小室圭・眞子夫妻がニューヨークに旅立ち、また小室氏の母親の借金(贈与金?)が解決金という形で母親の元婚約者に支払われて、ここ数年、世論を分断した小室騒動は一応の決着をみつつある。しかしながら、この騒動は「皇室のあり方」という皇室にとって根本的な問題を引き起こしている。

 

保阪正康氏は文芸春秋に「象徴天皇制の『聖』と『俗』」と題した文章を発表し、小室騒動と小室氏と眞子氏の結婚によって「聖」が「俗」にまみれてしまった点を指摘し、また眞子氏、宮内庁、秋篠宮を批判している(https://bunshun.jp/articles/-/50073)。

 

天皇家がこの国の歴史に存続しえた理由の一端は、「俗」である我々大衆とは違った存在、つまり天皇が俗世からかけ離れた高みにおられる「聖」なる存在として畏敬の念をもって見られてきたことです。

 日本人は「天皇家の方々は、社会で生きる自分たちとは違う次元で生きている」ととらえます。この国の中心軸に聖なる存在もいることに思いを馳せることで、俗世であくせくして生きる自分とは異なる、精神的な文化空間を得てきたのです。

 小室さんはというと米国留学をして弁護士になろうとしている。弁護士は世俗の係争案件を扱うのが主な職務であり、いわば争いごとの中心に身を置く仕事です。―――中略―――弁護士はかなり異質な印象です。

 

と、小室氏が皇室の親戚となることによって皇室が「俗」化されることを懸念している。そして、結婚会見における眞子氏の発表に対しては、

 

小室さんではなくほかならぬ眞子さんが、佳代さんの元婚約者と争うことを主張していたことになります。 

今上天皇の姪、上皇の孫がそんなことを考えていたという事実は衝撃的です。「聖」が「俗」に絡めとられた時、人々が心に抱くのは共感ではなくむしろ失望なのですが、そのことに眞子さんは気づいているでしょうか。

と述べ、眞子氏に対してはさらに以下のように批判している。

 

眞子さんの一連の行動を見ていると、天皇家の嫡系である内親王としての自覚が感じられません。

 

一方、宮内庁に対しては、

本来であれば、たとえ皇族が嫌がろうとも、身を挺してお諫めする。それが聖なる皇族をお護りする「臣」の役割です。ところが4年間にわたった小室さん騒動において、側近たちが諫言した形跡はなく、おそらく眞子さんの強い意思を前にどうすることもできず、振り回されるばかり。それではいまの皇室には臣がいないことになります。

秋篠宮に対しては、

皇族の結婚は「法的な問題」「道徳的な問題」「歴史的な問題」をよく整理した上で論じないといけません。ところが、その肝心なところが秋篠宮自身の心中でも混乱しているようにみえました。 

もしかすると秋篠宮のこうしたアンビバレントな姿勢は、小室さんにも見透かされ、皇室への強い姿勢を取らせてしまったのではないか。

と批判している。これらの批判からすると、既に保阪氏は皇室(眞子さんや秋篠宮)を「聖」なるものとしてではなく、「俗」からの批判の対象として見ていることを示しているといってよいであろう。

保阪氏が指摘するように、眞子氏の行動は「天皇家の嫡系である内親王としての自覚がない」ということは事実であろう。また、秋篠宮の教育姿勢・騒動への対処にも大きな問題があったことも事実であろう。もし「歴史的な問題」を十分理解していれば、結婚は両性の合意に基づくものなので認めるが、「聖」を守るために眞子氏を勘当し、小室氏を親戚とは認めなかったであろう。しかしながら、眞子氏の結婚直後の「里帰り」も認め、また紀子氏のお父さんの葬式に小室氏を出席させてしまって、親戚付き合いをすることを公にしてしまった。「勘当」という行為は、父親としては忍びない行為であると思われるが、皇室存続のためには必要な行為だったと思われる。勘当の例は旧宮家であったようだ(https://news.yahoo.co.jp/articles/b14637acf9b87363337d22d4ef1cdc098bbffecd?page=2)。一方、「人権」という観点からすれば、眞子氏が好きな男性と結婚する自由は保証されなければならない。秋篠宮にはそういった人権意識もあったと推察される。

「皇室」の問題は、ここ最近は「継承者不足」ということが議論の中心であった。しかしながら、今回の眞子氏の行動によって、実は「人権問題」が内在していたことが明らかとなり、「人権」という「俗」と、皇室という「聖」をどのように調和させるのかという問題を投げかけた。小室騒動を機会に「天皇制」についてもう一度考え直してみることが日本国民にも必要ではないだろうか。

政治家が時に悪いことをするのは日本でも韓国でも同じであるが、両国をわけてきたのは日本には聖なる天皇が存在してきたことであろう。天皇の存在によって国民が大きく分断することが抑えられてきた面はある(それが良いことなのか、悪いことなのかの判断は難しい)。天皇制が無くなれば、日本でも韓国のように激しい分断が起こる可能性はある。一方で、天皇制が無くなれば、全ての人は平等になるわけだから、日本人にも本当の人権意識が芽生えるかもしれない。