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「言い逃げ」的なネット文化を脱するために:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える①

與那覇 潤

gorodenkoff/iStock

世間的にはすっかり収まったと思われていた問題が、またインターネットを騒がせている。『応仁の乱』などのベストセラーで知られ、当世で屈指の著名な学者である呉座勇一氏(日本中世史)が、勤務先である国際日本文化研究センター(以下、日文研)で人事上の不当な処分を受けたとして、訴訟に踏み切ったからである(被告となるのは、日文研の上部組織にあたる人間文化研究機構)。

各所でまとめられているので、簡略に記すが、呉座氏の主張によれば、同氏は2021年1月に、任期付きの助手ではなく任期なし(テニュア。終身雇用の企業でいう正規雇用)の准教授に内定するとの通知を受けていた。しかし同年3月、呉座氏が鍵付き(=氏が許可した読者しか読めない)のSNSで行っていた発言の内容が何者かの手で外部に流出し、女性差別的だとして炎上。そのため8月に准教授への昇格を取り消されたが、その際にはそもそも内規に存在しない手続で「再審査」が行われ、懲戒審査委員会すら組織されなかったのだという。

この日文研側の措置が適法と言えるかどうかは、今後司法の場で判断が下ることになるだろう。また、そもそも呉座氏がSNSで行っていた発言が「どの程度問題のあるものだったのか」については、私の見解を同氏が炎上の渦中だった時期にすでに示してある(3月28日。現在は有料記事)ので、繰り返さない。

いま改めて稿を起こすことにしたのは、目下のこの問題の「再炎上」のあり方を見て、そこには「まぁ特殊な業界のことだから」という形ではすまない、今日の日本社会が抱える問題の縮図と呼ぶべきものが現れていると感じたからである。

呉座氏の訴訟提起により、同氏に行われた処分が明らかになって以降、世論はおおむね(呉座氏の主張に従えば)「解雇権を濫用した」日文研に批判的なように見える。しかし半年前の最初の炎上時にはまったく情勢は逆で、少しでも呉座氏を「擁護」するかに見えた識者には非難が殺到し、「差別者」「ミソジニスト(女性憎悪者)」「学者失格」などと罵声を浴びる状況が出現していた。

なにより私自身が、上記した3月28日の原稿をめぐってそうした目に遭ったので、今日の空気の一転ぶりにはむしろ驚いている。

たとえば4月2日に発表された日本歴史学協会の声明では、あきらかに呉座氏を指すものとわかる文脈で、以下のように記されていた。この協会は、多数ある歴史学系の諸学会(加盟学会数でいうと80強)の「連合組織」のような性格の機関なので、実態はともかく形式的には、これが日本の歴史学界全体を代表する同氏への評価ということになる。

「今般、日本中世史を専攻する男性研究者による、ソーシャルメディア(SNS)を通じた、女性をはじめ、あらゆる社会的弱者に対する、長年の性差別・ハラスメント行為が広く知られることとなりました。」(強調は引用者)

「あらゆる社会的弱者」を差別しハラスメントするというのは、大変なことである。女性のみならず高齢者も子供もLGBTも弱者だし、男女問わずサービス残業を強いられる正規雇用者も、景気に応じて切り捨てられる非正規雇用者も、病気や障害を持つ人も弱者だ。日本歴史学協会の加盟団体には、外国史を専門とする学会も含まれるので、当然ながら地球上のすべての少数民族に対しても、呉座氏が差別をしていたとの趣旨になるであろう。

一例のみ示しておくが、この声明を歓迎し競って「支持」を表明した歴史学者(を名乗るSNSアカウント)は非常に多かった。対して「いくらなんでも、この表現は事実に反する」と当時から指摘した同業者は、片手で数えられるほどに少ない。

さて、そうだとするならば、世界中の「あらゆる社会的弱者」を差別していた人物を、日本の人文系を代表する国際的研究機関が雇用するわけにはいかないから、この声明を支持してきた歴史学者たちは、むろん日文研による呉座氏の解職を強く擁護し、昇任撤回による任期切れでの「解雇は当然だ」と主張しなくては筋が通らない。ところがそうした声は、歴史学者の肩書を掲げている人々から、いま少しも聞こえてこない。

このことが示すのは、日本の歴史学者の大多数は、歴史にも学問にもなにひとつふさわしい素養を持たない、単なる「言い逃げ屋」にすぎなかったという事実である。

「ホモソーシャルに(=男性の歴史学者どうしで)呉座をかばっている」と、この声明の前後に散々罵られた私が証人だが、当時は呉座氏への非難が過熱するあまり、「日本の歴史学界の全体に、差別を当然視する風土や慣行があるのだ」といった論調が横溢していた。そうした攻撃から、歴史学者が自分(たち)を守るには、どうすればよいか。

とにかく事実かどうかに関係なく、むしろ過剰なくらい呉座氏の方を攻撃して、批判者に対して「呉座氏をここまで叩いた私は、みなさんの味方です」とアピールするのが一番である。とにかく自分(たち)が呉座氏と一緒に炎上させられるという「目下の危機」はかわせるのだから、もうそれで別にいい――この声明文におけるにわかに信じがたい文面と、当時はそれを支持しながらいま口をつぐむ歴史学者たちの矛盾から透けて見えるのは、そうした発想だと考えるほかはない。

実際、以前から呉座氏の(当初は非公開だった)発言内容を見聞きしながら、炎上が本格化した後になって手のひらを返し、呉座氏への糾弾に加わった歴史学者がいたとの証言もある(「さえぼう先生」とあるのは、当時呉座氏を最も強く批判した学者の愛称)。

こうした「とにかく“いま” この瞬間の世間の空気に照らして、ウケがよく自分の得になることを言い、後で矛盾が生じようが気にしない」という発想を、仮に「言い逃げ」と呼んでみよう。周知のとおりこうした振る舞いをする学者は、歴史学に限らない。

思い出そう。新型コロナウイルスの感染が拡大期に入り、人々の不安が高まるごとに「人流を抑え込め」「ロックダウンが必要」「それ以外では収束しない」「最悪〇万人が感染、×万人が死ぬ」といった見解を披露しては喝采を浴び、しかしロックダウンなしでも感染が収束に転じるや「とにかくよかったです」とケロリとした顔をしている人たちのことを。彼らの専門は、理論疫学・感染症医学・データサイエンス・経済学など、むしろ(歴史学などの人文学とは対照的な)理数系である。

人間はどうしても空気に流される。同調圧力の中で孤高を貫けるほど普通の人は強くない。しかし学者――なかでもとりわけテニュア(任期なし)で身分が保障されているはずの研究者は、そうした「いまさえよければ」の奔流に呑まれない発言を社会に向けて発することにこそ、自身の存在意義を置いていたはずだった。

それがどうして、こんなことになってしまったのだろうか。しばらくそれを、呉座氏を巡る炎上と訴訟が提起した問題から、考えてみたいと思っている。

なお、私は問題視されたSNSでの呉座氏の言動すべてを容認するものではないし、現に一度もそう表明したことはないが、もし呉座氏が今回の訴訟を提起しなかったとしたら、こうした有識者の情報発信における「総言い逃げ化」という事態は、歴史学に関するかぎり明るみに出ず握りつぶされた可能性が高い。この点に関しては、私は呉座氏の決断および訴訟に対して、共感とともに強く支持するものである。

②へ続く

與那覇 潤
評論家。歴史学者時代の代表作に『中国化する日本』(2011年。現在は文春文庫)、最新刊に『平成史-昨日の世界のすべて』(2021年、文藝春秋)。自身の闘病体験から、大学や学界の機能不全の理由を探った『知性は死なない』(原著2018年)の増補文庫版が11月に発売された。

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