「人が死んでいく過程を子どもにも見せてほしい」 辣腕救急医が語る「死生観」
2018.3.9 07:00dot
阿南英明医師(藤沢市民病院 診療部長/救命救急センター センター長)
命を救うのが医師の仕事である一方で、「命の終わり」を提示するのも医師の務め――。救急や外科手術、がんやホスピスなど死に直面することが避けられない現場で日々診療を行っている医師20人に、医療ジャーナリストの梶葉子がインタビューした『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』(朝日新聞出版)。その中から、日本でも有数の患者数を誇る藤沢市民病院救命救急センター長・阿南英明医師の「死生観」を紹介する。
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医者になった理由はいくつかあるのだけれど、子どもの頃の非常にプリミティブな感覚として、とにかく死が怖かった、ということもその一つ。
僕は妄想家なんです。例えば中学の頃に保健体育の先生が、授業で梅毒の話をするでしょ。電車のつり革にも菌が付いてるんだぞ、なんて言われると、もうそれだけで、僕にも付いてるかもしれない、どうしよう!ってなる(笑)。
病気とか、死ぬかもしれないという恐怖感。それを克服するにはどうすればいいだろうと考えた時、方法としては敵を知るしかない。敵を知れば対処方法も分かるだろうし、恐怖感がなくなるかもしれない。それには、医学部に行って医学を勉強すればいいのだな、と。小・中学生の頃は、漠然とそう思っていた。
救急を選んだ理由は非常にシンプルで、どの診療科も面白くてどれか一つを選ぶなんてとてもできなかったから。全部できることをやろうと考えたら、救急になった。もちろん当時は大学に救急医学講座なんてなかったし、分野として確立もしていなかったけれど。
僕のベースは、内科医です。でも手術にもどんどん入ったし、診断学、血液学など様々な分野の勉強も猛烈にした。救急医には、膨大な知識と経験による的確な診断と指示、そして、10分も話をすれば、その人の人生を分かってあげられる想像力――僕の場合は妄想力だけど――が必須だと思う。
■医者の仕事の大半は患者の死を看取ること
僕は講演でよく、救急医の仕事はいかに人を死なせるかだ、と言います。それだけ聞けば、なんという医者だと思うだろうけど、生と死の狭間にいる人たちを相手にする時は、軸足を生ではなく死に置いておかないと、人として何かを見誤る。ヒポクラテスの時代から、医者の仕事の大半は患者の死を看取ること。死を看取るというのは、単に死亡診断書を書くために死亡確認をするだけではなくて、その人なりの死へのプロセスを作っていくことでもある。
内科医だった頃、生きたいけれど残念ながら助からない、という終末期のがん患者さんを大勢診てきた。そういう人たちと話をしていると、彼らの人生観が見えてくる。最期までの期間を、どう生きたいのか。治療をとことん頑張るのか、自然の流れに任せるのか。3カ月後の娘の結婚式まで生きたいとか、会社が軌道に乗る1年後までは何とか、という人もいた。
医者の務めは、そういう彼らの人生、一人ひとりの背景を背負ったうえで、病態の変化と治療に対する知識を元に、「それなら、こうしましょう」という死への未来予想図を提示することだと思う。それには、人は必ず死ぬのだという概念を持つことが不可欠だし、僕らは言わば、死への場面を演出する演出家でなければならない。そういうことすべてが、看取りじゃないのかな。
死への未来予想図は、死を見極めないと書けない。それには、軸足を生ではなく死に置いておかなければならない。すると、そこで初めて救急医の仕事が明確に見えてくる。つまり、「あなたの死に時は、今じゃないでしょ!」という人たちを捉まえて、全力で引き戻す。それが救急医の本質であり、腕なんだよね。
死ぬことと生きることは、常にペアで考えなければいけない。でも今は医者でさえ、「生きる」という片面だけしか見ていない。だから、90歳を過ぎた寝たきりのおばあちゃんが心肺停止で運ばれて来た時、(心臓マッサージで)肋骨を全部折りながら蘇生してチューブ入れて、なんていう「何かが違う」ことが起きてしまうんだ。
■人が死んでいく過程を子どもにも見せてほしい
「人は必ず死ぬ」ことを意識すべきなのは、医者だけじゃない。日本は高齢社会なんだから、国民の一人ひとりが普段から死というものを、きちんと見つめなければいけないと思う。
死を忌み嫌う風潮というのは世界的にあると思うけれど、日本は特に戦後教育の中で、死を口にすることを異常なまでに嫌うようになった。これはもしかしたら、若者たちが太平洋戦争中「お国のために命を捧げることは美しいことだ」という教育を受け、特攻などで大勢死んでいったことのトラウマなのかもしれないね。大人たちが教育や家庭の場で、若い人たちに死を語ることを一切封印してしまった。お国のために命を捧げよ=死ね、ということと、死について語ることは、全く別なのに。
最近は特に核家族化が進んで、家で人が死んでいく過程を見なくなった。また、そういう機会があってもあえて見せない、という雰囲気がある。でも僕は、若者はもちろん子どもたちにも、ぜひ見せてあげてほしいと思う。そういう時こそ、人はみんな必ず死んじゃうんだよ、お父さんもお母さんも、いつかはあなた自身もね、という会話をする良い機会だし、最期の迎え方やお墓の話をするきっかけにもなるでしょ。
子どもがショックを受けるという意見もあるけど、子どもはそんなにヤワじゃないし、見せなければいいということでもない。ある意味、性の問題と同じ。なまじ隠すから、色々な問題が起きてくる。まして現代は、ゲームなどバーチャルの世界で簡単に人が死ぬし、その死はリセットすればなかったことになる。だから、死というものの実感がなくて、重要な事項として捉えられなくなってしまう。
やはり、教えるべきことはきっちりと教え、それについて君はどう考えるのか。そういう会話を普段からしておくことが、絶対に必要だと思う。
※『医者の死生観 名医が語る「いのち」の終わり』から
◎上記事は[dot. ]からの転載・引用です
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◇ 「胃瘻は一種の拷問 人間かと思うような悲惨な姿になる」中村仁一著『大往生したけりゃ医療とかかわるな』
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