なくとも言及しないことが『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』というほどではないことははっきりと断言していいと思います。なぜなら、そもそも言及しないことが『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』の文献は稀であり、そんな文献があれば流石に私を含む日本の研究者にも常識的な感覚として共有されるだろうと予想されるからです。例えば、プロスペクト理論を論じる際にダニエル・カーネマン(プロスペクト理論でノーベル賞を受賞)の論文が一切参照されていなければ、心理学者は全員「あれ?」と思うでしょう。
この感覚を例えるのは難しいのですが、例えば日本のRPGを語る際にドラゴンクエストとファイナルファンタジーに言及しないのは誰もがおかしいとわかるはずです。『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』などと、悪意まで推測するレベルで言説の不当性を疑うにはこのくらいのインパクトが必要です。一方、それ以外のゲームに言及しない限りにおいては(その議論の方向性などによるとはいえ)不正を疑うレベルでおかしいと疑義を挟まれることはないということも感覚的にわかるかと思われます。
長々と説明しましたが、ここで指摘したnote筆者の態度というのは、結局のところ「俺が重要だと思う文献に触れていないからこの本は全部出鱈目」という、子供じみた「一方的で狭量な価値観による判断」に過ぎません。ある特定の文献に触れていないことがその議論において不正すら疑わせるなどという事態は(心理学では)かなり稀であり、もちろん『フィクションが……』はその稀な事象に該当しません。
こうした態度は、ある意味では『オタクはやはり「論理による論証」が概念から理解できていないのでは』でも触れた自由戦士の中にある知的な怠惰さとも相性がいいのでしょう。『ゲームと犯罪と……』に触れていないから駄目、という単純極まりないスクリプトで相手の議論を全否定できるのですから、こんなに便利なことはありません。しかし、そうした議論が有効なのはネットの身内だけです。
というわけで、話を『カレンさんは不都合から目をそらす』に戻します。ここで筆者は「不都合な真実」として2005年に行われたイリノイ州のゲーム規制法の違憲判決を取り上げていますが、なぜこれが取り上げられたのか実は全く意味不明です。
ではなぜ筆者がわざわざイリノイ州の判決を持ち出したかと言えば、イリノイの件で本書の印象を操作しようと考えたのでしょう。もちろん、本書とイリノイの件は無関係ですから、何の意味もない行為です。また、本書がイリノイの件を無視しているという例のチェリーピッキングの指摘なのかもしれませんが、こうした指摘が不当であることは上の議論と全く同じ理屈で導けます。
と同時に、イリノイ州の違憲判決を重要視し、あたかもこの分野における最終回答であるかのように扱われている意味も全く分かりません。イリノイ州の違憲判決の要素をまとめると①2005年時点の判決で②アンダーソン他の心理学者の主張が、それに反対する心理学者の主張より妥当性が低いと③裁判を担当した判事が考えたということです。数字を打ちましたが、この要素が判決の主張を金科玉条のごとく崇めるバカバカしさを示しています。
まず①ですが、判決は2005年です。一方、『フィクションが……』のアメリカでの出版は2016年であり、10年以上の開きがあります。仮に2005年の判決が完全に妥当だとしても、本書の出版までの間に当然知見はアップデートされており、2005年の判断が現在も妥当であると固定的に考えなければいけない理由はどこにもありません。note筆者の態度によれば過去の知見に言及しないのはともすれば『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』らしいのですが、肝心の彼は2005年から2016年の間の知見を無視し、2005年の結論に拘泥しようとしています。彼自身の主張ではこのような振る舞いは『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』ではないでしょうか。
次に②ですが、アンダーソンは確かにその分野で有名な研究者でしょうが、その研究者の主張が必ずしもその分野の知見を網羅しているとも、それを裁判の場で適切に主張できたとも限りません。仮に裁判所の判断を完全に信用するとしても、それはあくまで裁判におけるアンダーソン他の主張に対する判断に過ぎず、分野全体に対する判断ではありません。
そして③ですが、判断したのは判事です。判事は法律の専門家かもしれませんが、心理学の専門家ではありません。そのような人物の判断をなぜ無批判に信じるのでしょうか。ある分野で専門家であっても、別の分野で専門家であるとは限りません。また、判事はあくまで法律上の観点から判断を下したのであって、そのような観点は心理学研究の結論としてどちらが妥当かという判断とは異なる可能性があります。
そのことは、判事の判断が『仮に暴力的なゲームをすることで、攻撃的思考や行動が増すという仮定を認めたとしても、それが顕著であるという証拠はない』と説明されていることからも窺えます。あくまで規制を合憲と判断するだけの影響があるという根拠がないという判断であり、影響がないとは言っていないし、ましてや影響がないことが証明されたとも言っていません。
もちろん、原告と被告および判事の判断のどれが妥当かは、個々の主張を読み解かないとわからないでしょう。そして、裁判としての判断と知見の妥当性としての判断が異なるかもしれません。しかし、noteの筆者はそうした作業を怠り、判事の判断(およびその判断を引用した『ゲームと犯罪と……』の著者)を無批判に信じるに留まっています。あれ、この議論どこかで……。
もちろん、私は筆者に、アメリカの判決を読み解いて妥当性を検討しろとは言いません。そんなもの、私にだって困難ですから。ここで重要なのは、自分はやらないのに人に求めるという身勝手な二重規範を止め、狭量な価値観による一方的な判断を止めて公平に物事を見るべきだということです。それこそ、文献に対する「真の」最低限のマナーというものでしょう。
前回から日が空きまして、今回の更新です。時間が空いたのはこの度最終回を迎えた『トロピカル~ジュ!プリキュア』をみていて、「いま一番大切なこと」をやるべきだよなぁと思った結果、論文を書いて新しい研究の設計をしてウェイストランドでレイダーの頭を吹き飛ばした後にネオ神河もチラ見していたからです。忙しい。
前回の記事ですでに書いたように、本来であればこの記事は蛇足に過ぎません。ここで扱うのは各論としての事実誤認や誤読の範疇に留まり、それは枝葉末節に過ぎないからです。前回指摘したような全般的な態度の問題は、ここで指摘する枝葉末節を凌駕する問題であり、それを指摘するだけで当該記事の信頼性は否定できるはずです。
とはいえ、こうした理屈を理解しないのが、彼らが自由戦士たるゆえんです。ですから、ここできっちりと指摘をし、事実すら認識できない論考が妥当性のあるものとして流通することを防ぐべきでしょう。
前回同様、引用は特に言及がない限り『表現悪影響論を支持する書籍『フィクションが現実になるとき』の批判的検討』からです。
前提として:私が表現と影響をどう考えているか
その前に、前提として、私が表現と悪影響に関する議論をどのように考えているか、態度を明らかにしておきましょう。というのも、以前の記事に殺到した自由戦士の多くが、私が書いてもいない「態度」を勝手に妄想し、それをもとにバッシングを行うという野蛮な行為を繰り返していたからです。私の表現と悪影響に関する主張をまとめると以下のようになります。
①表現には多かれ少なかれ悪影響がある。
②少なくとも、表現に悪影響がないとする主張には根拠や妥当性がない。
③表現の悪影響の程度は不明な部分が多い。
④表現に悪影響があることは、必ずしも規制の理由にはならない。
よく私を「表現の規制派」などと実態を無視した表現で呼ぶ人間がいますが、私はその表現が他者の権利を侵害する場合を除いて表現規制を主張したことはありません。ましてや、表現に悪影響があることを理由に規制をせよと主張したことはありません。いうまでもなく、ここでの規制とは法的な規制を指します。
そして、これも勝手に妄想されていることですが、実は私は表現には「現実の犯罪を増やすほどの」悪影響があるとも主張したこともありません。あくまで、悪影響はあるだろうが、現実にどこまで影響するかはわからないという立場です。それはまだ心理学が明らかにできていないところだからです。ですから、私に「表現が現実の犯罪を増やすという証拠を挙げろ!」と求めるのは全く支離滅裂な要求なのです。
ではなぜ、わざわざ聞く耳を持たない相手に「表現には悪影響がある」と指摘し続けるのでしょうか。これは一種の職業的な倫理観によるものです。「表現には悪影響がない」と主張する人々の多くは、論文を曲解した議論を行い人々の心理学に対する理解を妨げています。Wikipediaに至ってはデマや捏造に等しい記述をもっともらしく書く有様です(『Wikipediaの出鱈目「ゲーマーゲート論争」記事を否定する その1』参照)。百歩譲って、それだけなら悪影響はないと主張する論文を過大評価するだけとも言えますが、彼らは当該noteのように悪影響が存在すると主張する論文を、歪曲と一方的な価値判断で過小評価することもします。そのような振る舞いは心理学の名誉にもかかわることと言えるでしょう。
そうした事態を出来るだけ解消し、より正しい心理学の理解を広めるのが心理学者としての職業倫理であると考えています。自由戦士は私の主張に聞く耳を持たないかもしれませんが、幸いにしてまだ自由戦士になっていない人がこれを読んで道を踏み外すのを踏みとどまれば幸いです。
自由戦士あるある:例えがわからない
・タバコと肺がんでは、因果関係の方向が「タバコ→肺がん」と分かっているが、暴力的メディアと暴力性(攻撃性)については双方向でもありうるし、「暴力的メディア→暴力」という明確な証明はなされていない。では本題に戻りましょう。ここからは各論として、見出しを順に追って誤りを指摘していきます。なお、当該noteには有料部分にも長々と記述があるようですが、わざわざ購入してまで扱うようなことはしません。何度も繰り返すように、記事の根本の態度に問題がある以上、事実誤認は枝葉末節に過ぎないからです。
・タバコの場合は、統計的手法だけでなく、生理学的な手法(顕微鏡で拡大したり、成分分析をかけたり……)によるメカニズムの知見も得られているが、暴力的メディアの影響に関してはそうではない。(なお、主旨ではないため割愛するが、fMRIなどによる脳機能イメージング法の結果から意味のある結論を導くのは、様々な課題を抱えている。)
・「肺がん」の定義、診断基準はどこでも一致するが、「暴力的(攻撃的)」の定義、診断基準は研究者によって大きく異なる。(ちなみにこれはメタ分析したときに結論が真逆レベルでブレる原因の一つでもある。)
最初に扱うのは『「巧みにたとえている」のではなく、信頼性のフリーライド』と打たれた見出しの部分です。議論にまとまりがなく引用しにくいのですが、最後のまとめの部分を示しておきます。
このまとめ部分の誤りは後で指摘するとして、最初に大筋の方針の問題点を明らかにしておきましょう。それは、例えという表現や行為の性質が全く理解できていないという点です。noteの筆者は『ゲームと犯罪と子供たち――ハーバード大学医学部の大規模調査より』を引用し、ゲームの悪影響を煙草と肺がんの関係に例えることを批判します。その批判の方法は、煙草と肺がんの関係と犯罪とゲームの関係の相違点を列挙し、違いがあることをもってその比較の不当性を強調するというものです。
しかし、これは的外れな批判です。というのも、例えというのはそもそも、あるものをそれとは違うものを持ち出すことで説明しなおす行為だからです。AがBのようだというとき、AとBが違うのは当たり前です。ですから、AB間の違いを列挙することはその例えが誤りであることを指摘することに繋がりません。
AをBに例える行為がおかしいと指摘するには、違いを列挙するのではなく「重要な要素」に違いがあることを指摘しなければなりません。例えば自由戦士は、批判を放火に例えることがありますが、これは前者が合法的な行為であるのに対し後者が違法行為であるという「重要な要素」が異なるため、不当な例えであると指摘することができます。一方、放火は批判と違うのだと主張するとき、火を使うかどうかが違うなどと言ってもあまり意味はありません。そこは別に重要ではないからです。
そして、ゲームと犯罪の関係と煙草と肺がんの関係の例えを否定しようとする筆者(および『ゲームと犯罪と……』の著者)の試みは、ことごとく失敗に終わっていると指摘できます。まず筆者が引用した3点を順にみていきましょう。
まず因果関係の点ですが、これは『フィクションが現実となるとき』を全く読めていないが故の反応です。というか、『フィクションが……』を読んでいるのになお『「暴力的メディア→暴力」という明確な証明はなされていない』と主張できるのはどうしてなのか理解に苦しみます。筆者は後続の記述で『フィクションが……』が紹介する研究の問題点を指摘していますが、仮にそのすべてを受け入れるとしても、因果関係を指摘する研究はほかにも多く紹介されているはずです。ここから、彼が批判する書籍を十分に読みこなせていないことが窺えます。
ちなみに、ゲームと暴力の関係が双方向であり得ると書いていますが、そのことはゲーム→暴力の方向の影響を否定する根拠にはなりません。意味のない記述です。
次に、生理学的な側面についてです。確かにメディアの暴力への影響については生理学的な知見が不十分です(少なくとも私は知らない)。しかし、そもそも心理学は生理学とは別のアプローチで人間の行動を明らかにする学問ですから、このような主張は寿司屋に焼き肉を求めるようなものでしょう。また、心理学的なアプローチの利点の1つは、技術的な限界から生理学的なエビデンスを望めない分野に関しても、物事の影響や行動の変容といった「現実に出力されるもの」を明らかにできる点にあります。もちろん、生理学的な知見も積み重ねられるに越したことはありませんが、それがないから心理学的な知見も全否定するというは、まさに前回指摘した一方的で狭量な価値観による判断でしょう。
最後に、診断基準に関してです。確かにゲームの悪影響を研究する場合、悪影響の定義が研究によりまちまちであるという問題点はあります。そうした不一致を問題視する考え方にも一定の妥当性があり、それを否定するつもりもありません。しかし、そうした不一致は一方で、フィクションが多様な影響を持つことを明らかにすることにも繋がっています。それこそ、『フィクションが……』では様々な影響が論じられ、その存在を示す研究も存在します。
問題があるとすれば、そうした研究間の不一致を無視して、あたかも「悪影響」という巨大な概念が存在するかのように粗雑に議論することでしょう。つまり、『フィクションが……』の著者が指摘するように、悪影響があるならゲーム屋の前に死体の山が築かれていないのはおかしいと主張するような態度です。
結局、この研究間の不一致を(ゲームの悪影響を否定する目的で)問題する態度も、再三指摘するように「一方的で狭量な価値観による判断」に過ぎません。個々の研究にはそれぞれの目的があり、その目的に応じた従属変数を用いている(少なくとも用いようとしている)のに、その結果生じる不一致を理由に知見の価値を全否定しようとする態度は妥当ではありません。
こうした点から、note筆者の議論が極めて不正確で一方的なものだとお判りいただけると思います。
ちなみに、まとめでは列挙されなかった点も指摘しておきましょう。まず『電子メディアが人気を集める以前から、攻撃的行為は珍しくはなかった』ですが、フィクションの悪影響を否定する根拠にはなりません。上述の「例えを否定することにならない相違の列挙」の1つです。そもそも、議論は『電子メディア』に限られてはいませんし。個人的な見解・推測ですが、メディアが暴力を助長するメカニズムはそのまま「直接的な暴力を目の当たりにする」ことで暴力が助長されるメカニズムに援用できるので、「周囲に暴力があるので暴力が助長される」とまとめることができるし、そう考えれば煙草の蔓延と肺がんの台頭と同じように考えることもできると思います。
もう1つ、『暴力的なゲームと未成年者による暴力犯罪などの現実世界の犯罪件数を比べた場合』肺がんと異なりあらゆる属性の集団で犯罪件数が相関するわけではないという点ですが、これも「例えを否定することにならない相違の列挙」の1つです。ゲームと犯罪の関連を媒介ないしは調停する要因があることは、当然悪影響を否定する理由にはなりません(悪影響が限定的だと主張することはできるが)。また、議論に現実の犯罪件数を用いる問題は前回の記事で指摘しました。
8年前だからどうした
でも、実は『ゲームと犯罪と子どもたち』の方でも同じ文献を取り上げ、かなり紙幅を割いて批判しているのだわ。もう1つ、同じ見出しのところから興味深い記述を取り上げましょう。彼は『ゲームと犯罪と……』の出版が『フィクションが……』の8年前であることを何度も強調し、あたかも『フィクションが……』が重要な研究を無視してるかのように印象付けます。
ちなみにもう一度言うけど、『ゲームと犯罪と子どもたち』の方が8年も早く出版されてるからね?
8年も早く出版されてるからね?
そもそも、ちゃんと比較論をやってくれないと、どっちが正しいのか読者には伝わらないじゃない。そして、そもそも当該noteが批判の中心的な拠り所としているのが『フィクションが……』が都合のいい研究ばかりを取り上げたチェリーピッキングであるという点であり、その証拠の1つが『ゲームと犯罪と……』を無視していることになっています。『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』とまで書いていますから、相当なものでしょう。
普通、反対意見の研究者たちも、同じように比較に基づいて論じていると思うじゃない? それがその本だと予想したのだわ。
科学的な本って、「ここまでは大体分かっている。ここからは仮説がいくつかあり、決着を見ていない」という書き方をするでしょう。
結論としては、この本は違ったけど。
私としては、表現の影響に関する一般書籍なら、ハーバード大医学部が実施した大規模調査をまとめた、こちらの本を断然おすすめするわね!
こちらの本では、きちんとアンダーソンさんを始めとした「強い悪影響があるとする研究者」の論文をいくつも取り上げているし、そのうえで、それらがなぜ妥当でないと考えられるのかも当然、誠実に説明されているわ。
この一点だけでも――私が「自由戦士」的な思想の持ち主であるかどうかに関わらず――科学的議論の水準として絶対的に上位よ。
ちなみに、2つの本の"原著の"出版年を考えると、
2016年出版の『フィクションが現実になるとき』(参考文献リストを見るに2014年の論文までは記載がある)が、2008年出版の『ゲームと犯罪と子どもたち』の存在を無視してるのは、「奇妙」を通り越して「不正」のレベルだと感じるわ。
※引用者注:太字は引用者
しかし、結論から言えば、これもやはり「一方的で狭量な価値観による判断」に過ぎません。
まず、過去の重要な文献に言及していないという指摘は割と普通のことですが、そこには必ず「その文献が言及されないのはおかしいくらい重要なものである」という前提があります。筆者は『ゲームと犯罪と……』が『フィクションが……』の8年前に出版されたことを強調していますが、ある文献でそれよりも過去に出版された文献全てに言及できないのは当然なので、時系列上の関係だけでは何の理由にもなっていません。
では、『ゲームと犯罪と……』に言及しないのは不自然でしょうか。私の考えではそうではありません。もちろん文献の評価は個々人の考え方によるところもありますが、少なくとも言及しないことが『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』と言われるほどのものではないことは事実です。
なぜそう言えるのでしょうか。理由は主に2つあります。第一に、どの論文を引用しないのが『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』と言えるのかは文献の議論の流れや目的に応じて判断されるものであり、『フィクションが……』の目的を考えれば『ゲームと犯罪と……』に触れないことは別に『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』というものではないと考えられるからです。『フィクションが……』の目的は一般に向けて表現の影響について議論することであり、それは『ゲームと犯罪と……』に触れずとも可能なものです。
もちろん、『ゲームと犯罪と……』およびそこで言及されている批判に言及していないのは事実ですから、こうした批判を引用して本書に疑念を差し挟むことは可能ですし、それ自体は不当ではありません。しかし、『フィクションが……』がそこに触れていないのは、単に本書の目的が個々の研究の妥当性を論じることや立場の違う人たちと論争することにないために過ぎません。文献が特定の言説に触れていないこと「だけ」をもって『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』などと、あたかも研究者が悪意を持って言説を捻じ曲げたかのように表現するのはあまりにも不当です。
2つ目の理由は、文献それ自体の独立した評価にかかわるものです。note筆者は、そして日本のネットで活動する自由戦士のなかでは『ゲームと犯罪と……』は表現の影響に関する重要な研究であり、最も評価すべきものだとみなされている節があります。が、実際にはそこまでのものではありません。そうした評価はあくまで日本の、しかもネットにおけるごく一部のコミュニティの評価に過ぎません。アメリカの心理学者の中での評価はまた違います。
じゃあアメリカの心理学者は『ゲームと犯罪と……』をどう思っているんだと尋ねたいところでしょう。日本の心理学者である私には実感をもって理解するのが難しいところですが、少なくとも言及しないことが『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』というほどではないことははっきりと断言していいと思います。なぜなら、そもそも言及しないことが『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』の文献は稀であり、そんな文献があれば流石に私を含む日本の研究者にも常識的な感覚として共有されるだろうと予想されるからです。例えば、プロスペクト理論を論じる際にダニエル・カーネマン(プロスペクト理論でノーベル賞を受賞)の論文が一切参照されていなければ、心理学者は全員「あれ?」と思うでしょう。
この感覚を例えるのは難しいのですが、例えば日本のRPGを語る際にドラゴンクエストとファイナルファンタジーに言及しないのは誰もがおかしいとわかるはずです。『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』などと、悪意まで推測するレベルで言説の不当性を疑うにはこのくらいのインパクトが必要です。一方、それ以外のゲームに言及しない限りにおいては(その議論の方向性などによるとはいえ)不正を疑うレベルでおかしいと疑義を挟まれることはないということも感覚的にわかるかと思われます。
長々と説明しましたが、ここで指摘したnote筆者の態度というのは、結局のところ「俺が重要だと思う文献に触れていないからこの本は全部出鱈目」という、子供じみた「一方的で狭量な価値観による判断」に過ぎません。ある特定の文献に触れていないことがその議論において不正すら疑わせるなどという事態は(心理学では)かなり稀であり、もちろん『フィクションが……』はその稀な事象に該当しません。
こうした態度は、ある意味では『オタクはやはり「論理による論証」が概念から理解できていないのでは』でも触れた自由戦士の中にある知的な怠惰さとも相性がいいのでしょう。『ゲームと犯罪と……』に触れていないから駄目、という単純極まりないスクリプトで相手の議論を全否定できるのですから、こんなに便利なことはありません。しかし、そうした議論が有効なのはネットの身内だけです。
裁判官の判断がなぜ金科玉条となるのか
ここまで見出しの順番に触れてきましたが、ここで『「置き論破」を無視する本』を飛ばします。というのも、記事が長くなってしまったというのに加え、この部分を論じるには2冊の書籍の主張を見比べつつ、場合によっては原典に当たりながらどちらの主張が妥当かを明らかにするという、こりゃもう専門分野での研究の下調べだろというレベルのことをやる必要が出てくるからです。当然時間もかかりますから、すぐにはできません。それをブログという片手間でやるわけですから、このシリーズの次回の更新は半年後でした、みたいなことが平気で起こりそうなほどタフです。また、研究の妥当性の判断をどう考えるべきかについて前提を論じる必要もありそうなので、そこでもより記事が長くなりそうです。というわけで、話を『カレンさんは不都合から目をそらす』に戻します。ここで筆者は「不都合な真実」として2005年に行われたイリノイ州のゲーム規制法の違憲判決を取り上げていますが、なぜこれが取り上げられたのか実は全く意味不明です。
へえ。カリフォルニア州のゲーム規制法の件ではそうだったの?というのも、筆者が認めているように、『フィクションが……』が言及しているのはカルフォルニア州のものでありイリノイ州のものではないからです。また、著者がイリノイ州の判決にかかわったわけでもありません。
でもそれさあ、2005年のイリノイ州の同じゲーム規制法で示された違憲判決の件から目を逸してない?
この裁判では、研究者としてアンダーソンさんとクローネンバーガーさんが「ゲーム規制法を正当化できるくらいに科学的根拠はある!」と自分たちの論文をもとに主張し、それに対して、やはり研究者であるゴールドスタインさんとウィリアムズさん、加えてヌスバウムさんが「いやそれらは科学的妥当性に欠いている」と反論する形で争われたわ。
ではなぜ筆者がわざわざイリノイ州の判決を持ち出したかと言えば、イリノイの件で本書の印象を操作しようと考えたのでしょう。もちろん、本書とイリノイの件は無関係ですから、何の意味もない行為です。また、本書がイリノイの件を無視しているという例のチェリーピッキングの指摘なのかもしれませんが、こうした指摘が不当であることは上の議論と全く同じ理屈で導けます。
と同時に、イリノイ州の違憲判決を重要視し、あたかもこの分野における最終回答であるかのように扱われている意味も全く分かりません。イリノイ州の違憲判決の要素をまとめると①2005年時点の判決で②アンダーソン他の心理学者の主張が、それに反対する心理学者の主張より妥当性が低いと③裁判を担当した判事が考えたということです。数字を打ちましたが、この要素が判決の主張を金科玉条のごとく崇めるバカバカしさを示しています。
まず①ですが、判決は2005年です。一方、『フィクションが……』のアメリカでの出版は2016年であり、10年以上の開きがあります。仮に2005年の判決が完全に妥当だとしても、本書の出版までの間に当然知見はアップデートされており、2005年の判断が現在も妥当であると固定的に考えなければいけない理由はどこにもありません。note筆者の態度によれば過去の知見に言及しないのはともすれば『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』らしいのですが、肝心の彼は2005年から2016年の間の知見を無視し、2005年の結論に拘泥しようとしています。彼自身の主張ではこのような振る舞いは『「奇妙」を通り越して「不正」のレベル』ではないでしょうか。
次に②ですが、アンダーソンは確かにその分野で有名な研究者でしょうが、その研究者の主張が必ずしもその分野の知見を網羅しているとも、それを裁判の場で適切に主張できたとも限りません。仮に裁判所の判断を完全に信用するとしても、それはあくまで裁判におけるアンダーソン他の主張に対する判断に過ぎず、分野全体に対する判断ではありません。
そして③ですが、判断したのは判事です。判事は法律の専門家かもしれませんが、心理学の専門家ではありません。そのような人物の判断をなぜ無批判に信じるのでしょうか。ある分野で専門家であっても、別の分野で専門家であるとは限りません。また、判事はあくまで法律上の観点から判断を下したのであって、そのような観点は心理学研究の結論としてどちらが妥当かという判断とは異なる可能性があります。
そのことは、判事の判断が『仮に暴力的なゲームをすることで、攻撃的思考や行動が増すという仮定を認めたとしても、それが顕著であるという証拠はない』と説明されていることからも窺えます。あくまで規制を合憲と判断するだけの影響があるという根拠がないという判断であり、影響がないとは言っていないし、ましてや影響がないことが証明されたとも言っていません。
もちろん、原告と被告および判事の判断のどれが妥当かは、個々の主張を読み解かないとわからないでしょう。そして、裁判としての判断と知見の妥当性としての判断が異なるかもしれません。しかし、noteの筆者はそうした作業を怠り、判事の判断(およびその判断を引用した『ゲームと犯罪と……』の著者)を無批判に信じるに留まっています。あれ、この議論どこかで……。
「暴力的ないし性的な表現による影響ついて、一部の研究者(例:今回のカレンさんやその師匠のアンダーソンさんなど)が行った実験手法とその結果によっては、彼らが結論しているような影響の存在は支持されない。なぜなら……」そうでした。筆者は『フィクションが……』に対し、異なる意見を取り上げてなぜ一方が信用に足るか説明しなければならないと主張していました。なぜ人には求めるのに自分はやらず、粗雑に書籍を引用して済ませるのでしょうか。おかしな話ですね。最低限のマナーのはずなのに。
――と、反対意見を取り上げて、「なぜ自分たちの研究結果のほうが妥当か」「なぜ他の研究は妥当でないか」を論じているわ。新橋さんはきっとご存知よね? 心理学で博士号をお持ちだと伺っているのだわ。
(中略)
最終的にどちらが正しいかはともかく、こうして比較して「こっちが正しい!」と言える根拠・理由を述べるのは、いわば最低限のマナーじゃないかしら?
もちろん、私は筆者に、アメリカの判決を読み解いて妥当性を検討しろとは言いません。そんなもの、私にだって困難ですから。ここで重要なのは、自分はやらないのに人に求めるという身勝手な二重規範を止め、狭量な価値観による一方的な判断を止めて公平に物事を見るべきだということです。それこそ、文献に対する「真の」最低限のマナーというものでしょう。
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