元東京都知事で、運輸相などを歴任した作家の石原慎太郎(いしはら・しんたろう)氏が1日、死去した。89歳だった。石原慎太郎が死にました。第一印象としてはこんな差別主義者でも89まで生きられる一方、善人でもコロナでバタバタ死んでいることに世の中の理不尽を感じているところです。
石原慎太郎・元都知事が89歳で死去、運輸相など歴任…「太陽の季節」で芥川賞-読売新聞
こうしたところをTwitterで呟いたところですが、
想像以上に自由戦士からのバッシングが酷いことになってますね。詳細は各ツイートの引用やリプを見てもらえばわかるのですが。
石原慎太郎の差別発言
まぁ、石原の死を評価するツイートが不快だという人はいるでしょう。快不快はどのみち個人の主観的な感覚に過ぎませんから、そのこと自体をどうこう言うつもりはありません。しかし、前提として忘れてはならないのは、石原慎太郎が生前あらゆる属性のマイノリティに対して差別発言を繰り返し、その大半を撤回することも謝罪することもないまま死んだということです。差別発言の網羅性はある意味見事なものであり、女性に対しても(閉経したら価値がない)、障碍者に対しても(人格があるのか)、病人に対しても(ALSは業病)、被災者に対しても(東日本大震災は天罰)、セクシャルマイノリティに対しても(足りない感じがある)、外国人に対しても(三国人発言)差別をしてきました。こう一覧すると日本人男性以外は一通り罵倒されていると言えるでしょう。
こうした発言をマスコミは問題することがあまりなく、「石原節」としてもてはやしてきました。とはいえ以前は障碍者への発言で土下座に追い込まれたりと批判の声もあったのですが、徐々に批判は弱まり、むしろ喜ばれるようにすらなってきました。東京都民がこうした差別主義者を3度も都知事に選んだのはこうした動きと無縁ではないでしょうし、こうした動きがあったから何度も当選したともいえます。
この度死んだ人間はこういう人間だったということを、大前提としてまず理解しておかなければなりません。彼に何度も踏みつけられてきた人が彼の死を喜んでも別に不思議ではありませんし、社会的な影響を考えれば、少なくともこれ以上彼が社会を悪くすることがないことは喜ぶべきでしょう。石原が生み出した子分がまだ生きているとはいえ。
差別発言はスルーだが
ところが、こうした発言を、それこそ罵倒レベルの表現を用いてバッシングする人が大量に湧いています。興味深いのは、まず、彼らが他人に対してこうした発言を平気で行う一方、石原慎太郎の差別発言には特に批判がないという点です。死んだ公人を口汚く批判することに品性や倫理観のなさを感じるのは勝手ですが、石原の差別には品性や倫理観のなさを感じなかったという巨大な矛盾が無視されています。
いうまでもなく、差別的な発言は人間の発言の中で最悪なものの1つです。一方、公人を批判する際に強い表現を使うとか死に際して批判するというのは好まない人がいるでしょうが、その程度の問題でしかありません。まぁ、私人であれば控えるべきでしょうが、石原慎太郎クラスの公人であればその程度は否定されるほどのものではありません。
なぜ彼らは石原の差別には品性を問題視しなかったのに、そのことを死に際して批判すると品性がないことになるのでしょうか。それはひとえに、彼らが差別を問題としていないゴミクズだからです。差別をしても品性に問題がないと思うような人間だからにほかなりません。そのような人間が他人に品性を語るのはあまりにもおこがましいというべきでしょう。
あるいは、彼らがその矛盾に気付かない程度に脳みそを使っていない脳なしだからです。ただ単に相手が気に入らないという感情に駆動されてインスタントに反応しているからこそ、石原をスルーしながら批判者の倫理観を語るという馬鹿げた振る舞いをしてしまうのです。どのみち、碌でもないということです。
なぜ生前も批判していないと思うのか
もう1つ興味深いのは、なぜか私が石原の生前にも批判していないと思い込んでいる人々も一定数湧いているということです。そもそも生前に批判していないなら死後批判してはいけないというルールが存在しないのですが、常識的に考えれば死に際してこれだけ強い口調で批判する人が生前も批判していないわけがないでしょう。
こうした発言は、彼らが常識や実際を無視し、自分の世界だけに立脚して物事を考えていることの証左です。現実を参照するという行為を一回でも挟まないがゆえに、存在しないルールを振りかざしながら確かめていない相手の振る舞いを勝手に決めつけて罵倒するという、どこにも妥当性がない振る舞いが出てきてしまうのです。
死んだ公人を批判するのも表現の自由
そして重要なことは、死んだ公人を強く批判することもまた表現の自由のうちであるということです。差別は表現の自由ではありませんが、批判は自由です。特に公人に対するものはそうでしょう。にもかかわらず、なぜか「我こそ表現の自由を守る!」という自由戦士が私に対して「黙れ」と批判ではなく罵倒を行い口を紡がせようとしているのはおかしな話です。表現の自由を守りたいのか守りたくないのかどっちなのでしょうか。
これも、まずは彼らが特に脳みそを使わず、単に気に入らないから叩くというだけの単純なスクリプトで動いているからにほかなりません。頭を使っていないからこそ自由を守るという自分の立場をすっかり忘れて相手を黙らせようとしてしまうのです。
同時に、これは本来あるべき考え方とは逆に、彼らが「差別は自由だが権力者への批判は自由のうちに入らない」という狂った判断をしているからでもあります。ヘイトスピーチが自由だと嘯きながら政府への批判は黙らせようとする彼らの普段の言動を考えれば当然の振る舞いではありますが、やはり振り返るたびにあまりにも愚かだなと思わせられます。
石原慎太郎最大の罪は、都知事の座にありながら差別発言を繰り返すことで、こうした自由戦士がを始めとする差別主義者を調子づかせてしまった点です。彼の死により彼自身が新たな差別を生み出すことはなくなりましたが、彼が産み落とした子分はまだ生きています。差別を止めないのであれば、彼らも社会的な生命は後を追わせなければいけないでしょう。
死にたくない?差別を止めれば済む話ですよ。