杉本茂十郎
生年:生没年不詳
江戸後期に十組問屋(問屋仲間の連合体)の再建に尽力した江戸町人。甲斐国八代郡夏目原村(山梨県御坂町)の百姓次左衛門の末子。幼名栄次郎。江戸の定飛脚問屋大坂屋の養子となり,寛政11(1799)年9代目大坂屋茂兵衛を継ぐ。大坂屋は当時借財をかかえていたが,家業の立て直しに成功し,飛脚仲間を代表して飛脚運賃をめぐる十組問屋との争いを有利に解決した。この手腕を見込まれ,文化5(1808)年には砂糖問屋と十組問屋の紛争に調停役として登場し,和談を成立させた。同年家業を妻の弟に譲り,杉本茂十郎と改名し,十組再建に専念する。同6年三橋会所を設立して頭取に就任し,同10年十組問屋を改組して菱垣廻船積問屋仲間を結成し,菱垣廻船の再興に当たる。権威により問屋仲間に冥加金を強要し,集めた資金を大部分米の買い占めに用い,幕府の経済政策に協力した。その結果,三橋会所の運営が停滞し,権力をかさに着た強引な行動に対し「毛充狼」と称せられた。しかし,文政2(1819)年北町奉行永田正直が死去すると,冥加金の取り扱いなどを理由に処断され,その後紀州(和歌山)藩にかくまわれたというが,消息は不明である。<参考文献>伊東弥之助「杉本茂十郎の研究」(『三田学会雑誌』47巻9,10号),林玲子編『日本の近世』5巻
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杉本茂十郎
すぎもともじゅうろう
生没年不詳。江戸時代中・後期の商人。甲斐国(かいのくに)八代(やつしろ)郡夏目原(なつめはら)村(山梨県笛吹(ふえふき)市御坂(みさか)町)百姓次左衛門(じざえもん)の子に生まれ、18、19歳で江戸に出る。1798年(寛政10)万(よろず)町の定飛脚(じょうびきゃく)問屋大坂屋茂兵衛(もへえ)の養子となり、翌年襲名し家業を継いだ。菱垣廻船(ひがきかいせん)問屋の衰微を表す文化(ぶんか)年間(1804~18)の砂糖問屋をめぐる内部対立を仲裁し、十組問屋(とくみどんや)の頭取(とうどり)として力を強め、三人扶持(ぶち)で苗字(みょうじ)帯刀を許されて改名した。以後、三橋(さんきょう)会所・米会所の設立と頭取への就任、水油売買会所掛も命ぜられた。1813年(文化10)には菱垣廻船積問屋仲間株が公認され、茂十郎は町年寄次席の座をも手中にし、町政にも権勢を振るった。19年(文政2)前年の米の延(のべ)売買の失敗、また幕政のある程度の転換もあって失脚し、晩年を紀州藩御用達屋敷で送ったという。
[浅見 隆]
『津田秀夫著『日本の歴史22 天保改革』(1975・小学館)』
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杉本茂十郎 すぎもと-もじゅうろう
?-? 江戸時代後期の商人。
江戸の定飛脚(じょうびきゃく)問屋大坂屋茂兵衛の養子となり,のち茂兵衛を襲名。文化6年(1809)三橋(さんきょう)会所を設立し頭取となり,菱垣廻船(ひがきかいせん)積問屋仲間を結成。さらに米会所を設立し,江戸経済界と町政に権勢をふるったが,文政2年(1819)幕府の命により両会所が廃止されて失脚。甲斐(かい)(山梨県)出身。
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すぎもともじゅうろう【杉本茂十郎】
江戸後期の実業家。生没年不詳。甲斐国の生れで,18~19歳で江戸に出て,1798年(寛政10)定飛脚問屋大坂屋の養子となった。1809年(文化6)に三橋(さんきよう)会所を設立,その頭取として十組問屋仲間の再建のため菱垣(ひがき)廻船問屋仲間を編成し,流通の独占を計画した。さらに伊勢町米立会所を設立,幕府の米価政策に関与したが失敗し,19年(文政2)に両会所は廃止され追放された。【吉原 健一郎】
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世界大百科事典内の杉本茂十郎の言及
【三橋会所】より
…菱垣廻船を支配していた江戸十組仲間は,大坂からの下り商品を独占的に扱っていたが,仲間外商人の台頭によりその地位が揺るぎはじめたため,問屋としての特権を権力によって保障されることを望むようになった。1809年(文化6)十組仲間は永代橋・新大橋・大川橋の三橋架替え・修復を引き受けることを申し出,幕府から会所を設立することを許され,頭取として杉本茂十郎(元,飛脚問屋大坂屋茂兵衛)が任命された。会所は問屋仲間や菱垣廻船の船頭・水主からの拠出金を運用して,船の修復・新造をはかり,仲間内の金融を行う一方,菱垣廻船を利用する問屋仲間65組から,年々1万0200両の冥加金を集めて幕府に上納した。…
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