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埼玉医師銃殺 66歳“母子密着男”は魔除けにすがった

「週刊文春」編集部

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 閑静な住宅街で、突如3発の銃声が鳴り響く。約11時間、立てこもり続けた男は、母を看取った医師を殺害する。地域医療を支え続けた医師はなぜ殺されなければならなかったのか。背景には男の母親への歪んだ愛情があった。

 

▶︎母子で生活保護 母92歳と部屋は一緒、寝る時は隣で…

▶︎散弾銃代金踏み倒し、2万円盛り塩購入、カツラ着用

▶︎信用金庫勤め、家に「金返せ」の貼り紙で夜逃げ

▶︎「初代タイガーマスクを見たい」録画を要望

▶︎被害 鈴木医師患者に寄り添い大粒の涙、地域医療の守護神

 昨年秋、男が友人に対して口にしたのは「盛り塩」という意外な言葉だった。

「関西のあるお寺で祈祷した塩なんだ。それを部屋に置くと魔除けになるらしい。ダイレクトメールで誘われて、1個1万円。2個2万円で買ってみた。『部屋の北東に置くと良い』と言われたんだけど、どの方角が北東なんだろう」

 卒寿を過ぎ、日々弱っていく母を救うため、高価な塩を“魔除け”として購入したというのだ。友人が親切心で「今度、方位磁石を買って家に行くよ」と話すと、後日、男は「自分で方位磁石を買いに行ったけど、やっぱり方角がよく分からない」と繰り返した。

 それから約3カ月後の今年1月26日。男の母はひっそりと息を引き取った。2階にある9畳の洋室には、22年前に購入した散弾銃の保管庫がある。男はもう一つの“魔除け”を手にすると、母の亡骸の脇にそっと供えた。

 埼玉県ふじみ野市の閑静な住宅街の民家で突然銃声が響き渡ったのは、翌27日夜9時頃のことである。

「ふじみ野在宅クリニック」の鈴木純一医師(44)を人質に立てこもったのは、この家に住む無職・渡辺宏(66)。約11時間後、県警が玄関のドアを破り、渡辺を殺人未遂容疑で緊急逮捕した。

玄関から警察は突入した

「鈴木医師は意識不明の重体で病院へ搬送され、その後、死亡が確認された。理学療法士の男性は胸を撃たれて重傷。渡辺は92歳の母親と2人暮らし。母の最期を看取り、死亡診断書を書いたのは鈴木医師でした。同日、渡辺は『線香を上げに来てほしい』と、弔問に来るよう要求。翌日夜9時頃、鈴木医師ら7人が渡辺の家を訪れた際事件が起こった」(社会部記者)

 渡辺は犯行の動機を、こう供述している。

「母が死んでしまい、この先いいことはないと思った。自殺しようと思ったときに、自分一人ではなく、先生やクリニックの人を巻き込んで殺そうと思った」

 渡辺は介護という美名のもと、いかにして身勝手な妄想を育てたのか。母子が共に歩んだ66年を紐解くと、“共依存”のループに陥っていく、歪(いびつ)な軌跡が浮かび上がってきた。

送検される渡辺

 1955年11月、渡辺は下町情緒溢れる東京都江戸川区に生まれた。町工場が点在し、職人たちが路地を忙しなく行き交う。渡辺家も例外ではなく、自宅の敷地内に建てられた小屋からカンカン、カンカンという金属音が鳴り響いていた。

小学校時代の渡辺

「お父さんは鍛冶屋。医療用の10〜15センチくらいの大きさのピンセットを作り、親族が経営する医科機器製作所に卸していました。お母さんは洋服の仕立て屋で働いていて、腕は良かった。宏くんは子供の頃、野球ボールを壁に当てて遊んでいた」(渡辺家の知人)

 地元の小中学校時代の同級生が当時を振り返る。

「彼は目立たなかったけど、母親と顔がそっくりだった。彼は地元の中学高校を出た後、江戸川信用金庫(現・朝日信用金庫)に就職した」

中学時代。「大人しいタイプ」(同級生)

母はいつも「うちの宏が……」

 信金に職を得た息子は、渡辺家にとって誇りだった。

「夕方に職場から車で帰ってくると、家の前で彼はプップーとクラクションを鳴らすんです。するとお父さんが家から出て、車庫のシャッターを開けてあげる。一人っ子だから甘やかされて育ってきたんでしょう。銀行に就職できたら一生安泰と言われていた時代で、お母さんは、いつも『うちの宏が、宏が……』と、可愛がっていた」(前出・知人)

 81年7月、前途洋々な社会人生活を送っていた渡辺は、家族のために一大決心をする。借地の上に建てていた自宅を取り壊すと、1345万円のローンを組み、木造2階建てのマイホームを新築したのだ。当時、渡辺は26歳。

 ただ、一家団欒の日々は長くは続かず、わずか4年後の85年1月、自宅を手放す。前出の知人が明かす。

「会社のお金を使い込み、懲戒解雇になったと聞きました。ローンを返す当てがなく、自宅も売却した。近所の人や友達からも金を借りるようになり、催促されても返せなくなっていった。実際、家の玄関を借金取りがドンドン叩いて、横の窓のほうまで回って『いるんだろ!』と怒鳴ったりしていた。一家は電気を消して居留守を使っていましたが、やがて夜逃げ同然にどこかに行ってしまった」

 その後、両親は別離。渡辺は母と2人暮らしを始めるが、平穏な日々とは程遠い、貧困という苦境が牙を剥く日々の連続だった。

 43歳になった渡辺は、江戸川沿いの都営アパート群の一角に根を下ろす。

 だが、入居から約2年後。玄関口に貼られた「金返せ」という小さな紙が安住を打ち破る。やがてこの家にも借金取りが日夜問わずにやってくるようになった。当時を知る近隣住民が語る。

「夜7〜8時頃、人相の悪い2人組の男たちが月に3〜4回、玄関のドアを叩いて『金返せ!』って。でも、彼らがそれに応じている様子はなかった。ある日、お母さんが『大きい男の人たちが来て怖いのよ』と不安を口にしたこともあった」

 借金取りに追われる渡辺がなりふり構わず縋ったのが13歳上の従兄だった。

「2、3万円貸してくれ。借用書も書くからさ」

 久方ぶりに目の前に現れた渡辺は、清潔感の欠片もない風貌に成り下がっていた。その鬼気迫る様子を見た従兄は「これは関わらないほうがいいな」と直感的に思ったという。

「20年くらい前かな。ある日突然、ネクタイもせずに家にやってきて驚いたんだ。お金を貸さないで逆恨みされても嫌だから『借用書なんていいから、これはあげるから』と言って、2、3万円を渡して帰した。それ以来、まったく会っていません」(渡辺の従兄)

 金策に走る傍ら、00年3月21日、渡辺が足を踏み入れたのは、都内の銃砲販売店だった。鈍色(にびいろ)に光る散弾銃やライフル銃を手に取ると、瞳を輝かせた。

「全額は払えないからローンでいいですか。私は会社員ですから」

 渡辺はそう言うと、約114センチの米国製レミントンM870を指差した。同店関係者が証言する。

「『銃は初心者で初めて購入するんだ』と話していた。レミントンは狩猟用の散弾銃で、1回ずつスライドを引き直さねばならない手動式のもの。ヨーロッパ製や日本製に比べれば精巧ではなく、重いのですが、比較的安価なので初級者には人気です。彼が選んだのは、定価約6万円の中古。その日は頭金2万円ほどを払いましたが、その後『失業したから払えない』と言われ、お金が全額支払われることはありませんでした」

「うちの母親に失礼だろう」

 約2週間後、警察署から「3077―」の所持許可証が付与された。08年11月には、約107センチのベレッタ製の散弾銃も購入。一昨年、許可証の更新もしている。

 代金を踏み倒してまで散弾銃を手に入れた渡辺は生まれ故郷を捨て、埼玉県富士見市に新天地を求めて転居した。2人は人目を避け、自治会や長寿会などのイベントには一切参加しなかったという。孤立を深めていく中、社会との唯一の接点が、地元の病院だった。

 ある病院スタッフは、頭髪の後退した男が車椅子に老婆を乗せ、院内に響き渡るような大声で怒鳴り散らす様を鮮明に覚えている。

「なんで俺の母親を先に診ない。うちのを先に診てくれと言ってるだろう!」

 老婆は息子の横暴な振る舞いを窘(たしな)めるわけではない。車椅子の上で背中を丸め、終始柔和な表情を浮かべている。

「おい、うちの母親に失礼だろう。その言い方はなんなんだよ!」

 こうした渡辺の大立ち回りがふじみ野市内の総合病院で目撃されるようになったのは、約13、4年前。同病院関係者が苦悩に満ちた表情で振り返る。

「母親は肺に持病があり、足の治療で整形外科にもかかっていました。息子さんは高血圧で診てもらうこともありましたが、基本的には母親の付き添い。診療が5分でも遅れると、所構わず『遅い!』と激高。予約なしで来たときも『うちの母親を先に診てくれ』と理不尽な要求を突きつけてきた。病院内では危険人物として情報が共有され、職員同士で警戒していました」

 渡辺が過剰反応を見せるのは、決まって母の病状に端を発していた。

「自分の診察には怒りませんが、母親が腹痛になれば『すぐに胃カメラをしろ』と。断ると『専門医のくせに分かってない』と大声を出すわけです」(同前)

 同総合病院との関係は10年近く続いたが、その間、渡辺が別の病院に母を連れて現れることもあった。

「初診は16年6月で計3回通院しました。軽症の間質性肺炎の検査と診療。別の病院にかかっていたそうですが、付き添ってきた息子が『担当医と喧嘩して、もう行かねえって言ってしまった』と。そのとき『治療薬にステロイドを処方してほしい』と要求。しかし、高齢の母親はやせ細って腎臓を患っていたので、副作用で骨折する恐れもあった。そのことを丁寧に説明しましたが、分かってもらえなかった」(元担当医)

 同病院に一通の簡易書留郵便が届いたのは、それから数日後のこと。「親展」と書かれた封筒の中には、A4サイズの手紙が2枚。横書きの達筆で次のような文字が記されていた。

「あなたは専門医なのに治療に対して何も分かっていない。治療に対して後ろ向きである。猛省すべきだ」

 介護業者とのトラブルも頻発していた。

「お母さんに対して、お風呂の入れ方などを巡り、『介護の仕方が悪い』とクレームを受けました。それ以後、穏便に済ませるため、5、6回ほど無料送迎をしたことがあった」(地元介護業者)

 地域の在宅医療の担い手だった鈴木医師が、渡辺の母親の往診を始めたのは、ちょうどこの頃である。

 そして渡辺は家賃約11万円のUR賃貸住宅の9階に転居する。73平米の2LDKだった。

「車椅子を押す老け込んだ男の人の姿を見たことがあります。最初は仲の良い夫婦だと思っていました」(近隣住民)

 渡辺がカツラをかぶって近所を闊歩する姿も目撃されている。

カツラを着用していたことも

 だが母の介護や医療にまつわる人間関係を除き、周囲から遮断された生活を送る中で、2人は生活に困窮するようになっていった。

 家計を支えていたのは年金収入。そこで18年以降、生活保護を受給し、それに伴い、低家賃の物件に引っ越すことになる。市役所関係者が言う。

「市から不動産会社に依頼をし、19年3月に賃貸契約を結んだのが、事件当日に親子が住んでいた一軒家です。家賃の5万2000円は市から全額分の家賃補助を出しています。緊急連絡先は市が雇用しているケースワーカー。通常は親戚などが保証人になりますが、身寄りがいなかったので」

 築51年の木造2階建ての一軒家。転居先では生活保護にまつわるトラブルも起こしていた。

「『母の介護で働けない』と申請理由を説明していましたが、一時期アルバイト収入があったことが発覚。さらに数年前、車検の切れた中古のクラウンを購入し、コインパーキングに放置していたことも判明した。ただ役所にバレても反省の色はなかったようです。生活の中心軸を母に置き、それが乱されることで激高するため、役所の担当課には『母親に関することには慎重に対応すること』という“申し送り事項”もありました」(福祉関係者)

 前出の市役所関係者が“母子密着”の生活ぶりを解説する。

「入居後、『エアコンの効きが悪い』と連絡を受け、職員が自宅に出向きました。するとお母さんは1階の洋室のベッドに座り、新聞を読んでいた。渡辺さんに『どこで寝てるんですか』と聞くと『お母さんと同じ部屋です』と。ベッドの隣の床で寝ていたようです」

現場となった渡辺の自宅

 陽の当たるベッドに座りまどろむ母に対し、渡辺は幼児に接するような口調で話しかけていたという。

「エアコンの業者が使い方を尋ねると『お母さんの部屋の温度を一定に保てるようにしている』と。職員が何かの用事で家に行くときは『お母さんの下の世話や食事の世話が午前中にあるから、午後に来て』と。一事が万事、母親が中心の生活を送っているようでした」(前出・福祉関係者)

 20年8月、渡辺は冒頭の友人に対し、声を弾ませ、次のように話した。

「タイガーマスクの番組をどうしても観たい。ダビングしてもらえないか」

 同月18日、NHK BSプレミアムで放送された「アナザーストーリーズ 運命の分岐点 タイガーマスク伝説〜愛と夢を届けるヒーローの真実〜」。重い病と向き合う初代タイガーマスク・佐山聡の葛藤を描くドキュメンタリーだった。

「何でも屋とかにも聞いたけど、やってくれないんだよ。何か伝手ないですか」

 友人が回顧する。

「それからも電話が続き、私が『値段いくらになるか分かんないよ。3万ぐらいかかるかもよ』と言うと、渡辺さんは『3万円でもお願いします』と。結局、諦めたようでしたが、きっと病で弱っている自身の母親とタイガーマスクを重ね合わせ、闘病に希望を見出そうとしたのでしょう」

 鈴木医師の往診も続いていたが、高齢の母の病はなかなか良くはならなかった。心の焦りを示すかのように、昨年一月以降、渡辺は約15回も東入間医師会の地域医療・介護相談室に相談の電話を入れている。

鈴木医師(みずほ台病院HPより)

 渡辺が吐露したのは主に「母がものを食べられなくなった」「排泄がうまくできない」という生理機能の衰えに関する悩みだった。“常連”である渡辺に対し、ベテラン相談員は冷静に話を聞き出し、それを逐一鈴木医師にフィードバックしていた。東入間医師会の小山雅和事務局長が語る。

「鈴木先生は高齢者の苦痛になるような投薬や手術については勧めず、患者のQOLを重視し、畳の上で死ぬのを良しとする、患者に寄り添う医師でした。渡辺さんと意見が食い違っていたのは、胃ろうの問題。渡辺さんからは『在宅で胃ろうにしたい。最期まで自宅で見てほしい』という要望がありましたが、それは現実的に不可能でした」

 医療では、思うように母の体調が回復しない――。そこで昨秋、渡辺が最後にすがったのが、冒頭の“魔除け”の盛り塩だった。

「2個も買ったのかよ、と驚きました。2個で2万円ですからね。僅かな年金と生活保護で暮らしている彼にとっては大金。彼は酒浸りになるタイプではない。でも、最愛の母が弱っていくのを見て、もう正常な判断が出来なくなっていたんでしょうね」(前出・友人)

盛り塩と散弾銃を亡骸に

 だが当然、盛り塩で病気が快癒するはずもない。年が明けて1月24日、渡辺は医師会に最後の電話を掛け、相談員にこう告げた。

「鈴木先生の治療方針について納得行かない点がある」

 66年間寄り添った母が永眠したのは、それから2日後のことだ。鈴木医師の来訪を前にして、渡辺は盛り塩と2丁の散弾銃を陽光に照らされた亡骸に供えた。そして弔問に訪れた鈴木医師に対し、渡辺は懇願するように言ったという。

「まだ生き返るかもしれないので、心臓マッサージをしてほしい」

 すでに死後30時間。鈴木医師は丁重に断った。

「母親を馬鹿にしている」

 そうした思いが頭をもたげたのか。渡辺はおもむろに立ち上がると、散弾銃の引き金を強く引いた――。

自宅周辺は騒然となった

「患者と接していくうちに、在宅医療ニーズの高まりを肌で感じるようになったんです」

 東京慈恵医大を卒業後、富士見市内の総合病院の常勤医師として勤務していた鈴木医師は、周囲にそう熱く語っていた。一念発起し、在宅クリニックを開設したのは13年3月のことだ。

「鈴木先生を事務長という立場で支えていたのは、大手銀行を定年退職したお父さんでした。先生は地域医療・介護相談室で診ている患者200人のうち約8割を担当。ふじみ野市の在宅医療の守護神でした」(前出・小山事務局長)

 昨年のコロナ第5波の際、鈴木医師は自宅療養を余儀なくされた患者の診療に精力的に取り組んだ。だが次々と感染は拡大し、現場は大混乱に陥った。

「あれじゃ、みんな死んじゃうよ……」

 患者の容態が急変していく様を目の当たりにし、帰宅後、父に対してこう訴え、大粒の涙を流した。

 8月には東京パラリンピックの聖火リレーで、ALSの女性患者の伴走をした。彼女の目の治療を引き受けた東入間医師会会長の関谷治久医師は、彼女の生きがいや家族の要望まで仔細に記された鈴木医師の診療情報提供書に目を通し、「ここまで患者に寄り添っていたのか」と驚愕した。

患者と共に聖火のトーチを持つ鈴木医師

「鈴木先生は『第6波は絶対に来る』と話していました。『それに備えて準備をします』と言っていた矢先でした」(前出・小山事務局長)

“共依存”の末、自らの方位磁石を失った渡辺は、将来を嘱望されていた医師の一生を無残にも奪った。

 現在、埼玉県警の取り調べに黙秘を貫く渡辺だが、母との関係を尋ねられると破顔することもあるという。

source : 週刊文春 2022年2月10日号

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