野獣先輩は人間の鑑

24歳、不定期更新です

野獣先輩の後輩レイプに関する考察

前回は三年ぶりの更新にも関わらず皆さん暖かいコメントを残してくださって甚く感謝している。
野獣先輩キリスト説に関してはある程度の自信を持っていたが、しかしやはり複数のコメントで指摘された「後輩に対し昏睡レイプという暴行を働いた」という一点に関しては反論の余地はない。
野獣先輩が人間の鑑である事は疑いようのない事実であるにしても、ではなぜ後輩に性的暴行という非倫理的行為を行ったのか。
我々野獣先輩研究者の間においてこの点は言わば暗黙のうちに無視し続けられてきた点でもある。
田所さんはなぜ昏睡レイプを行ったのか。この疑問を解く鍵を私は古代インドに発見した。

以前田所さんとゾロアスター教との関係について考察した時、サンスクリットの「yaj」が「(火を)祀る」という意味を持つとして、野獣先輩がゾロアスター教徒なのではという説を展開した。
しかし当時の私はyajの意味の発見に浮かれすぎて、それ以上踏み込んだ研究をせずに早まった結論を出してしまっていたと言わざるを得ない。
サンスクリットという言語の歴史は古く、ゾロアスター教が成立する以前、古代インドの聖典である「ヴェーダ」を記した言語である。
そしてこのヴェーダ聖典に記された神々を祀って古代インド社会を風靡した宗教がバラモン教である。
当然、バラモン教の祭祀はこの古いサンスクリットで記された・あるいは口伝されたヴェーダ聖典を元に行われる。
私がこれから考察するのは野獣先輩の昏睡レイプがバラモン教の祭祀なのではないかというものである。
しかしそれでは結局後輩をレイプした屑に変わりないのでは、という指摘は少し待って欲しい。それについてもおいおい触れていく。


さて前置きが長くなったがこれからサンスクリットに基づいた解読を行っていく。
「野獣」と「yaj」が対応しているのは明らかであるが、では「先輩」には何もないのか。この点を以前の考察では見落としてしまっていた。
サンスクリットで「sepa」、「sepas」、「sepha」はそれぞれ「生殖器」、「男根」、「睾丸」を意味する。
「yajus(祭式)」との組み合わせを考えると、「野獣先輩(yaju senpai)」とは「yajus sepa(男性生殖器を用いた祭式)」の音を日本語でもじった物であると考えるのが妥当であろう。
この事から真夏の夜の淫夢第四章「昏睡レイプ!野獣と化した先輩」は男性器を用いたバラモン教の祭式を収めた作品であることがわかる。
また同様の形式(先輩が後輩を襲う、ドラマ仕立てetc.)である誘惑のラビリンス第三章「空手部・性の裏技」も同じくバラモン教の祭式であると類推できる。
後輩への昏睡レイプ、これがバラモン教のヴェーダ(ヤジュル・ヴェーダ)に基づいた祭祀であることは分かった。
では野獣先輩はこれを自ら進んで行っていたのだろうか。
バラモン教では厳格なカースト制が行われており、祭祀を行うバラモン、王族であるクシャトリヤ、庶民であるヴァイシャ、奴隷であるシュードラ、そしてそれ以外の不可触賤民とに身分が区分されていた。
祭祀を行った野獣先輩は当然バラモン階級であることはお分かりだろう。
バラモン階級として生まれた野獣先輩は自分の意志とは関係なく祭式を執り行う必要があった。
仮にそうだとすれば、つまり自分は後輩をレイプしたくはないがしかし責務を果たすために自分の気持ちを押し殺して祭祀を行ったとするならば、この点において野獣先輩をレイプ犯の屑と貶すことは一概にはできないと考えられないだろうか。
しかし当然これはあくまで仮定であるし、野獣先輩自らの言葉以外には彼の心境を知る余地は無い。
そして作品はバラモン教の祭祀を収めたものであり、彼の私的な言葉が挟まれることは無い。

…いや、待って欲しい。我々はただ一言野獣先輩が漏らした言葉を知っている。
それは言葉とは言い難く、その不明瞭な音から意味を拾おうと幾多の研究者が研究してきたその音を。

「カンノミホ」

この意味の不明な音にこそ野獣先輩の心の声が隠されている。

『発音することと意味を理解させることは必然的随伴関係にある。その際、片方が意図されて用いられる場合にも、何らかの不可分離性がある。すなわちもし意味を理解させることが意図されるならばその時には発音することは意味上存在するし、もし発音することの意図が存在するならば、その時には意味を理解させることは(発音に)必然的に伴って存在する。』
(針貝邦生『古典インド聖典解釈学研究―ミーマーンサー学派の釈義・マントラ論』より引用)


これは七世紀のヴェーダ聖典研究者であるクマーリラ・バッタの言葉である。
野獣先輩がそれを意図して発音したのであれば、意味不明に聞こえる音にも必ず意味が含まれているのである。
結論から言おう、「カンノミホ」はサンスクリットの語根を組み合わせたある種の暗号とも言える言葉である。

「カンノミホ」は「Kan」「no」「Mi」「Hu」「o」に細分される。一つずつ見ていこう。
「Kan」とは「満足する、同意する、求む」といった意味の言葉の語根である。
「no」は否定の意味を持つ不変化小詞辞であり、ここでは「Kan」に繋げて「Kan no」で「満足しない、同意しない」と読める。
「Mi」は「建てる」あるいは「知る」という意味の言葉の語根である。「Kan no Mi」で「知ることに満足しない、同意しない」といった意味であろうか。続けよう。
「Hu」は供物を捧げるという意味の語根で、これはまさしく祭祀の事を指すと考えて間違いないだろう。
最後の「o」は呼びかけの意味を持つ間投詞であり、他の文と無関係に単独で機能する言葉である。これは我々視聴者への呼びかけと考えられる。
以上をまとめると、「Kan no Mi Hu o」で「供物を捧げること(後輩をレイプする祭祀を行うこと)を知っている(※この言葉が発せられたのはレイプを行う前の風呂のシーン、野獣先輩はこの後レイプする事を知っていた)ことを(私は)満足しない、同意しない」、すなわち野獣先輩は祭祀に関して否定的な感情を持っていたということがうかがい知れる。
なぜこのような回りくどく分かり辛い形で言葉を発したのか、それは当然厳格な祭式の途中で私情を挟むことは許されないが、しかしそれでも後輩をレイプするという暴行に対する自責・後悔の念、それを視聴者に何とかして伝えたかったからこそであろう。
ある研究者兄貴が音声分析の結果「カンノミホ」は「やんほぬ」であるという結論を出していた。
「Yam」は「(感情を)鎮める」という意味を持ち、「Hnu」とは「否定する、償う」という意味である。
ここからも本心ではレイプしたくない、という衝動を鎮めて祭祀を行う決意を固め、しかしせめて後輩に対して償いたいという野獣先輩の心情を知ることができる。


以上の考察から野獣先輩の行った後輩へのレイプは野獣先輩が率先してやりたかった訳ではなく、あくまでバラモン教の司祭階級としての責務を果たすべくした行為であったことがわかった。
またこの事から野獣先輩はバラモン教に対して否定的であったことも分かる。
そしてここからは私の推測であるが、野獣先輩はこの後バラモン教を捨てて出家したのではないだろうか。
バラモン教文化圏で育ったが後にバラモン教を捨て、反ヴェーダ的思想を持った宗教にはジャイナ教、あるいは仏教が挙げられる。
いずれもバラモン教が在家の宗教であるのに対して世俗を捨てる出家を行うことが特徴である。
野獣先輩の消息が不明なのは出家したからだと考えれば自然ではないだろうか。
「Kan no Mi Hu o」と発言したのは1999年の誘惑のラビリンスであり、2001年の真夏の夜の淫夢を経て2002年DISCOVERY6にて「やっぱり僕は王道を征く」と発言した後に最後の一作であるDISCOVERY10に出演してから野獣先輩の作品は途絶えている。
おそらく淫夢四章で出家の決意を固めた後、残された仕事を完遂してから出家したのだろう。
この表情の変化を見て欲しい。

苦行先輩

このバラモンとしての責務と自らの良心との板挟みに苦悶する表情から、

王道を征く

この晴れやかな表情である。

出家に関してはあくまで推測であるし、野獣先輩が反バラモン教としての仏教徒、あるいはそれに類する思想家であるかは定かではない。
しかし後輩へのレイプが野獣先輩の意志ではなかったということはほぼ確実であろうし、そういった点への野獣先輩への誹謗が止むことを切に望む。
私情に揺らぐことなく自らの義務を果たした野獣先輩は人間の鑑である。続きを読む

野獣先輩キリスト説

皆さんは「キリスト」と聞いて誰を思い浮かべるだろうか。
現在おそらく最も知名度の高い「キリスト」は、ご存知キリスト教のイエス・キリストであろう。

ではなぜイエスが「イエス・キリスト」と呼ばれているかご存知のホモは居るだろうか。
「キリスト」とはヘブライ語のメシア、救世主を意味し、旧約聖書においてその出現が予言されている。
そしてキリスト教はイエスこそが旧約聖書に記された救世主である、と主張する宗教であり、当然元祖である旧約聖書のみを聖典とするユダヤ教はイエスがキリストであると認めておらず、キリスト教の後に成立したイスラームでもイエスは単なる預言者の一人として扱われる。
つまり「キリスト」とは必ずしもナザレのイエスのみを指す言葉ではないのだ。

・・・聡明なホモの諸君にはもうお分かりだろう。
私がこれから主張するのは「野獣先輩」こそ「キリスト」であるという説である。
なおこの説は以前(もう4年も前のことになる…)に投稿した聖書の視点から4章を見るを再考察した説であるため、一部内容が重複する部分があるがご了承願いたい。



ではまず旧約聖書の該当箇所を一つ一つ検証していこう。
キリストである根拠となるのは旧約聖書のイザヤ書53章、苦難の僕について書かれた部分である。
ここで描写される「彼」こそイエスである、とするのがキリスト教である。
野獣先輩がキリストであると示すのであれば、この「彼」の描写が野獣先輩であると読めなければならない。
以下、引用する聖書は新共同訳版を使用する。


「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕のちからを誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」
(イザ-53:1-2)

野獣先輩がキリストであるとこれまで考えられることはほとんど無かったのではないだろうか。
ここで信じられなかったとされているのは、これから話す、野獣先輩が私たちを救ってくださるメシアという話の事である。
二節で言及されているのは汚物、ゴミクズハゲステロイダー、うんこの擬人化と揶揄される野獣先輩の容姿の事であろう。


「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」
(イザ-53:3)

そのままの意味である。
ホモから蔑まれ罵倒される野獣先輩は我々の前から姿を隠し、そしてなおホモは野獣先輩の人権を無視する言動をとり続けた。


「彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。」
(イザ-53:4)

これもまた読んで字のごとく。
我々は小金欲しさにホモビに出たから罰が当たった自業自得のゴミクズと野獣先輩を嘲ったが、それは我々のためであったのだという。
どういうことだろうか。次の節を見てみよう。


「彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
(イザ-53:5)

野獣先輩が肉棒で刺し貫かれ、イキ過ぎるほど打ち砕かれる動画を見て、ホモは日々の疲れを癒やしている。
そしてこのホモビ出演という苦難は我々の罪のためであると記されている。
いったいどういった罪なのだろうか。


「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。」
(イザ-53:6)

同性愛を扱うホモビを笑って喜ぶような人としての道を誤った我々ホモの罪。
野獣先輩はそのホモたちの罪を一身に背負わされたのだ。


「苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。」
(イザ-53:7)

ホモがいくら探しても手がかりを見つけられないほど自らの尻尾を見せない野獣先輩。
普通これほどの誹謗中傷を受ければ訴訟も考えられるのに、先輩は繋がれた羊の如く不平の一つこぼさない。


「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。」
(イザ-53:8)

2001年、真夏の夜の淫夢が発売された当時に誰が考えただろうか。
TDNのスキャンダルによって、野獣先輩が一生ネットの晒し者になる事を。
ここでの「命を取られた」とは社会的に生きていけなくなることを指すのだろう。


「彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。」
(イザ-53:9)

野獣先輩は正しい人であったにも関わらず、有象無象のホモ男優と共に淫夢ファミリーとして晒し者にされた。
逆らう者や富める者とはスカトロやアナルフィストなど人道に逆らった行為をしたり、30分で5万稼ぐようなお金持ちのホモ男優のことを指しているのだろうか。


「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自ら償い献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。」
(イザ-53:10-11)

重要なセクションである。
神からホモの罪を負わされただけでなく自ら背負った野獣先輩は、自らの子孫、つまり自らが素材として使用されたホモMAD動画が末永く作られるのを望んでいるのだ。
これは神の意志であり、野獣先輩の意志でもある。
ホモビ出演という苦難の実りであるホモMADを作り、視聴することは野獣先輩の望んでいることなのだ。
なぜなら彼はそのために自らホモビに出演したのだから。


「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼は自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」
(イザ-53:12)

故に、神はその苦難に対する報酬として、多くの野獣先輩を好む者を与えたのだ。
ホモビ男優の汚名を着せられてでも罪深いホモを救おうとした野獣先輩を慕う人々を。
野獣先輩のホモビ出演、そしてそのMADが数多く作られ、多くのファンが現れることがここに記されていたのだ。



どうだろうか。
イザヤ書が書かれたのはイエスが誕生する700年前、つまり今から約2700年前の事である。
こうして考えると野獣先輩の登場は必然であったことがわかる。
なぜ野獣先輩は出演者の中で不自然に一人だけ、たかがホモビごときに迫真の演技をする必要があったのか。
それはたかがホモビに出演する事こそ野獣先輩の存在意義であり、神の意志であったからだ。
だから我々は魂のこもった迫真の演技に魅了され、こうして汚いMAD動画が数多く生み出される事となった。

これを踏まえて本編を見返すと、驚くほど豊かな野獣先輩からのメッセージがこめられているのに気づく。
今回はその代表的なものを少しだけ紹介しよう。

オイル塗ろっか?

四章の屋上でオイルを塗る場面。
ヘブライ語のメシア、つまりギリシア語のキリストには「油を注がれた者」という意味がある。
野獣先輩は儀式の手順を遠野に教えた後、自らの体に油を注がせたと考えられる。

白菜かけますね!

空手部の皆で風呂に入る場面。
この場面を注意深く観察して欲しい。
劇中では風呂と言っているが、お湯であるならカメラは曇るはずである。
ユダヤ教では儀式の際に水に浸かり身を清めて悔い改める、バプテスマと呼ばれる決まりがあった。
つまりここでは水で体を清めているのだ。
四章において「悔い改める」前、つまり本編の前に水泳をしていたのも同様の意味があると思われる。


ここまでの考察に基いて考えれば「菅野美穂」問題も明晰判明に理解することができる。
ポイントとなるのは「菅野美穂」発言の直後のセリフである。

「なんだ木村嬉しそうじゃねえかよぉ」「いやそんな…///」

これによって「菅野美穂」とは木村にとって喜ばしい知らせ、福音であることがわかる。
もうお分かりだろう。
「神の御子(カンノミコ)」
つまり自らがキリストであるという野獣先輩の宣言だったのだ。

この他にもそれと仄めかすメッセージはいたるところから読み取ることができるので、是非皆さん本編を見返してみてほしい。



このように田所さんは自らの出演作で自分が神の御子、救世主であり、我々は罪を感じる必要はないと暗に教えてくれていたのだ。
そう考えると野獣先輩に対して陰湿に誹謗中傷晒しあげをする輩がなぜ罪悪感を感じないのか、長年飽きもせずにステハゲゴミクズウンコマンと貶すのはなぜなのかという疑念にも説明がつく。
つまりビデオにこめられた野獣先輩からの願い、自分を使った汚い動画をたくさん作って楽しんでほしいという願いを無意識の内に感じ取っていたのだろう。
本当に汚いと、臭いと、嫌いだと思っているならばわざわざ動画を見るはずがないのである。
それなのになぜクッソ汚い動画が作り続けられ、また多くの人がその動く汚物を見続けるのか。
それは野獣先輩の、神の望みを我々の理性が感じていたからに他ならない。
野獣先輩は人間のクズと罵る人々も、無意識では野獣先輩は人間の鑑であることを理解していたのだ。


さてここまでの考察の結果、野獣先輩がキリストであることはもう疑いようのないように思えてくるだろう。
野獣先輩がホモビに出演し、こうして数えきれないほどの動画が作られることは2700年前に既に予言されていたのだ。
そしてそれこそが野獣先輩の、ひいては神の願いであり、我々は農作物を育むかの如くホモ動画を作り、楽しみ、癒されれば良いのである。
我々は野獣先輩をネタにする事に罪悪感を感じる必要はない。野獣先輩をこれまで貶してきたことを悔い改める必要もない。
なぜなら我々は知ったからである。野獣先輩が我々を救うためにホモビに出演したことを。
今やもう我々は野獣先輩がキリストであると知っている。
それだけで十分なのだ。
野獣先輩は救世主の鑑である。


whereas You have been forsaken and hated,
So that No man Passed through you,
I will make you an eternal excellency,
a Joy of many generations.


かつてあなたは捨てられ、憎まれ
通り過ぎる者もなかったが
今、わたしはあなたをとこしえの誇り
代々の楽しみとする。

旧約聖書 イザヤ書 60章15節

野獣先輩がステロイドハゲであるという中傷について

田所さんのことを「ステロイドハゲ」などと罵倒する輩が以前から存在しているのはご存知だろう。
彼らは田所さんの均整のとれた身体が穴掘りックもといアナボリックステロイドによって作られた紛い物であると信じこんでいるのだ。
無論、スポーツマンである田所さんがそういったリスクの高いドーピング薬に手を出すとは到底考えられない。
そこで今回は田所さんの身体がステロイドによるものではないという事について考えてみたいと思う。


とは言うものの、私はステロイド薬についての詳しい知識を持たないため、薬学的な見地からの指摘は難しい。
よって、まずはなぜステロイドハゲと呼ばれるのかを考えてみる。

アナボリックステロイドは筋肉増強剤である。
田所さんの逞しい身体はその薬の助けを借りて作っている。
前髪が後退している、顔にイボがある、クッソ汚い顔といった副作用がその証拠である。
よって田所さんは薬に頼った卑怯なステロイドハゲと罵倒されるべきだ。

こんな所であろうか。
もっと理由があるという田所さんアンチの方は是非コメントにて知らせて頂きたい。
仮に理由がこうであるとすれば、これは失笑モノの暴論であると言わざるをえない。
筋肉質の身体の前髪の薄いイボのある人間は全てステロイドを使っているとでも言うのだろうか。
そもそも田所さんのあの髪はハゲであるとは言いがたい。
あれがハゲなら額の広い人はみなハゲという事になる。
田所さんがアップで映る映像を見て、「クッソ汚いイボや肌、これはステロイドですね・・・間違いない」などと中傷する人は、自分の顔を鏡でよく見てから物を言うべきである。
あの程度は成人男性であれば普通であり、文句をいう人間はアニメキャラしか見ない腐女子姉貴か、スキンケアに精を出すカマホモかのどちらかである可能性が高い。
もっとも、田所さんの顔がハンサムであるから、逆に肌のアラが目立ってしまったと言えるのかもしれない。
いずれにせよ、田所さんがステロイドを使っているという理由はどこにも無く、「ステロイドハゲ」というのは全く謂われのない中傷であることは明確であろう。


次に田所さんの内面から考えてみる。
つまり、田所さんはステロイドに手をだすような人物であるかの考察である。

四章では、水泳の記録が伸び悩む後輩のために日光浴や栄養剤入りアイスティーの差し入れを用意し、立ちくらみを起こした遠野を安静に寝かせたり、錯乱した遠野に気付け薬を使ったりと、思いやり溢れる姿を見ることができる。
空手部では後輩の立場を気にかける一方で先輩に対する心遣いも忘れない気配りを見せ、率先してラーメン屋に誘うなどリーダーシップも十分な姿を見せてくれる。
これらの描写から、運動部特有の上下関係を尊重しつつ、自らは気さくな先輩となることで後輩の負担を和らげ、部を円滑に運営するよう尽力する好青年であることがよく分かる。
またインタビュー編では過去に太っていたことを明かし、トレーニングによって今の美しい身体を手に入れたと話している。
努力によって過去の自分から決別したと語るその瞳は何よりも澄んでいて、それが真実であると語りかけてくる。

それでは、この人物がステロイド薬を使って肉体改造を施すと考えることができるだろうか。
到底考えることはできないであろう。


ここまで二つの観点から田所さんはステロイドハゲではないという事について考えてきた。
無論、第三者が映像から薬物使用の有無を判定し完全に潔白を証明する事は極めて難しい。
そこで実質何よりも有力な証拠となるのは、インタビュー編でのトレーニングによって鍛えたという本人の弁であるが、アンチの方は嘘であるとの一言で簡単に切り捨ててしまうであろう。
しかし私には、この目が、この瞳が嘘を吐く人間の瞳であるとはどうしても思えない。

i0310156-1305479775


アンチが付くのは人気者の証拠とは言うものの、逆に言えば人気者の田所さんは常にアンチの方による謂われのない誹謗中傷に晒され続けるという事である。
私はそれが悲しいのだ。
このブログで田所さんが人間の鑑であることを証明しようとしているのは、アンチの方が一人でも多く真実を知って改心してくれるよう願うからである。
長らく更新が止まってしまい楽しみにしてくださっている方には申し訳ないことをしたと思っているが、これからまた不定期ではあるが記事を投稿していこうと思う。
私は野獣先輩が人間の鑑であると全ての人間に納得してもらえるまで記事を書き続ける。

野獣先輩女の子説について

最近巷で話題になっている野獣先輩女の子説。
私としては、どう見ても田所さんは男性であり、女の子であるとはとても言うことができないと思っている。
しかし女の子説を支持する者は少なからず存在し、それは一見すると荒唐無稽に思える女の子説にも、それを信じるに足る何らかの要因があることを意味する。
一概に愚説であるとして跳ねのけることは賢明ではない。
そこで今回は、主な論拠とされているものを1つずつ考察していこうと思う。


・男が好き
女性は男性を好きになるものであり、男性を好きな田所さんが男性であるはずがないという説。
これはもう明らかであるが、同性を愛するいわゆるゲイやレズといった人々、また両性愛者であるバイセクシャルも存在し、これだけで女性であると結論付けることはできない。

・甲高い声
一般に成人男性は女性と比べ声が低いため、高めの声の田所さんは女性であるという説。
しかし男性でも田所さん程度の高さの声の人間は数多く存在し、低い声でもメラニー法などのボイストレーニングを行うことによって高い声を出すことができるようになるので、これもまた女性であるとの根拠にはならない。

・女の子らしい飲み物であるアイスティーを常備
紅茶を愛飲する人には女性が多いため、アイスティーを飲む田所さんは女性の可能性があるという説。
これは一見するともっともな説かのように見えるが、これは日本の一般大衆に限った話である。紅茶は本場イギリスでは男女問わず親しまれ、そして後輩をエスコートする等紳士的な人物である田所さんが英国ジェントルマンの素養を持つことは疑いようもなく、したがって夏のアフタヌーンティータイムにアイスティーを嗜むのも当然である。よってこれも根拠には不十分である。

・お前のことが好きだったんだよ!←大胆な告白は女の子の特権
女性が肉食化、男性が草食化する昨今、ワイルドに愛の告白をするのは女性が多く、よって田所さんは女性であるという説。
確かに男女の性差がなくなりつつある現代を象徴するかのような説ではあるが、しかしそれは同時に男性が女性的な告白をしても問題ないという事でもあり、告白の仕方によって男女を判断するのは困難であると言える。

・フェラ上手
フェラチオのテクニックに熟練した人は女性が多いので田所さんは女性であるという説。
「男が好き」という根拠に対する考察に関連して、確かに絶対数は圧倒的に女性が多いものの、同性愛者は確かに存在し、クチマン爺のように熟達したフェラチオ技術を持つ男性がいたとしても全く不思議ではなく、これも根拠たり得ない。

・挿入待機時に乙女の恥じらいの表情
遠野に挿入される時に、田所さんが初々しい少女のように恥じらっている為、田所さんは女性であるという説。
これは明らかに捏造である。真夏の夜の淫夢四章に田所さんが挿入される場面は二回あるが、そのどちらも恥じらいの表情とは言いがたい。一回目の騎乗位での挿入のシーン、田所さんは先程まで犯されていて疲れている遠野を気遣い、スムーズに挿入できるよう集中している。二回目の正常位のシーンは仏様のような安らかな顔で遠野を受け入れようとしている。おそらく一回目の真剣な顔を恥じらっていると誤解したのであろうが、それは間違いである。

・挿入待機時に男性器確認出来ず
二回目の挿入シーン、田所さんにペニスが無いように見える為、田所さんは女性であるという説。
おそらくこれが最も根拠足りうる説であるとされているのではないだろうか。確かに同シーンにおいて、田所さんの陰茎を確認することはできない。もしや本当に女性なのではないか。そう不安になりつつ注意深く見てみると、田所さんの手の側から陰嚢がわずかにはみ出ている事が確認できた。つまり田所さんは陰嚢ごと男性器を手で上に持ち上げていると考えられる。そもそも仮にこれが男性器ではなかったとしても、このシーンの田所さんの下半身に女性器を確認することができず、どちらにせよ女性であるとの根拠にはならない。

・枕がデカイ
大きい枕を使っている田所さんは女性であるという説。
まず枕の大きさと女性との関連性が無理やりであるように思うが、それはさて置き。高級ホテルでは大きな枕が使われている事が多いが、「女の子らしい飲み物であるアイスティーを常備」に対する考察で述べたとおり、田所さんがジェントルマンであるとすれば上流階級であり金銭的に裕福であると考えられる為、高級ホテルの枕を自宅で使用していても不思議ではない。

・イキ杉ィ!←女の子は何度もイクことができる
一度のオーガズムで性欲が無くなる男性と違い、女性は複数回のオーガズムを感じることができるため、イキ杉ィ!と叫んだ田所さんは女性であるという説。
イキ杉ィ!については、イキ杉ィ!についてイキ杉ィ!について その2で考察したとおり、必ずしも「オーガズムに複数回達する」という意味であるとは言い切れない。そして仮にイキ杉ィ!が「オーガズムに複数回達する」という意味であったとしても、ドライオーガズム(マルチプルオーガズム)やエナジーオーガズムといった男性でも複数オーガズムを感じる事は可能であり、女性であるとは言い難い。

・胸にかけて胸に!←妊娠が怖いので胸にかけさせる
避妊のために中で射精させることを拒み、体外に出すことを促したので田所さんは女性であるという説。
これは単純に、避妊の為ではなくHIV等の性病に感染することを予防するために促したと解釈すれば、男性であっても問題はない。

・体力がないからスグに疲れちゃう
誘惑のラビリンス三章冒頭にて田所さんが「ぬわあああああん疲れたもおおおおおおん」と発言している事に関し、女性は男性に比べて体力が低いために田所さんは女性であるとする説。
これも普通に「練習キツかったっすねー」と言っていることからわかる通り、空手部の練習が厳しかった為だと考えられる。直後に「チカレタ・・・(小声)」「すげえキツかったゾ~」と男性である三浦大先輩も同意している事からも、男性でもキツいと感じる練習だったことが分かる為、女性である事の根拠にはならない。

・お風呂が好き
「風呂入ってサッパリしましょうよ~」と発言している事から、女性は入浴を好むことと関連して、田所さんは女性であるという説。
これは風呂にはいるという意味が異なっている事からくる誤解である。女性が男性よりも好む風呂とは、半身浴といった美容の為の風呂であり、「風呂入ってサッパリする」という練習で汚れた身体を洗い流す風呂とは性質が異なる。当然身体の汚れを落とす入浴の嗜好に男女差は無く、よって田所さんが女性であると言うことはできない。

・おしゃべり
女性は会話することを好むため、劇中よく喋る田所さんは女性であるという説。
これもお風呂の場合と同様に、おしゃべりの性質の違いからくる誤解と言える。女性の好むおしゃべりとは、他愛のないことを延々と喋ることであるが、注意深く見るとわかるが田所さんの場合は、後輩という立場上中々意見を言いづらい木村や、池沼の大先輩の言わんとすることに気を配り、会話を円滑に保つよう気を遣っての発言である為、女性である根拠にはならない。

・地元のグルメに詳しい
「この辺にぃ、旨いラーメン屋の屋台来てるらしいっすよ」との田所さんの発言から、グルメ情報に敏感な女性の特徴と関連させ、田所さんは女性ではないかという説。
上記「おしゃべり」の考察や、冷えたビールを飲みたい大先輩のために予めビールを冷やしておく等の劇中の行為から、田所さんは気配り上手な人柄であることがわかる。つまり、キツい練習の後に3人仲良く夕食をとれるように、事前に周囲の飲食店をリサーチしていたと考えることができる。これは単にグルメ通だからという訳ではなく、あくまで部活の円満のためである為、これによって田所さんが女性であるとは考えにくい。

・木村のケツを舐めた相手に嫉妬
過去に誰かに肛門を舐められた経験があるかのような素振りの木村に対して、田所さんが「ケツ舐められたことあんのか誰かによ」と嫉妬しているかのように呟いた事から、嫉妬に悩む女性のようであるとして田所さんは女性であるとする説。
これは嫉妬ではなくあくまで確認である。田所さんと大先輩は新入りの木村にホモセックスの手ほどきをしてあげているが、もし木村が既に経験済みなのであれば手取り足取り教える必要がなくなる。それは丁度サッカーを経験したことのある新入部員と未経験の新入部員に対する練習メニューが違うことと同じである。事実これによって木村が経験者であると確認すると、木村に対する手ほどきを中断し田所さんと大先輩は盛り出し、最終的に木村も先輩二人を満面の笑みでガン掘りしている為、この確認によって木村に教える必要が無いと判断したことは明白である。よってこれが嫉妬であるとは考えにくく、田所さんが女性である根拠にはならない。

・大先輩に挿入をせがむ
木村のケツを舐めている大先輩に対し、「先輩今度俺舐めますよ」と奉仕を志願しその後「入れてくださぁい」と挿入を促した田所さんが、性交時に女性が挿入をせがむ様に似ている事から田所さんが女性であるとする説。
これも田所さんの優れた気配り・労りの精神がよく現れたシーンである。木村に対する奉仕に疲れ始めた大先輩に気がついた田所さんは、上記の考察の通りまず木村に対して今までにケツを舐められた事があるか、つまり大先輩の手ほどきは必要ないかを確認する。そして確認を終えた上で疲れた大先輩に対して、イチモツをしゃぶり自身のケツ穴を提供するというご奉仕をすることによって、先輩の疲れを癒したのである。これはフェラをされている時の先輩のご満悦顔や、「先輩気持ちいいすかー?」という田所さんのセリフからも見て取れる。よってこの説もまた女性であるとの根拠とは言い難い。


以上の考察によって、現在野獣先輩女の子説の論拠とされるいずれの説も論拠足り得ないということが判明した。
しかしいずれの根拠にも女性の特徴と一部または大部分が合致しているということもまた明らかである。

逆に考えてみるのはどうだろうか。
「野獣先輩が女の子」なのではなく、「女の子が野獣先輩」、つまり「女の子が野獣先輩をリスペクトしている」という事である。
インターネットが発達した現代に育った若年層が、ふとしたきっかけで淫夢を知るという事は容易に考えられうる。
ホモが嫌いな女子なんていないという格言から見ても、淫夢を好んで見る女の子がいる可能性は十分にある。
そして多感な時期の女の子が、人間の鑑である田所さんに影響を受けたとしても不思議ではない。
好きな人に「うちさぁ、屋上あるんだけど・・・」と日光浴を気さくに誘う田所さんの姿は恋する女の子のあこがれだろうし、人間関係で悩みがちな女の子にとっても先輩や後輩に分け隔てなく明るく接して部の人気者の田所さんは十分に尊敬に値するだろう。

男女から共に愛される田所さんは人間の鑑である。

こ↑こ↓論争について

現在では「こっ↑ここ↓」説が有力であるとされている四章冒頭のシーン。
しかし「こ↑こ↓」派や「ここ↑ここ↓」派も根強く、未だ議論が続いている。

ところで私は「ここ↑ここ↓」派である。
なぜか。
冒頭シーンの田所さんの動作を見て欲しい。

mpg_000010751


このシーン、田所さんは家を指さしていると思われがちであるが、右手をよく見て欲しい。
そう、田所さんは右手でも下を指さしているのだ。
これはどういうことなのか。

仏教の開祖である、仏陀ことガウタマ・シッダールタは、生まれてすぐに7歩歩いて天と地を指差し、「天上天下唯我独尊」と言ったと言われている。
もうお分かりだろう。
田所さんはまず天を指し、「ここ↑」と言い、続けて「ここ↓」と一段下がった音程でつぶやいた。
つまり天を指しての「ここ↑」とはこの広い空、すなわち天上のことであると考えられる。
とすれば、続く「ここ↓」はこの広い大地、すなわち天下のことを指すことがわかる。
これを踏まえた上で考えると、「ここ↑ここ↓」の意味は「ここ↑(天上や)ここ↓(天下において我が唯独り尊い)」、つまり「天上天下唯我独尊」ということがわかる。
田所さんは自らが仏陀の生まれ変わりであるということを遠野に語り聞かせたのだ。
この言葉を聞いた遠野が「はえ~」と感嘆の声を上げていることからも理解することができるだろう。

ではなぜ物語導入部に仏陀が生まれた時の言葉を引用する必要があったのか。
前述の通り「天上天下唯我独尊」とは仏陀がこの世に生まれた時に言った言葉である。
とするならば、これを言った直後に入った田所さんの自宅、これは現世を象徴していると見ることができる。
つまり、「ここ↑ここ↓」と言う事によって田所さんと遠野は象徴的にこの世に産まれ出たということになるのである。
そして生まれでた二人はしばらく屋内(幼少期)で過ごした後、屋上(外の社会、青年期)に出て、体調を崩した遠野を介抱して(老年期)地下室(墓地、死後)へと場面は移り変わる。
このように地下室までの一連の場面は人の一生を象徴していると考えることができるのだ。

では死後(地下室)のラブシーン、そしてラストの幸せなキスはどう考えるのか。
言うまでもないが、仏教には輪廻転生の思想が取り入れられている。
そして人の最大の幸福とは輪廻を解脱し、涅槃へと至ることだとされている。
つまり、仏陀の生まれ変わりである田所さんは、凡夫であり輪廻転生の輪に囚われている遠野を解脱させるための説法を行ったと考えるのが妥当である。
言葉では言い表せない涅槃への境地、それを愛する遠野に身体を使って説明したのだ。
結果として田所さんの言わんとする事が理解できた遠野は、ラストシーンで幸せなキス、つまり涅槃に至ることに成功する。

もはや田所さんが仏陀の生まれ変わりであることは疑いようのない事のように思えるが、どうだろうか。
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ

ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
詳細はライブドア利用規約をご確認ください。