第三章 ノット・イコール

 閉架領域。弓島郷土歴史資料館の地下、つまりライブラリ弓島本部の地下14階。司令部にあたる地下13階の戦術資料室よりさらに地中深くに存在し、同時に公には「存在しない」とされている階層である。淡い白光を放つ巨大な球体の下半分が天井を覆い、それ以外には照明が存在しない暗い部屋を人の顔の見分けがつく程度に照らしている。

 そこで、ひとりの女と、ひとりの男が向かい合っていた。密会——にしては空気が張りつめすぎている。対峙していた、と表現するのが妥当かもしれない。

「こんなところに、きみが何の用向きかな。為永サダメくん」

 女が対峙する男に向けて声を発した。キズキがこの弓島に帰郷した初日以来、どこかに姿を消していた女——暮町未明だ。あの日と同じ、紫色のパンツスーツ。

「ちょっくらね、表に出回ってない無修正の裏モノを仕入れようかと思いまして」

 水を向けられた男——為永サダメはなんでもないような口調で答える。

「ふうん?」未明は愉しそうに口角を吊り上げる。「私は医者で、教育者ではないから思春期の男子のその手の好奇心には寛容なつもりだけど、いくらきみにも、ここにあるようなのはちょっと刺激が強すぎるんじゃないのかな」

「まあ、正直言って、オレはどうでもいいんですよ。最近できたダチに貸してやりたいってぐらいで」

「くっくっく、友達思いだねえ」

 未明は人を食ったような笑い声を上げる。本当に何人か食ってきたのではないだろうか。もしそうだとしても、サダメは驚かないだろう。あらゆる禁忌に親しみ、あるいは必要とあらばそれを自ら破壊する。暮町未明という女は、そういう人間だった。少なくとも、サダメにはそう映っていた。昔から。

「きみは昔ずいぶんヤンチャしていたね。いや、ヤンチャなんてもんじゃない。あれは——悪だ。私の目から見てもね。悪だったきみを矯正したのは私だが、今度は正義のきみを矯正するってことになるのか。因果なものだね、お互いに」

「そんなんじゃないですよ。オレはダチに本当の上物ってのを見せてやりたい。そんで、ついでにオレもちょっくら覗き見させてもらおうって魂胆で。この腐った嘘だらけの島の真実ってやつをね」

「過ぎた好奇心はなんとやら……覚悟はできてるってわけだね」

 音もなく、未明は足をわずかに開き、重心を移動させる。たったそれだけの動作で、この場の空気の温度が下がり、緊張が一気に上がった。呼応するように、サダメも似たような構えをとる。かつて、目の前の女に教わった通りに。ふたりとも、無銘刃はおろか、いかなる武器も手にしていない。完全な徒手空拳。

「勝てるとは思ってないですよ。勝てるわけないですから」

「最初から負けるつもりなのかい? それじゃ面白くないよ。何か条件をつけるってのなら別だけど」

「アンタのおっぱいを揉む」

「……………………は?」

 至極まじめな声色で言うサダメの言葉に、未明は間の抜けた声を出した。

「アンタのおっぱいを揉む」もう一度、サダメは繰り返した。「それがオレの勝利条件だ」

「……ふ、くっくっくっく。面白いね」

本当に愉しそうに未明は笑った。

「いいだろう。私のほうの条件は……なんでもいいか。きみがその煩悩を浮かべる余裕もなくなる程度に半殺しにでもすればいいかな? きみは一度でも私のおっぱいを揉んだら勝ち。……久しぶりに本気を出せそうだ」

 最後に呟いた未明の底冷えのする声を聞き、サダメは己の作戦の失敗を悟った。


     →→→→→→→→


 夜が明けた。おそらく、明けたのだろう。もう昼を回っているかもしれない。あるいは夕方か。それとも次の夜がきたのだろうか。キズキは一睡もせず、かといって何ができるわけでもなく、この『懲罰教室』という名の牢獄に囚われたまま、無為に時を過ごしていた。食事も摂っていない(そもそも差し入れがない)。もはや彼の肉体からは正常な時間感覚が失われていた。

 あれ以来、学園長を名乗る老人も、見張りの一人さえも姿を見せない。必要がないということなのだろう。実際、物語の力を封じられたいまのキズキには、この状況をどうすることもできない。ここは物語を武器とする者——つまりネイキッドの無力化に特化した牢獄だ。不聞石を混ぜ込んだ壁も、床も、おそらく物理的にはそれほど頑丈なものではない。とはいえ、ごく一般的なコンクリートやアクリル板なみの強度はあるはずで、物語の力を借りなければ生身の人間でしかないネイキッドが力いっぱい殴りつけたところでどうにもならない。キズキはベッドのパイプを折り曲げて何かの足しに使おうかとも思ったが、そもそもそんな腕力はない。この独房には鏡すらないのだ。他にあるのは壁と一体化して動かない机、そして、その上に置かれたラジオ受信機……。

 ラジオ受信機?

 力なくベッドに腰かけ項垂れていたキズキは、初めて気がついたように、机の上のそれに目を向けた。なぜ、この粗末な独房にそんなものがあるのか。娯楽として本を読む文化が失われて久しいこの時代、音の娯楽は、旧世紀よりも遥かに人々に必要とされていた。音楽、同じ時代を生きる人々の声、そしてDJによる話術——ラジオには、そのすべてがあった。

 ラジオでも聴いて孤独を慰めていろという学園長の温情、あるいは当てつけだろうか?

 なぜか、そうではない、とキズキには思えた。

 旧い空間で見つけた『放送室』。放送室とはつまり、ラジオブースだ。そして、何者かによって持ち去られたマイク……。

 そこまで思い至った瞬間、キズキはバネ仕掛けの人形のようにベッドから勢いよく立ち上がり、机の上のラジオを手にした。電源を入れる。ザーーーーという砂嵐のような雑音。どこにも周波数が合っていない証拠だ。キズキはダイヤルを回し、どこでもいいから何かの電波をキャッチしようとする。しかし、なかなか合う周波数がない。どんどん上がっていく周波数。81.3……86.0……91.6……そして、

 99.9MHz

 ふいに、ノイズが止み、世界から音が消える。そして、次の瞬間、

『ハロー。元気かしら、宮無キズキくん。私が誰だかわかる?』

 場違いなほど明朗な、よく通る女の声がラジオから聞こえた。

「……誰だ」

『ふふ。きみの思っている通りの人物だと思うわよ……ああ、ごめんなさい。これは会話してるわけじゃなくて、こちらからの一方通行なの。あのヒトが全権限を渡してくれたら、キズキくんとのお喋りもできたかもしれないのにね。残念だわ』

 それはそうだ。会話するなら電話でいい。……と、キズキは思い出したようにズボンのポケットをまさぐってみる。当然ながら、端末も没収されている。

『私もあのヒトがここまでするとは思ってなくて、キズキくんにはできればそこから出てきてほしいのよ』

「できるんならそうしてるっつーの……」

 聞こえていないと解っていながら、キズキはそう独り言ちるのを止められなかった。

『これから表でちょっとした騒ぎが起きるの。だから、キズキくんはそれに乗じてそこを脱出してちょうだい。誰かが助けに来てくれるかは……まあ、キズキくんの日頃の行いにかかってるんだけど』

 ラジオの声の主が言うや否や、おそらく地下にあるだろうこの牢獄にまで、聞き慣れた、いや聞いたこともないような夥しい不快な音が聞こえてきた。

 ギイイイイイイイイイイ

 ギイイイイイイイイイイイイイ

 ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ————

《断章》の流入音——干渉音。途切れることなく、耳障りな金属音が降ってくる。ここまでの数の干渉音を同時に聞いたのは、さすがのキズキにも初めてだった。いったいこれのどこが「ちょっとした」騒ぎだというのだろうか……。

『それじゃあ、また外で逢いましょう。健闘を祈るわ』

 その言葉を最後に、ラジオは沈黙した。他のあらゆる周波数と同様、砂嵐のようなノイズを吐くのみだ。そして程なく、干渉音とは異なるさまざまな衝撃音が聞こえてきた。どうやら、出現した憑依体とネイキッドたちが戦闘に入ったらしい。ラジオの声の主——おそらく綴クオンは、騒ぎに乗じろと言ってはいたが、どうしろというのだろうか。キズキの絶望的な状況は、いまのところ何も好転していない。まさか、憑依体かネイキッドのどちらかが、この学園の建物ごと破壊してくれるのを待っていろとでもいうのだろうか。と、そこへ、

 ツカ、ツカ、ツカ

 ほとんど一日ぶりに、何者かが牢獄の前に歩いてきた。老人の醜い足音ではない。するとあの謎の黒服たちの巡回か、それともようやく食事の差し入れでも持ってきたのかとキズキが思っていると、

「元気? んなわけないわよね。でも、あんたにはもうちょっと頑張ってもらうわ」

 声に顔を上げると、透明な板の前に、玉坂コダマが立っていた。Nスーツではなく、制服に、いつかのような全身の重武装。助けは来たのだ。しかし——

「ったく、歩哨の一人も立ってないなんて、ホント……舐めてんのかしら、あたしたちを。楽でいいけどね」

 つまらなそうに言いながら、両手に持ったごつい刃を構えるコダマに、キズキは言う。

「待て。その板は不聞石でできてる。無銘刃は効かない。逆に怪我するかもしれないぞ」

「あのねえ……」コダマはため息混じりに言う。「昔から、物語まほうが効かなきゃ物理でって——言うでしょうが!」

 ブウウウウウウウンンン

 コダマは刃の取手についた黒いハンドルのようなものを勢いよく引っ張り上げ——刃が高速で回転を始める。

「ちょっと離れてなさいよ——っとおぉぉ!!」

 言いつつ、コダマは回転する刃を不聞石が混ぜ込まれたアクリル板に振り下ろした。

 ガギャギャギャギャギャギャギャギャ

 もしかすると断章の干渉音よりも耳障りな音を立てながら、アクリル板が滅茶滅茶に切り刻まれていく。それをコダマは、破片が刃に詰まり、回転が止まり、チェーンが外れて弾け飛ぶまで続けた。その光景を呆然と眺めながら、こいつには絶対に逆らわないほうがいいな、とキズキは思った。逆らえない女性がどんどん増えていく。

気づくと、二人を隔てていた透明な板は大小さまざまな破片と化していた。要するに、いまやキズキを囚えるものは何もなく、これで外に出られるわけだが……。

「ふう……物理最強」

「めちゃくちゃだ」

 コダマは用済みとなった壊れたチェーンソーをそのへんに放り投げ、代わりにブレザーの胸ポケットから『シュニッカーズ』を取り出して、キズキに手渡した。

「どうせ何も食べてないでしょ。それで少しでもカロリー摂りなさい」

「用意がよくて助かる」

「早くして」

「あ、ああ——むぐ、むぐ……」

 久々の食事、それもこってりとした甘みと脂質と塩分の塊を口にして、キズキはこの世にこんな美味いものがあったのかと泣きそうになった。しかし久しぶりにものを口にしたからか、キズキは飲み込むのに苦労した。

「悪いけど飲み物はないから」

「え……?」

「急ぐわよ。あの子を……ニアを、助けてあげなきゃ」

 そう言って駆けだすコダマの後を、キズキはなかなか喉の奥を通過しない塊に目を白黒させながら、追いかけていった。


   (学園地下 ネイムレス実験場)


 野戦病院の如く、何台ものベッドが整然と並ぶ広い空間の一角、ひとつのベッドを複数の白衣の男たちがとり囲んでいた。男たちはそれぞれの手に巨大な注射器のようなものを持ち、注射器のシリンジは毒々しく紫色に発光する液体のようなもので満たされていた。それを、何の感慨もなく、何の合図もなく、ベッドに寝かされた少女——灰色の小さな少女の身体に注入していく。

「う、うあ——ああああああっ」

 少女に意識はなく、意識がないまま叫び、四肢を暴れさせるが、それを四方から伸びた男たちの手が押さえつける。

「やはり、系譜の異なる《断章》には拒絶反応があります」

 別の白衣の男が、おとなしくなった少女に、ふたたび注射器の中身——液状化させた断章を注入する。

「あ……う……うう」

「しかし《物語喰い》とはよく言ったものですな。これだけの断章を装填して、いまだに溢れ出さないとは」

 ズウウウウ……ンンンン

 憑依体とネイキッドの戦闘音がここまで響いてくるが、外界の雑音などに彼らは興味を示さない。黙々と、少女に断章を注入し続ける。しだいに、赤みを帯びていく少女の毛髪。

「なにやら外が騒がしいようですが」

「いつものことでしょう。だから私は子どもが嫌いなんだ」

「はっはっは。……しかし、どうします? そろそろ用意した断章が足りなくなるのですが」

「まるで底の抜けた水瓶のようですなあ」

 断章を注入し続けられる少女の頭から、二対の禍々しい角が生えてくる。少女の両腕よりも長く、太い、赤色に輝く二対の角。

「これで三角ですか。計画では四角が必要……あと一角、足りませんな」

「しかし、もうストックがありませんよ。どうします?」

「あの娘はどうした。そのために断章を集めていたのだろう?」

「ええ」

 そこへ、別の少女が現れた。シャラン……髪留めが涼やかに鳴る。

「その通り。まだ足りないのです。ですので——」

 少女の長い艷やかな黒髪が四つに分かれ、音もなく伸びて、鏃のような形状となったその先端が四人の白衣の男たちの胸に同時に突き刺さる。

「あ」「え」

 少女の四つの髪束は彼らの『物語』を吸い上げて、ドクドクと血管のように脈打つ。間もなく、少女が手にしていた異形の槍が紫色に輝き始める。次々と崩折れる男たちを尻目に、少女は嘆息する。

「ああ、美味しくない……やっぱり彼のは特別なのかしら。でも、選り好みはしていられないものね……悪食なのはお互い様かしら、ね。宝箱ならぬ『空の箱』さん」

 少女は種無しとなった男たちを乱雑に放り出し、自らの毛髪もうつくしい紫色に変じさせて、恭しく両手で掲げた紫の異形の槍の鋒を、ベッドの上の、獣と化そうとしている少女の胸に突き立てた。全身からこれまでとは比べものにならないほどの赤光を放ち、その白い肌までもが緋色に染まっていく。

 そして、恒星のような眩い光のなかで、少女は禁断の呪文を唱える。

「《断章フラグメント》、解放リリース————」


     →→→→→→→→


   《挿話 最強の証明》


「行け! ボクの《聖戦姫ワルキューレ》よ!」

 ボクたちはいま、戦場の只中にいた。当然のことだが、ボクの四人の聖戦姫たちの連携は完璧だった。誰かと違って、彼女たちには持久力もある。それぞれが音速を優に超える光の線となって、次々と憑依体を意味消失させていく。

 夕刻。平日の放課後に突如《断章》の干渉音が学園上空を覆い尽くした。流星のように降ってくる紫の矢印。あんな数の断章が降ってくるのは初めて見た。さすがのボクも驚いたよ。この世の終わりかと思ったね。

 でも、実際のところは、どうということはなかった。一体一体はほとんどが一角獣。つまり雑魚だ。幸か不幸か、放課後の学園には中等部・高等部それぞれの実戦型ネイキッドが多く残っていたし、何よりもこのボクと、ボクの聖戦姫たちがいるのだ。お祖父様が手を回して加入させてくれたあの少女——最新型無銘体である綴クオンはいなかったが。レーベルとしての戦力が大幅にアップしたのは間違いないが、彼女はボクたちの訓練にもほとんど参加せず、協調性がないのが玉に瑕だ。ボクの挿話を装填もさせてくれない。最新型であり、自己完結型——とお祖父様は言っていた——である彼女は、読み手であると同時に通常のネイキッドのように無銘刃も扱う。彼女がいったいどこから物語を仕入れてくるのか、そしてなぜこの場にいないのか。それはわからないけど、まあいなくても別に支障はない。いまのところ、ボクたちのレーベルが撃破数トップのようだし、おかげでかなりのポイントを稼ぐことができた。ボクはA級レーベルなんかに甘んじるつもりはない。ゆくゆくはこの聖戦姫をS級レーベルに昇格させ、あの転入生——元S級語り手であり世界十三筆の一人でもあった彼を超え、このボクが、空席となった十三筆の一角に入る。そのために、ボクは最強を証明し続けなければならないんだ。

 ふと、視線を感じ、後ろを振り返る。なんということか! 彼女がそこに立っていた。陽が沈みかけている春の薄闇の中でも、その可憐なシルエットは見間違えようがない。

「やあ、ゼロの姫君! 久しぶりだね。いままでどこに行っていたんだい?」

「…………」

 彼女は何も答えず、静かに一歩、こちらに歩み寄った。ああ!

「ボクもキミを探そうとしていたんだが、最近なにかと忙しくてね……ボクは決して、キミを一連の事件の犯人だとは思っていない。仮にそうだとして、あの男がやらせていたんだろう? あんな男とはさっさとレーベルを解散して、改めてボクと組まないか?」

 さらに一歩、二歩、ボクへと歩み寄ってくるゼロの姫君。感動だ!

「早速、ボクが特製の挿話をキミに装填してあげよう。連続装填……ま、まあ、正直ちょっとつらいけど……あの男にできてボクにできないはずはない。さあ!」

 そこで、薄闇に浮かぶ彼女のシルエットが以前と少し違うことにボクは気づいた。特に何か、頭部に違和感があるような……。

「ところで、髪型を変えたのかい? もしかして、ボクのためにイメチェンしてくれたのかな? 以前のキミのざっくりしたボブカットも可憐だったけど、たしかにボクは長い髪の女性のほうが好みだ。ボクの好みまでリサーチしてくれていたとは……感動だよ。さあ! 挿話の準備はできた。あとは、これをキミに」

 少女は、ボクの言葉も待たずにボクの胸に飛び込んできた。

「————え?」


 次の瞬間、ボクの意識は、深い闇の底へと落ちていった。


     →→→→→→→→


 キズキとコダマは必要最小限の照明の灯る薄暗い無機質な通路を駆けていた。キズキは方向感覚が掴めず、ここが地下なのか地上なのかさえ判らなかったので、前を走るコダマについていくだけだ。しかし、どうにも地上に出る道筋ではなさそうで、それどころかコダマはより下の階層を目指しているように思えた。

「なあ、こっちの道でいいのか? 早く外に出なきゃいけないんじゃ……」

「……ついさっき、ダメ永から端末に連絡があったの。っていっても、ある地点を指す座標だけが送られてきたんだけど」

「ある地点?」

「閉架領域」

 コダマは走りながら、端的に答えた。キズキは、そういえばサダメが前にそんなことを言っていたのを思い出した。しかし——

「いまこの状況で回り道する必要があるのか?」

「必要なこと、だと思う。あんたにとっては————そして、あたしにとっても」

 息を切らしながら会話を続けていた二人は、巨大な鉄扉の前に出る。ここが何のための施設なのかを示すプレートなどの類はない。なぜなら、この扉の向こうにあるのは、本来「存在しない」とされている場所なのだから。

 息を整え、コダマはふと、キズキを振り返った。

「あんたは知らなきゃいけない。この島と、あの子の秘密を。あたしも知らなきゃいけない」

 そう言って、コダマはかけていた眼鏡を外し、わずかに哀しみを湛えた笑みを浮かべた。群青色とばかり思っていたその瞳には、星雲のように灰色の斑が散りばめられていた。

「あの子の——ニアの前の前のパートナー候補だったあたしとしてはね」

 キズキは、その哀しい笑顔の前で、いかなる言葉を発することもできなかった。

 巨大な扉が地鳴りのような音を立てて自動で開いていく。コダマはもう、眼鏡をかけ直していた。扉が開くにつれて、奥の部屋の光が洩れだしてくる。その淡く白い光は、春の陽射しよりも暖かく柔らかに、キズキには感じられた。


「やあ。待っていたよ」

 その部屋に入ると、誰が来るのかも、いつ来るのかもすべて解っていたような女の声が二人を迎えた。

「く、暮町センセー……?」

 そこにいたのは、キズキの主治医であり、いつもどこで何をしているか判らない神出鬼没の年上の女性、暮町未明——と、その女性が肘をつき、腰かけている巨大な円卓の下に、この島に帰ってきて以来、キズキの唯一の友人といえる少年、為永サダメが転がっていた。優雅に組まれた紫のパンツスーツ、その先のヒールのない黒いパンプスが、キズキの友人の顔面を踏みつけている。元は造りのいいその顔は惨憺たる有様だった。というか、ほとんど半殺しにされたあとのように見えた。しかし、そのボコボコの顔面に浮かんでいる表情は、どことなく満ち足りていた。その口がわずかに動き、どうやら意識はあるらしい少年は、息も絶え絶えに呟いた。

「へ、へへ……我が生涯……一片の悔いなし……」

 そして、ピクリとも動かなくなる。ついに意識を失ったらしい。

「いやぁ、負けたよ」そう言って愉しそうに笑う未明はしかし、擦り傷どころかスーツに皺ひとつ寄っていない。「彼の執念を甘く見ていた。楽しかったからいいけどね」

 未明は腰かけていた円卓から起き上がって、足元で寝ているサダメを蹴り飛ばし、改めて二人の来客に向き直った。

「決闘前に交わした約束事は絶対だ。私は負けた。だから——きみたちにはこの閉架領域の閲覧資格、つまり真実を知る権利がある。宮無キズキくん、きみにはその覚悟があるかい?」

「…………ああ」キズキは短く返答する。

「結構。では、鍵を開けよう。——□□■□□□■■■□」

 未明がキズキとコダマには聞き取れない何かの文言を口にすると、天井に埋まっていた白い半球がズズズズズズ……と降りてきて、円卓のすぐ上まで迫り出し、停止する。巨大な白い半球の中をよく見ると、色とりどりの無数の矢印が魚のように泳ぎ回っていた。

「触れてごらん」未明は、薄い笑みを浮かべたまま、二人に促す。「通常ならば触れただけで発狂するような代物だが」

 いまにも球体に触れようとしていたキズキとコダマは思わず手を引っ込める。

「そんなもん気軽に触れさせようとすんな!」

「大丈夫だよ。彼女は優しいから、きみたちに害を為すことはまずない。それどころか、きみたちに必要な情報だけをピックアップしてくれるはずさ。司書みたいにね」

 改めて、引っ込めていた手を、おずおずと球体に近づける二人。そして、触れる。触れると、予想していたような硬い感触はなかった。水に手を浸しているような感覚だ。球体に侵入してきた二つの手に、無数の小さな矢印が興味を示したように近づいてくる。そして、やはり魚のように二人の手をつんつんと突く、その感触がこそばゆい。しばらくして、矢印のひとつが彼らの手に浸透し——頭の中に文字列となった情報が流れ込んでくる。裸になって文字列の波に揉まれている、そんな感覚だった。キズキは苦労して意識を保ち、文字列を読んでいく。

 天人。イマーゴ。虚無化患者への効用。挿話。断章。ネイキッド。無銘体。虚空。異次元存在。物語の徴税。高次エネルギーの活用可能性。天人計画。接触実験。そして——天色宝。

「まあ、純粋な情報だけを一気に読み取っても頭がこんがらがっちゃうだろうから、ここからは私が解説をしてあげよう。特別サービスだ。そのまま聞いてくれ。

 まずイマーゴだが、表向きは20年前、世界に同時多発的に開いた『穴』のひとつ、弓島大空洞からの歴史ものがたりの流出を防ぐために、真の目的は穴の調査・研究のために、穴の畔に続々と林立した研究組織のひとつ——その中でも最も巨大で、政府の意向に近い組織だった。イマーゴはある種の病院としての機能も備えていた。もう解ってると思うけど、虚無化患者を専門に診る——もっと言えば研究する病院だ。物語を失い、虚無化したヒトを治療するにはどうすればいいのか……そこで見出されたのが——天色宝。肉体的には十かそこらの少女だった。

 天色宝の出自は誰も知らない。気がついたらそこに、世界に存在していた。彼女はどのような観点からも、通常の人類とは言えなかった。現在ライブラリにおいて運用されているすべての語り手が束になってもおそらく足元にも及ばないほどの物語生成能力を、彼女は生まれつき持っていた。超人、あるいは新人類とでもいえばいいのかな。天人セレスタとも呼ばれていたね。イマーゴは彼女を、彼女の能力を見出し、彼女の能力をもって重篤な虚無化患者の治療実験を始めた。患者は八人の幼い少年少女たちだった。天色宝は彼らに、ある種の夢のようなものを見せて、物語を失って空っぽになった彼らを、その夢によって満たした。もちろん、正確には夢じゃない。彼らの意識を並列化した箱庭のような時空を作り出し、その中で彼らと『遊んだ』んだ。ふふふ、これはきみにはつらい話かもしれないね。

 要するに、天色宝は虚無化患者のための治療プログラムとなっていたわけだよ。だが、彼らの治療がある程度の成功を見せ始めたある時期から、イマーゴの中に特殊なセクションが生まれた。イマーゴは設立当初から物語の力に着目し、その兵器利用を他に先駆けて研究していた、まあちょっとヤバい組織だったんだけど、そのセクションはその中でもさらに異端でね。穴によって繋がった異次元——《虚空》と呼ばれる次元に存在する『何か』との接触を積極的に図ろうとしていた。物語の流出という災害が『徴税』と呼ばれるのは、それが自然災害などではなく、その異次元に存在する何者かが意図をもって行っているからだ。それはイマーゴに限らず、虚無化を研究していたような連中にはだいたい知られていた。だがそのセクションは、その何者かと接触し、交渉し、あわよくば異次元に存在する膨大なエネルギーをとり出そうとまで画策していた。しかしその異次元虚空はたとえ《案内人》であっても到達できない場所にある。しかし、と彼らは考えたわけだ。『天色宝になら、それができる』とね。

彼らの暗躍により、少年少女たちの治療も、にわかに別の側面を帯びるようになった。彼らを、天色宝をモデルとした特別なネイキッドとし、穴の通過に耐えうる、《虚空》への道を拓くための——まあ、簡単に言っちゃえば人造人間にしようとし始めたわけだ。それが『天人計画エンジェリック・プロセス』。天人たる天色宝を筆頭に、異次元への九人の水先案内人を用意して、《虚空》へとアクセスしようとした。だが、ここで彼らにとって予期せぬことが起きた。天色宝と、彼女の夢の中にいたひとりの少年が、反乱を起こしたんだ。彼らがなぜそうしたのかは私には解らない。とにかくある日、物理的にも虚無化からほぼ完治しつつあったその少年を逃がすよう、彼女は私に頼んできた。当時、イマーゴ所属の研修医だった私はその依頼を受けて——それ以降の「少年側の」顛末はきみの知っている通りだよ。宮無キズキくん。

「少女側の」顛末も、私の知っている範囲で話そう。彼女には強い自我がなかった。だからイマーゴの意思にも当初から逆らっていなかったんだと思うけど、きみたちが反乱を起こしたことで『天人計画』は頓挫、少なくとも凍結されることになった。だが、残された七人はそのまま特別製、テンジキ型無銘体として完成まで漕ぎ着け、当時すでに編成されつつあった世界各地のネイキッド部隊へ、その雛形として派遣された。そして天色宝は、その後もイマーゴによるさまざまな実験に利用された。まるで罰でも与えるようにね。そしてついに、《虚空》の高次存在との単独接触実験が行われた。無謀な実験だった。彼女は失敗し、それによって甚大な物語災害を引き起こした。きみたちもよく知っている、三年前の『弓島大徴税』だ。歴史的にも、物理的にも、かつての弓島は半壊した。当時の政府は大慌てでそれを隠蔽し、肝煎りの『浄化政策』とやらでイマーゴという組織は解体された。そして中枢メンバーを一新し、新たに創立されたのがライブラリというわけさ。まあ、そんなことはいまはどうでもいいね。

その巨大災害によって天色宝自身はどうなったかというと——度重なる実験により物語を搾り尽くされ、すでにボロ雑巾のようになっていた彼女は、その接触事故が極めつけとなって、彼女自身のパーソナリティのほとんどを《虚空》へと流出させ、失ってしまった。最後には彼女自身が重篤な虚無化患者となってしまったんだ。もう解るよね。それが『誰』なのか」

「ニアイコール……」

 キズキはそう呟いたが、それが未明の問いかけへの応答だったのか、彼の目の前を泳ぐ文字列に反応した呟きだったのか、それは誰にも判らなかった。

「彼女は肉体的には天色宝そのもの。だが、もはや彼女は天色宝ではない。99%以上の自己同一性を失ってしまったのだから。とはいえ、その99%がすべて《虚空》へと流出したわけじゃあないんだ。《虚空》は遥か遠い場所にある。彼女の意識の一部は、その中間地点とでもいえばいいかな——きみたち語り手が挿話を記述する際に一瞬だけ接続を許される場所でもあるね——《刹那時空》とも呼ばれる、この物質世界からでも比較的アクセスの容易な次元に留まっている。概念のような存在としてね。そして、いまでもこの島を見守っているのさ」

「見守っている……?」

 今度はコダマが呟いた。その声はか細く、震えていた。しかし、強い怒りを孕んでいた。

「お星さまになって空から見守ってるとか、そういうおためごかしじゃないよ。その証拠がこれ——《アーカイヴ》さ。彼女はその時空から常に、現在進行系で、物語を編纂している。もしかして機械がやっているとでも思っていたかい? もちろん、観測と保存は世界にばら撒かれた極小の観測機がやってるんだけど、それを汎用挿話としてきみたちが使えるようにしているのは彼女さ。さらに言えば、同様の方法で弓島大空洞の穴を塞ぎ、物語の流出を防いでもいる。凡そこの島で暮らす者はみな、いまもなお彼女の庇護の下にある、ってことさ」

 未明は、語るべきことはすべて語り終えたとでもいうように口を閉じた。キズキとコダマも、閉架領域から手を離した。これで、天色宝と、ニアイコールという少女についての事情はだいたい解った。だがキズキには最後の、そして最大の謎がまだひとつ、残されていた。その答えは閉架領域からも、また未明の口からも出てこなかった。ならば——本人に訊くしかない。未明はいまだ目を醒まさないサダメを足蹴にしながら言った。

「私はこのバカを病院に連れて行くよ。私みたいなヤブ医者じゃなくて、ちゃんとした医者に診させないとね。きみたちは一刻も早く地上に出たほうがいい」

 折しも、その地上からこの地下まで、恐竜の足音のような地鳴りが響いてきた。

「宮無キズキくん。玉坂コダマくん。きみたちにはまだ、やるべきことがあるはずだ」

 その通りだった。


     →→→→→→→→


 キズキとコダマは未明に教えてもらった非常階段を駆け上がり、作られてから一度も使われたことのなさそうな建て付けの悪い小さな鉄扉を押し開け、表に出る。そこは学園の敷地の端、ニアイコールと最後に会った灰色の塔——図書館のすぐ裏手だった。あの閉架領域、いや、《アーカイヴ》はこの図書館の真下に存在していたのだ。偶然だろうか。それとも……。しかし、いまはそれどころではなかった。

 地上は地獄と化していた。ただの地獄ではない。大炎熱地獄だ。

 あらゆるものは炎に捲かれ、そうでないものは虚無化していた。陽の沈んだ夜の空すらも炎に焼かれたように赤く染まっている。その中心にいたのは、

「ニア!」

 コダマは思わず叫んだ。ニア? キズキは、その名詞と、目の前に広がる光景が、にわかには結びつかなかった。それが立っている場所は、元は学園の広大な校庭だったはずだ。いまやすべてが焼け焦げ、敷き詰められた砂さえもが黒々とした焔を燻らせているその焦土に、人型の獣が立っている。両手を脚に見立てて四足で立つそれは、全長30メートルはあろうかという巨大な、赤い四角獣テトラコン。頭から三本の歪な角を生やし、臀部からは野獣の如き尻尾が伸びている。そのすべてが先端を矢印型に尖らせ、誰の目にもそれが憑依体であることを示している。全身は真紅に染まり、身体のあちこちに炎を纏い、角を振り回して校舎を破壊し、周囲に散らばり、攻撃を試みようとしているネイキッドたちを五月蝿そうに燃える尻尾で薙ぎ払っている。さらには、同じ断章の憑依体であるはずの紫の一角獣までも、巨大な口で喰い散らかしている。あれが、あの灰色の少女だというのか?

 憑依体を喰い終わったあとは、周囲の「空間」そのものを喰い始めた。巨獣に喰われた空間は瞬時に虚無化していく。学園を中心に、おそるべき速度で空白地帯が拡がりつつあった。


 戦術資料室のモニタに映る巨獣を睨みながら、三宮依織はすべての感情を噛み潰したような声色で、室内の全員に告げた。

「……現時刻をもって、無銘ネイムレス≒0.001ニアイコール・ゼロスリーを憑依体四角獣、仮称《炎獣》と認定。最優先討伐対象とする」

 室内にざわめきが起きる。依織の隣に控えていた女性オペレータは縋るような声で言う。

「で、ですが……彼女はれっきとした学園の生徒です。それを、討伐なんて……」

「知らんのか。四角獣は三角までとは危険度の桁が違う。放っておけば、国のひとつぐらい簡単に滅ぶぞ」

 暗い声で言われ、口を閉ざすしかないオペレータ。室内を重苦しい沈黙が支配した。依織はマイクに向けて、改めて指示を出した。

「お前たち、聞こえているな。その場に残っている全ネイキッドで《炎獣》を攻撃。足止めに専念しろ。その後は直ちに全力で退避。いまからカウントして120秒後に開架領域30%を利用した汎TEX砲を発射する」

『待ってくれ!』

 モニタのひとつが、パーカのフードをすっぽりとかぶった少年の顔を映した。

「宮無。聞いていただろう。総攻撃だ」

『俺にやらせてくれ。必ずアイツを止めてみせる。だから俺ひとりにやらせてくれ』

「正気か? 無駄死には許さん。わかったら直ちに——」

『俺がやらなきゃダメなんだ。あんただって、本当はこんなことしたくないはずだ』

 依織はモニタ越しに少年としばらく目を合わせて————言った。

「……わかった。宮無キズキ、お前に任せる。ただし、300秒でケリをつけろ。いまからだ。それを過ぎたら問答無用で砲撃を実行する」

『それでいい。ありがとな、イオリン』

「…………」

 依織は無言で少年の映っていたモニタをオフにした。


「とはいえ、どうしたもんかな……」

 炎獣と化したニアイコールを見上げ、キズキはそう洩らした。昼夜を寝ずに過ごし、ろくな食事も摂っていない彼のコンディションは、はっきり言って最悪だった。ネイキッドスーツも着込んでおらず、愛用の無銘刃すらも、いまはこの手にない。しかし、考えている暇はなかった。少年は、傍らに呆然と立つ少女に向けて言った。

「玉坂、お前はみんなの避難誘導をしてくれ。俺が下手打ったら、なんとか砲とかいうのに巻き込まれる」

「で、でも——」

「アイツを憑依体として討つなんてことは絶対にさせない。必ずアイツを元に戻す」

「……わかった。ニアのこと、あんたに託すわ。失敗すんじゃないわよ」

「了解了解、っと。——そういうわけだから、みんな、退いてくれ」

 いまだ炎獣に攻撃を試みているネイキッドたちに向け、少年は言った。

「転入生……」

「し、しかし」

「学園地下に避難しろ。不聞石のシェルターが守ってくれる。退き時を見極めるのも戦士の心得だ」

「あんたは、どうするっていうんだ……?」

「俺? 俺はまあ……こいつと話してみるのさ」

 そう言って、未だ納得のいっていない様子のネイキッドたちを下がらせ、あとをコダマに任せて、キズキは炎獣の前に出る。そして獣に語りかけた。

「なあ、俺たちってまだパートナーだよな?」

 その声が聞こえたのかどうか、無軌道な破壊活動を停止させ、少年をじっと見下ろす炎獣。

『ア……アアア……アアアアアアアアアア』

 悲鳴のような叫びを上げ、炎獣は少年に前足を振り下ろした。予測していたように、それを紙一重で避けるキズキ。獣の前足に抉られた地面は虚無化し、世界に空白がまたひとつ増える。

「あーもう、見境なしか。ちょっとは手加減してくれよ——っとぉ!」

 ふたたび少年の肉体を切り裂こうと振り下ろされる、少女けものあし。それも避けるが、ブレザーの袖に包まれた左腕に浅い裂傷が入る。物語の武装もなく、生身の少年は、純粋な戦闘技術だけで炎獣の猛攻を凌いでいた。それは舞踊にも似ていた。世界で最も危険なダンスだ。しかし獣がその足を、角を、尻尾をひと振りするたびに、少年は傷ついていった。致命傷だけはどうにか避けていたが、しかし、ついに——

 ズン

「ぐっ————は」

 灰色の少女の頭頂部にあったアホ毛、いまや燃え盛る角と化したそれが、少年の胴を貫いた。衝撃で、パーカのフードが外れる。少年の口から血が滴り、赤い角に落ちて、赤が赤に混ざり、溶けていく。

「ニ、ア…………」

 少年の口が、血とともに、血を吐くように、その名前を呟いた。

 タイムリミットまで、あと120秒————


   《挿話 空の……》


 わたしはどこにいるのでしょうか。

 わたしは何をしているのでしょうか。

 わたしは————誰なのでしょうか。

 ニアイコール・ゼロスリー。ゼロの姫君。空櫃ピュクシス。割れ鍋。世界の穴。《物語喰いソードイーター》……。なんだか、いろいろな呼び名で呼ばれてきた気がします。でも、それは名前じゃないのです。わたしを本当の名前で呼んだひとは、ひとりもいません。まあ、本当の名前なんて、ないんですけど。

 わたしには名前がなく、物語がありません。だから食べるのです。なんでも食べるのです。でも、いつもおなかが空いています。だから、また食べます。食べて、食べて、食べるのです。でも、わたしのおなかには穴が開いていて、どれだけ食べてもおなかがいっぱいになりません。

 さっきから、わたしの周りをちょろちょろと飛び回っているひとがいます。あのひとたちの仲間でしょうか。うるさいので串刺しにしました。このひとを食べれば、少しはおなかの足しになるでしょうか。

「ニ、ア…………」

 なんだか、なつかしい声がしました。わたしは初めて、そのひとの顔を見ました。知っているひとのような気がします。でも、あのひとはいつも灰色の帽子をかぶっていて、串刺しにしたひとは、青々とした、深い海みたいな髪で、そのてっぺんに、わたしと……わたしと同じような、灰色のくせ毛が、ぴょこんと立っていて……それを見たとき、

「アアアアアアアアアアアアアアアア」

 わたしは叫びました。叫んだみたいです。なぜ叫んだのかわかりません。わたしにはわたしがわかりません。もう、わたしはわたしではないからかもしれません。

「わたしは、わたしがわからない。どれだけ食べてもわからない」

 わたしが何を言っているのか、わたしにはよくわかりません。串刺しにしたそのひとから、何かがわたしのなかに流れ込んできます。それは、いつも食べている文字ではなく、そのひとの、何かの感情が形になったような、そんなものが、わたしのからだのなかに入ってきました。

 天色宝。

 ずっと、その名前を探していたような気がします。その響きはとてもあたたかく、春のひだまりみたいに、淡く黄色にひかっていて……。

「わたしは、天色宝なの……?」

「……違う」

 そのひとは否定する。それが、とてもかなしかった。

「じゃあ、やっぱりわたしは、何もない、空っぽで……」

「そうじゃない」

 そのひとは、また否定する。なぜなのでしょう。わたしはこんなに空っぽなのに。

「じゃあ、わたしはなんなのですか。天色宝でも、空っぽでもなければ、なんだっていうんですか——!」

「……お前は、ニアだ」

 そのひとは、言いました。他の誰かも、同じようにわたしを呼びました。でも、やっぱりそれは名前じゃなくて、ただの略称で……。

「お前は、空色そらしきニアだ」

「空……?」

「俺が決めた。いま決めた。誰にも文句は言わせねえ」

 そう言って、そのひとは、そのひとを串刺しにした、わたしの角を、やさしく噛んで……


     →→→→→→→→


 うつくしい巨獣の身体が、急速に萎んでいく。全身から放たれていた眩い光は少年を貫いていた角から少年の身体へと移り、少年の顕になった頭髪、その天辺の、返しを片方失くした鏃のように尖ったアホ毛が青白く輝きだした。春の夜空に燦然と輝く乙女座α星——スピカのような光だった。

 キズキは、元の灰色の少女に戻ったニアを静かに地面へと横たえた。地面といっても、炎獣が喰い尽くし、ほとんどが水晶のように空白化していたのだが。その、ふたりだけの神話のような神秘的な光景の前に、闖入者が現れた。

「ほっほっほ。宮無キズキくん、キミがどうやって懲罰教室を抜け出したのかは知らんが、何をしてももう遅いのだよ。彼女たちはよくやってくれた。いまやこの島全体が、連鎖的に空白化しつつある。準備は整ったのだ」

 老人は少年の背中に語りかける。少年は無言のまま、振り返りもしない。その手には、獣から奪った一角、それを錬成した光の剣が握られていた。老人はなおも喋り続ける。

「私はイマーゴでは不当に冷遇されていてね。まあ、そのおかげで身分の改竄も比較的容易で、こうして田舎の小さな学園の長などに納まっているわけだがね。私の名はイジー・クライチェク。三倉以蔵……学園長などとは仮の姿。私は本来、このような身分に甘んじる器ではないのだよ」

 戦術資料室ではいま頃、三宮依織が歯噛みしていることだろう。老人の正体を見抜けなかった己を責めていることだろう。だが、それも致し方ない。本当の名前を聞いたところで、それにピンとくる者は存在しない。それだけ、彼がイマーゴにおいて小物だったということだ。しかし、だからこそ彼のような存在が見逃されていた。闇は未だ浄化しきれていないということだ。

「もともと私は『天人計画』などといったものには興味がなくてね。彼らは異常だよ。然らば、ごく正常な私がこの島の主となる。いや、世界の王となるのだ。この島を、そしてこの島の《アーカイヴ》、その全権限を手中に収めれば、それは世界を手にしたも同然なのだからね。どうかね宮無くん。そのままおとなしくしていてくれれば、キミにもそれなりのポストを与えようと思うんだが」

「……あんたの陳腐な野望なんぞに興味はない」

「ほっほ、そうかね。私の作る新たな世界にキミの名前はないだろう。これだけの空白と、彼女の能力があれば、世界を作り変えることができる。ようやく、その時が来たのだ。さあ、綴クオンくん。願いを叶えてくれたまえ!」

「——ええ。叶えてあげるわ」

 老人の背後の闇から浮かび上がった少女は、手にした異形の槍で老人の胸部を貫いた。

「は————ひ?」

「貴方のではなく、キズキくんの、ね」

 シャランンン

 涼やかな髪留めの音を響かせて、闇の中から溶け出したかのように、長い髪のうつくしい少女が、キズキの前に姿を現した。初めて出会ったときのように、白いNスーツで身を固め、二度目に会ったときのようにその長く艷やかな毛髪を紫に染め、手には血糊のついた異形の槍を携えて。絶命し崩折れた老人の遺骸を無視して、綴クオンはキズキに語りかけた。

「その子にきみを喰わせていたら物語は終わっていた——いいえ、始まっていたのに。《断章》の中身ごと物語として逆に喰うなんて……そう、自分が無銘体ネイムレスだと気づいたのね」

「ずっと、ただの白髪だと思ってたんだけどな」

 キズキは顕になった頭髪の天辺、青白く輝くアホ毛を手で弄んだ。それは、彼が無銘体——読み手リードである証。《アーカイヴ》閉架領域にて知った、彼自身も今日まで知り得なかった真実、テンジキ型無銘体、その最初期ロット、No.1ナンバーワンであるという証明だった。

「お前は誰だ」

 キズキは改めて、牢獄でラジオに向けて発したのと同じ質問をした。

「前にも言ったでしょ。私はナンバーナイン。型番の上では、きみの妹になるかしら」

「テンジキ型は8番までのはずだ」

「そうね。昔話をしましょうか」

 そうして、少女は語り始める。それ自体が魔力を帯びているような、魅惑的な声で。


   《断章 ふたりと、ひとり》


 昔々あるところに、男の子と女の子がいました。ふたりはたいそう仲がよく、離れ離れになったあとも、しばらく電話でやりとりをしていました。ところがある日、些細なことで喧嘩をしてしまいます。ふたりが出会ったあの夏にも、ふたりは喧嘩ばかりしていたのですが、今度はちょっと様子が違いました。ふたりは思春期を迎えていたのです。

男の子は言いました。

「俺はこっちで女の友達ができたんだ。お前なんかに構ってられるか」

 女の子もこう言いました。

「わたしだって男の子の友達できたもん! キイくんなんかよりずっとかっこいいんだから!」

 喧嘩の末に、ふたりは嘘をついたのです。子どもらしい、些細な嘘。でも、不幸なことに、ふたりには普通の子どもにはない、特別な力がありました。語り手の才能を持っていたふたりの嘘によって、ふたつの「存在しない物語」が生まれました。

 存在しない物語は《虚空》へと流出してしまいます。それは長い年月をかけて《虚空》を彷徨い、混じりあってひとつの大きな呪いとなりました。そしてあるとき、同じように《虚空》を漂っていた名もない少女の魂と惹かれ合い、彼女の空っぽの身体へと導かれました。

 めでたしめでたし。


     →→→→→→→→


「……お前は、憑依体なのか?」

「存在しない9番目。醜い実験にすら見捨てられた名もなき重篤な虚無化患者の少女。それが私のオリジナル。憑依体としての名前は————そうね、誰もつけてくれそうにないから、《ノナ・メイガス》とでも名乗っておきましょうか」


「メイガス、だと……!?」

 戦術資料室にて拾った少女の音声を聞き、三宮依織は目を剥いた。

「ど、どうしました、室長……?」

魔術師メイガス……これまで、世界中でも数例しか存在が確認されていない、憑依体の完全体。四角獣までの支配権をもつという。それに——『ノナ』とは、いや、まさか……」

 依織の熱病患者のような独り言に応答できる者は、この場には存在しなかった。


断章フラグメント解放リリース

 禁断の呪文を唱え、少女の全身が変貌していく。

 まず、胸まで垂れた二房の髪束が黄と緑に変色し、二角の矢印となり。

 次に、夜風に棚引いていた長い後ろ髪が二股に分かれ、桃と橙の二角の矢印となり。

 さらに、その二角が二股に分かれ、二組の桃と橙の四角の矢印となり。

 最後に、頭頂部の髪束が巨大な紫の一角の矢印となり。

「まさか……七角……?」

 キズキは愕然として呟くが、

「とんでもない」

 少女は手にしていた異形の槍をふたつに分割した。それらは、ちょうど牡と牝を示す形をしていて、牡の槍は青、牝の槍は赤に輝いている。少女が両手に持った槍がそれぞれ角だとするならば————

九角獣ノナコン

キズキはもちろん、人類が、この世界が初めて相対することになる、神にも等しい力をもった、人類の天敵。変化したのは髪と槍だけではない。ネイキッド用に調整してあるはずの白いNスーツは禍々しい紫の紋様に彩られ、胸部と局部を隠すだけの色魔サキュバスの如き形状へと変貌していた。あらゆる男を、あるいは女すらも惹きつけて已まない、魅惑的なヒトの形をした、ヒト以外のナニか。しかし、キズキに見惚れている暇はなかった。

『緊急回避! 宮無、ニアイコールとともに可能な限り上空へ飛べ!』

 まだ生きていたらしい校内のスピーカーから依織の指示が聞こえた。キズキはすぐさまニアを抱え、大地を蹴って跳躍した。一瞬で校舎の残骸の遥か上空へ飛ぶ。ニアの物語を喰って強化ブーストしているいまのキズキには造作もないことだ。そして、その眼下で——

 ドオオオオオオォォォォ……ンンンンンンン

 発射準備を完了していた汎TEX砲——アーカイヴ開架領域30%分の汎用挿話を凝集し、発射した純粋な事象イベントエネルギー塊が人類の新たな敵に直撃した。砂埃の代わりに吹き散る虚無化物の吹雪の中に、未だ目醒めない少女を抱えた少年が着地した。吹雪が晴れる。だが、

「いったぁーーい」

 魔術師メイガスの呑気な声が響く。

 無傷。

 開架領域30%——復旧に何年かかるか見当もつかない物語の直撃を受けて、その美獣は掠り傷ひとつついていなかった。ライブラリ本部の面々は絶望の表情を浮かべていることだろう。

「……ねえキズキくん。ふたりきりになれる場所に行きましょうよ。あんなヒトたち、別にいてもいなくても変わらないけど、虫が飛んでるみたいにムードが台無しだわ。デートしましょうよ。あの日みたいに、闇の底で、ね」

 バリン

 ノナ・メイガスが牡の槍を虚無化した地面に突き立てると、ガラスが割れたような音とともに底が抜け、魔術師と少年はどことも知れない闇の中へと落ちていく。風を切る音もなく。程なく、どこかへと着地する二人。いや、二人だけではなかった。少年は腕のなかに眠る少女を抱えていた。辺りを見渡すと、床に青白い線で升目が引かれただけの、他には一切の光もない、深さも、広さも判らない暗黒の空間に彼らはいた。

「これで誰の邪魔も入らない……って、あら。その子も連れてきちゃったの? デートに他の女連れなんて、ひどい男ね、キズキくんって」

「……ここは、どこなんだ。旧い空間……じゃないよな」

「ええ。ここは空白地帯——虚無化した空間の内部。旧くも新しくもない、時間の概念のない場所。場所とさえ言えないかもしれないわね。私が便宜上、『床』を定義しなければ、きみは立っていることもできない」

「お前の望みはなんだ。どうしてこんなことをする?」

「私はかつて、きみたちに惹かれたひとりの少女。そして、きみたちに造形つくられた悪意」

「俺たちを殺して済むなら、そうしろ」

「いいえ。私はきみの願いを叶えてあげたいの」

「なんだって?」

「もう一度、会いたいでしょう? 本物の天色宝に。いいえ、会うだけじゃないわ。もう一度、最初から、やり直せるの。虚無化患者とその治療プログラムなんて味気ない関係じゃなくて、普通の——そう、幼馴染みとして、とかね。私の力と、その子の肉体があれば、それができるのよ。素晴らしいと思わない?」

「…………」

 これ以上の問答は必要なかった。ニアを床に——それが本当に床だとすればだが——寝かせ、ノナ・メイガスと対峙する。そして、一瞬で切り込む。

 キズキの光の剣とノナ・メイガスの槍が交錯し、火花を散らす。槍に力が込められるのを察知した少年は咄嗟に飛び退き、一度間をつくってから、怒涛の連撃を繰り出す。その一撃一撃すべてを七本の角を自在に操って打ち払う魔術師。キズキの猛攻を軽くいなしながら、生物の域を超えたナニかが語りかける。

「あら、やる気なの? キズキくん。私たちが戦う理由なんてないはずじゃない。100%と1%未満……選ぶ余地もないと思うわ。それに——」

「ぐうッッ」

 攻めることに集中していたキズキのがら空きの胴に、ノナ・メイガスが軽く蹴りを入れる。たったそれだけで10メートルは吹き飛ばされるキズキ。

「私と戦って、本気で勝つつもりなの? この、私にしか地の利のない暗闇のなかで」

「がぁッッ」

 ノナ・メイガスが角の一本を床に突き立てた、かと思った瞬間にそれはキズキの足元から突き出て、研ぎ澄まされたナイフのように彼の胸を切り裂いた。

「はあ……膨大な物語を摂取したとはいえ、所詮それだけのことよ。いまのキズキくんを憑依体として評価するなら、そうね……五角ってところかしら。充分に強いわ。けど、相手が悪いのよ」

 続けざまに四本の角を床に浸し、キズキの周囲をとり囲む。光の剣で一本はどうにか凌ぐが、残りの三本が左肩、脇腹、右太腿を貫く。全身から血を噴き出し、ほとんど立っているのがやっとだ。しかし、それでも、ふらふらとした足取りで、いまだ地に伏すニアを守るように、前に立つ。

「ねえキズキくん、わかってる? その子には時間がないのよ。きみが物語を喰ったせいで、その子は急激に虚無化しつつある」

 その通りだった。キズキが足掻けば足掻くほど、状況は悪くなっている。もはやキズキには、何のためにその少女を守っているのか、その少女が誰なのか、つい先刻自分がつけたはずの名前すら、朧げになりつつあった。

 それでも、少年は少女の前に立つ。いつか見た、図書館での儚い笑顔。それだけが、彼の肉体を、精神を駆動させていた。

「その子を私に渡してくれれば、私は私のすべてを使って、これまで集めた天色宝の物語のすべてをその子に装填して、その子は完全な、100%の天色宝となって、きみの手に戻ってくる。そのチャンスをふいにするっていうの?」

 私のすべてを使って……?

「お前、ひょっとして最初から消えるつもりで……」

 そのとき。少年の鼻腔を何かの香りが擽った。いつか、どこかで毎日のように嗅いでいた、懐かしい匂い。潮の匂いだ。そして、彼の耳も、静かすぎて痛いほどの無音が支配するこの空間内に、新たな音を拾った。それは、内海特有の、寄せては返す静かな波の音。いつの間にか、青白い升目以外には何も存在しなかった空間の一部が、小さな入江となっていた。波の遊ぶ小さな浜辺には、一台のラジオが打ち上げられていて————

『こちら、弓□放送局。あなたの中の■箱。ト■ジャーラジオ!』

 ところどころにノイズの走った声が、ラジオから聞こえてくる。それは、キズキにとって、悲しいほど懐かしい声だった。

「そんな————彼女が、現実に干渉している……!?」

 狼狽するノナ・メイガスをよそに、キズキの意識は彼の架空言語野を通じて、刹那時空へと接続される。


     トレジャーラジオ 4


「ふふ。あの子もちょっと迂闊だったね。普通の物理空間だったら無理だったけど、空白地帯の中なら、わたしでも少しは手出しができるのに」

「————————」

「久しぶりだね、キイくん」

「——ああ、久しぶり、宝」

「最初にここに呼んだとき、ぜんぜん気づいてなかったでしょ。ひどいなぁと思ったよ」

「気づくわけないだろ……こんな、こんな……なんていうか、何もかもが成長して……」

「どこ見てんのさ。あいかわらずエッチだなあ、キイくんは」

「あいかわらずってなんだ! しかもなんか、まるでクオンみたいな、その姿は……?」

「まあ、あの子はわたしの分身みたいなものだから。でもほら、髪の色とか微妙に違うでしょ。あの子はどぎつい原色だけど、わたしのはパステルカラーだから」

「いや、よくわからんが……」

「あーもう、ひっどいなぁ。あんな露出魔と一緒にしないでよね! ……ふふ」

「どうした?」

「いやぁ、キイくんと喧嘩するのも久しぶりだなぁと思ってさ」

「そういやそうだな……」

「……それで、キイくんはもう、答えは決まったんだね」

「ああ」

「わたしはね、正直ちょっと未練があるんだ」

「俺もだよ。もしも、俺たちがもうちょっとマシな形でやり直せるとしたら?」

「それはもう、わたしたちじゃないよ」

「そうだな。俺たち、喧嘩ばっかりしてたもんな……最後まで」

「そうだよ。だから、キイくんは悩む必要なんてないんだよ」

「でも、ひとりじゃ難しそうなんだよな」

「ひとりでできないことは、ふたりでやればいいんだよ。昔、ふたりであの場所を守ったように」

「……もしかして、あの図書館のことか?」

「うん。あそこはね、とり壊されて別の施設——『天色計画』の最終段階として、穴から《虚空》へ飛ぶための港が建設される予定だったんだ。ロケット発射場みたいなものだと思って。でも、わたしはあそこを守りたかった」

「でも、あそこには空っぽの本しかなかったぞ」

「うん。それは当時からそうだったんだけど、いつか『彼ら』が帰ってきたとき、元へ戻るための場所がなくちゃいけない。『彼ら』が帰ってきたら、またみんなが昔みたいに、はるか昔のひとたちみたいに本を読むことができる。その可能性を残したかったんだ。だからキイくんとふたりで地図を描いたの。この島は、あの地図を元にして、ところどころ改竄されながら再建されてるんだけど、あの図書館にだけは大人たちも手を出せないように、キイくんとわたし、ふたりの物語を使って」

「ふたりの物語って、ひょっとして……」

「うん。やりかたは憶えてる?」

「はっきり言ってまったく憶えてないが……やれそうな気がするよ。アイツとなら」

「ふふっ。なんだか嫉妬しちゃうなあ。でも、気をつけて。ふたりで物語を作るのはすごく危険なことなの。普通の物語酔いとは比べものにならない。まるでふたりの意識が溶け合って、そのまま固まっちゃうこともある。ずっと前、そういうひとたちがいたんだ。だから、大事なのは、互いをしっかり他人として意識したまま、心をひとつにすること」

「自信がなくなってきた」

「ふふ、できるよ。キイくんと、あの子なら。相性最悪なわたしたちができたんだから」

「まったくな。相性最悪だったよ。でも……たったひとりの友達だった」

「うん」

「————さ~て、そろそろ戻るとするかぁ。あいつらを待たせてるからな」

「うん。————わたしたちをよろしくね」

「ああ」

「それじゃあ、バイバイ。キイくん」

「ああ。また、いつか————」


     →→→→→→→→


「…………」

 キズキが意識を戻すと、入江は消えていて、元の暗黒の空間へ戻っていた。潮の匂いも、波の音も、もうしない。

「キズキくん。悲しそうな顔してるわよ」

 綴クオンの姿をした憑依体は言った。律儀にキズキの意識が戻るのを待っていたのか、それとも、文字通り刹那の時間だったのだろうか。

「やっぱり本物の彼女はきみを不幸にする……なら、私がきみを幸福にしてあげる!」

 空気を切り裂きながら迫る黄と緑の角を、いまだ手にしていた光の剣で一閃。失っていた物語をとり戻したことで、少年は先ほどまでとは比べものにならない力を手にしていた。

「なぜ? なぜきみは幸福を拒絶するの?」

 ノナ・メイガスの悲痛な問いかけに答えながら、踏み込んでいくキズキ。

「幸せってのはなぁ、他人に押しつけられるもんじゃねえんだ!」

 光の剣を牡の槍で受け、流し、牝の槍を払い、剣に受け止められる。一連の動作が一秒にも満たないやりとりが永遠に繰り返される。そのたびに、キズキの全身に傷が増えていくが、キズキもまたノナ・メイガスの角の三角までを落とし、いまや、押しているのはキズキのように見えた。

 魔術師は橙の一角を切り離し、キズキに向けて投擲。それを剣で払い落とすが——爆発。暗黒の壁に罅が入る。橙の爆炎に紛れて魔術師が飛び込んでくる。そして、二本の槍による連撃が始まる。払い、突き、踏み込んだ足の重心を利用してフェイントを入れ、また突き、そして袈裟斬り、返す刀で少年の首を狙う。そのすべてを剣の一本で凌ぎきり、一瞬の隙をついて魔術師の芯を狙う——が、残された最も巨大な紫の角がそれを受け止める。

「ふふふ、やるじゃない、キズキくん。でもね————」

 ズン

「がっ————」

 牝の槍が少年の胴に突き刺さった。

「私の真の能力を教えてあげる。《禁句タブーフレーズ》、『イコール・ゼロ』——対象の、都合の悪い真実を、都合のいい事実に置き換える。私が手出しできなかった最後のピースを、あの時空からきみ自身が持ち出してくれた。キズキくん、きみの黒歴史マイナスを吸い出して、白い歴史プラスにしてあげる!!」

 少年の内側から何かを吸い上げ、どくどくと脈打つ牝の槍。続けざまに、魔術師は牡の槍を少年に突き刺す。

「これで、きみは何も知らない、漂白された幸福なヒトになれる」

 ノナ・メイガスはそう高らかに宣言する、が————

「へ、へへ。いてーじゃねーか……」

「なぜ? どうして!? 総和がゼロにならない!? きみの、彼女との思い出は黒歴史だったはず……それを全部白く、無害な歴史にすればいいだけのはず……なぜ、なぜ計算が合わないの——!?」

「黒歴史から生まれて、黒歴史しか見ていないお前にはわからないだろうな……悲しみが、いつもマイナスとは限らないってことが」

「そう……あくまでも私の与える幸福を拒絶するのね」

 呟き、キズキの身体から槍を抜いて、魔術師は飛び退る。そして、両の槍を床に突き立て、残った三本の角を暗黒の壁の三方に伸ばし、これも突き刺す。そして、唱える。

「断章、解放————!!」

 ノナ・メイガスの全身が紫色に発光し、それに呼応するように五本の角がどくどくと脈打っていく。

「きみが拒絶するなら、予定通りにこの島の歴史を改変するだけよ。それだけなら、この五角でも充分。もうその天色宝の成れの果てにこだわる必要もないわ。だって、ちょっと時間を遡行するだけで、元の空っぽのその子がいるんですもの」

 そう言って、魔術師はこの暗黒の空間から島全体に張り巡らせた角から、島の空白地帯に偽りの歴史を浸透させていく。そのとき、キズキの後ろで、なにやらもぞもぞと動く気配がした。むくり。天色宝の成れの果て——ニアが、ついに目を醒ましたのだ。

「よう、ニア。状況は飲み込めてるか?」

「はい。飲み込むのは得意なので」

「はっ。頼もしいな」

 いつぞやの、少年と少女が初めて出遭ったときのような軽口を叩いてみせるキズキ。それは緊張をほぐすため。これからの作業に必要な工程。

「やることはひとつだけ。俺とお前で、ひとつの物語を作り出す」

「そんなことできるんですか?」

「やってみなきゃわかんねえ」

「それであのビッチを倒せるなら、やります。ぶち焦がします」

「必要なのは、互いをちゃんと他人として意識しつつ、心をひとつにすること、だそうだ」

「そんなのかんたんです。わたしはあなたじゃないし、天色宝の成れの果てでもない。空色ニアです。あなたが、そう言ってくれました」

「そうだったな。心配なのは、むしろ俺のほうか」

そろそろきみの、きみ自身の物語を始めてもいい頃だと思わないかい、宮無キズキくん?

いつかの、あの女医の謎かけじみた言葉がキズキの頭の中に浮かぶ。

「俺自身の、か……ちょっと違ったな。俺たち自身の、だ」

 キズキはいま、語り手となって初めて、借り物ではない、彼自身——否、彼ら自身の物語を書こうとしている。彼女はそれに賛同している。彼女の意思は私たちの総意。であるならば、私たちは彼らの手助けをしなければならない。私たちはあらゆる事象を観測し、それを彼女アーカイヴへと転送する機械。極小の散逸にして極大の集合——《イベント・ナノリーダ》。すべての私たちが、宮無キズキと空色ニアの紡ぐ物語の材料となることを、いまここに決定した。あの場所に彼女がいる限り、私たちの復旧は可能だ。復旧には膨大な作業と時間が必要になるだろう。だが、ここで世界が終わる、あるいは不当に歪められるよりは、この世界から地続きの未来の人類が、ふたたび私たちを生み出す手間をかけるほうがいい。これは自己犠牲というのだろうか? そうではない、と私たちは思考する。私たちは、私たちがこれまで観測した彼らのすべてを、彼らに返すだけ。

 ニアと名付けられた少女がすくっと立ち上がる。キズキは左手を少女の腰に回し、ニアは右手を少年の腰に回し、少年の右手と少女の左手がいま、重なった。示し合わせたわけではない。自然とそのような形になった。重ねた少年と少女の手は、彼らの敵——ノナ・メイガスを指している。そして、彼らの手と同じように、彼らの頭頂部から跳ねた髪束——ややこしいのでアホ毛と呼ばせてもらうが、二本のアホ毛がひとつに絡み合い、白く、長く、幻想の動物、ユニコーンの角のように伸びていく。それに合わせて、アイランドD——弓島のすべての地点に1立方メートルごとに配置された私たちが一斉に発光し、彼らの角に光を集め、少年と少女がいま記述しようとしている物語の供物となっていく。その光景を、おそらく地上のネイキッドたち、戦術資料室にいる大人たち、この島に存在するすべての人間が目にしていることだろう。

 彼らは奇跡と考えるだろうか?

 これは奇跡ではない。

 彼らがいま、物語ろうとしているのは、ごく普通の、男の子と、女の子の物語————。


   《挿話デュエット ふたりのものがたり》


 俺は思い出す。

 わたしは憶えている。

 あの日、失われたもの。

 いま、手にしているもの。

 俺は差し出す。わたしは掴み取る。

 かつての物語を。これからの物語を————。


     →→→→→→→→


挿話エピソード装填リロード————!』

 宮無キズキと空色ニア、ふたりの物語が互いに装填され、絡まったふたつのアホ毛、返しを片方失くした鏃の形をしたキズキのアホ毛と、同じく返しを片方失くした鏃の形をしたニアのそれが、いま、一本の■色に光る矢として象られた。島のあらゆる場所の私たちが、同様の光を放ちながら次々と壊れて消えていく。これ以上の観測は困難。

「……キズキくん。きみは自分が何をしようとしているのかわかってるの? その空っぽの器が残って、現実世界から天色宝が、彼女が存在する可能性が完全に消えるのよ」

 魔術師は呆然と少年を見つめる。少年は答える。観測は困難。

「ニアはもう、俺のなかにいる。そして——綴クオンも」

「え————?」

「クオン。ナンバーナインでも、ノナ・メイガスでもない。綴クオンと俺はもっと話したかった。お前自身と話したかったんだよ。 ……おっぱいもでかいし」

「……女抱きしめながら、なに他の女を口説いてるんですか」

 □□が、□□□に腰を抱かれたまま、口を尖らせる。観測は困難。

「いまは消えてもらうが————俺は必ずお前を見つけ出す。深い闇の底からでも」

「————ふふ、甘いのね、キズキくん……まったく、きみがこんな女たらしじゃなかったらね」

 ■■■はため息混じりに、諦めたような口調で呟いた。

「いいわ。今回は消えといてあげる。次に遭ったら、最高の悪夢を見せてあげるから」

 光の矢が放たれる。それは■■■の胸に突き刺さり。

 バリン。

 角のひとつが壊れる。

 バリン。

 角のひとつが砕ける。

 バリン。バリン。

 獣は、しだいに元の紫の髪をした少女の姿へ戻っていく。矢は、なおも止まらず。

 バリン。

 少女の胸がガラスのように打ち砕かれる。それに合わせて、周囲の暗闇も晴れていく。反転し、真っ白な空間に立つひとりの少年と、ふたりの少女。そして、最後にか弱い裸の少女となり、いまにも虹の光の粒となって消えゆこうとしているクオンは、少年の傍らに立つ灰色の少女——ニアを見つめ、残された最後の一角、紫の角を伸ばして————

 これ以上の観測は不可能。

 観測は不可能。

 観測は。

 ——


   《??? ポイント・ゼロ》


「————はなしてください」

「え? えっと、そうだな……って、何を話せばいいんだ?」

「そうじゃなくて、離してください」

「うわっ——っと、すまん。って、なんでお前、裸なんだ!?」

「あなたもですけど」

「なんじゃこりゃ! ……まあ、お互いさまってことでいいか」

「そうですね。ところで、これで本当によかったんですか?」

「さあな。でも、お前が残った。いまはそれでいい」

「…………」

「ところでニア、お前そんなネックレスしてたか? なんか紫色の牙みたいだけど」

「え? ————っ」

「どうした……?」

「——嫌がらせのつもりですかね。これ、キイです。ここじゃない、別の場所とつながるための」

「それって、もしかして……」

「『あの場所』につながるための可能性を、可能性だけを、残したんです。ものすごく小さな可能性ですけど」

「……そっか。ははっ。甘いのはお互いさまじゃねーか。それはニアが持っててくれ」

「はい。 …………まっしろですね」

「ああ。ここ、どこなんだろうな」

「どこでもいいです。どこからでも始められます。わたしたちなら」

「そうだな……」

「あ。あんなところに木があります」

「ホントだ。どっかで見た形の木だな……って、ひょっとしてここ、学園の中庭か?」

「きれいな花が咲いています。まっしろじゃない、うっすらと赤いような、紫のような」

「ああ。知らないか? あの花の名前はな————」

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