1962年8月15日 | 東京都新宿区は・・・ネオンに彩られ輝く歌舞伎町にそびえ立つ、都立大久保病院に生まれる。 寅年B型獅子座5000・で生まれ東京都の健康優良児の表賞を受ける。なんだか恥ずかしい気もする。 肉の塊みたいで父母の親戚同士「おたくの方の血筋ね」と押し付けあっていたと父も母も言っていた。 父、順計。母、静江。従兄弟の正年、政広兄貴、実姉、良子。 そして僕、の6人で家族がなされていた。 |
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1964年 当時2歳 | 東京オリンピック。調布の折り返し地点で裸足で走るアベベを見る。 (と、酔うと必ずと言っていいほど親父がこの話をした。)これも何かの暗示であったのか。 所属事務所 株式会社アァベェベェです。 |
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1965年 3歳 | 東京都小平団地に転居。引越し当日から自我に目覚める。 つまりこの日から僕は記憶があるのです。時々ではあったが、虹色に光る玉虫も飛んで来ていた団地の5階から富士山が見えた。 |
1967年 | 小平並木幼稚園に入園。砂場で砂を投げて友達の目に入ってしまった。 ひどく怒られたがその後2度おなじ事をした。悪い子供であった。そのくせ、蟻んこを踏んずけた友達に泣いて抗議して絶交したりと、精神のバランスはこの頃 から悪かったようである。商店街に出る手前の大きな椚?の木にぽっかりと穴が空いていて、ここにスズメ蜂が棲んでいるに違いないと思い込み、随分と遠回り をしてお使いに行ったことを、何故かよく覚えている。この頃母は、姉と僕を連れしょっちゅう「ともしび」「十一時館」といった歌声喫茶に行っていた。 (きっと子供連れでないと夜の外出がしにくかったのではないかな)若いお兄ちゃんお姉ちゃん大人からお年寄りまでが肩を組み声を張りあげてロシア民謡を歌 うんだ。(歌集も色々とあった)子供には解らない熱気があった。 |
1968年 | 広島県安芸郡府中町に転居。絵を描き詩を書き沖縄返還の運動に燃えていた母は逞しく輝いていたなあ。ある日、平和公園でデモ隊と機動隊が衝突して母とはぐれ てしまった。機動隊に殴られたのだろう、だらだらと血を流しながらお兄さんが飛び散ったカンパのお金を拾っていた。僕も手伝っていたら母が走って戻って来 てめちゃくちゃ怒られた。何故?どうして?って思ったけれど、今ならわかる。 近所で貰ってきたコロと野良で住み着いたクロと2匹の犬がいた。インコも飼っていたけれど可愛がり過ぎて一緒に寝たら朝ぺっちゃんこになっていて3日間泣 き暮れた。でも食べている時やテレビを観ている時は泣いていなかった。お隣のミナト君とお友達になった。家の周りはほとんどが蓮の田んぼだった。夜になる と聞こえてくる蛙の合唱は目を閉じると宇宙遊泳している気分になれて楽しかった。 |
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1969年 | 府中小学校入学。担任はミゾモト先生。お元気でしょうか・・子供を誉めるのが上手な(失礼な意味で無く)先生で絵のコンクールに出品を促してくれたり歌を (本当は下手と自分では解っていますよ!)誉めてくれて合唱団を薦めてくれたりと。誉められた事って忘れないんですね子供って。だから、こんな仕事を選ん でしまったのかも。野球に目覚めた。カープの試合を父とよく観に行った。野山水田をかけめぐり、いつでも日焼けして真っ黒な顔。僕の原風景のひとつはこの 頃暮らした広島の風景ではないかなって思うな。 |
1970年 | 1学期を終えたところで東京都国立市に転居。東京にに向かう道すがら万国博覧会に立ち寄る。9月、第2学期より国立市立第5小学校2年に転入。 |
1972年 | 国立市立第7小学校が新設されるが前もって姉兄がいる者は転校を1年延期出来るとのことで慣れ親しんだ友と離れるのも嫌だったので次の年に転校する事にし たのだが、そうしたのは全校で僕一人で、次の年(1973年)に転校した時にはすっかり新米として学校にいちから馴染んでいかねばならず、もうへとへとで ありました。おまけに乱暴者で6年時の後半、半年は学級のほとんどに当時(今も??)流行りの無視無視攻撃を受けてしまいました。都会の(子供の)民主主 義を味わう。中学に進んだ1級上が小学校に僕をシメに来た。全員返り打ちにして、一時の小天狗。 |
1975年 | 国立市立国立第1中学校入学。入学してすぐ、小学校の時ぶっ飛ばした1学年上の23人に、今度は袋叩きの目にあう。「中学をなめるなよ」と言われたが、次 の日、今度は3年生の教室に呼び出されて行ってみると前日僕を袋叩きにした2年生が正座させられており、多数対一人はいかんと言う事で3年の先輩にキツイ 怒られ方をしたらしくうなだれた頬に泪の乾いた後が見られた。僕は3年の先輩に、「言っといたから。」とだけ言われ傍観。後から知るところによると、小学 校から中学の不良と喧嘩していた僕は期待のルーキーだったらしい・・・中学生(当時)の不良のルールを知る。これ以降、(これ以前にも無いが)その逆は数 知れずあったが多数で少数を攻撃した事は無し・・・それがどうした。身長は1年から2年の間に20cmも伸びて親の言う事など何ひとつ聞いた覚え無し。 母は困っている人や行くあての無い人をいつも家に住まわせる人で、この頃同じ年の女の子のいる親子が同居することになり思春期と反抗期の僕は家を飛び出し て、彫刻の修行で北海道に行きっぱなしになっていた兄(従兄弟)のアパートに住み着く。(ちなみに家に来た親子はとっても良い人だった事を大人になってか ら分かった。)この後、施設から引き取られる時意外は両親と生活をしたことは無し。 |
1977年 | 少年時代から続けていた野球のおかげで高校入学を果たし野球に熱中する。 |
1978年 | 暴力事件を起こし逮捕。収監。退学。野球部は出場停止。試験観察付で出所後、北海道の叔父に連行されて浦河町に、労働を与えられるがやる気もなければ役にも立たず・・・ しばしあって函館方面の八雲町の山中に送電線の基礎を作る現場に行く。ここでも役立たずぶりを発揮して、働きが悪いので罰?として重機で掘った深い穴に置き去りにされたりしていた。 無気力、出口無し。そんな日々が続いていた頃、東京の家庭裁判所からの呼び出しを口実に逃げるように帰京。ここからは急加速で不良少年の世界に。だって友達のほとんどが不良だったんだもの・・・・・主体性無し。 |
1979年 18歳 | 幾度かの暴力沙汰で逮捕され再び施設へ送られる。ここでチャップリンの自伝を読み、自 分の求めていた世界はこれだぁっ!これしか無いっ!と思い込み俳優になろうと決意する。(勝手に・・・まあ、決意とはこのようなものではないのかな・・) それと同時に高校復学を目指し受験勉強を始める。延灯学習の許可をもらい院生修寝後も学習。 院内生活中は、日記、内観(朝夕5分間、壁に向かって座り自分の内面を見詰めてその内容を文章にする。)や、作業点検日誌など、6種類の日誌をつけること を義務付けられていたのだけれど、そのひとつに<ふれあい日記>と言うのがあって、その日あった(無くても無理矢理)心と心のふれあいを綴らなくてはなら なくてこれには本当に苦心しました・・だって、そうそうフレアエルもんじゃないよ人間なんて。しかも此処は心がガサガサになりきっている少年の巣窟みたい なところじゃないかと・・・・でも、おかげ?で、人の短所よりも長所を見つけようという習慣がついた?気がする・・・そしてギゼンヲイキルことや、ウソヨ リイズルマコトのことなども考えた。結局自分には今を生きることしかないってコト、<イマ>を<今>に変えていく。何にしても毎日文章を書く習慣はここで の生活の影響が大きいと思う。ホントウニ・・・ |
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1980年 2月 | 当時の担任酒井国男先生の尽力もあり、2日間の一時帰省を許可してもらい受験。 合格。4月の出院を待って明治大学付属中野高等学校定時制第2学年に編入。そしてとうとう俳優に向かって・・・ これより先はまたの機会にと言うことで・・・・・・ |