第二章 イコール


 四月九日、土曜日。

 新学期最初の一週間を終え、ようやく転入と進級にまつわるごたごたから解放されたキズキは、学園が休みで、ネイキッドとしても非番だったので、朝から島のあちこちを歩き回っていた。

 闘技ディスカッションの行われた翌日から昨日までの三日間は学園に通い、一般の学校でもやるような基礎的な勉学カリキュラム、そして午後はネイキッドとしての訓練——特にレーベル単位での強化を図る目的の訓練をこなしていたが、あの日以来、キズキはニアイコールへの挿話の装填に成功していない。あの日のように、ニアイコールから拒絶されているわけではない。問題があるとすれば、それは彼のほうにあった。そもそもが、以前の職場——首都防衛隊のことだ——で『種無し』と揶揄されるまでに落ちこぼれた語り手であり、あの少女との何回かの挿話装填は何もかもがイレギュラーだった。調整プログラムを省いてレーベルになっていること自体がまず異常なのだ。もし彼以外の普通に優秀な語り手であったとしても成功するほうがおかしいのだが、そういう問題ではないということをキズキは自覚していた。

 部隊長である三宮依織からは、たとえ休日であっても可能な限りパートナーと過ごし、装填成功率を上げる訓練をするよう言われていたが、到底そんな気分にもなれず、キズキは帰郷初日以来の自由時間を本来の目的——あの夏の少女を、あるいはその消息の手がかりを捜すことに充てていた。今日は朝から雨が降ったり止んだりの天気だったが、傘が嫌いなキズキは今日も今日とていつもの灰色のパーカを頭からかぶり、雨に濡れるのも気にせず動き回った。トラムに乗って街まで下り、市役所を始め、公的機関を虱潰しに当たってみたが、手がかりは一切なかった。三年前の災害により何らかの怪我を負っている可能性も考え、いくつかの大きな病院にも足を運んだが、当ては外れた。どこを探しても、あの少女がこの島にいたという痕跡が、見つからない。

 そして昼下がり。キズキは街の大通りの中洲にある噴水広場のベンチに座り込んでいた。ようやく雨が上がった空にはちょうど天辺あたりに雲の切れ間から太陽が顔を出して、雨上がりのしっとりと湿った灰色の街とキズキを照らしていた。ぐうと腹が鳴り、そういえば朝から何も口にしていないことに少年は気づいた。いくら食に興味がないといっても、カロリーが不足すれば身体には力が入らなくなるし、頭も働かなくなる。端末には先日の討伐報酬が振り込まれていたし、ランチぐらいはどうにかなる。どこか適当な店で適当に済ませるか。そう考えて、キズキはベンチから立ち上がろうとした、そのとき、

 シャランン……

 どこかで聞いた、涼やかな鈴の音が聞こえた。

「あら、キズキくん。こんなところで何してるの?」

 白弓学園高等部の制服に身を包んだ黒髪の少女。綴クオンが、顔を出したばかりの太陽を遮って立っていた。

「何かしてるように見えるか?」

「ふふ、見えないわね。でも、顔が真っ白で、血糖値が足りてないようには見えるわよ」

「ああ……どうも、空腹らしい」

「らしいって……なにそれ。自分の身体のことなんだから、自分でちゃんと把握してなきゃ駄目じゃない」

「そういうおま——えーと、綴さんは何してるんだ? 休みに制服なんか着て」

「クオン」

「え?」

「クオンって呼んで」

 綴クオンはキズキにとって意外なほど、主張の強い少女のようだった。

「あー……わかった。クオン。それで、クオンは何してるんだ?」

「私はいちおう、見回りってところかしら。キズキくんと違って非番じゃないから。スーツの着用義務がないのだけはありがたいわ。あんな格好で街中を歩き回りたくないもの」

「まったくだな」

 キズキは力なく頷いた。この少女にまたぞろあんな格好で目の前に立たれたら貧血でぶっ倒れてしまうかもしれない。少年は半ば本気でそう思った。

「ねえ、本当に大丈夫? ひょっとして水も飲んでないんじゃない? 私もお昼まだだし、どこかの店に入りましょうよ。初めて逢ったときもあんなだったし、そろそろ血色のいいキズキくんを見たいわ」

 キズキはほとんど引きずられるようにして、クオンと大通りに面したファストフード店『ボムボムバーガー』に入った。もうどうにでもなれといった風情で茶色のソファに身を預けていると、最もオーソドックスなハンバーガーとポテトにドリンクのセットを注文したクオンが、トレイをふたつ持って席に戻ってきた。トレイの中身はほとんど同じに見えたが、ドリンクだけが違うようだった。キズキはコーラ、クオンはアイスティー。シロップやミルクは入れないらしい。

「さ、食べましょう。キズキくんはまずコーラを飲んで頭をシャキッとさせなさい」

 言われるがまま、キズキは紙コップに注がれたシュワシュワの黒い液体を半分ほど一気に喉に流し込んだ。それが臓腑に到達すると、クオンの言う通り、たちどころに頭が働き始めたような気がした。向かいに座るクオンは早速ハンバーガーを頬張っていた。口の周りにケチャップまでつけている。

「意外だな……なんかもっとこう、小洒落た店に連れてかれるかと思ったんだけど」

「キズキくんには私がそんなふうに見えるの?」

 ケチャップを舌で舐めとりながらクオンは言う。こんな仕草が下品になりすぎないのがこの少女のすごいところだったが、それでも思春期の少年の視線を明後日の方向へ向けさせるには充分だった。これではまたヘンな挿話を生み出してしまう。サダメじゃあるまいし……とキズキはどうにか自重する。

「ほら、キズキくんも食べなさい。美味しいわよ、いかにもジャンクって感じで。なんか、自分が内から汚されてる気がして、たまらないの」

「変態じゃねーか!」

「ふふ。じゃあ、一緒に変態になりましょ?」

 この女はヤバい。いろんな意味で。

 前を向けないので、窓の外の赤い消火栓を凝視してハンバーガーを飲み込みながら、キズキはそう思うのだった。


 大変な昼食を終え、ようやく歩く元気をとり戻したキズキは街を出て、またもやクオンに連れられるがまま、腹ごなしの山道ハイキングを強行させられていた。いつの間にか学園を通り過ぎ、初日に憑依体、そしてあの少女に出くわしたF区画よりも少し海側に下りた、E区画と呼ばれる場所まで来ていた。

「なあ、どこまで行くんだ。ほとんど島を横断しちまったじゃねーか」

「言ったでしょ。探しものを手伝ってあげるって」

「見回りはどうしたんだ」

「だって、見回ってるんだから、何も問題ないじゃないの」

「……たしかに」

 どうやってもこの美少女には勝てそうにない。そう思い始めているキズキだった。

「しかしどうしてこんなとこ来たんだ? 何もないぞ、ここ」

「何もないっていうのが重要なんじゃないの。さっきも言ったけど、それだけ探して『いたはずの人』が見つからないってことは、やっぱり虚無化が関係してると思うのよね」

 少女の勢いに飲まれて昼食中になんだかいろいろなことをべらべらと喋ってしまったことをキズキは思い出した。

 E区画は海に迫り出した丘のような地形の場所だったが、島でも一、二を争う虚無化の激しい場所——歴史的空白地帯だった。地形としての丘は残っているが、見渡す限り、大小さまざまなキューブ状の透明な結晶。それらが複雑に積み重なって奇妙なビル街のようなものを形成している。それ以外には何もない。当然ながら立入禁止区域なのだが、A級レーベル《聖戦姫》に所属するネイキッドの優等生のはずのこの少女はまったく意に介していないようだった。

(そういうところだけは、あいつに似てるのかもな……それ以外は何もかも違いすぎるが)

 キズキはそう、心の中で思うに留めた。

「キズキくん、気をつけてね。空白地帯では気を抜いてると虚無化構造物ヴォイドが勝手にヒトから物語を吸い取って、そのせいでヘンなものが生まれたりするから」

「……そんなトコに語り手を連れてきたのかよ」

「あら、物語は語り手の特権だと思ってる? ヒトなら誰にだって物語はあるのよ」

「……そういえばそうだ」

 キズキは無意識のうちに生まれていた驕りを自ら戒めた。

「ここは三年前の『弓島大徴税』の爆心地。だから何もないけど、逆に言えば、間違いなくここには何かがあったのよ。すでに再現された場所や新しく開発された市街地を闇雲に歩き回るよりは『探しもの』に近いんじゃないかしら」

「そうかもしれんが、どうしろってんだ? こういうのは俺たちみたいな実戦型のネイキッドじゃなくて、旧遺構を潜って調査する専門のネイキッド——《案内人パイロット》でも連れてきたほうがいい気がするんだが」

「案内人は語り手よりも希少な人材だし、秘匿情報に近いぶん、ライブラリ上層部とか、もっと上——たとえば政府とか国連とかに囲われてることが多いから、融通がきかないのよ。そうねえ、ためしにキズキくんが適当な虚無化物に挿話でも装填してみるってのはどう?」

「それ完全に藪をつついて蛇を出すやつじゃねーか」

「ふふ、冗談よ。でも、そうね。だったら——」

 ギイイイイイイイイイイイイイイ

 一時顔を出した太陽がふたたび雲のなかに隠れ、どんよりと曇った上空に突如、断章流入による干渉音が響き渡った。ほとんど間もなく、いつかのような紫色の巨大な矢印が姿を現し、地表へ向かって降下してくる。キズキ、それにさすがのクオンも表情を険しくする。

「まずいな……」

 ここは歴史的空白地帯。つまり、断章が憑依する材料が無限にあるということ。

 ズンンンン…………

 帰郷初日に現れたものとほとんど同レベルの巨大な矢印が空白地帯に突っ込み、

 オオオオオオオオオオ

 大地を揺るがす咆哮とともに、歪で鈍重な翼をもつ三角の怪鳥が生まれた。生まれたばかりの憑依体には目的がなく、目的のないまま、その翼が飛ぶためにあることも知らず、ただバサバサと振り動かして周囲の虚無化物を破壊している。

 キズキの決断は早かった。

「……俺たち二人だけじゃ無理だ。応援を呼んで逃げるぞ」

「そうね、でも——」

 憑依体の成長も速かった。頭から垂れ下がった鶏冠のような三つの角は活性化の兆しを見せ、毒々しい紫色に明滅している。そしてそれを引きずったまま、翼の推進力だけで透明なキューブを薙ぎ払いながら二人めがけて突進してきた。鈍重な身体のわりにすさまじい速度だった。

「くそっ!」

 キズキは咄嗟にクオンの手を掴み、来た道へ引き返そうとするが——

 ガシャアアアアアアン

 すぐ後ろに怪鳥が着地した瞬間、まだらに虚無化して脆くなっていた地面に亀裂が走り、ガラスのようにあっけなく割れてしまった。あるべき地盤も岩盤もなく、巨大な筒状の洞を落下していく二人。地表の丸く切り取られた光はあっという間に遠ざかり、少年が意識を失う瞬間、

「キイくん!」

 どこか懐かしいような響きと声が聞こえた気がした。


     →→→→→→→→


「——くん。キズキくん、大丈夫?」

「————あぇ?」

 意識が回復し、キズキが目を開ける。まず認識できたのは、ゆらゆらと揺れる紫色の靄のようなもの。ぼやけた焦点が合ってくると、少年の顔を心配そうに覗き込む端正な少女の顔が視界を覆っていた。そして、次に、頭を包み込む人肌の、柔らかい感触。ということは——

「えーと……って、うわっ」

 キズキは少女に膝枕をされていた。思わず起き上がろうとすると、少女の両手にやんわりと押さえられる。

「じっとしてて。きみ、左足が折れてるのよ」

 見ると、未だ動かない下半身、というよりも左足に、いつか見た少女の異形の槍が紫色に淡く光りながら突き刺さっていた。痛みはまったくない。

「……えっと、どういう状況?」

「安心して。治療してるだけだから。私の能力で」

 それを聞いて力を抜き、おとなしく少女に身体を預け、改めて少女をよく見ると、烏の羽のように黒く艷やかだったクオンの髪が、光を放つ紫色に変じていた。キズキの視線を感じたクオンは言う。

「……ごめんなさい。隠してるつもりじゃなかったんだけど、私、無銘体でもあるのよ」

「挿話はどうしたんだ?」

「それも、ごめんなさい。キズキくんから借りたの。それしかなかったから」

「借りたって……そんなことできるのか」

「ふふ。私ってけっこう器用なのよ。なにせ、私は識別名・無銘ネイムレステンジキNo.9ナンバーナイン……テンジキ型最終ロットであり、最高傑作だもの」

「テンジキ……天色って、まさか——」

「それに——どうやら私たちは当たりを引いたみたいよ」

 言われて、キズキはわずかに身じろぎして辺りを見回すと、ここはどうやら建物の中——巨大な何かの施設の廃墟のようだった。なぜか通電しているようで、誘導灯の緑の光だけが、暗い建物の内部を薄く照らしている。造りは病院に似ているだろうか。キズキはその光景になぜか、ひどく懐かしさを覚えた。

「ふう。治療、終わったわよ。さあ立ち上がって、探検といきましょうよ」

「あ、ああ……」

「それとも」少女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。「もうちょっとだけ私の太腿の感触を愉しんでいく?」


 少女の魅力的な提案をどうにか固辞して、キズキとクオンは薄暗い廊下を歩いていた。骨折というのが少女の虚言なのではないかと思うほど、少年の左足には一欠片の痛みもなく、歩いていても一切の違和感がない。前を歩くクオンの髪色はすでに元の艷やかな黒に戻っていた。

 少年は少女に訊きたいことが大量にあった。テンジキ型無銘体とはなんなのか。それは、あの少女とどのような関係があるのか、ないのか……。

 しかしいまは、たしかにこの謎の廃墟の探索が最優先だった。先頭を行くクオンが、コツ、コツ、と品の良い足音を立てながら、呟く。

「ここは、間違いなく『旧い空間』ね」

「ああ」

 旧い空間。再現都市Dの最大の目的である「再現」とは虚無化した土地に物語を注入することで擬似的に蘇らせること。土地から流出した元の物語が回収できればそれを用い、完全に失われていれば別の物語によって代替する。しかしいずれの場合も完全な再現とは言えず、表面に新たなテクスチャを貼りつけてハリボテを作っているに過ぎない。その下に、奇跡的に虚無化を逃れた本来の空間が残されていることもある。先ほどキズキが話題に出した空白地帯の奥に潜る専門職案内人であれば発見することも可能かもしれないが、多くの場合、それは見過ごされがちだ。暗渠ともいえる旧い空間は、新たなテクスチャで覆われた瞬間から、観測者の喪失により、時の流れが停まる。つまり、地表が空白化する以前の情報が残されているということだ。事故、あるいは偶然の産物とはいえ、彼らはたしかに当たりを引いたのだ。

「そういえば、上で暴れてた憑依体はどうしたんだ?」

 キズキは気になっていたことのひとつをクオンに質問した。

「落ちる直前に《聖戦姫うち》のメンバーの端末に応援信号を送っておいたわ。まあ、あのヒトたちならどうにかしてくれるでしょ。もともと私はおまけみたいなものだし」

 特段の興味もなさそうな口調でクオンは言う。

「おまけっていうのがよくわからんが……それでも、いちおうはあのレーベルの一員なんじゃないのか」

「どうかしら。あんまり私にはそんな意識はないわね。あの語り手の挿話だって一度も装填させたことないし。だって美味しくなさそうなんだもの。あの子の気持ちも解るわ」

 あの子——ニアイコールのことだ。どうやらあの事故のエピソードは相当に有名らしい。

「……俺は挿話を美味しいとか不味いとかで表現する語り手に会うのは二人目なんだが……この島では普通のことなのか?」

「あら、あの子もそう言ったの? 案外気が合いそうね。なんでかしら」

 クオンの答えは答えになっていなかったが、特に深掘りする話題でもないと思い、キズキはそれ以上何も言わなかった。

 しばらく闇の中を歩いていると、ひとつの部屋の前まで来た。おそらくは病院かそれに類する施設なので、廊下に面した部屋は他にも左右にいくらでもあったが、なぜその部屋だけが目に留まったのかといえば、そのドアの上に赤く光る表札がかかっていたからだ。表札にはこう書かれていた。

 放送室

「ねえ、キズキくん。私は詳しくないけど、病院とかに放送室ってあるものなの?」

「……ああ、ある」

 なぜ知っているのか、自分でも訝しみながら、キズキは答えた。

「看護師が患者や医師を呼び出したり、小児病棟なんかでは子どもたち自ら勝手に当番を決めて食事の時間を知らせたりとかな。どこの病院にもあるってわけじゃないのかもしれないけど」

 言いながら、キズキは己の心臓が早鐘を打つのを感じていた。この部屋には何かある。知りたいこと、知りたくないこと。どちらかはわからない。あるいはどちらでもないかもしれない。だが、何かがある。この部屋に入りたいようで、入りたくない。なぜそんな躊躇いが生まれるのかも、いまのキズキにはわからなかった。だからというわけでもないが、少年は少女の言葉を待っていた。

「とりあえず、ここに入ってみない?」

 少女は、少年の心を読んだかのような、的確な提案をした。


 ひんやりとしたステンレスの取手を掴み、重厚な扉を開けると、急に光が広がって、暗闇に慣れたキズキは思わず目を細めた。何度か瞬きをして光に目を慣らし、見ると、そこは小さな部屋だった。壁の一面がガラス張りになっていて、そこから陽光が差し込んでいる。この建物のなかで、この部屋だけが人工ではない光に満ちていた。陽光を受けて、宙に漂う無数の埃がきらきらと光っている。そして——潮の匂いと、波の音。窓のすぐ外が海岸なのだ。内海特有の、穏やかな波のリズム。キズキは目眩がするような気がした。まるで、あの夏から時間が停まっている。初日に見た背の低い灯台と小さな堤防もすぐ近くに見える。あの日見たのは現在に再現されたものだ。だが、いま、二人が見ているのは——

「キズキくん、外の風景って、ひょっとして」

 クオンも気づいたようだ。この小さな部屋『放送室』までは、時の停まった旧い空間だ。だが、窓を隔てた、目の前に広がる海辺は——おそらく、過去そのもの。停止した時空であるこの病院のような建物を中間地点として、現在の時空間と、何年分かずれた過去の時空間が同時に存在しているらしい。

「だとすると、外に出るのは危険ね。時間の流れに矛盾が発生して、何が起きるかわからないわ。調べるのはこの部屋までにしましょう」

「ああ」

 声が震えそうになるのをどうにか堪えて、キズキは短く返答した。

 改めて、部屋の中を見回してみる。部屋はガラスの嵌め込まれた薄い壁によって二つに仕切られていて、壁の向こうの細長く狭い区画には備え付けの木のテーブル、そしてその上には古めかしいマイクスタンドが置いてある。表札の通りの放送室のようだったが、スタンドがあるだけで、そこに差してあるべき肝心のマイクは存在しなかった。そして、こちら側——キズキたちのいる区画には、中央に小さなテーブル、壁の二方は本棚に専有されていて、本棚にはぎっしりと古いファイルが詰め込まれていた。なんとなしにファイルの背表紙を眺めるが、「■■検体観察日報」「■■に関する報告3」等、ところどころが黒く塗り潰されていて、何のことやら判然としなかったが、「外因性自己喪失障害患者の特性とその■■」というファイルを目にして、やはりここは病院——何らかの特殊な機能を備えた病院であることはキズキにも解った。「外因性自己喪失障害」とはつまり、ヒトの虚無化のことだ。クオンは本棚から一冊の、ファイルとも呼べない粗末な紙束を抜き取って、得心がいったような表情を見せ、キズキにもその表紙を示した。

「少なくとも、ここがどこかは判ったわ。《イマーゴ》……弓島大空洞を調査するために乱立した特殊災害研究所群のなかでも最大規模で、最も政府の意向に近く、そして悪名も高かった、通称『旧研』——《ライブラリ》の前身組織の関連病院ね」

 クオンはそのまま、本棚のファイルを調べることにしたようだ。しかしキズキには、もっと気になるものが部屋に存在した。埃の積もったフローリングの床の上に設置された小さなテーブル。その上には、一枚の画用紙があった。画用紙には明らかに子どもの筆致で落描きが描いてある。いや、落描きではない。少なくとも彼らにとっては。その一枚の絵は、どうやらこの島、いや以前の弓島の全体像——もっと言えば、それは地図だった。画材は色鉛筆のようだ。お世辞にも端正とはいえない線で半月型の島が描かれ、そこに山や街、そして画面からはみ出さんばかりに、それぞれの場所の説明が色とりどりの鉛筆により書き込まれている。東側の海岸沿いには大きな赤い円で示した地点があり、矢印を引いて「ここ」と端的な説明書きがあった。「ここ」とは、ここのことだ。この病院——病院であり、イマーゴの研究施設でもあったこの建物の、この部屋のことだ。彼らは間違いなく「ここ」でこれを描いたのだ。

 そして、もうひとつ。ほぼ島の中央部分、現在の白弓学園がある辺りだろうか。そこは青い円で囲われ、やはり矢印が島の外に引っ張ってあり、その説明は、

 ■■■■

 黒く塗り潰されていた。間違いなく、後から誰か、彼ら以外の誰かが手を加えたものだ。他にも、いくつかの地点に同じような黒塗りが施されている。そして、「地図」の右下の端っこには、ご丁寧に制作者のサインがしてあった。


 作 ■■ ■

   宮無 キズキ←キイくん


「————」

 一段目の名前は、おそらく先ほどの修正と同一人物によって黒く塗り潰されている。二段目の名前はそうではない。一段目に記された名前の持ち主によるいたずら。その人物に、キズキは「キイくん」と呼ばれていたことが判る。そして、キズキにはもちろん、塗り潰された下になんという名前が書いてあったのか、判っている。


 天色てんじき たから


 彼が捜している少女。六年前のひと夏をともに過ごした、マルメロの実のように淡く輝く癖っ毛をもつ、少女の名前だ。顔はよく思い出せない。だが、その名前だけは、少年の魂に刻まれていた。そして、雪崩のように、少女と過ごした夏の日々のことが彼の頭に蘇ってくる。「ここ」で、この「地図」を彼女とともに描いたことも。

 この部屋に入ったときから感じていた目眩はもう治まっていた。その代わりに、地図を広げた手の震えが止まらない。この画用紙には、現在いまの少女につながる情報はひとつもない。その意味では、これには何の価値もない。しかしキズキは昔失くした宝物を発見したような気持ちでいた。それと同時に、その宝物にあとから醜い修正を施した「誰か」に、強い怒りを覚えていた。喜びと、怒りと、あと何かよくわからない感情が混ざり合い、いつまでも彼の手の震えは止まらなかった。

 キズキの後ろでは、クオンが本棚の前に立ったまま、一冊の何かのファイルを熱心に読み込んでいた。キズキがちらりとその背表紙を見ると、「■■■■型■■■の運用経過報告」というようなタイトルのようだった。そして、「そう……そういうこと」と少女が呟くのが聞こえた気がした。

「何か見つかったのか?」少年がそう尋ねると、

「——いいえ。目ぼしいものは何も」少女は丁寧にそのファイルを元の位置に戻した。「キズキくんのほうは? 何か見つかった?」

「いや……こっちも特に、何もなかったよ」

 キズキはその地図を持っていこうかとも考えたが、結局ここに置いていくことにした。ただの勘でしかないが、旧い空間に存在するものを現在の時空に持ち出しても、おそらくはその瞬間に消滅してしまうだろうと思ったからだ。

「じゃあ、そろそろここからお暇しましょうか」

「ああ。でも、どうやって?」

「たぶんだけど、落ちたときの穴を登っていけば、普通に出られるんじゃないかしら。ただ、ひとつだけ問題があって」

「問題?」

「上で《聖戦姫》があの憑依体の相手にもたもたしてたら私たちと鉢合わせることになって——私たちの秘密のデートがあのヒトたちにバレちゃうじゃない?」


 クオンの予想通り、生身で穴を登るのは苦労したが、二人は元の地点に戻ることができた。そして、クオンの懸念していた問題は起きなかった。憑依体の痕跡もなく、その空白地帯は元のまま、誰ひとりも存在しなかった。キズキとしては疚しいことなど何もないつもりだったが、たしかにこの少女と二人でいることを誰かに——誰かは判らないが、誰かに——見られたら何かの面倒事が発生するような気もしたので、わずかにホッとする思いだった。

 外の世界、元の世界はすっかり夕暮れ時になっていた。旧い空間にいる間にも、しっかり時間は経過していたのだ。あの空間——イマーゴの病院の廃墟では特筆すべき成果はなかった。ただ、ひとつだけ、キズキには解ったことがあった。

 天色宝という少女は、何者かにとって不都合な存在だったということ。

 それが個人か組織かは判らないが、誰かにとってあの少女の存在、あるいはあの少女の為すことは不都合だったのだ。そして、その状況はおそらくこの現在においても続いている。なにせ、あれだけ血眼になってあちこちを探しても、名前ひとつ見つからなかったのだから。

 天色宝の存在は何者かによって隠匿されている。

 キズキはそう確信した。成果といえばそれぐらいだったが、いまの彼にとってはそれで充分だった。隠されているなら、暴けばいい。必ず見つけ出してやる。

「キズキくん、何かいいことでもあったの? キズキくんの元気そうな顔、やっと見れたわ」

「まあな。この島に来て、ようやく自分が何をするべきか、はっきりした気がする」

「そう。私もよ」

「そうなのか?」

「うん。それよりキズキくん、見て」

 クオンに促されて、キズキは丘を眺める。大小さまざまな折り重なったキューブ状の虚無化物が、夕陽を受けて赤い光を乱反射させていた。空虚な光景だった。しかし、

「空っぽで、きれいね。この街そのものみたい」

 少年は、少女の感想に反対しなかった。


 学園の校門でクオンと別れ、そういえばクオンはどこに住んでいるんだろう、と思いながらキズキは山道を半周し、半日ぶりに寮へ戻った。玄関を潜ると、何やらロビーがざわついているのに気づいた。ざわつきの発生源は寮に入ってすぐ、風呂場の手前にある男女共用の休憩所だった。どうやらひとりの女子生徒がソファに座り込んで、いまにも泣きそうな顔をしているのをとり囲んだ複数の男女生徒が慰めている、といった状況だろうか。無視してもよかったのだが、なんとなく気になり、キズキはその輪に入ってみることにした。

「なあ、何があったんだ?」

「あ? ……ああ、なんだ新人か。お前に話すことでもないんだが……」

 手近なところにいた男子に声をかけると、不愉快を隠そうともせず、しかし親切にも状況をキズキに説明してくれた。男子生徒の言うところによると、その女子生徒は無銘体ではないものの語り手とレーベルを組んでいるネイキッドであり、その語り手が突然『種無し』になってしまったということらしい。

「一時的にそうなることはめずらしくないし、そのうち治るんじゃないか?」

 彼自身もそうであったとは言わず、一般論としてそう口にするキズキ。

「いや、イオリンによると……再起不能らしい」

「ううっ……」

 男子生徒の声が耳に入ってしまったのか、当の女子生徒は頭を抱えて蹲ってしまった。キズキがここにいてもどうしようもないので、何事もなかったようにその場を離れるべきか思案していると、そこへ、

「今日も一番風呂をいただいたぜ~。やっぱり風呂はいいねえ。リリンの生み出した文化の……って、お?」

 タオルをかぶった長い黒髪から水を滴らせ、風呂上がりらしいサダメの気の抜けるような声がした。明らかに場にそぐわないその声に、女子生徒は顔も上げない。キズキ同様、他の生徒から事情を聞いたサダメは、何を言うかと思えば、

「心配しなさんなってお嬢さん。なんならオレと組むかい? ちょうど相方を探しててな。いざとなりゃオレがとびっきりの挿話を装填してやるぜ。へっへっへ」

 その言葉を聞いてようやく顔を上げ、サダメの造りだけはいい顔をしばらく見つめたあと、すぐにまた顔を伏せ、とうとう泣き出してしまった。それはそうだろう。

「そのへんにしとけって……悪かったな。ほら、部屋戻るぞ」

 なぜ自分が謝らなければならないのか不可解に思いながら、キズキは場の空気を読んでサダメとともに退散する。去り際、

「ちゃんと考えといてくれよな~~~」

 悪びれもせずにサダメが女子生徒に追い打ちをかけた。

「まったくお前は……冗談にしても時と場所を考えろっての」

「冗談なもんか。オレはいつだって本気だぜ」

「なお悪いんだよ」

「それで? お前さん、今日は留守にしてたみたいだけど、どこで何してたんだ?」

 階段を上り、互いの部屋の前まで着いたとき、そう話を向けられ、キズキはしかたなく、クオンの存在、そしてあの「地図」のことは上手くぼやかしつつ、かいつまんで今日あった出来事をサダメに話して聞かせた。

「ほぉん、旧い空間ねえ。ずいぶん危ねーことしやがるな。表に出てない情報を探すんだろ? オレなら、もうちょっと違うアプローチをするね。たとえば————閉架領域」

「閉架領域?」

「ライブラリに世界最大の物語編纂器《アーカイヴ》があるのはさすがに知ってるな? ありゃそもそも弓島大空洞、よーするに世界の穴を塞ぐためにあるんだが、オレたちネイキッドの武装として汎用挿話生成器としても転用されてる。だが、オレたちみたいなのが使用・閲覧できるのは開架領域——つまりデカい球体の上半分だけだ。下半分の閉架領域には未だ汎用挿話になっていない、つまり表に出せない物語やら情報やらがわんさと泳いでるってワケよ。だからそこにアクセスできりゃ、お前さんの知りたいこともわかるかもしれねえ。ただ……」

「ただ?」

「……ただ、難しい」この男にしては真面目な顔で、サダメは言う。「閉架領域のことは、存在だけは知られてても、実際目にしたことのあるヤツはライブラリの大人たちでもほとんどいねえ。知っちゃいけねえ、知らないほうがいい情報の宝庫だからな。閲覧許可なんてまず下りねえ。どうしても入りたいってんなら……裏口を使うしかねーな」

「裏口、ってのを使えば入れるのか?」

「ところがそうは問屋が卸さんねえ。裏口には『門番』がいる。お約束だろ? ま、噂だけどな。言ってはみたが、これもやっぱりオススメできねーな。命あっての物種だぜ。オレぁまだ死にたくねえ。まあでも、せっかく危ねー話をしたんだ。頭の片隅にでも入れといてくれや」


 部屋に戻ったキズキはベッドに身を投げ出し、今日起きた出来事をぼんやりと思い出しながら、ごちゃごちゃした頭を整理しようとしていた。

 綴クオン。空白地帯。憑依体。旧い空間。テンジキ型。放送室。イマーゴ。宝。地図。種無し。閉架領域。そして————綴クオン。

 キズキは、あの少女がどうにも気になってしかたなかった。「テンジキ型無銘体」を名乗ったこともそうだが、話す言葉のニュアンス、仕草の端々に、どことなく探し求めている少女の面影を感じる。想像の中の少女が成長したら、あんなふうになるのではないか……。ぼんやりと憶えている少女の髪の色とクオンのそれは似ても似つかないが、無銘体——読み手であるということは、元虚無化患者であるということだ。無銘体であれば褪色するのが常だが、彼女はこうも言った。「最終ロットであり、最高傑作である」と。それならば、クオンが他の——ニアイコールも含めた他の無銘体にはない、確固たる自我をもっているのも説明がつくのではないか。最終ロット——それはつまり、天色宝を元にして何体もの無銘体が生み出されたということであり、どうしてそんなことになっているのか、六年も島を離れていたキズキには知りようもないが、最終ロットであるということは、綴クオンをもって「テンジキ型」は完成をみたということだ。最終ロットであり、完成形であるということは————本人なのではないか。

 綴クオンは、時を経て変じた、あるいは成長した天色宝、その人なのではないか。

 その疑念が、キズキの中でにわかに膨れ上がっていた。


(学園地下 ??区画)


「やれやれ。先日転入してきた語り手——宮無キズキくん、とかいったかね? 予定外のノイズが混じって一時はどうなることかと思ったが……」

「…………」

「孫も手を焼かせてくれる。しかし、キミが手に入ったのは僥倖だったよ。《旧研究所イマーゴ》の元構成員も必要な数が集まった。少々物足りないが、このご時世だ。贅沢は言っていられまい。多少、予定は狂ったが、これで計画を進められる。この椅子もそろそろ窮屈になってきてね」

「…………」

「声を出してもいいのだよ? この区画はライブラリの事象観測機《イベント・ナノリーダ》も排除してある。われわれの言動がライブラリに感知されることはない。ライブラリは生まれたばかりの赤子のような組織だ。裏をかくのは実に容易い。解体されてしまったとはいえ、そうしたことに関してはいまだわれわれに一日の長があるというわけだ」

「…………」

「さて、そろそろ頃合いだ。計画の第二段階を実行に移そうじゃないか。キミの願いと私の望みは重なり合っている。協力してくれるね? 私がこの島の——いや、世界の主となるために」

「…………はい」


     →→→→→→→→


 翌日。日曜日の朝。キズキは一本の電話によって叩き起こされた。メッセージ(それもほとんどがネイキッドや学園関連の事務的なメッセージ)は何度か受信したが、電話などはこの島に来て以来一度もこの端末にかかってきたことがなかったので、キズキはびっくりして一瞬で目が醒めた。

「あーびっくりした。……って、なんだ、叔母さんか」

 キズキは気をとり直し、電話に応答する。すぐに、電話をかけてきた人物——キズキの叔母にあたる女性の快活な声が聞こえてきた。

「うん、久しぶり。いや、たいして久しぶりでもないだろ……ああ、まあなんとか、こっちでも上手くやってるよ」

 上手くやっているのかどうか、キズキにもよく判らなかったが、相手を心配させまいと当たり障りのない返答をする。世界でこの人物にだけは、少年は心配をかけたくなかった。

 キズキには両親がいない。もちろん木の根から生まれたわけではないので、以前はいた。しかし、三年前の弓島大徴税という甚大な物語災害により、この島の研究員だった彼の両親は死んだ。死亡者リストにしっかり名前が記載されており、あの少女ほどの希望もなく、また虚無化でもなく、物理的に命を落としたのだ。しかし、彼の幼少期から両親は研究に忙しく、また、なぜかあの夏——六年前の夏以前の記憶がほとんど残っていないため、実の両親が死んだことに対して、彼は特別な感慨をもたなかった。六年前に首都に引っ越して、彼の母親の姉にあたる叔母夫婦の家に預けられ、一週間前までの六年間を毎日ともに過ごしたあの夫婦が、キズキにとっては本当の親のようなものだったのだ。

「うん、うん……はいはい、わかってるよ。無理はしないって。あ、あともう食糧は送ってこなくていいから! 全世界で同時多発的にバイオハザードが起きても数ヶ月食いつなげるぐらいの食糧あるから!」

 キズキは未開封のダンボールの山に目をやりながら、さらに缶詰やら米やらを送ってこようとする叔母を慌てて止めた。実はこの古風な寮には共用の炊事場もあるのだが、なにせタダで食える食堂があるので、ほとんど誰も——キズキも含めて——利用していない。このままでは、ただでさえ狭い部屋が食糧倉庫になってしまう。

「うん。まあこっちは心配しなくていいから。叔母さんたちも元気で。じゃあ」

 そう言って、キズキは電話を切った。いまだ薄い布団に包まれている己の脚を眺め、もう一度上半身も横にして二度寝しようかと少年は考えたが、突然の電話により、彼の意識は完全に覚醒してしまっていた。壁に備え付けられた時計をちらりと見る。午前8時34分。彼が遅起きなだけで、だいたいの人類にとってはとっくに活動時間なのであった。

「しかたない。起きるか……」

 少年は結局、ごく常識的な判断を下した。


 食堂でパンと牛乳だけの朝食を済ませ、キズキは散歩に出ることにした。彼は今日も非番であり、やるべきことは何もない。ニアイコールとの訓練を推奨はされていたが、強制ではない。ここ数日、あの少女との接点はほとんどなかった。このままレーベルも解散か。それでもいいかもしれない。いや、そのほうがいい。少年は半ば本気でそう思っていた。

 寮を出ると、山道はひんやりとした空気が朝日に温められ、靄に包まれていた。季節を問わず深緑を戴く針葉樹は、水滴に湿ってさらにその色を濃くしていた。

 しばらく坂を下ると、学園の校門に着く。門は開いていた。休日であっても、熱心なネイキッドたちが自主トレーニングのために校内の施設を利用するからだ。トレーニングをするつもりなどなかったが、キズキは門を跨ぎ、学園に入った。前々から気になっていたこと、そして昨日の旧い空間での「発見」が、彼の脚を動かしていた。

 いくつかのベンチと、明らかに植樹して数年も経っていないであろう葉のない何かの木——そのほとんどの部分が虚無化していて、キズキにはそれが何の木なのか判らない——が数本あるだけの空虚な中庭を抜け、学食の建物を横目に見ながら、中等部と高等部をつなぐ渡り廊下を越える。そして、この歴史のない学園において異質な、古色蒼然とした西洋風の裏庭と——あの灰色の小さな塔が見えてくる。キズキはこの場所が、サダメに案内された転入初日から気になってしかたがなかった。そして、あの「地図」に書き込まれていた青い色鉛筆による歪んだ丸印……。その符号が何を意味するのかは解らない。だが、ハリボテだらけのこの島で、旧い空間というわけでもない、ごく真っ当に歴史を、相応の時の経過を感じる場所は、ほとんどここ以外になかった。キズキはわずかに緊張しながら、敷き詰められた古いレンガを踏んで庭を抜けて、灰色の塔の前に立った。古めかしい木の扉をギイと鳴らして開き、中へ入る。

 そこは、図書館のようだった。すでにサダメに聞かされていたので、それ自体には驚きはない。いや、この時代に図書館なる施設が残っていることは充分驚くに値することなのかもしれないが、少なくともキズキは特別な感動を得ない。驚くべきところがあるとすれば、それは建物の奇妙な造りにあった。建物は入口から右回りに螺旋状の階段となっていて、その両側すべてが背の高い本棚なのだ。それがぐるりと、この塔の天辺まで続いているようだった。本棚には隙間なくぎっしりと本が詰まっている。だが、その一冊一冊の背表紙にあるべき本のタイトルはない。

 キズキは、年季の入ってギイギイと鳴る木の階段を上る。少し上ると、普通の建物なら二階——いや中二階メザニンにあたるだろうか、わずかに開けた場所に出た。平らな床と木製の椅子とテーブルがひと揃い、見上げるような本棚に架かった梯子が一脚。そして梯子の上に、思わぬ先客がいた。その先客は、高い梯子の上に座って、脚をぶらぶらさせながら何か分厚い本を読んでいた。

「えーと……お前はそこで何してるんだ?」

「精神の充足をはかっています」

「なんだそりゃ」

 先客は、ニアイコールだった。学園内だというのに、中等部の制服でもなく、初めて出遭った際に着ていたうす青いワンピース型の患者衣を身に纏い、おまけに裸足だった。そんな格好で脚をぱたぱたとさせているものだから、見上げているキズキには裾の間から何か見てはいけないものが見えてしまいそうになっているが、少年の心音は凪のように静かだった。

「あのー、そこに立っていると、わたしのパンツが見えてしまうのではないですか?」

「そうかもしれないが、見たくて見てるわけじゃないから気にすんな」

「ぶち焦がしますよ」

「どうしても気になるってんなら、下りてきてくれないか」

「言われなくてもそうします」

 少女は本を抱えたまま、やおら梯子から立ち上がり、

「っと。——お?」

「お?」

「おちます」

 立ち上がった拍子にバランスを崩して、梯子から落下した。

「あぶっ——!」

 キズキは咄嗟に落下してきた少女を両腕で受け止める。トサッ、と静かな音を立てて、少女は少年の腕のなかに収まった。少年が予想していた衝撃はほとんどなかった。わずかに遅れて、少女が中空で手放した分厚い本が、少年のフードをかぶった頭に落ちてきた。

「いてっ」

 上手い具合に本の角にぶつかり、そちらの衝撃のほうが大きいほどだった。

 少女の身体は軽かった。まるで紙細工のおもちゃのように。たしかに小柄で華奢な体型ではあるが、本当にこの少女には中身が詰まっているんだろうか、と少年が訝しむほどに。少年は、抱きとめた少女の顔を見る。少女もまた、少年の顔を見上げている。何もかもを飲み込んでしまいそうな、灰色の渦をまく大きな瞳で。吸い込まれる。少年がそう思っていると————

「そろそろはなしてくれませんか」

「あ、ああ。悪い……」

 ニアイコールの感情のない声にハッとしたキズキは、まず少女から身体をどかして起き上がり、それから手を引いて少女を立ち上がらせた。そして、足元に落ちていた本を拾う。少女より重いのではないかと思ったその重厚な本はしかし、他の本と同じくタイトルが欠けていた。

 □□物語

 かろうじて、「物語」という部分だけは読み取れたが、肝心の、何の物語なのかが解らない。ページをめくってみると、そこには何も書かれていない。ひたすらに、真っ白なページだけが続いている。

「……お前、こんなの読んでたのか?」

「読んでません。見ていただけです」

「まさかお前が食ったんじゃないだろうな」

「あなたはわたしをなんだと思っているんですか」

 この時代、本は——特にフィクションと呼ばれる物語性をもつ書物は、多くが幾度もの流出によって失われていた。運良く失われなかった書物も、世界の穴を塞ぐために利用された。文字によって書かれたものは、小説、戯曲、詩、神話、童話に至るまで、すべてが世界各地の《アーカイヴ》に投げ込まれ、物語編纂能力を高めるために使われた。そして、世界に穴が開いて以降、新たに書かれる物語は、流出し、異なる時空にて変貌を遂げ《断章》として人類に牙を剥く物語に対抗するための武器となり、防具となった。物語を生み出す才能をもつ者は《語り手ナレート》と呼ばれ、彼らの生み出す物語は人類の敵と戦うための兵器となる。つまり、この時代において、物語の目的は娯楽でも精神の充足でもない。物語を読んで楽しむという文化を人類が忘れて久しかった。

 だから、特に空白のページを眺めるなどという行為には何の意味もない。キズキはそう思った。そこには何もないのだから。そこからは何も得られないのだから。

「なあ、その……もし腹が減ってんなら、こんなの読んでるより、その、なんだ……挿話でも食ったほうがいいんじゃないか? なんなら、俺が——」

「わたしは語り手が嫌いです」

 だしぬけに少女が言った。いつかも聞いた台詞だ。

「みんなみんな、わたしにいやなにおいの物語を装填しようとします。だから語り手が嫌いです。でも、それ以上に、わたしはわたしが嫌いです」

 一般に、挿話はポジティヴな感情により編まれたものよりも、ネガティヴな感情により編まれたもののほうが強い力を発揮する。それは短いネイキッド運用の歴史からも統計的に明らかになっていた。そのため、語り手はライブラリから、直截的には伝えられないものの、暗に匂わされる。物語に、よりネガティヴな感情を込めろ、と。ニアイコールは、そのことを言っているのだろう。

「いやなにおいのする彼らを、それでもわたしは必要以上に食べてしまうんです。尽きることのない食欲で、あのひとたちが立ち上がれなくなるまで、食べてしまうんです。もう、何人も、そうやって、わたしのせいで」

 少女の声色には、やはり感情は乏しかった。けれど間違いなく、その言葉には激情が含まれていた。それは少年が初めて見る、少女の、普通の人間らしい、否、それ以上の、強く、純粋な感情だった。

「わたしはその本と一緒なんです。誰にも読まれることのない、空っぽの本。わたしも空っぽだから、見ていると落ち着くんです」

「俺も同じだよ」

 何かに耐えきれないように、キズキは喉の奥から声を絞り出した。

「語り手だなんだって言ってるけど、ホントは俺も空っぽなんだ。前にいたところでは、いつも借り物の物語を自分のものみたいに使って、そうやってるうちに、結局、返せなくなっちまって……空っぽになっちまったんだ」

「あなたは空っぽなんかじゃないです」

 少年はわずかに目を疑った。少女が、微笑を浮かべていたのだ。文字通り、ほんの微かな、目を凝らさなければわからないほど微かに口角を上げて、目を細めて象られた表情。その声も、少年を慰めるような、慈しむような、初めて耳にする、微かな響きだった。

「あなたの物語はあったかかったです。そんなあなたが、空っぽなわけないです」

 言い終わると、少女はその顔から微笑を消した。それは、綿菓子のように、路上にうすく積もった四月の雪のように、少年の前から消えてしまった。

「それでも空っぽだっていうなら、」少女は階段を、小さな足音を響かせて下りながら、振り返らずに言った。「それ以上、空っぽにならないでください」


 少女が去ったあと、しばらく呆然と立ち尽くしていた少年は、ふと我に返り、手に持っていた題名の欠けた本を机に置いた。階段をギイギイといわせながら下り、灰色の図書館から出ると、朝、出掛けに立ち込めていた靄はすっかりと晴れていた。そして、ニアイコールという少女と関わってから澱のように少しずつキズキの胸の奥に溜まっていた何かが、きれいさっぱりと消え失せていることに、彼は気づいた。


   《挿話 ■■■の記憶、あるいは■■■》


 夢を見ていた。

 たぶん、夢だと思う。そうでなきゃ、無意識下での記憶の再現か何か。

 それは「ここ」じゃなく、「いま」じゃなかった。

 あの夏の、ある日の再現を俺は見ている。

「キイくん。きょうは地図をかきます」

 ふわふわと四方八方に跳ねた癖っ毛の、お日さまみたいな色の女の子が、同じぐらいの年の男の子に宣言した。もちろん、十かそこらの少年の反応は悪かった。

「地図? なんだそれ、つまんなそー。それより海行って磯遊びしようぜ」

「つまんなくない! 宝の地図だよ!」

「そりゃあ、宝がかくんだから、宝の地図だろうけどさ」

「そういう意味じゃないもん! ほんとにこの島には宝があるんだもん!」

「はぁ~? この島にあるのなんて、ビョーインとかケンキュージョとかばっかりじゃん。それ以外何もないじゃん」

「あるの! あるったらあるの!」

 女の子の態度は頑なだった。こういう口喧嘩は彼らには、いや、俺たちにはめずらしいことじゃなかった。いつも一緒にいたくせに、喧嘩ばっかりしていた。喧嘩ばっかりしていたくせに、いつも一緒にいた。なぜかはわからない。それがあたりまえだったんだ。

「うるさいなぁ。じゃあ、どこにあるってんだよ」

「それはね、□□□□————だよ」

「ふうん」

 俺には、いまの俺にはそれが聞きとれなかった。昔の記憶とか夢とかってのは、こういうところがもどかしい。いつも肝心なものを見落としてる。けっして手が届かない。手が届かない記憶のなかの女の子は、真剣な表情で言葉を続ける。

「でもね、それはわたしたちがまもらないと、なくなっちゃうの」

「なんで? なんでなくなっちゃうんだ?」

「大人たちが、なくしちゃうの。だからね、地図をかいて、まもらなくちゃいけないの。わたしと、キイくんが————」

 少女の声が遠ざかる。

 夢が醒める。

 けっして手の届かない、あの夏が、さらに遠ざかっていく。

 夢が醒めたら、目が醒めたら、俺の手には何も残っていないだろう。その残滓さえ。

 それでもいい。これでいい。あいつに、あの夏の俺たちに、もう一度会えたんだから。

 たとえ夢でも、幻想でも、記憶の再現でも。俺のなかに、彼女がまだ生きてるってことだから…………。


     →→→→→→→→


 夜、キズキは目を醒ました。電気を消した暗い部屋。視界がぼやけて、天井もよく見えない。ふと、少年は己の頬が温かく湿っていることに気づいた。涙だろうか。悲しい夢でも見たのかもしれない。人は、悲しい夢を見ると、目を醒ましたとき、夢の内容をまるで憶えていないのに、無性に悲しくて涙が止まらない、ということがある。しかし、キズキは悲しさを感じていなかった。それどころか、安らいでいてさえした。それほど神経の細いほうではないキズキでも、この一週間は引っ越しと新たな環境への転入にまつわるイベントの数々に翻弄され、神経が尖り気味だった。それがいまは安らいでいる。何かが彼を癒やしたのだ。キズキはこの安らいだ気持ちのまま、ふたたび眠りに就こうとした。わずかに肌寒さを感じたので、布団をかぶり直そうとしたところで、異変に気がついた。

 部屋の中に風が吹き込んでいる。春の夜の、冷気を含んだ風が。

 閉め切っていたはずの窓が開いている。そして————

「うわっ!」

 キズキはそれを紙一重で躱した。その勢いでベッドから床に転げ落ち、それを見上げる。

 それは、数瞬前までキズキが寝ていたベッドに立っていた。全身から赤い光をぼうと放つ、人型の一角獣。頭頂部から生えた、その華奢な身体に比して巨大な角が、深海に棲む魚のように消灯した部屋を赤く照らしている。少年は、ただでさえ寝起きの頭で混乱したまま、咄嗟にベッド下に備えてあった無銘刃に手を伸ばし、記述した憶えのない、いつの間にか仮想言語野にストックされていた挿話なのかなんなのかもよく判らない物語をほとんど無意識のまま装填した。そして、赤い残像となって迫る獣の追撃を刃で弾く。

 すると、その瞬間、その赤い獣は何かに動揺したように後退った。攻撃を無効化しただけの、まるで手応えのない一撃だったが、キズキの青白く光る無銘刃に触れたその獣は、明らかに怯んでいた。キズキは獣と間を測りながら、ちらと備え付けの時計を見た。午前2時ちょうど。憑依体は人間の活動——精神活動と連動して出現することが多い。こんな、ほとんどの人間が寝静まった深夜に出現することがまず稀であり、さらに人型ともなると、イレギュラー中のイレギュラーだ。

 キズキは、理由は判らないが憑依体が怯んでいるいまのうちに追撃を仕掛け、とどめを刺してしまおうかと思ったが、なぜか彼の身体がそれを拒否し、間合いをとったまま動けないでいる。睨み合いはしばらく続いたが、

「ア……ア……アア……」

 赤い獣は声にならない声を発したかと思うと、開いた窓に飛び退り、さらに間もなく窓から身を躍らせ、そのまま夜の森の中へと消えてしまった。そして今更ながら、少女のような姿をしたあの憑依体が裸のようだったことに気づいた。まあ、憑依体が服を着ているほうが変なのではあるが。

「なんだったんだ、いったい……」

 キズキはそう独り言ち、緊張を解き、というよりも気が抜けたように、構えていた無銘刃をだらりと下ろした。そして、寝起きの混乱とショックから醒め、頭が働き始めてようやく、あることに思い当たる。

 頭頂部の矢印型の一角。華奢な体躯。そして、全身を包んでいた紅炎のような赤い光……。

「……ニア?」


 春の夜の突然の襲撃者は、あの少女————ニアイコールではないのか?


 週明けの月曜日。キズキが学園に登校すると、高等部二年の教室が並ぶ廊下が、なにやら騒がしかった。またサダメが何かやらかしたのかとキズキは思ったが、どうやらそうでもないらしい。なによりサダメの姿はなかった。まだ名前も憶えていないクラスメイト、そしてクラスの違うネイキッドまで集まって、みな一様に深刻そうな顔をしている。なんだか一昨日あたりにも似たような光景を見た気がするな、と思いながら聞き耳を立てると、キズキの勘は当たっていた。先日の女子生徒と同じく、突然種無しになった語り手がここ数日で続出しているというのだ。集まった生徒たち全員がそれぞれのパートナーというわけではないらしく、要するにその噂話をしている。語り手はそれなりに希少な存在であり——いちおうはキズキもそのひとりだ——、語り手を含まない、汎用挿話のみで戦う一般ネイキッドだけで構成されたレーベルもある。というか、そちらのほうが多いぐらいだ。だから、全員が当事者というわけでもないのだが、語り手の相次ぐ戦線離脱はこのアイランドDにおけるネイキッド部隊全体としての戦力の低下を意味する。他人事で済ませていいものでもない。

 そして、この場の主な議題は「誰がそれをしているか」ということのようだ。一人二人なら偶発的な語り手個人の不調と思うこともできようが、三人四人ともなると、もはや偶然の一致ではない。誰かが意図的に、彼らから物語を奪っている——少なくとも、この場の生徒たちはそう考えているようだった。そして、その「犯人」の第一候補として名前が挙がっているのが、ニアイコール。キズキの暫定的パートナーである少女だった。

「あの子に決まってるでしょ。なにせ《物語喰いソードイーター》なんだから」

「燃費最悪なあいつが、パートナーを得たとはいえ、戦闘時以外も普通に動き回れるものか? そうは思えんな」

「そうよ。今日も学園に来てないっていうし、どう考えても怪しいわよ」

 俺も今日はサボればよかった、とキズキは思った。そういえば、昨日もあれ以来、寮でもニアイコールの姿は見かけなかった。もし、先日の深夜の襲撃者が彼女なのだとすれば……。

「ちょっと転入生、あんたパートナーなんでしょ? なんとか言いなさいよ」

 名前も知らない(向こうも知らないようだが)女子生徒にほとんど敵意に近い感情を向けられるキズキ。そう言われても、ここ数日ほとんど少女と接点のなかったキズキには答えようがない。彼自身の体験を踏まえても、状況証拠はほとんど揃いつつある。ただ、あの少女が確証なく状況証拠だけでほとんど犯人に決定されつつあることは、なぜだかキズキには耐えられないことだった。

「だいたい、名だたるエース級の語り手でも扱えなかったあの子が、あんたと組んだだけでいきなりあんな強くなるのもおかしいのよ。なんかインチキしてるんじゃないの?」

 女子生徒は先日の闘技ディスカッションでのことを言っているのだろう。たしかに、あれにはキズキも驚かされたが、

「それについては何の不思議もないのさ」

 野次馬の群れの後ろから、通りのいい声が響いた。まるで王の凱旋の如く人垣が割れ、現れたのは三倉蔵人。転入初日からキズキを敵視し、ニアイコールに執着を見せていた男だった。その男がキズキに助け舟を出すのかと思ったが、どうやらそうでもなかった。

「彼女——ゼロの姫君は本来、あれだけの力を秘めている。キミたちがなんと思おうが、彼女は条件さえ整えば現時点で最強の読み手だ。その条件——つまり彼女を扱える語り手がいないというのが唯一の問題だったわけだ。認めたくはないが、ボクも含めてね。だが、その問題は解決された。元・首都防衛隊のS級語り手ナレートによってね……!」

「S級!?」

「この転入生が……?」

「…………」

 キズキはいかなる反応も示さない。パーカのフードが彼の顔に陰を落とし、その表情も判然としない。

「春休み、首都防衛隊との強化合宿を行っただろう? そこで噂になっていたんだ。中等部ながら、すさまじい戦績を誇ったS級の語り手。世界十三筆の一人《即興詩人》と呼ばれた語り手が、かつて存在したと。それがキミ、宮無キズキさ。最初は気づかなかったさ。なにせ——」

「…………」

「——キミは三年前、その能力を失った。当時のパートナーである読み手を再起不能オーバーヒートにさせてね! お祖父様が調べてくれたよ。ボクが知っているのはここまでだ。読み手を再起不能にさせる語り手と、語り手を再起不能にさせる読み手——ハッ、相性がいいわけだよ。しかし聞くところによると、それもここ最近は上手くいっていないそうじゃないか。それでボクはこう思ったんだ。キミが彼女を使って何かさせているんじゃないかとね。たとえば————他人の物語を奪うとか」

「そうよ! なにしろ、私の語り手パートナーを襲ったのは女の姿をした憑依体だったって言ってたわ!」

 突然、ある女子生徒が叫んだ。無銘体ではなさそうなので、おそらくは語り手に挿話の供給を受け、無銘刃で戦うネイキッド。キズキとニアイコールの弁護をする者は、少なくともこの場にはひとりもいない。どう考えても劣勢だったが、キズキは弁解を試みる。いや、気になっていたことを女子生徒に質問する。

「……いちおう訊くんだが、襲撃時刻はわかるか?」

「……土曜の夜、午前2時頃だったって言ってたわ」

「あんたのパートナーはどこに住んでる?」

「市街地の外れのセーフハウスよ。それがなんだっていうの!?」

 それはおかしい。もし、そうであるならば————

「それならアイツにはアリバイがある。その時刻、ニアイコールは寮の俺の部屋にいたんだ」

 ニアイコールの無実を証明するためとはいえ、この発言はよくなかった。

「ほう?」いつの間にか、すぐ後ろに部隊長——いや担任の三宮依織が立っていた。「何を騒いでいるのかと思えば、宮無、お前は転入早々、寮の部屋に女を連れ込んだのか?」

「あー、いや、それは……」

 慌てるキズキだったが、時はすでに遅かった。

「お前自身がそう白状したんだ。一発停学。宮無キズキ、お前は寮にて一週間外出禁止の謹慎処分とする」

「待ってくれ!」キズキはとり縋るようにして叫んだ。「俺はアイツを……ニアイコールを捜さなくちゃいけない。アイツがなんかヘンな事態に巻き込まれてるのは間違いないんだ。アイツは犯人じゃない……と思うけど、もし語り手を襲ってるのがアイツなら、それを止めなくちゃいけない。俺にはその義務がある! 見つけ出したあとなら罰でもなんでも受ける。だから——」

「ほっほっほ。その義務とやらは、『罰を受ける』という義務を果たしてからにしたまえ。宮無キズキくん。キミには懲罰教室へ入ってもらう」

「学園長……?」突然、話に割って入った老人に、依織までも怪訝な表情を浮かべる。「彼の処遇は寮での自宅謹慎で充分です。懲罰教室など……」

「この清廉、厳格を旨とする白弓学園において男女同衾など重罪も重罪。自宅謹慎などとは生ぬるいですよ、三宮先生。なにせ寮などに置いておいたら、またぞろ女でも連れ込んでしまうかもしれないではないですか。これ以上、学園の風紀を乱れさせるわけにはいきません」

「いや、しかしそれは……」

「なに、懲罰教室などといっても寮の部屋とそう変わりはありませんよ。彼にはそこでしばらく反省してもらう。さあ、連れて行きなさい」

『はっ』

 見たこともない黒服の男たちが生徒の群れを乱雑に掻き分けて少年を捕らえ、どこかへと引きずっていく。

「待っ————」

 男たちは上手く少年の手足を抑え込み、抵抗する隙も与えなかった。それを生徒たち、依織、蔵人までもが呆然と見送る。遠くなっていく少年の背中へ、老人は穏やかな口調で語りかける。

「ああ、例の無銘体はわれわれがしっかりと見つけ、保護しておく。だからきみは安心して反省していたまえ。……さあ、三宮先生、キミたちも、もう授業の時間だろう。教室へ戻りなさい。学生の本分は勉学だからね。ほっほっほ」

 裁定を下した学園長は、己の職責を果たしたとばかり、悠然とどこかへ歩き去っていく。あとに残されたのは、数々の、もの言いたげな、沈黙。キズキとニアイコールを槍玉に挙げていた女子生徒も、男子生徒も、三倉蔵人さえ、そして己が多少強権的であると自覚している三宮依織までも、目の前で起きた一連の出来事を飲み込めず、どのような感想を、感情をもてばいいのか判らない、それが結果として現れた沈黙、それだけが、長く空虚な廊下に残されていた。


 夜。夜だろうか。天井近くの隅に申し訳程度の通風孔が開いているだけなので、昼か夜かも判然としない。キズキが押し込まれたのは、懲罰「教室」とは名ばかりの、牢獄だった。鉄格子はなく、アクリルのような透明な板に閉じ込められている。当然の如く無銘刃は没収されていたが、

(舐めてんのか?)

 キズキはおとなしく捕まっている気などさらさらなかった。パーカの上に羽織っていたブレザーの右袖をびりびりと手で破いていき、それを右の拳に巻きつける。つい先日袖を通したばかりの真新しい白弓学園指定の制服だったが、いまはそんなことはどうでもよかった。Nスーツほどではないが、彼らが普段着ている学園制服にも、物語の力を帯びやすい材質が使われている。つまり、語り手にとっては、それに挿話を装填さえすれば、立派な武器となるのだ。単なるアクリル板ぐらいなら、粉微塵にできるだろう。

 キズキは、なぜか彼にしては苦労して今日の忌々しい出来事を挿話として記述し、拳に巻きつけた濃紅の布に装填。目の前の透明な板を殴りつける。しかし————

「ぅがっっ」

 拳が触れた瞬間、透明な板はプラズマのような光を発し、それを拒絶した。込めた力と同等の力が彼の肉体に反射し、その勢いで後ろの壁まで吹っ飛ばされてしまった。

「っ……くそっ。不聞石きかざるのいしか……」

 不聞石。別名はアンチ・テキスト・マテリアル。その名の通り、あらゆる物語エネルギーを拒絶する、虚無化物ヴォイドとは正逆の性質をもつ希少物質レアメタルだ。挿話こちらにとっても断章あちらにとっても刃となる諸刃の剣である虚無化物とは異なり、挿話も断章も受け付けないこの物質は、ネイキッドの側にしてみれば断章に対する盾として利用できる。各地のライブラリ基地の外壁などにも素材として組み込まれているはずであったが——

「はっ……こんなトコにでも活用されてるとはな」

 改めて、学園、学生などとは名ばかりで、大人たちは彼らネイキッドの少年少女を兵器としか考えていない、ということを、キズキは皮肉にも学園の内部で知らされることになった。

(とはいえ……これじゃ打つ手がないな)

 キズキは独房の中を見回してみる。マットレスのみの細いベッド、簡易トイレ、文具も本の一冊さえないのに何のためにあるのか解らない備え付けの小さなデスク、そして、これで天気予報でも聞けというのだろうか、小さな古めかしいラジオ受信機が置いてあるだけだった。それでもキズキは諦めきれず、いまだ淡く光る拳であちこちを殴って回ってみる。しかし、やはりというべきか、ただのコンクリートにしか見えない床、壁にまで不聞石が使われているらしく、罅のひとつさえ入らない。むしろ、いたずらに己の拳を痛めつけるだけだ。

「くそっ!!」

 挿話の尽きた拳で、破壊するためではなくただ鬱憤を晴らすために、冷たい床を殴りつけるキズキ。と、そこへ、

「ほっほっほ。懲罰教室の居心地はどうだろうか、宮無キズキくん」

 牢屋の前に学園長がやってきた。

「……寮の自室もこことたいして広さは変わらないんでね。快適なもんですよ、実際」

「ほっほっほ。そうだろうとも。われわれ教育者が、たとえ罪を犯したとはいえ、教え子を無下に扱う謂れはあるまい。これは愛ある鞭だと思ってほしい」

 どうやら皮肉も効かないほど面の皮が厚いらしい。キズキは攻め方を変えた。

「あんた、いったい何者だ?」

「……ほう? それはどういう意味だね? 私がこの学園の長である以外に何であると?」

「いくらニセモノだとはいえ、ここは『学校』だ。イオリン……三宮先生はあんなんでも『教師』だ。少なくとも、あんたの言う教育者なことには間違いない。だが、あんたは違う」

「…………」

「あんたからは臭いがするんだ。臭えんだよ。俺がこのまえ偶然落ちて見つけた《イマーゴ》——旧特殊災害研究所とやらの跡地に残されてたカビくせえ臭いとそっくりの臭いだ。あんたはライブラリの人間じゃない。むしろ、イマーゴに近い。解体されたいまもなお、本当のあんたは薄暗い、カビくせえ場所に生きてる。そうだろ?」

「……ほ」

 キズキの言葉の刃は、老人の腐った腹の奥に届いたらしい。

「ほっほっほっほっほっほ! 首都いなかでちやほやと甘やかされて育ってきたお坊ちゃんかと思えば、なるほどなるほど! どうやらそれなりの修羅場を潜ってきた一端の戦士のようだねえ、宮無キズキくん。申し訳ない、多少キミを見くびっていたようだ」

 狂ったようにひとしきり醜く太った腹を揺らして笑ってから、老人は『教育者』としての顔をいまや完全に脱ぎ捨てた。

「では、謝罪の意味も込めて、改めて宣言しよう。キミはそこでおとなしくしていたまえ。まあ、いまのキミにできることなど何もないわけだが……なに、『計画』が順調に進めば、数日で済む。それまでの辛抱だ」

「『計画』だと?」

「キミを捕らえさせてもらったのには理由がある。キミと彼女に接触されると不都合なのだよ。本来であれば最初から手駒に置きたかったのだがね。キミのおかげで幾らかの遅延が発生してしまった」

「……何をするつもりなんだ」

「キミが知る必要はないよ。彼女たちの力を借りて、世界に少々手を加えるだけだ。心配することはない。キミが地上に出る頃には、すべてが良くなっている。ほっほっほっほっほ」

 気色の悪い笑い声を残して、老人は牢から立ち去った。

「彼女たち、だと……?」

 独り暗い部屋に残され、無力感に打ちひしがれながら、キズキは口の中で呟いた。

 彼女たち。ニアイコールと——おそらくは綴クオン。この二人のことに違いない。あの二人の少女を使って、あの老人は何かをしようとしている。考えるまでもなく、ろくでもないことを。キズキは思い出す。クオンの、思わせぶりで蠱惑的な表情。そして、ニアイコールの、初めて見せた感情の発露。あの少女たちが、醜悪な老人の思惑に利用される。それを、こんなところで、何もできないまま、見過ごすしかないのか……?

「畜生ッッ!」

 キズキはもう一度、冷気を帯びた床を思いきり殴りつけた。もちろん、床には傷ひとつ、つくことはなかった。


     トレ■ャーラ■オ 3


 困ったことになりました。

 うーん、困ってないかもしれない。でも困った。どっちだろう。わかんないな。

 このまま見守っていれば、私の願いの半分ぐらいは叶うのかもしれない。

 でも、これはわたしの望んだ形じゃない。

 特に、彼があんな状況に置かれてるのは、よくない。とってもよくない。

 このまま何もせず、わたしの願いが叶ったとしても、わたしはあんまり嬉しくない。

 彼もきっと、喜ばない。

 それじゃ意味がないよ。

 でも、だったら、どうすれば————

「こんばんは。ちょっとお邪魔するわね」

 ——あなたを呼んだ覚えはないんですけど~。

「いいじゃない、たまには。サプライズゲストってことで」

 ——う~ん、押しが強いのがあなたの魅力ですけど~。でも、強すぎても引かれちゃいますよ? 正直、このまえ彼ちょっと引いてませんでしたか?

「私はスタートが遅れたから、挽回するにはこれぐらいしないと駄目なのよ」

 ——う~ん、恋と戦争においてはなんとやらって言いますけど、あんなの核爆弾使ってるようなもんですよ。さすがに核は駄目でしょ。非核三原則って知ってます? はぁ~~~、こんなビッチが末の妹なのかぁ~~~。

「心外ね。私がこうなったのは貴女にも責任があるのよ。というより、原因のほとんどは貴女なんだけど」

 ——うぐぅ。それを言われるとつらいですね。もう、ホント、殺してくださいって感じですね。もう死ねませんけどね。

「貴女がこれ以上死んだら世界が終わるのよ。だから、貴女はここでただ見守っていてちょうだい。神様ってそういうものでしょう?」

 ——わたし、神さまなんかじゃないんですけど……。

「似たようなものでしょ。少なくとも、この島では。とにかく、私の願いの半分は貴女の願いの半分。だから、少し借りるわね」

 ——あーーーーっ! ちょっと、勝手にマイクを————

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