- 洪均 梁
「アンチLGBT」を考える
更新日:2021年3月24日
インターネット上で、些細なことから ”アンチLGBT” などとレッテル貼りをされ、例えば、一年半にもわたって、誹謗中傷されている女性同性愛者の人がいらっしゃいます。 また、そのような執拗な攻撃に耐えかね、Twitterのアカウントを削除してしまった方々もいらっしゃいます。 そのような身近な例を出さなくても、木村花さんの自殺など、社会に強い衝撃を与えた問題も、ネットリンチなどの問題を考えるにおいて、忘れてはならない出来事だと思います。 かくいう私も、芙桜会を立ち上げる前から、インターネット上で、様々な誹謗中傷に遭っており、「なぜ、同じ仲間である(性的マイノリティの一部としての)LGBT(一部のLGBTですが)から “アンチLGBT” 等と言われなければならないのだろう」とずっと心を痛めてきました。 今回は、その ”アンチLGBT” について、私の意見と提言を交え、考えてみたいと思います。 「アンチLGBT」とは…。 まず、皆さんは ”アンチLGBT” と聞いて、どんな人を指すと思われますか? 現状を踏まえると、2種類の ”アンチLGBT” が存在するのです。
性的マイノリティでない人のうち、LGBT及びLGBT運動に否定的な人々
性的マイノリティでも、LGBT運動に賛同できない人々
読者の皆さんには、「2.性的マイノリティでも、LGBT運動に賛同できない人々」が、”アンチLGBT” となることに、驚きを隠せない方がいらっしゃるのではないでしょうか。 私も、先に触れたように、長きにわたって、なぜ、同じ性的マイノリティの中で、“何か” と考えや意見が違うことを表明した場合に、”アンチLGBT” とレッテル貼りをされ、それが、何でもやって構わないという ”免罪符” になるかの如く、執拗に攻撃されるきっかけになってしまうことを、ずっと疑問に思ってきましたが、その答えが、最近ようやく出たと思い至ったので、ご紹介したいと思います。 それは・・・。 何かしらを勝ち取るための「連帯」を意味するLGBT 私が勘違いをし、自分で自分を苦しめていたのは、「LGBTは性的マイノリティの一部である」という思い込みでした。 本来、LGBTは、性的マイノリティの一部であるはずなのです。 (LGBTという言葉自体は、アメリカからミレニアム以降に輸入されたものと理解しております) しかし、Twitterに「連帯する気がない人はLGBTではない。と言うことはG(ゲイ)でもない。」というツイートが投稿されるに至り、はたと気が付いたのです。 「LGBTは性的マイノリティとは、必ずしも言えない、そして、全く別の概念であり、そして別の集団なのだ」と。 ”LGBT” とは、何かしらを勝ち取るための「連帯」(「L」「G」「B」「T」が “連帯” したもの)を意味する言葉なのであれば、性的マイノリティを表す言葉ではないと言っても差し支えないでしょう。 このことが、残念ながら世間には理解されているとは言えない状況であり、LGBTが性的マイノリティの全てを表しているかのように誤解を持たれているのは、無理もないことと言えるでしょう。 私も、そのように思っていたからこそ、「なぜ、仲間であるはずのLGBTから・・・」と心を痛めていたのですから。
©芙桜会/FUOHKAI Federation of the Promotion of Sexual Orientation and Gender Identity Understanding in Japan もし、LGBTというものを、性的マイノリティとは異なる別個の存在とすれば、例えば、芙桜会や私に対する(特定の、過激な)LGBT(本当に性的マイノリティなのか分からない人も含む)からの “批評ではなく、批判” は、あくまでも自分たちの外側にいる人や組織に対するリアクションとして、彼らの世界ではまっとうなものと考えられているのだろうと、想像がつきます。 もし、この読者の皆様が、芙桜会や私のみならず、性的マイノリティである方やその過去の発言に対し、例えば、発言の一部や複数の発言を切り貼り(加工)して引用し、不特定多数に公開するというような、”(特定の、過激な)LGBT(本当に性的マイノリティなのかも分からない人も含む)からの批判や誹謗中傷” をどこかで見かけた場合には、「あ、芙桜会ブログに書いてあったことだなぁ」と、このブログのことを思い出し、ご納得いただけるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。 ただ、このように “喉につっかえた魚の骨が取れたような気づき” があっても、ぬぐい切れない不安感があります。 それはやはり、「LGBTが、性的マイノリティ全体を意味するものである」と、ヘテロセクシャルを初めとする世間の皆さんに広く誤解されていることです。 正直なところ、「LGBTは性的マイノリティ全体を意味する言葉ではない」と言っても、何を言っているのかは、すぐには分からないのではないでしょうか。 でも、実際には、”LGBT” は性的マイノリティ全体を意味するものでも、同性愛者等を内包するものでもないようなのです。 なぜなら、先にも書いたように、LGBTは「連帯すること」を意味しているからであり、自分たち(LGBT)と連帯できるのであれば、性的マイノリティであるかどうかを必ずしも求めていないからです。 例えば、現に、同じ性的マイノリティとは思えない罵詈雑言で埋め尽くされたツイートを、長期間、執拗に浴びせ続けるアカウントが複数あり、それらがチームを組んで一人の女性同性愛者を攻撃していることが、性的マイノリティの間で有名な事実として問題視されているのです。 もし、同じ性的マイノリティであったならば、考えや意見が異なるという理由で、完膚なきまでに相手をつぶそうとするなんてことが、起こり得るものでしょうか。 「心の多様性と包摂;Diversity and Inclusion of Mind」を考えると、まずは理解をするところからスタートするのが基本であり、その上で相いれないものであるとわかったとしても、ネットを介しているとはいえ、同じ生身の人間である以上、「命の重さ」には変わりはないのですから、お互いに気に入らないことがあったとしても、応酬に応酬を重ねることにはブレーキをかけ、ネット上のコミュニケーションであるがゆえに、リアル以上に相手に対する礼節を大切にする必要があると思います。 私も、「ちょっとした表現方法の違いで、こんな風に、自分の意図したことと異なる、バラエティーに富む解釈をされてしまうのか」という驚きと「より効果的且つ不必要な誤解・解釈の相違を極力生まない表現」を重ねる努力の連続の最中でもあり、過去のツイート等に対する反応などを参考にし、芙桜会の活動に活かしていきたいと考えています。 LGBTを性的マイノリティから切り離して考えるメリット 残念ではありますが、LGBT活動家として広く認知されている人が「LGBTは連帯を表す言葉」だとおっしゃっている以上は、”LGBT” が性的マイノリティ全体を意味するものではなく、特定の思想や目的で連帯する概念や勢力であると考えると、特にここ1―2年のうちに起こった問題が、なぜ起こったのかを、別の視点から理解できるようになると思います。 例えば、保毛尾田保毛男フジテレビ謝罪騒動や、バイバイ、ヴァンプ!上映中止騒動において、LGBTからの圧力により、謝罪を余儀なくされたり、業務妨害ともいうべき、関係者や協力者への圧力などを受けたヘテロセクシャルの方々にも、LGBTを性的マイノリティから切り離して考えることにより、今まで抱えていた性的マイノリティに対する様々な疑問点が解消できるのではないかと考えますが、いかがでしょうか。 「性的マイノリティに対する疑問は、実は、LGBT特有の事象に対する疑問だったんだ」と。 それは、そのような気づきを与えてくれると同時に、そういった騒動が起こったときに、“当事者置き去り” で、特定の人物や団体が中心になって、相手を屈服させるようなことをしていたことに対する違和感など、違った視点で、そのわけを理解出来るという“効用”もあると考えられます。 更に言うならば、これらは、「私の周りの性的マイノリティが言うことや、私が実際に見ている性的マイノリティと違う」という疑問を持った時にも、納得のいく理解をすることにおいて、大いに効力を発揮してくれるはずです。 自分というものをどう表現していくのか 勿論、”LGBT” という言葉を使う、使わないの選択の自由は、誰にも等しくあります。 「私はLGBTだ」と仰る人もいますし、「私はLGBTではない」と仰る人もいます。 それぞれにおいて、自分が納得した形で、自分を表現すればそれでいいと思います。 私は、自分を表現する言葉として、相手が理解しやすいように、相手に合わせ、「LGBT」「性的マイノリティ」「同性愛者」等の言葉を使用していきますが、今後は、そういった言葉を極力使わないで説明できるようになると、芙桜会として提唱する「心の多様性と包摂;Diversity and Inclusion of Mind」も含む様々なことを、第三者に対してよりスマートに説明出来るようになるのではないかと考えています。 日本は、宗教、それも一神教の影響は全くと言っていいほどに受けておらず、連帯するという意識があまり強くない(からこそ、ストライキが“悪”だと強く思われていたりもするわけです。国鉄のストがひどかったから、という仮説も聞きますが)、つまり、虐げられた歴史が深刻な形では存在しないのです。例えば、1970年代の米国のように、法律で同性愛が禁止された時代など、この日本にはありません。
「同性愛を法律で禁止する1970年代のアメリカ」を象徴する一枚。 「Christopher Street Liberation Day March, New York, 1975」Leonard Finc氏撮影;自動着色加工)© The Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender Community Center この恵まれた環境=日本で暮らす、私たちは、もっと同性愛者(性的マイノリティやLGBTなど、お好きな言葉で置換してください)である自分を真正面から受け入れ、自分が同性愛者であることを言い訳にせず、一人の人間としてしっかりと生き、人生を生き抜くべきです。 私は、芙桜会の活動を通じて、「心の多様性と包摂;Diversity and Inclusion of Mind」を広く知ってもらい、共感の輪を拡げながら、日本の社会に感謝と共に恩返しを果たして参りたいと考えています。