春は新生の季節。
木々が芽ぶき、花が咲き、子どもたちの新学年もスタートします。
自然も人も新鮮なエネルギーに包まれるこの季節、長門市では、仙崎出身の童謡詩人・金子みすゞの生誕百周年を迎え、金子みすゞ記念館がオープンします。
地元の人々が大切に守り、次代へ伝えていこうとするみすゞの詩の心を訪ねて、みすゞの故郷・仙崎と青海島を山口県生まれの女優・緒川たまきさんが歩きました。
緒川たまき
女優。昭和47年(1972)山口県徳山市生まれ。映画「PUプ」主演で女優デビュー。映画・舞台・テレビドラマなどに出演する一方、NHK教育テレビ『新日曜美術館』の司会やラジオのパーソナリティなども務める。舞台『広島に原爆を落とす日』でゴールデンアロー賞・演劇新人賞、映画『SF
サムライ・フィクション』で高崎映画祭最優秀助演女優賞を受賞。趣味のカメラを生かしたフォト&エッセイ「Mexico ガイコツ祭り」などの著書もある。
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金子みすゞを語るとき、まるで枕詞のように「幻の童謡詩人」の文字が冠される。
無理もない。明治三十六年(一九〇三)に大津郡仙崎村(現・長門市)に生まれた金子みすゞ(本名・金子テル)は、二十歳の頃から『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』などの雑誌に作品を投稿して賞賛を集めたものの、結婚後は夫に禁じられて詩作を断念。二十六歳の若さで自死を遂げた後はその作品は散逸し、みすゞの名も一部の童謡ファンの間でひっそりと語り継がれるのみだった。ゆえに、「幻の童謡詩人」。そんなみすゞの存在が再び、以前にも増して脚光を浴びることになったのは、死後半世紀余りを経た昭和五十七年(一九八二)、児童文学者・矢崎節夫氏によってみすゞの遺稿五百十二編が見つけ出され、昭和五十九年に全集として出版されたためである。 |
「夭折の詩人、というだけでひかれるものがありますね」
女優・緒川たまきさんの仙崎での第一声はその感性を物語るものだった。徳山市で生まれ、その後東京を経て広島育ちの緒川さんは、かつてNHK教育テレビ『新日曜美術館』の司会を務め、渋澤龍彦、室生
犀星、尾崎 翠、谷崎潤一郎らの作品を愛読し、自らも写真や文章で創作表現を行なう女優。フォト&エッセイ集も数冊出版している。年齢的にも、詩作に励み、自ら人生を終えてしまった当時のみすゞに近い。
そんな緒川さんを笑顔で迎えたのは、長門高校講師であり、金子みすゞ顕彰会理事の嶋田靖代先生。同会が運営する(旧)金子みすゞ記念館(※注1)ではボランティア学芸員を務めてきた。
「まず通に行きましょう。くじら資料館とくじら墓を緒川さんにご案内したいの。みすゞさんの心を理解していただくために」
ふたりを乗せた車は、キラキラ輝く仙崎湾を眼下に青海大橋を渡り、ゆっくりと走る。
「あまりかはいい島だから
ここには惜しい島だから、
貰つてゆくよ、綱つけて。」
(「辨天島」より)
と、みすゞがうたった仙崎の弁天島は、今は陸つづきになって風情に欠けるが、
「ほら、あっちに浮かんでいる大日比の弁天島、当時はちょうどあんな感じだったと思いますね」 と嶋田先生が指差す小島を見て、「本当…。綱をつけて引張ったら動きそうな可愛い島」と緒川さんもうっとりと答える。
愛らしさは童謡の基本要素だ。しかし、みすゞの詩に流れているものはそれだけではない。
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嶋田靖代
長門高校講師、金子みすゞ顕彰会理事。昭和22年(1947)長門市生まれ。みすゞの詩の世界について各地で講演活動。
この4月にオープンする金子みすゞ記念館の設立準備に際しては、みすゞの詩512編のデータベース化に協力。平成13年映画「みすゞ」では方言指導を担当。金子みすゞ顕彰会運営の旧・金子みすゞ記念館(3月10日まで開館)ではボランティア学芸員を務めてきた。 |
仙崎と青海島の通は、江戸初期から明治末期まで日本有数の捕鯨基地だった。鯨一頭を捕え、巨大な体から肉や骨を分けるのは、大がかりな共同作業だ。鯨が逃げまどう海も、捕えられた鯨が解体される浜も、流れ出す血の色に染まったという。
岩も礫もむらさきの、
常は水さへむらさきの、
岸さへ朱に染むといふ。
(「鯨捕り」より)
そんな残酷で悲しい過程を経て、鯨は地元の人々にとって「一頭捕ると七浦うるおう」というほどの財源になったのだ。その大事業のさまは、江戸時代に描かれ、仙崎・八坂神社に奉納された「捕鯨図」からも見てとれ、くじら資料館ではその写しを見ることができる。
通の向岸寺には、鯨の位牌と「鯨鯢過去帳」(※注2)が残され、毎年四月には鯨のための法要・鯨回向(※注3)が三百年以上も営まれつづけている。同寺の清月庵には、母鯨の胎内にいた胎児七十数体を埋葬した鯨墓がある。元禄五年(一六九二)に鯨組網頭により建立されたものだ。海に向かって立つ墓には「業尽有情雖放不生、故宿人天同証仏果」の文字。「人間と同じように回向の功徳を受け、悟りを得てください、という意味ですね。せめて親鯨が泳いでいた故郷の海の方を向かせて…」と、しんみり、嶋田先生。墓に手を合わせた緒川さんは、鯨こそ捕らなくなったが、今なお漁船が停泊する通漁港を見下ろしながら
「『鯨捕り』に出てくる”むらさき”って、夕暮れのことかと思っていたけど、この青い青い紫津浦湾に鯨の血がにじんでいく色だったんですね。ここへ来て初めて実感しました。作品ゆかりの地を訪ね、作者と同じ空気に触れるって、こういうことなんですね。文字で読んでいた作品に作者の血が通っていく感じ。そして、みすゞのうたった”むらさき”を、この目で見てみたかった、とさえ思います、不謹慎ですけど。それは、鯨の命の色。どんなに…」と、語る口調も瞳も次第に熱を帯びてきた。
他の生命を捕え、それとひきかえに生かされている人間の悲しみ。鯨への感謝と憐憫の情を忘れることのなかった漁民たちの姿。生きとし生けるものが抱えた根源的な悲しみと向き合ってこそ生まれる優しさ…。仙崎と通の地に受け継がれてきたいのちを慈しむ気風が、ここで育ったみすゞの精神形成に与えた影響は計り知れない。通は、みすゞの父の出身地でもあった。
幻の童謡詩人が甦るきっかけとなったのは、みすゞのうたった「大漁」。この一編の詩が当時は学生だった矢崎氏の心をとらえたという。
朝燒小燒だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
濱は祭りの
やうだけど
海のなかでは
何萬の
鰮のとむらひ
するだらう。
(「大漁」) |
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※注1 (旧)金子みすゞ記念館
3月10日まで開館
※注2 鯨鯢過去帳
享保4年(1719)から天保8年(1837)までに捕えられた鯨の戒名、種類、場所、鯨組名と命日が記されている。
※注3 鯨回向
浄土宗による鯨の法要。
みすゞのわずか二十六年の生涯は、常に複雑な家庭環境の中にあった。幼くして父を亡くし、弟・正祐は下関の親類・上山家の養子となる。みすゞと兄・堅助は仙崎で金子文英堂を営む母と祖母の深い愛情に包まれて育つが、後に母は正祐の養父・上山松蔵に後妻として嫁ぐ。みすゞも女学校卒業後は下関の母のもとに移り住み、上山家の経営する書店・上山文英堂の支店を手伝いながら童謡の創作・投稿に励むが、松蔵の勧めに従って結婚した後は、夫の転職や女性問題に苦しみ、病に見舞われ、心のよりどころであった詩作も夫から禁じられる。やがて離婚の後、一人娘・ふさえを別れた夫に渡すことを拒み、自ら命を断つ。一見、幸薄い人生。しかし、嶋田先生は
「みすゞさんは自分を不幸とは思っていなかったのではないでしょうか。いつも明るい方へ気持ちを持っていける人だったし、周りの大切な人たちが幸せになることを自らの幸せとし、最期まで精一杯生きた人でした」と言い切る。緒川さんがその言葉に大きく頷いたのは、青海島の小高い丘、対岸に仙崎を望む王子山の詩碑と対面したときのことだった。
木の間に光る銀の海、
わたしの町はそのなかに、
龍宮みたいに浮んでる。
銀の瓦と石垣と、
夢のやうにも、霞んでる。
王子山から町見れば、
わたしは町が好きになる。
(「王子山」より)
「生まれ育った町が好きになるという表現は、故郷を出て他の町で苦労して帰ってきた人の感覚でしょう。仙崎と下関しか知らなかったのにこんなふうにうたえるなんて、みすゞは心の中でどれほどたくさんの旅をしていたんでしょうね」と、銀色の海と町に目を細めながら。
仙崎駅から、王子山のある青海島との間に横たわる瀬戸(小さな海峡)に向かって伸びる約一kmの通りが、みすゞ通り。八坂神社、極楽寺、角の乾物屋など、みすゞが幼少期に遊び、作品にうたった場所が点在する。家々の軒先には木札が揺れている。それぞれお気に入りのみすゞの詩を書いて吊るしているのだ。みすゞの墓が建つ遍照寺もこの通りにある。墓は、金子文英堂の隣人でもあった遠縁・重山家が長年にわたり守ってきた。
「重山家では、みすゞさんの家のバラの木を移植して大切に育てて、今も花を咲かせておられるんですよ」と嶋田先生。
みすゞ通りの中ほど、金子文英堂跡地に四月に完成する金子みすゞ記念館は、通りに面した文英堂の復元空間の奥に、遺稿・遺品を展示した記念館棟が位置し、中庭には、井戸も残されている。「みすゞの部屋も二階に復元されているんですね。木札にバラ、そしてこの家…みすゞの心を大切に守り、伝えていく仙崎の人の心のひだが感じられます」と緒川さん。
姉に劣らず芸術の才に恵まれ、 後年、演劇関係の仕事で活躍した弟・正祐との心の絆は、みすゞの人生の支えであった。記念館で確認できるふたりの往復書簡からは、その真実が見てとれる。
「みすゞは、何かに感動する心を持ち、その心の振れが共鳴し合える人を持っていた。それが弟の正祐さんだったんですね。だから、幸せだった。みすゞはどんな状況の下でも、幸せを見つけることの上手な人だったんですね」
緒川さんの感動に満ちた言葉に、今度は嶋田先生が大きく頷いた。
故郷を訪ねれば、文学のルーツがわかることは多い。さらに、未来が予感できることさえある。みすゞの母校・仙崎小学校(当時は瀬戸崎尋常小学校)では、まさにそんな幸運に巡り会えた。
同校は「みすゞさんの心をもって、たくましくだれとでも手を取り合って生きる仙崎っ子の育成」を教育目標に掲げ、みすゞの詩の朗読、『仙小みすゞまつり』などによって多角的な「みすゞ教育」を実践している。
「具体的人名を教育目標に明記しているのは、全国的にも珍しいと思います」と、中嶋一夫校長。各教室はもちろん、廊下、階段など校内いたるところにみすゞの詩や、感想文、みすゞ通りの案内図など、子どもたちの創意に満ちた作品が掲示・展示されている。
みすゞの本がズラリと揃った図書室”みすゞさんの教室”で子どもたちが綴った『みすゞさんへの手紙』を熱心に読んだ緒川さんは、「『みすゞさんの詩を勉強して深い意味がわかって、この詩がもっと好きになりました』と書いてあるのって、私の今回の旅の感想と一緒」とほほ笑み、詩を暗唱する子どもたちの元気な声に「この子たちは大人になって辛いことがあっても、みすゞの詩がふっと思い浮かぶことでしょうね」と、じっと耳を傾けた。
みんなちがつて、みんないい。
(「私と小鳥と鈴と」より)
みすゞが願った「みんなのしあわせ」は、その詩を媒体として生誕百年を迎えた現在へ、そして未来へと確かに受け継がれていく。
*文中の詩は、『金子みすゞ全集』(JULA出版局)より引用
長門市仙崎みすゞ通り 0837-26-5155
●開 館/9時~17時
●休 館/火曜日(祝日の場合は翌日)
12月29日~1月3日
●入館料/大人:350円
高校生以下:150円
開館日までの問い合わせは
0837-23-1115
長門市企画振興課へ
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長門市通671-17 0837-28-0756
●開 館/9時~16時30分
●休 館/火曜日
12月29日~1月3日
●入館料/18歳以上:200円
6~18歳未満:100円 |
日本海に面した景勝地と山間のいで湯に恵まれた長門市。北長門海岸国定公園の代表的景観である1
青海島は、海上アルプスとも呼ばれ、奇岩が連なる日本海の自然美が楽しめる。県道282号線・白潟トンネルの上に位置する 2
みすゞ公園には、金子みすゞの詩碑6基が建ち、仙崎の町が一望できる。音信川のほとりに旅館やホテルが点在する3
湯本温泉、古くから湯治場として親しまれている4
俵山温泉は、ともに県を代表する名湯。近松門左衛門ゆかりの地らしい文化施設 5
ルネッサながとは、歌舞伎や文楽に対応できる劇場や多目的アリーナ
を備え、浄瑠璃や歌舞伎の上演が盛ん。海の幸豊かな長門のおみやげには、“焼きぬき”という手法で造られる6
仙崎かまぼこが人気。
参照サイト
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