皆さんは「キリスト」と聞いて誰を思い浮かべるだろうか。
現在おそらく最も知名度の高い「キリスト」は、ご存知キリスト教のイエス・キリストであろう。

ではなぜイエスが「イエス・キリスト」と呼ばれているかご存知のホモは居るだろうか。
「キリスト」とはヘブライ語のメシア、救世主を意味し、旧約聖書においてその出現が予言されている。
そしてキリスト教はイエスこそが旧約聖書に記された救世主である、と主張する宗教であり、当然元祖である旧約聖書のみを聖典とするユダヤ教はイエスがキリストであると認めておらず、キリスト教の後に成立したイスラームでもイエスは単なる預言者の一人として扱われる。
つまり「キリスト」とは必ずしもナザレのイエスのみを指す言葉ではないのだ。

・・・聡明なホモの諸君にはもうお分かりだろう。
私がこれから主張するのは「野獣先輩」こそ「キリスト」であるという説である。
なおこの説は以前(もう4年も前のことになる…)に投稿した聖書の視点から4章を見るを再考察した説であるため、一部内容が重複する部分があるがご了承願いたい。



ではまず旧約聖書の該当箇所を一つ一つ検証していこう。
キリストである根拠となるのは旧約聖書のイザヤ書53章、苦難の僕について書かれた部分である。
ここで描写される「彼」こそイエスである、とするのがキリスト教である。
野獣先輩がキリストであると示すのであれば、この「彼」の描写が野獣先輩であると読めなければならない。
以下、引用する聖書は新共同訳版を使用する。


「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕のちからを誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」
(イザ-53:1-2)

野獣先輩がキリストであるとこれまで考えられることはほとんど無かったのではないだろうか。
ここで信じられなかったとされているのは、これから話す、野獣先輩が私たちを救ってくださるメシアという話の事である。
二節で言及されているのは汚物、ゴミクズハゲステロイダー、うんこの擬人化と揶揄される野獣先輩の容姿の事であろう。


「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」
(イザ-53:3)

そのままの意味である。
ホモから蔑まれ罵倒される野獣先輩は我々の前から姿を隠し、そしてなおホモは野獣先輩の人権を無視する言動をとり続けた。


「彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。」
(イザ-53:4)

これもまた読んで字のごとく。
我々は小金欲しさにホモビに出たから罰が当たった自業自得のゴミクズと野獣先輩を嘲ったが、それは我々のためであったのだという。
どういうことだろうか。次の節を見てみよう。


「彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
(イザ-53:5)

野獣先輩が肉棒で刺し貫かれ、イキ過ぎるほど打ち砕かれる動画を見て、ホモは日々の疲れを癒やしている。
そしてこのホモビ出演という苦難は我々の罪のためであると記されている。
いったいどういった罪なのだろうか。


「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。」
(イザ-53:6)

同性愛を扱うホモビを笑って喜ぶような人としての道を誤った我々ホモの罪。
野獣先輩はそのホモたちの罪を一身に背負わされたのだ。


「苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。」
(イザ-53:7)

ホモがいくら探しても手がかりを見つけられないほど自らの尻尾を見せない野獣先輩。
普通これほどの誹謗中傷を受ければ訴訟も考えられるのに、先輩は繋がれた羊の如く不平の一つこぼさない。


「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。」
(イザ-53:8)

2001年、真夏の夜の淫夢が発売された当時に誰が考えただろうか。
TDNのスキャンダルによって、野獣先輩が一生ネットの晒し者になる事を。
ここでの「命を取られた」とは社会的に生きていけなくなることを指すのだろう。


「彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。」
(イザ-53:9)

野獣先輩は正しい人であったにも関わらず、有象無象のホモ男優と共に淫夢ファミリーとして晒し者にされた。
逆らう者や富める者とはスカトロやアナルフィストなど人道に逆らった行為をしたり、30分で5万稼ぐようなお金持ちのホモ男優のことを指しているのだろうか。


「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自ら償い献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。」
(イザ-53:10-11)

重要なセクションである。
神からホモの罪を負わされただけでなく自ら背負った野獣先輩は、自らの子孫、つまり自らが素材として使用されたホモMAD動画が末永く作られるのを望んでいるのだ。
これは神の意志であり、野獣先輩の意志でもある。
ホモビ出演という苦難の実りであるホモMADを作り、視聴することは野獣先輩の望んでいることなのだ。
なぜなら彼はそのために自らホモビに出演したのだから。


「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼は自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」
(イザ-53:12)

故に、神はその苦難に対する報酬として、多くの野獣先輩を好む者を与えたのだ。
ホモビ男優の汚名を着せられてでも罪深いホモを救おうとした野獣先輩を慕う人々を。
野獣先輩のホモビ出演、そしてそのMADが数多く作られ、多くのファンが現れることがここに記されていたのだ。



どうだろうか。
イザヤ書が書かれたのはイエスが誕生する700年前、つまり今から約2700年前の事である。
こうして考えると野獣先輩の登場は必然であったことがわかる。
なぜ野獣先輩は出演者の中で不自然に一人だけ、たかがホモビごときに迫真の演技をする必要があったのか。
それはたかがホモビに出演する事こそ野獣先輩の存在意義であり、神の意志であったからだ。
だから我々は魂のこもった迫真の演技に魅了され、こうして汚いMAD動画が数多く生み出される事となった。

これを踏まえて本編を見返すと、驚くほど豊かな野獣先輩からのメッセージがこめられているのに気づく。
今回はその代表的なものを少しだけ紹介しよう。

オイル塗ろっか?

四章の屋上でオイルを塗る場面。
ヘブライ語のメシア、つまりギリシア語のキリストには「油を注がれた者」という意味がある。
野獣先輩は儀式の手順を遠野に教えた後、自らの体に油を注がせたと考えられる。

白菜かけますね!

空手部の皆で風呂に入る場面。
この場面を注意深く観察して欲しい。
劇中では風呂と言っているが、お湯であるならカメラは曇るはずである。
ユダヤ教では儀式の際に水に浸かり身を清めて悔い改める、バプテスマと呼ばれる決まりがあった。
つまりここでは水で体を清めているのだ。
四章において「悔い改める」前、つまり本編の前に水泳をしていたのも同様の意味があると思われる。


ここまでの考察に基いて考えれば「菅野美穂」問題も明晰判明に理解することができる。
ポイントとなるのは「菅野美穂」発言の直後のセリフである。

「なんだ木村嬉しそうじゃねえかよぉ」「いやそんな…///」

これによって「菅野美穂」とは木村にとって喜ばしい知らせ、福音であることがわかる。
もうお分かりだろう。
「神の御子(カンノミコ)」
つまり自らがキリストであるという野獣先輩の宣言だったのだ。

この他にもそれと仄めかすメッセージはいたるところから読み取ることができるので、是非皆さん本編を見返してみてほしい。



このように田所さんは自らの出演作で自分が神の御子、救世主であり、我々は罪を感じる必要はないと暗に教えてくれていたのだ。
そう考えると野獣先輩に対して陰湿に誹謗中傷晒しあげをする輩がなぜ罪悪感を感じないのか、長年飽きもせずにステハゲゴミクズウンコマンと貶すのはなぜなのかという疑念にも説明がつく。
つまりビデオにこめられた野獣先輩からの願い、自分を使った汚い動画をたくさん作って楽しんでほしいという願いを無意識の内に感じ取っていたのだろう。
本当に汚いと、臭いと、嫌いだと思っているならばわざわざ動画を見るはずがないのである。
それなのになぜクッソ汚い動画が作り続けられ、また多くの人がその動く汚物を見続けるのか。
それは野獣先輩の、神の望みを我々の理性が感じていたからに他ならない。
野獣先輩は人間のクズと罵る人々も、無意識では野獣先輩は人間の鑑であることを理解していたのだ。


さてここまでの考察の結果、野獣先輩がキリストであることはもう疑いようのないように思えてくるだろう。
野獣先輩がホモビに出演し、こうして数えきれないほどの動画が作られることは2700年前に既に予言されていたのだ。
そしてそれこそが野獣先輩の、ひいては神の願いであり、我々は農作物を育むかの如くホモ動画を作り、楽しみ、癒されれば良いのである。
我々は野獣先輩をネタにする事に罪悪感を感じる必要はない。野獣先輩をこれまで貶してきたことを悔い改める必要もない。
なぜなら我々は知ったからである。野獣先輩が我々を救うためにホモビに出演したことを。
今やもう我々は野獣先輩がキリストであると知っている。
それだけで十分なのだ。
野獣先輩は救世主の鑑である。


whereas You have been forsaken and hated,
So that No man Passed through you,
I will make you an eternal excellency,
a Joy of many generations.


かつてあなたは捨てられ、憎まれ
通り過ぎる者もなかったが
今、わたしはあなたをとこしえの誇り
代々の楽しみとする。

旧約聖書 イザヤ書 60章15節