ワイカト、暴風が来るまえに

最近はクリーム·ドーナッツと呼ぶのが流行っているが、Cream BunCream Bunで、日本語でクリーム·バンと書くと、十中八九、クリーム·パンだと思われてしまうのが判明しているので、わざわざ英語綴りで書かなければならいのが煩わしいが、スパレットと呼ぶ人が増えてもDairyDairyで、これも、ニュージーランドに住んでいる日本の人は、Dailyと書く人が多いが、カタカナのやるせなさで、英語で綴ったほうがよくて、Dairyです。

ドライブに行くでしょう?

例えば軽井沢から、おいしい魚を買いに新潟へ出かけて、日帰りで、帰りには「とんかつの政ちゃん」で、中入れカツ丼を食べて帰ってくる。

途中で、ちょっとお腹が空いたなあ、と思えば、ローソンだっけ?

ファミリーマートかな? どっちだったか忘れたが、コンビニにクルマを駐めて、からあげクンとおにぎりふたつを買う。

昆布とカツオブシがいいよね。

ツナマヨや明太子みたいなブキミなものを買う人の気が知れない、と偏見を発揮しながら、モニさんが、助手席(日本では、パッセンジャーシートを「助手」が座る席と呼ぶのは、なんど書いてもチョーおもしろい)から、渡してくれる、からあげクンをかじりながら、おにぎりをパクつきながら、高速道路を、一路、北へ向かう。

コンビニが、ニュージーランドでは、ベーカリーになります。

たいていカンボジアやベトナムの人たちがやっていて、ステーキパイがあって、クラブサンドイッチがあって、クリームバンがある。

フライドチキンや、スティックに刺さった、でっかいソーセージも売っている。

ソーセージは、ですね。

クランスキー·ソーセージと言って、チーズが練り込んであるソーセージで、たいてい、ゲロマズ、….失礼しました、あんまり、おいしくはない。

コーンドッグ、日本で言うアメリカンドッグもあるが、これを欲する場合は、いつ揚げたものか聞いて、十分以上前のものは、避けたほうがよいのだと言われている。

ステーキパイ

ミンスパイ

ステーキ&チーズ

ステーキ&マッシュルーム

ステーキパイやミンスパイはいろいろあって、最近はカレーステーキパイも多いが、色物パイは、

いままでのところステーキ&ハラペーニョが最もおいしい。

最近は転業してサモサ評論家になったが、子供のときからおよそ20年近くステーキパイ評論家だったので、ステーキパイについては、たいへん煩い。

おいしい店を見つけるコツは、インターネットでレビューを見る、という手もなくはないが、そこがステーキパイで、インターネットと良い相性を持つことを拒絶している。

レビューが、あてにならない。

では、どんなコツがあるかというと、ビンボな町のレッドネックなひとびとが住む通りを目指します。

レッドネック、知ってますか?

クビの後ろが赤い、という文字通りの意味で、ひとことで言えば田舎のトランプサポーターみたいなひとたち、と言ってしまったほうが、イメージが浮かびやすいのではないか。

日本人のきみが、一歩、店内に入ると、カウンターの向こうで、白いおばちゃんが、有色の人が店に足を踏み入れた驚きのあまり、きみを睨み付けているような店が望ましい。

もっとも、先刻のべたように、最近ではベトナムの人やなんかが主流なので、白いおばちゃん、おおかた、どっか行っちゃったけどね。

そういうドビンボ、偏見てんこ盛り、人種差別ガッチガチのような町のベーカリーに行くと、世にもおいしいステーキパイが食べられることになっている。

オークランドのジェントリフィケーションが進んだ、美々しい通りでも、もちろん、おいしいパイは食べられるが、田舎町なら3ドルのパイが、8ドルだかんね。

別の食べ物というべきでしょう。

ステーキ&チーズを買って、¢10だかの、ちっこい、まんなかでふたつに割れるプラスチック容器に入ったトマトソースを買う。

トマトソースって、ケチャップのことでんねん。

え?じゃあ?イタリアのトマトソースはなんと呼ぶのかって?

そりゃ、トマトソースに決まってますがな。

ピューレーもトマトソースで、なんでもかんでもトマトソースで混乱するので、最近の移民の人は、ケチャップだのイタリアン·トマトソースだのと言うが、ちっちっち (←人差し指を立てて振っている)

そんな明晰なことをやっていては、いつまで立っても英語は身に付きませんぜ、旦那。

英語は混乱の言語だと、ベーオウルフも述べている。

嘘だけど。

(閑話休題)

サーモスに詰めたコーヒーを飲みながら、陽光をきらきらと反射させている、緑が深い、セミの声がひびきわたる渓谷を抜けて、アボカドやキィウィフルーツやブドウの果樹園を横目に見ながら、だいたい巡航100km/hで走りながら、突然、目のまえに広がる広大な斜面の丘陵や、牛さんたちが、ぶっくらこいた好奇の目で、こっちを見ている農場、なんだか孤独な哲学者のように寂寥を感じさせる立ち方で、物憂げに佇立している馬さん、田舎の内陸へ進むにつれて、濃厚にニュージーランドが姿をあらわして、わしなどは、子供のときからの馴染みの空気を胸いっぱいに吸い込んで、ああ、ニュージーランドはいいなあ、わが国の、なんという美しさよ、と考えている。

わが国、っていったって、市民権を基準にすれば、わが国がよっつもいつつもあるので、「我が国」さんのほうは、ありがたみが少ないかも知れないが。

パンデミックになって、3年目で、ニュージーランドは、ちょうど、これから、他国に少し遅れてオミクロンの暴風雨圏内に入っていくところです。

今朝のニュースでは、11件目のオミクロン感染が伝えられて、数千人が詰めかけたハミルトンのコンサートにスーパースプレッダーがいたのが確認されたので、オミクロンの感染爆発は避けられないだろう、と報道されていた。

シドニーがあるニューサウスウエールズでは、昨日一日で52人が死亡したとラジオのニュースが述べていた。

いや、あれは軽症ですから、と言いたがるひとびとを嘲笑うかのように、オミクロンは速やかに広がって、速やかに人を殺してゆく。

子供たちのサマーホリデイが終わって、小さいひとびとも、みな、感染が収まらない教室へ帰っていく。

今年の夏も、結局、客はもどらないままで、政府の補償もリストリクションの解除とともに、打ち切りが宣言されて、サプライチェーンが寸断されたことによる悪性インフレが始まっていて、耐えかねた中央銀行は、どの国も、予想を遙かに越える利上げを覚悟することになった、と述べている。

得体の知れない不安が、重苦しい予想とともに町を覆っている。

自然は、持っている意見によって人を選択しないので、COVIDに念には念をいれて注意している人も、COVIDを怖がる人を「コロナ脳」と嘲笑う人も、等しく感染して、ある人はまっすぐに死の床に付き、ある人は生き延びて、long-covid、残りの人生を通して続く、長い後遺症に苦しむでしょう。

中国の人権派のひとたちは、ほとんど100%の確信をもって、パンデミックを引き起こしたウイルスは習近平の人民解放軍が意図して作り上げたものだ、と考えていて、

それを「確実な証拠はないから認められない」と述べて、中国との外交関係に配慮して、決して公にしようとしない西側政府に苛立っている。

いま判っているのは、どうやら、経済を含めた、西洋文明は、ブッシュファイアで焼き尽くされるように、パンデミックの炎に薙ぎ倒されて、二度と、元の姿には戻れない、ということです。

ニュージーランドでも、もうこれ以上は無理だ、ということでしょう、観光業に限らず、ビジネスブローカーのもとには、ビジネスを売る、「売り」が殺到している。

市場の大枠がいつまで保つか。

取りあえずは、ニュージーランドやオーストラリアについては、30年前までの旧市場デザインで、比較的高い公定利率、銀行の貸し付け利率でいえば9%内外で、ここ20数年のバブル景気を、なんとか、特に住宅市場の暴落を抑えながら着地させて、本来得意の冬ごもりのような経済体制を敷くしかない。どんなに頑張っても例えばホームローンの利率が6%にでもなれば、住宅市場の崩壊は避けるのが難しいが。

国民のほうも判っているで、一時は、70%を越える高支持率だったジャシンダ・アーダーン首相の支持率は15%まで落ちている。

ナショナルの新党首が17%で首相支持率を上廻って、やっと、これで次の選挙は勝負になる、Game is on と会見で述べていた。

ただでさえ経済は苦手で、しかも40歳になったばかりで、大学を出てから不景気もインフレも、適正利率経済さえ見たことがないアーダーン首相では、ここから先は、ちょっと危ない、という国民の判断です。

モニとぼくはクルマを刈ったばかりの草の匂いが立ちこめるオープンロードの道路脇に駐めて、眼下に広がる、広大な酪農地帯を眺めていた。

ふたりとも口に出しては言わないが、こうなることを知っていた。

やれやれ、やっと姿が見えるようになってきたね、と心のなかで話かけると、モニさんが、こっちを向いて、あの、5歳児のような(というとモニさんはいつも怒るが)純真そのものの笑顔で、ニコッと笑っている。

造作として、女神のようで、幼な顔では全然ないのに、笑うと、ほんとうに小さな人のようです。

またモニさんと、チームワークで、乗り切る大波がやってきた。

緊張して自分たちの暮らしを守っていかねばならないが、小さな声で、正直に言ってしまえば、やはり楽しくて仕方がないのです。

やっと愚かなバブル経済が終わって、その向こうには、われわれが住んでいる世界は、どんなものか、われわれが作ってきた文明は、どういうデザインなのか、われわれは、わたしは、いったい誰か?

どこから来たのか?

という、多分、答えのない、迷宮をめぐるような疑問が待っている。

その迷宮にこそ、人間が、会いたかった自分自身と出会うための扉があるのだとおもっています。



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1 reply

  1. 足をすくめてしまっていてはダメなのだね。

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