日本大百科全書(ニッポニカ)「すき焼き」の解説
すき焼き
すきやき
鍋(なべ)料理の一つ。牛肉を主として用いるが、鶏肉を用いる鶏(とり)すき、豚そのほかの肉類や魚貝類を用いるものもある。すき焼きの語意は鋤(すき)を鍋がわりに用いたからという説はあたらないが、使い古しの鋤を用いることは天保(てんぽう)3年(1832)版の『鯨肉調味方』のなかにある。「鋤焼とは古き鋤のよく摩(す)れて鮮明なるを熾火(つよび)の上に置き渡し、それに切肉をのせて焼くをいう。鋤に限らず鉄器のよく摩れて鮮明なるを用うべし」と書いてある。ところが文久(ぶんきゅう)年間(1861~64)に横浜に開業した店も、慶応(けいおう)年間(1865~68)に江戸に初めて出現した店も、牛鍋屋であって、すき焼き屋といっていない。
明治時代になって牛鍋屋は数多くでき、1878年(明治11)の牛鍋屋番付には約300軒の店名が出ているが、1軒のすき焼き屋もみえない。各店ではこんろに木炭を入れて熱源とし、鉄の平鍋を使用して、割下を注ぎ牛肉を煮ていたのである。仮名垣魯文(かながきろぶん)の『安愚楽鍋(あぐらなべ)』に「往来絶えざる浅草通り御蔵前に店舗の名も高き高旗の牛肉鍋(中略)、士農工商老若男女賢愚貧福おしなべて牛鍋食わぬは開化不進奴(ひらけぬやつ)(中略)、実に流行は昼夜を捨てず繁盛かくの如(ごと)く(中略)、オイねえさん生(なま)で一合、葱(ごぶ)も一処にたのむ」とある。ここで葱(ねぎ)という字に「ごぶ」と仮名が振ってある。これは明治初年から昭和の初めまで、牛鍋は薄切りの牛肉と長さ5分(ぶ)(1.6センチメートル)の輪切りにした長ネギ4個を一列に並べたものを皿に盛ってあった。この輪切りネギを俗に五分といったのである。1898年(明治31)版『東京新繁昌記(はんじょうき)』には、当時有名な牛鍋屋を10軒ほど掲載しているが、このころは牛鍋屋でなく牛肉店の文字を使用している。要するに、江戸末期から大正の中ごろまでの間、牛鍋屋から始まり、次に牛肉店の文字が当時の高級店の意で用いられ、さらに牛肉割烹(かっぽう)店が別格の店の意として使われていたのを散見できる。大正の中ごろ、すき焼き屋が牛肉店並みの高級店の意に用いられ始めてから、猛スピードで牛鍋屋の名称はすき焼き屋に変わっていった。
すき焼きの作り方は関東と関西では相違がある。関東は煮汁用に割下と薄割りをつくっておき、鍋に割下を注いで加熱し、すぐに肉を入れさっと煮て食べる。野菜は前述のように輪切りのネギだけである。関東でいまのようにネギのほかに、しらたき、シュンギク、豆腐、麩(ふ)などを添えるようになったのは大正の中ごろからであって、これは関西流のすき焼きの方法でもある。関西ではいくつかの方法があるが、まず鍋を火にかけ、牛脂で鍋炒(いた)めをして初めに牛肉を入れ、これに砂糖をふりかけ、砂糖が溶けて肉にしみ込んだところへしょうゆを注いでネギを加えるのが基本形である。明治時代には、すき焼きに溶き卵をつけて用いることはしなかった。現在のすき焼きは野菜などの具を多く用いる。
[多田鉄之助]
すき焼き鍋には通常鉄の鋳物が使われる。南部鉄のものがよいとされ、油を十分にひき込んでなじませてから使用する。とくに、関西風のすき焼きは、肉を直接鍋はだで焼くため、鋳物の鉄鍋でないと焦げてうまくできない。関東風の場合には、アルミ鍋も使用される。関西風でもアルミ鍋を使用することもあるが、この場合は、中央に、最初に鍋にひいた牛脂の残りを入れる卵大の凹(くぼ)みがある。この中に牛脂を入れておくと、煮ている間に牛脂が順次溶け、すき焼き全体に広がり、味がまるくなる。
もともとすき焼きは牛肉が主体であるが、豚肉、鶏肉でもすき焼きにする。その際は、豚すき、鶏すきとよぶ。これは、関東風の割下で煮る方法が主である。このほか、魚類の切り身を薄味仕立ての煮汁で煮ながら食べる鍋料理を関西では魚(うお)すきとよぶ。また、特有のだしで煮るうどんを主体としたうどんすきもあり、この名称は大阪にある美々卯(みみう)の登録商標である。
[河野友美・大滝 緑]