前回『「化学修士」を名乗る人の『表現の影響論』が酷すぎるのでツッコミを入れておく【『フィクションが現実となるとき』批判の総論編】』を書いた後、やはり予想していた反応が殺到しています。前回の記事の冒頭でうだうだと愚痴っていたのは、こういう展開がわかりきっていたからなんですね。
興味深いのは、こうした箸にも棒にも掛からない反応の大半が特定のパターンに陥っている点です。誤読は理論上無限のパターンで誤ることができるはずなのに、その誤りの形式がこうも固定的であるというのは、彼らの脳内活動を反映しているような気もします。
というわけで、今回はそうした意味不明な反応を取り上げつつ、彼らの脳内に迫っていきます。
統計データがないから駄目だというものですが、そもそもこの反応はまったくもって不可解なものです。というのも、私は当該記事では統計データを必要とする話を一切していないからです。念のために付言しておけば、このような反応は私の記事に賛同するかどうか以前の問題です。私の記事に賛同しないとしても、少なくとも記事中の論理展開を正確に把握していればこういう反応にはなり得ません。
そもそも当該記事の主題は、『フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』を否定するnoteに対し、そうした否定が極めて狭量な価値観と曲解、単純な事実誤認に基づくことを指摘するものです。noteの評価が主に狭量な価値観と曲解に基づき、私の記事の主目的がそれを批判することにある以上、「統計データ」の出る幕はありません。というか、どういう統計データを用いれば個人のnoteに書かれた見解を否定できるのか全く見当もつきません。noteの内容は個人の価値観に基づく評価に過ぎず、統計データとは全く関係のないものだからです。
なぜこうした意味不明な反応が出てしまうのでしょうか。大きな理由として考えられるのは、それそこ私が記事で指摘したように、彼らもまた「狭量な価値観」に基づき、私の記事がその価値から外れていることだけを理由に反応しているというものです。
彼らは、この記事のやり取りを「表現に悪影響があると考えている人VSないと考えている人」の論争だと思っています。そのようなフレームワークであれば、記事中の内容は「必ず」表現の悪影響について論じたものであると考え、そのうえでそうした内容であれば「必ず」統計データが用いられるはずだと考えています。しかし、これは架空の前提を何度も重ねた上に存在する空想に過ぎません。
仮にこのやり取りを「表現に悪影響があると考えている人VSないと考えている人」の論争だとしても、そこで行われる議論がすべて表現の悪影響について「直接」論じるものであるとは限りません。今回がよい例ですが、相手の解釈の誤りを指摘するようなやり取りの場合、そこで言及される内容は解釈の是非という論理的で抽象的なものに限られます。こういう話題の場合、私のように表現に悪影響があると考えている人間が記事を書くからと言って、そこで表現に悪影響があると証明している研究を紹介するわけではありませんし、そうする必要もありません。
しかし、記事を読んだ(いやああいう反応は読んだうちに入らないだろうが)自由戦士の多くは、こうした周辺的な文脈を全く理解できていません。そのため、
(正しい)前提その1:新橋九段は表現に悪影響があると考えている。
(誤った)前提その2:表現に悪影響があると考えている人が表現について論じるなら、それは必ず表現に悪影響があることの証明についてである。
(誤った)前提その3:表現に悪影響があることの証明には、必ず統計データを含む研究への言及が必要である。
(正しい)前提その4:新橋九段の記事には研究への言及がない。
(誤った)結論:新橋九段の記事はいい加減である。
という歪んだ論理理解をしているのだろうと思われます。
そもそも、何かを説明したり証明したりするのに、統計データは必須ではありません。相手の誤りを指摘する場合は特にそうです。わかりやすい例を出して説明しましょう。
例えば、気温とアイスクリームの売り上げが相関することをもって「アイスが売れると気温が上がる!」と主張する人がいたとします。彼の主張を否定するのに、わざわざ「統計データ」が必要でしょうか?当然、不要です。ただ論理的に、アイスの売り上げが気温に影響しないことを示せば済む話です。
私が前回の記事の『時系列データ(笑)』でしたのも同じことです。彼のデータの解釈がおかしいことを指摘するには、その解釈のおかしさを論理から説明できれば十分なのであり、「統計データ」を用いる必要はありません。
しかしながら、自由戦士を始めとする人々はこのことが理解できていないようです。どうも「統計データ」のみが「論理」であるというドグマに陥っており、統計データさえあれば解釈がいい加減でもそれは事実になり、逆に統計データがなければ何を言ってもそれは「お気持ち」にすぎない、と理解しています。もちろん、そのような考え方は彼らのローカルルールに過ぎません。そもそも統計データがなければ何も証明できないのだと考え方が事実なら、この世全ての刑事事件は犯人を有罪にできないでしょう。その被告人がその事件の真犯人であることを示す「統計データ」などこの世にないからです。
彼らは、私がデータを示していないことに依拠しています。しかし、そもそもこの認識も誤りです。私はデータを示しているからです。ただ、彼らが想定している形式で出しているわけではないというだけです。どういうことでしょうか。
そもそも、私が前回の記事の書いたのは、とある人のnoteが原因でした。そのnoteは『フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』を否定するものですが、それは私が彼に教えた本でした。そして、その本には「表現に悪影響がある」ことを示すデータが大量にあります。彼がそれを否定しようとしたので、私はその否定が誤りであることを示した、という流れになっています。
つまり、そもそもこのやりとりが発生したのは、私が「データを示した」からにほかなりません。にもかかわらず、なぜか私がデータを出していないと叩かれているのはどういうことでしょうか。当該noteですら言及している事実が無視され、虚構が共通理解になっている様には恐怖すら覚えます。
それは恐らく、自由戦士の中には、上で説明したような「狭量な価値観」をさらに狭めた前提があり、「データを出すならこういう形式だろう」という自分勝手な思い込みもあるからです。
前回の記事は、いわば私の提出したエビデンスを否定しようとする試みを粉砕するものでした。言い換えれば、データを否定する行為を否定することをもって、改めてデータを出し直すものであった、あるいはエビデンスの有効性を再確認するものであったと言えるでしょう。
しかし、自由戦士はそもそも、こうした「エビデンスの有効性を再確認」というかたちでデータが再提出されることを想定していません。また、「ネットの論争」の一般ルールとして、最後に反応した奴が勝ちとでもいうかのように、最後に「新しいデータ」を示せた奴が勝ちであり、それ以外の論証は認めないと考えていると思われます。故に、こうしたネットのローカルルールに対応しない私の方法が彼らに理解されないのでしょう。
それは、データがあるなら図表で表現されるはずだが、図表がない。つまりデータが使われていない。それを口実に内容を読まなくても全否定できるぞ!というものです。実際、彼らの反応を見るに、明らかに冒頭しか読んでいないか、それすらも読んでいないとしか思えません。あれで全文読んでいたとすれば人間の愚かさも極まれりというべきでしょうね。
そもそも、自由戦士は例外なく、知的体力と誠実さに欠けます。それはつまり、自分と考えの違う人の主張を正しく読み解き、少なくともどのような主張がなされているか把握することができないし、そうする気もないということです。それは青識や荻野がフェミニスト議連に送り付けた署名もどきが、相手の主張を全く反映していない妄想的な前提に終始していたことからも明らかです。
こういう人間が議論を行おうとすれば、間違いなくインスタントに相手を全否定できる部分を手早く探そうとします。そのために図表の有無に注目するというのはかなり便利な方法であると言えるでしょう。図表は大きいから目立ちますし、まず見落としません。バカみたいな理屈ですが、実際バカがやってることなのでバカみたいな理屈になるのは当然です。
相手を論破するために、形式上わかりやすいやり方に固執するというのは、覚えた公式をあらゆる問題に使って数学を解こうとする劣等生を思わせるものです。彼らの脳内には「図表があるか探せ。ないなら全否定せよ」という単純極まるスクリプトだけが入っており、あとは感情と数の力でそれを押し通そうとします。まともな集団ではありません。
彼らは私がデータを出していないと言いますが、上述のようにそれは二重の意味で誤りです。データは出していますし、記事の主題からしてデータが必要ではありません。と同時に、このような反応は「相手はデータを出している」ことを前提とするものですが、相手方も実は『フィクションが現実となるとき』と批判するのにデータを用いているわけではありません。
noteを読めばわかることですが、彼が依拠しているのは『ゲームと犯罪と子供たち』の記述にある「論理的論証」であり、それはデータではありません。少なくとも自由戦士の基準ではそうです。あとは無関係な印象操作に終始しています。強いて言うなら低レベルな疑似相関は提出していますが、それが無効であることは既に示しています。
私がデータを出していないと評価するなら、相手もデータを出していないと叩かなければなりません。にもかかわらずそうなっていないどころか、相手方の主張には拍手喝采というのは明らかに論理的は破綻です。このことからわかるように、彼らは論理論理と喚いているものの、実際には感情的に心地いいほうを褒めているにすぎません。
というわけで、データを示していないというのも、結局は彼らの「ムカつく」という鳴き声を変えたものにすぎないわけです。所詮感情的な反応に過ぎませんが、彼らはこのレベルで相手方に殺到し、数と自信満々な態度で相手方を疲弊させて黙らせることを狙っています。彼らを黙らせる方法を発明出来たらノーベル平和賞がもらえるでしょう。
興味深いのは、こうした箸にも棒にも掛からない反応の大半が特定のパターンに陥っている点です。誤読は理論上無限のパターンで誤ることができるはずなのに、その誤りの形式がこうも固定的であるというのは、彼らの脳内活動を反映しているような気もします。
というわけで、今回はそうした意味不明な反応を取り上げつつ、彼らの脳内に迫っていきます。
なぜいま統計データが必要なのか
今回の私の記事に対する反応で最も目立ったのは、以下のようなものです。統計データがないから駄目だというものですが、そもそもこの反応はまったくもって不可解なものです。というのも、私は当該記事では統計データを必要とする話を一切していないからです。念のために付言しておけば、このような反応は私の記事に賛同するかどうか以前の問題です。私の記事に賛同しないとしても、少なくとも記事中の論理展開を正確に把握していればこういう反応にはなり得ません。
そもそも当該記事の主題は、『フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』を否定するnoteに対し、そうした否定が極めて狭量な価値観と曲解、単純な事実誤認に基づくことを指摘するものです。noteの評価が主に狭量な価値観と曲解に基づき、私の記事の主目的がそれを批判することにある以上、「統計データ」の出る幕はありません。というか、どういう統計データを用いれば個人のnoteに書かれた見解を否定できるのか全く見当もつきません。noteの内容は個人の価値観に基づく評価に過ぎず、統計データとは全く関係のないものだからです。
なぜこうした意味不明な反応が出てしまうのでしょうか。大きな理由として考えられるのは、それそこ私が記事で指摘したように、彼らもまた「狭量な価値観」に基づき、私の記事がその価値から外れていることだけを理由に反応しているというものです。
彼らは、この記事のやり取りを「表現に悪影響があると考えている人VSないと考えている人」の論争だと思っています。そのようなフレームワークであれば、記事中の内容は「必ず」表現の悪影響について論じたものであると考え、そのうえでそうした内容であれば「必ず」統計データが用いられるはずだと考えています。しかし、これは架空の前提を何度も重ねた上に存在する空想に過ぎません。
仮にこのやり取りを「表現に悪影響があると考えている人VSないと考えている人」の論争だとしても、そこで行われる議論がすべて表現の悪影響について「直接」論じるものであるとは限りません。今回がよい例ですが、相手の解釈の誤りを指摘するようなやり取りの場合、そこで言及される内容は解釈の是非という論理的で抽象的なものに限られます。こういう話題の場合、私のように表現に悪影響があると考えている人間が記事を書くからと言って、そこで表現に悪影響があると証明している研究を紹介するわけではありませんし、そうする必要もありません。
しかし、記事を読んだ(いやああいう反応は読んだうちに入らないだろうが)自由戦士の多くは、こうした周辺的な文脈を全く理解できていません。そのため、
(正しい)前提その1:新橋九段は表現に悪影響があると考えている。
(誤った)前提その2:表現に悪影響があると考えている人が表現について論じるなら、それは必ず表現に悪影響があることの証明についてである。
(誤った)前提その3:表現に悪影響があることの証明には、必ず統計データを含む研究への言及が必要である。
(正しい)前提その4:新橋九段の記事には研究への言及がない。
(誤った)結論:新橋九段の記事はいい加減である。
という歪んだ論理理解をしているのだろうと思われます。
「論理的論証」を概念から理解できていない
彼らが支離滅裂な反応をしている理由の2つ目は、「論理的論証」という行為についてその概念から理解できていない可能性です。論証というのはそもそも論理に基づくものですから、「論理的論証」という表現は頭痛が痛いみたいなものになってしまいます。しかし、ここでは上述のように彼らが「統計が必ず必要」だという思い込みを抱いていることを念頭に置き、統計とそれ以外の論理を区別するためにあえてこうした回りくどい言い方をします。そもそも、何かを説明したり証明したりするのに、統計データは必須ではありません。相手の誤りを指摘する場合は特にそうです。わかりやすい例を出して説明しましょう。
例えば、気温とアイスクリームの売り上げが相関することをもって「アイスが売れると気温が上がる!」と主張する人がいたとします。彼の主張を否定するのに、わざわざ「統計データ」が必要でしょうか?当然、不要です。ただ論理的に、アイスの売り上げが気温に影響しないことを示せば済む話です。
私が前回の記事の『時系列データ(笑)』でしたのも同じことです。彼のデータの解釈がおかしいことを指摘するには、その解釈のおかしさを論理から説明できれば十分なのであり、「統計データ」を用いる必要はありません。
しかしながら、自由戦士を始めとする人々はこのことが理解できていないようです。どうも「統計データ」のみが「論理」であるというドグマに陥っており、統計データさえあれば解釈がいい加減でもそれは事実になり、逆に統計データがなければ何を言ってもそれは「お気持ち」にすぎない、と理解しています。もちろん、そのような考え方は彼らのローカルルールに過ぎません。そもそも統計データがなければ何も証明できないのだと考え方が事実なら、この世全ての刑事事件は犯人を有罪にできないでしょう。その被告人がその事件の真犯人であることを示す「統計データ」などこの世にないからです。
実は統計データは示している
しかし、上述のような説明が妥当であれば、その説明には実は何の意味もないことになってしまいます。なぜなら、本当に自由戦士が論理的論証を理解できないのであれば、上述のような論理的論証もやはり理解できないことになってしまうからです。とんだパラドックスです。ですから、もう少し別の側面から彼らの出鱈目も明らかにしておきましょう。彼らは、私がデータを示していないことに依拠しています。しかし、そもそもこの認識も誤りです。私はデータを示しているからです。ただ、彼らが想定している形式で出しているわけではないというだけです。どういうことでしょうか。
そもそも、私が前回の記事の書いたのは、とある人のnoteが原因でした。そのnoteは『フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』を否定するものですが、それは私が彼に教えた本でした。そして、その本には「表現に悪影響がある」ことを示すデータが大量にあります。彼がそれを否定しようとしたので、私はその否定が誤りであることを示した、という流れになっています。
つまり、そもそもこのやりとりが発生したのは、私が「データを示した」からにほかなりません。にもかかわらず、なぜか私がデータを出していないと叩かれているのはどういうことでしょうか。当該noteですら言及している事実が無視され、虚構が共通理解になっている様には恐怖すら覚えます。
それは恐らく、自由戦士の中には、上で説明したような「狭量な価値観」をさらに狭めた前提があり、「データを出すならこういう形式だろう」という自分勝手な思い込みもあるからです。
前回の記事は、いわば私の提出したエビデンスを否定しようとする試みを粉砕するものでした。言い換えれば、データを否定する行為を否定することをもって、改めてデータを出し直すものであった、あるいはエビデンスの有効性を再確認するものであったと言えるでしょう。
しかし、自由戦士はそもそも、こうした「エビデンスの有効性を再確認」というかたちでデータが再提出されることを想定していません。また、「ネットの論争」の一般ルールとして、最後に反応した奴が勝ちとでもいうかのように、最後に「新しいデータ」を示せた奴が勝ちであり、それ以外の論証は認めないと考えていると思われます。故に、こうしたネットのローカルルールに対応しない私の方法が彼らに理解されないのでしょう。
図表だけで判断してるのでは?
……と、ここまで説明したのは、自由戦士に対して実はかなり好意的な解釈でした。というのも、彼らの脳内に一定のロジックがあり、それに基づいて反応していることを前提にしたものだったからです。しかし実際には、もっと不誠実で短絡的な反応をしているのではないかと思っています。それは、データがあるなら図表で表現されるはずだが、図表がない。つまりデータが使われていない。それを口実に内容を読まなくても全否定できるぞ!というものです。実際、彼らの反応を見るに、明らかに冒頭しか読んでいないか、それすらも読んでいないとしか思えません。あれで全文読んでいたとすれば人間の愚かさも極まれりというべきでしょうね。
そもそも、自由戦士は例外なく、知的体力と誠実さに欠けます。それはつまり、自分と考えの違う人の主張を正しく読み解き、少なくともどのような主張がなされているか把握することができないし、そうする気もないということです。それは青識や荻野がフェミニスト議連に送り付けた署名もどきが、相手の主張を全く反映していない妄想的な前提に終始していたことからも明らかです。
こういう人間が議論を行おうとすれば、間違いなくインスタントに相手を全否定できる部分を手早く探そうとします。そのために図表の有無に注目するというのはかなり便利な方法であると言えるでしょう。図表は大きいから目立ちますし、まず見落としません。バカみたいな理屈ですが、実際バカがやってることなのでバカみたいな理屈になるのは当然です。
相手を論破するために、形式上わかりやすいやり方に固執するというのは、覚えた公式をあらゆる問題に使って数学を解こうとする劣等生を思わせるものです。彼らの脳内には「図表があるか探せ。ないなら全否定せよ」という単純極まるスクリプトだけが入っており、あとは感情と数の力でそれを押し通そうとします。まともな集団ではありません。
要するに気に入らないんでしょ?
もっと身も蓋もないこと言えば、単に自由戦士は私の主張が気に入らないためにそれらしい小理屈をひねり出しているにすぎません。彼らは私がデータを出していないと言いますが、上述のようにそれは二重の意味で誤りです。データは出していますし、記事の主題からしてデータが必要ではありません。と同時に、このような反応は「相手はデータを出している」ことを前提とするものですが、相手方も実は『フィクションが現実となるとき』と批判するのにデータを用いているわけではありません。
noteを読めばわかることですが、彼が依拠しているのは『ゲームと犯罪と子供たち』の記述にある「論理的論証」であり、それはデータではありません。少なくとも自由戦士の基準ではそうです。あとは無関係な印象操作に終始しています。強いて言うなら低レベルな疑似相関は提出していますが、それが無効であることは既に示しています。
私がデータを出していないと評価するなら、相手もデータを出していないと叩かなければなりません。にもかかわらずそうなっていないどころか、相手方の主張には拍手喝采というのは明らかに論理的は破綻です。このことからわかるように、彼らは論理論理と喚いているものの、実際には感情的に心地いいほうを褒めているにすぎません。
というわけで、データを示していないというのも、結局は彼らの「ムカつく」という鳴き声を変えたものにすぎないわけです。所詮感情的な反応に過ぎませんが、彼らはこのレベルで相手方に殺到し、数と自信満々な態度で相手方を疲弊させて黙らせることを狙っています。彼らを黙らせる方法を発明出来たらノーベル平和賞がもらえるでしょう。