第一章 ニア・イコール
二十一世紀末、突如として世界に穴が開いた。ひとつだけではない。世界各地に、ほぼ同時に八つの巨大な穴が開いた。物理的には存在せず、しかし「穴」としか呼びようのない、正体不明の黒い深淵、《大空洞》。
その穴が開いたことで何が失われたのか、しばらく人類は把握できなかった。痛みのないまま身体を巣食う病魔のように。気がついたときには、それはすでに失われていた。黒い穴が人類から奪ったもの——それは「物語」だった。
 人類から失われた物語。歴史と言い換えてもいい。全世界から、およそ千年分の歴史が、穴から流出した。この物質世界とは異なる位相。人はそれを《虚空》と名付けた。ヒトの、モノの、あるいは場所の物語が、虚空へと流出した。物語を失ったモノや場所は質量をもたない結晶と化し、ヒトは永遠の眠りともいえる状態に陥った——これが
それからしばらくして、人はより直截的な、具体的な危機と対峙することになった。この世界から流出し、虚空を彷徨って変質した「物語」が、この世界への敵意をもって戻ってきたのだ。
《
虚空より流入した《断章》は物語を失って空白となった虚無化物に憑依する。そして、角をもつ獣、憑依体が世界各地の穴の周辺に出現、世界に悪意を撒き散らし始めた。いまからたった十数年前のことだ。さらに、八つの大空洞ほどの規模ではないにせよ、小さな穴は現在進行形で数を増やし続けている。
人類もただ手をこまねいていたわけではない。もともとは大空洞からの物語の流出を止め、穴を塞ぐ目的で研究された「失われた歴史ではない、いま生きている人間の物語によって空白を満たす」技術が、憑依体に対抗する武力として転用され、生み出されたのが、物語を刃とし、憑依体を討つ少年少女——ネイキッド。
太平洋に浮かぶ半月型の巨大な人工島「アイランドD」は三十年前、大空洞が開いた世界八ヶ所のうちのひとつであり、世界で最も早くネイキッドの運用を実現化した場所であり——三年前の物語大流出災害「弓島大徴税」の被災地である。
現在も島のおよそ半分が虚無化したままの歴史的空白地帯であり、常に喪失と疑似再生を繰り返しその姿を変え続ける「再現都市」。そして、世界最大の物語自動保存・編纂器《アーカイヴ》を保有する、物語災害対策機構《ライブラリ》のこの国における本拠地であり、ライブラリの実行部隊であるネイキッドを育成する「学園」を有している。
「まったく、一昨日は散々だったな」
宮無キズキはボヤきながら、二日前とは別の山道を上っている。先日の戦闘により負傷した結果、引っ越し早々入院する羽目になり、病院から退院してそのまま初登校ということに相なった。鍵も受け取ったというのに未だ寮の場所さえ知らず、ただでさえ気疲れするであろう始業式及び転入生の初登校というイベントが終わって寮に帰ったとして、そこに待ち構えている荷解きもされていない大量の荷物を思い、キズキはいまから鬱々とした気分になる。
「それもこれもあいつのせいだ。ったく」
ぶつぶつ言いながら、キズキは二日前とは異なる春の早朝の景色の中を歩く。景色が違って見えるのは、道が違うからだけではない。今日は二日前とはうって変わって青空が広がり、加えてその日見られなかった人の姿、揃いの制服を着た学生で道が溢れかえっているのだ。男も女も、黒に近い濃紅の下地に灰色のステッチの意匠が施されたブレザー型の制服を身につけている。なんとなく周囲からの視線を感じるのは、キズキだけが違う格好をしているからだろう。前の学園——いや、職場の制服だった黒のスラックスは目立たないとしても、上半身はいつもの灰色のパーカを頭まですっぽりと被っているのだ。制服はすでに支給されていたが、まだ荷解きもできていないのだからしかたない。キズキは努めて気にせず歩き続ける。
緩い坂をトラムが追い抜いていき、坂の頂上の手前で停止する。トラムは大勢の少年少女を吐き出してから、もと来た道を下っていった。歩道にひしめく生徒たちは全員、坂の終わりで左に曲がっていく。学生の向かう方向へついていけば、初めての道でもキズキは迷うこともないという寸法だった。
左へ折れると、両側に背の高い歪な結晶体が整然と並んだ通りに出た。薄く桃色に色づいたその結晶体を気に留める者はひとりもいない。キズキもまた、かつてそこに「何か」があったのだろうと思うに留まる。古来より、この国の多くの通学路とワンセットになった、風物詩とも言える、何か。しかし、いま、この場所では、誰もそれを覚えていない。
虚無化。
 ヒトやモノ、あるいは概念に至るまで。「物語」を失ったものは名前を剥奪される。それがそれであるということを誰も思い出せなくなる。その作用は個別に働くので、たとえば地点Aで事物Oが失われても、地点Bで失われていなければ、地点Bにいる人間には事物Oを認識できる。おそらく島の外に出れば、それがなんだったのかを彼らは思い出すことができるだろう。だが、この弓島にいる限りは、誰もそれを思い出せない。その、春のほんの
 学園前の道は少年少女で一杯だった。一見すると一般人と見分けがつかない学生に混じって、明らかにそれと異なる雰囲気を醸す少年少女がいることがわかる。比率でいえば少数派だが、それだけに目立つ。《
 しかし、それ以外の、多数派を占める一般人にしか見えない少年少女もまた、普通の意味で普通ではない。彼ら彼女らもまた、読み手である
「あいつ、初対面の人間を躊躇なく燃やそうとしやがって……ん?」
まだぶつぶつと文句を言いながらキズキが校門をくぐると、高等部と中等部の間にある中庭で何やら人だかりができている。その中心にいるのが、
「げっ」
ニアイコール・ゼロスリー、件の読み手の少女だった。先日の入院患者のような姿ではなく、今日は他の生徒と同じくちゃんと制服を着ている。先ほどキズキが見てきたように、小柄ながらその見事なまでに染め抜かれた読み手特有の灰色の毛髪は目立つのだが、この島では読み手の存在はそれほどめずらしいものでもないし、注目されている理由は他にありそうだった。群がる生徒たちはニアイコールを遠巻きに見て、何やらひそひそと囁き合っている。そこに不穏な空気を感じ取ったキズキは、生徒たちの囁きに耳を傾けてみる。
「……あの子、《
キズキには内容の半分もわからないが、あの少女に関するろくでもない陰口ということだけは理解できた。次第にその場のよくない感情が煮詰まっていき、生徒のざわめきがあちこちに飛び火していく。放っておけば石でも投げつけられそうな穏やかならぬ雰囲気を打ち破ったのは、高等部校舎側からのひと際大きな声だった。
「やあ、これはこれはゼロの姫君!」
その声の主は高等部男子、いましがた校舎から出てきたという風で、なぜかぞろぞろと四人ほどの女子生徒を従えて歩いてきた。身長は高く、見事な金髪、顔立ちも良いが、怪我でもしたのか右目の下に白いテープを貼っている。制服の袖から覗く右手にもぐるぐると包帯が巻かれている。
「……三倉
どうやらニアイコールとは知り合いらしい。不思議なことに、先ほどまであれほど不平不満が高まっていた群衆から、不穏な空気がさっぱりと消え失せていた。なんとなく、あの男子生徒にすべてを任せようとでもいうような雰囲気だ。
「退院おめでとう、と言っておくべきかな? 元気そうで何よりだよ。見ての通り、ボクはまだこんな有様だけどね」
三倉と呼ばれた男子生徒はおどけたように喋るが、言葉の端々に棘のようなものが見えた。それを知ってか知らずか、ニアイコールは眠たげな無表情を崩さない。
「そうですか。それはご愁傷様です」
「くっ……ま、まあいいさ。このボクを拒絶した挙句に手傷を負わせておいて、よくもまたのこのこと学園にやって来られるものだと、まあ少しばかり思わなくもないが!? それはまあいいのさ。過ぎたことだ。より重要なのは、ボクたちの未来のこと——そうは思わないかい? ゼロの姫君」
「……その『ゼロの姫君』というのは私のことなのですか」
「もちろんさ。語り手による挿話装填成功率0.001%……これは理論値で、ハッ、実際の成功率は真っ新な処女雪のように0%。不遜にも、このボクを含めて未だかつて誰の挿話も受け付けない、最新にして最悪の読み手! それがキミ、ゼロの姫君さ」
なんとなく聴衆もうんざりしてきたような空気を出しているが、三倉蔵人の弁舌は止まらない。
「しかし! しかしだ。誰も成し得ていない、ということは、そこには無限の可能性があるということだ。ボクは一度の失敗で諦めるような男ではない。キミの最優先パートナー候補はいまだボクだ。必ずボクの素晴らしい挿話の装填を成功させ、キミをボクの《
そうぶち上げて、三倉は後ろに控えている四人の女子生徒に聴衆の目を向けさせた。見れば、四人とも型や長さこそ違うが一様に灰色の髪、そして淡く褪色した瞳をもっていた。読み手の神秘性を差し引いても、四人全員が非常に美しい少女だった。四人の美少女はみな無表情で、しかしニアイコールのそれとは微妙に種類の異なるものだった。その無表情には傲岸さと自負が見てとれる。三倉の言った《聖戦姫》とやらの一員であることのプライド。
遠巻きに見ていた生徒たち——特に男子生徒は、最初ニアイコールに向けていたヘイトをこのよく喋る金髪に集めつつあった。理由はもちろん、特に意味もなく出てきた美少女たちである。そして、途中から眠たげに三倉の演説を聞いていた当の少女、ニアイコールがおもむろに言い出した。
「あのー、三倉先輩」
「なんだいゼロの姫君? キミさえよければ、さっそく始業式の後にでも……」
「パートナーの語り手、わたし、もういますけど」
「…………は?」
三倉蔵人はあんぐりと口を開けて硬直した。その瞬間、すさまじく嫌な予感を感じ取った宮無キズキはそそくさとその場を離れようとした。が、
「あっ」人ごみの中から目ざとく少年の姿を見つけたニアイコールが声を上げ、ついでに頭頂部の髪束をぴょこっと動かした。「あのひとがわたしの語り手です」
ニアイコールはギュン、と音がするほどすさまじい速度で駆け寄り、逃げようとした少年の腕を一瞬で掴んで群衆の前に引きずり出した。
「縮地術でも使えんのかよ!」キズキの叫びが中庭にむなしく響く。
「このひとがわたしの語り手です」淡々と繰り返すニアイコール。
「お前、あれはあのとき限りだって——」
「前と後のことはどうでもいいのです。いまは話を合わせてください」
「生き方が刹那的すぎる……」
なんとなく、すでに堂に入った漫才コンビのような空気すら醸している二人組を前にして、三倉蔵人は混乱を露わにしつつ、健気にも訊ねるべきことを訊ねる。
「パートナーって……ち、ち、調整を済ませたということかい……?」
「? 調整? してませんよ?」
「はあ!? じゃ、じゃあパートナーでもなんでもないじゃないか!」
「調整はしてませんけど、挿話の装填はしました」
「そ…………」
この発言には、三倉のみならず、すべての野次馬の生徒までもが驚愕に打ちひしがれた。語り手と読み手が互いに専属のパートナー——《レーベル》となるには本来、相性のチェックなどのために何段階もの調整プログラムが課せられる。その過程を踏まずに挿話の装填をして拒否反応が出ると、最悪の場合は接触事故を起こす。その結果どうなるかは、三ヶ月前の、そして現在の三倉蔵人が示している。それに、三倉の拙速が原因とはいえ、三倉とニアイコールはプログラムの第三段階まではクリアしていたのだ。それでさえ事故が起きた。誰にも扱えない失敗作——誰もがそう認識するニアイコールと、どこの誰とも知れない少年が調整もなしに挿話装填を成功させた。それは誰にとっても驚くべきことであり、三倉蔵人にとってはそれ以上の、耐えがたい現実だった。三倉は据わった目で、少女の隣に立つ少年を睨んだ。
「……見慣れない顔だが、キミ、いったい誰なんだい?」
「誰と言われても……名前は宮無キズキ。今日からここに転入する高等部二年生、としか」
「なるほどね、転入生。転入生! ハッ、これは傑作だな! ボクがじっくり姫君と愛を育んでいたのも知らないで、横から出てきてボクの姫君を穢したのはどこの馬の骨だかもわからない転入生だと!?」
「うーん……かなり残念な奴だな、こいつ」
「それってどういう意味なんですか?」
キズキとニアイコールの気の抜けた会話も彼の耳には入らない。
「許されない。こんなことは断じて許されない。許されていいものか! いまボクは屈辱とともにたしかにその名を魂に刻んだぞ、宮無キズキ! たった一回のまぐれでいい気になるなよ。ボクはまだその読み手を諦めていない。これは学園の、延いては《ライブラリ》の意思だ。こうなればボクとキミとの決闘で——」
「ほいほい、そこまでにしときな」
場違いなほど呑気な声が、一触即発の中庭に響いた。危ない目つきで熱弁をふるっていた三倉は、その突然の闖入者へと目を向け、
「……なんだ、ダメ永か」
「うわ、ダメ永だ」「やだ、エロ永だわ」「顔以外最悪のエロ永が来たわ」「しっ! 目を合わせちゃ駄目よ」
様子を見守る生徒たちにも動揺が広がる。
「ダメ永じゃねえ、エロ永でもねえ! 為永だ。為永サダメ。クールなオレにふさわしい超クールな名前だろうが」
そう言って、いつの間にか場の注目を集めているのは、これまたかなりの美男子だった。中途半端に長い黒髪を時代遅れのポニーテールにして、誰に対してもなんとなく軽薄な印象を抱かせる。そして、その印象は概ね正しい。
「ったく、進級初日だってのに、いきなり面白いことになってるじゃねーか。わが学園のA級レーベル《聖戦姫》のリーダー様が転入生相手に決闘? 穏やかじゃないねえ」
「キミには関係ない。話に入ってこないでくれないか」
「右も左もわからない転入生をつかまえて決闘なんざクールじゃねえ。オレが代わりに買ってやるよ」
「……ダメ永ごときが調子に乗るなよ」
底冷えするような三倉の声にも、為永という男子生徒はへらへらとした態度を崩さない。
「どうせアンタは自分で戦わないんだろ? アンタはいつも後ろで指揮を執るだけ。つまり、実際オレとくんずほぐれつするのは四人の《聖戦姫》ちゃんたちなわけだ♡」
『ひっ』
為永に妙な色の目を向けられた四人の読み手たちがユニゾンで悲鳴を上げた。
「えげつねえ……」「エロ永のエロエロ挿話を装填された
「くっくっく。さあさあ、まずは誰がオレと一戦交えるのかな? いっそ四人まとめて……」
両手をワキワキと動かしてにじり寄る為永サダメに、震え上がった四人の読み手はついに、
「いや~~~~~っ!」「妊娠する~~~~!」「ダメ永の相手なんて御免だ!」「ダメ永にダメにされる~~~~~!」
主を置いて散り散りに逃げていった。
「おのれダメ永……」
「くっくっく。まだ続けるかい?」
睨み合いを続ける顔だけはいい男子二人だったが、
「ちょっと男子~~~!」
またしても新キャラの登場だ。黒々としたボブカットに眼鏡の女子生徒が小走りに駆け寄ってくる。
「なんだか騒ぎが起きてるって聞いたから来てみれば……またダメ永なの?」
「またってなんだ! むしろオレは騒ぎをクールに収めたんだから、褒めてほしいぐらいだぜ」
「どう考えても騒ぎを大きくしてるでしょ……ああ、ニア」
「あ、コダマ」
キズキの横でぽつねんとしていたニアイコールは、親鳥を見つけた雛のように眼鏡の女生徒へ近づいていく。
「大丈夫? 怖くなかった? こんな蛆虫みたいな男どもに囲まれて……」
「平気です」
「あの……それには俺も入ってるのか……?」
キズキのボヤきに耳を貸す者はいない。ぐだぐだが極まって、なぜこんなことになっているのか、もはや誰にもわからなかった。それは最もヒートアップしていた三倉蔵人にとっても同じようで、すっかり熱の冷めた声で、
「今度は見た目だけ委員長のご登場か……」
「うっさいわね。あたしは生まれてこのかた何の委員長だったこともないわよ。それより、そろそろ始業式が始まるんだから、解散解散! あ、ニアはいいのよ。あたしと一緒に体育館行きましょ。あ、手つなぐ?」
「つなぎませんけど」
男どもを放置して女性陣はさっさと退場してしまう。去り際、コダマというらしい女子生徒が一瞬だけ視線を寄越したのをなんとなく訝しむキズキ。そして、煮え切らない思いを抱えた人間がもうひとりだけこの場に存在した。
「……おい、宮無キズキ、とかいったな」
「え、俺?」
「さっきも言ったがボクはまだ諦めていない。明日を楽しみにしていてくれたまえ。お祖父様に段取りをつけてもらう」
言い残して、三倉蔵人は足早に体育館へと歩き去った。それを見届けて、どことなく弛緩した雰囲気になっていた野次馬たちも三々五々にその場を離れていく。広い中庭に、キズキと為永サダメだけが残された。
「あー、なんだ。まあ、さっきは助かった。って思えばいいのか?」
「へっ、そう思ってくれると嬉しいねえ。転入早々災難だったな」
「ああ。えっと……」
「為永サダメ。高等部二年の落ちこぼれだ。これからよろしくな」
「ああ、俺は」
「宮無キズキ、だろ。何度も聞いたから憶えちまったよ。アンタも《語り手》なんだろ。実は俺もなんだ。ま、ちょっとした事情があってほとんどロクに挿話装填できたことがないんだが」
「俺も似たようなもんだよ」
「ははっ。お前さんとはうまくやっていけそうだ」
意気投合した二人の男子生徒は、そのまま仲良く始業式に遅刻した。
特に語るべきこともない退屈な始業式が終わり、キズキはサダメと並んでこれから一年間所属することになる教室へと向かう。知人と呼べる人間がまったくひとりもいない状態で転入することになっていたら、いかにキズキといえどそれなりに緊張を強いられる場面だっただろうが、余計なハプニングの結果とはいえ、こうして気兼ねなく話せる同性と知り合えたことは彼にとって幸いだったと言えるかもしれない。長い廊下での会話の内容は主に、サダメによる高等部二年女子ネイキッドかわいい子ランキングなどという、無としか言いようのないものだったのだが。
実のない会話の末に辿り着いた2年B組は、前と後ろで勾配がつき、長く湾曲した固定式の机と椅子が四列設置されただけの、いくぶん無機的な印象を与える教室だった。黒板に類するものすらない。とはいえ、この時代の教育機関としては一般的なものだろう。当然ながら自分の席など決まっておらず、生徒はそれぞれ思い思いの席に陣取っている。古典的なチャイムが鳴り、担任らしき教師が教室にやって来たのを見て、キズキはドアから最も近い最後列右端の席にサダメとともに腰を下ろした。ほぼ同時、赤いリブニットの上に白衣を引っかけた教師が灰色の教卓の前に立った。ウェーブのかかった黒髪が艶やかな、冷たい感じのする美人だ。そして、その女教師が口を開いた。
「諸君、進級おめでとう。またお前らの間抜けな顔を見ることができて嬉しく思う。担任の三宮依織だ」
厳しそうなセンセーだな、と思うと同時に、キズキはなんだか女教師の声に聞き覚えがある気がしていた。そして、隣に座る為永サダメという男は恐れを知らないらしい。
「いよっ、イオリン! 今年もカワイイねえ!」
「誰がイオリンだ、去勢するぞ」
女教師はニコリともせず底冷えのする声で言う。
「アンタ教え子に容赦ねえな……」
「お前は教師にも見境がないな。まあ去勢は冗談だが減点はしておく」
「そんなぁ」
そんな心温まる一幕を挟みつつ、進級(キズキにとっては転入)初日のホームルームが進行していく。必要な情報は端末に直接送信されるので、プリントを配ったりなどということもない。担任の女教師は学園生活についての注意事項などを喋っているようだが、いまさら聞くこともないと判断したキズキは教室の中をきょろきょろと見回してから、サダメに耳打ちした。
「そういえば、アイツがいないな」
「見た目だけ委員長なら前のほうに座ってるぜ。ほら、あそこ」
「そうじゃなくて……」
「三倉の野郎ならA組だぜ」
「それでもなくて……」
「ああ、
「……なるほど、中学生だったのか……」
言われてみれば、ずいぶんと華奢なナリをしていたな——とキズキは納得した。
「まあ中等部っつっても、学園には滅多に来てなかったらしいけどな。数ヶ月前の『事故』のこともあるし」
「事故? それって、あの三倉とかいうヤツとの——」
「おい、そこの二人」教室に、女教師の氷点下の声が響いた。「ずいぶん私の話が退屈みたいだな」
サダメは背筋をピンと伸ばして前を向き、冷や汗をかきながら言い繕う。
「そ、そんなはずないじゃないっすか~! この為永サダメ、イオリンの話は今日この時まで一語一句漏らさずに記憶してますよ」
「ほう。では訊くが、一般的な語り手と読み手によるネイキッド二人組の《レーベル》における最大の禁忌はなんだ?」
「えーっと…………男女同衾?」
「違う。いや、無論それも駄目なんだが……では、隣のお前に訊こう」
そう言って、三宮依織は挑むような、あるいは試すような視線をキズキに寄越した。
「……
絞り出すような声で、キズキは答えた。
「……正解だ。まあ条件的にお前たちにはほぼ不可能だし、公式には過去にも例がないとされているが、頭の片隅には置いておけ。では次に、明日以降の授業についてだが——」
女教師は話を続け、教室にいる生徒たちもいまの話題に何か意味があったとは考えていないようだった。ただひとり、前方の席から女生徒が最後方に座る転入生に一瞬、するどい視線を向けたことにも、向けられた本人も含めて、気づいた者はいなかった。
新学期初日ということもあり、ホームルームが終われば即座に放課後となった。帰り支度を始めるクラスメイトたちを眺めながら、キズキはどうしたものかと思案していた。このまま寮に帰ってもいいが、寮は学園のすぐ裏にあり、相当に時間を持て余すことになる。いっそ街に出てみるのもいいか——などと考えていると、
「お前さん、このあとヒマかい? なんだったら学園を案内してやるよ」
サダメの提案はまさしく渡りに船だった。
意外に世話焼きらしい男子生徒の案内で、まずは校舎裏の野外訓練場から始まり、「技術室」と書かれた平べったいプレハブ小屋の無銘刃調整施設(ネイキッドの間では「工房」と呼ばれる)、校舎西棟一階の「自習室」と書かれた、端末が無機質に並ぶ挿話記述室、それから地下へ降りると、「第二体育館」と書かれた巨大なアリーナ型訓練施設。キズキは、この「学園」が何のためにあるのか、改めて気づかされた。巧妙に学校を模しているが、それは文字通りイミテーションでしかない。この学園の目的はただひとつ、世界の脅威となる物語に、物語をもって対抗する少年少女——ネイキッドという武力を養成すること。
自由時間だというのに、やる気のある生徒たちによる自主訓練の剣戟の音が、キズキとサダメのいる観客席にまで絶えず聞こえてくる。人型無銘刃、読み手の姿は見えない。無銘刃を武器とするネイキッド同士の、実戦を想定した訓練。キズキはひと目でこの学園の生徒たちのレベルの高さを見抜いた。前の職場と比べても遜色がない。
「物騒な学校だな」
それがキズキの偽らざる感想だった。隣の案内人は興味深げな目をして笑う。
「へへ、まったくだ。うら若い男女が揃いも揃って、来る日も来る日も切った張ったじゃあな。というわけで、次は癒やしの空間に案内してやるぜ!」
そう言って、次に向かったのは中等部校舎——だったのだが、立ち入った瞬間に中等部女子たちに不審者を見るような目とひそひそ声を浴びせられ(「やだ、ダメ永先輩よ」「見てよ、あのいやらしい目つき」「目を合わせちゃ駄目だよ!」「うわ……◯されないように気をつけなきゃ」など)、入って数秒でキズキは渡り廊下までサダメを引きずり出すことになった。
「同士よ、聞いたか? 小鳥たちの黄色い囀りを。オレたちの青春に必要なものはこれだよこれ。わかるだろ?」
「あんたの学園での立ち位置はよくわかったよ」
力なく言いながら遠い目をしたキズキは、ふと、視界に気になるものを見つけた。きれいに整えられた西洋風の裏庭のさらに奥、学園の敷地の隅に、背の低い灰色の塔のようなものが建っている。
「なあ、あれはなんだ?」
「ん?……ああ、図書館だよ」
「図書館?」
「ああ。一年の頃ためしに一度行ったけど、見るべきものは何もねーよ」
「ふうん……?」
キーンコーンカーンコーン
いまだ、わずかに灰色の図書館が気になる様子を見せたキズキだったが、古風なチャイムによって思考は中断された。
「おっ、もう正午か。んじゃ、お前さんも歩き疲れた頃合いだろうし、最後は食堂で昼食タイムといきますか」
「歩き疲れたっていうか、気疲れしたね」
食堂は高等部と中等部の連結部、つまりすぐ目の前にあった。新築のようにぴかぴかのオープンカウンターの調理場と200人は入れそうな広い屋内喫食スペース、屋外にもテラス席が50席は用意されているが、今日は午前中に授業が終わっているので人は疎らだ。二人は屋内の中央付近の席に陣取った。
「街に出ればもっといいレストランあるんだけどな。案外、ここも捨てたもんじゃねえ。俺のおすすめは薬膳カレー」
「ふーん。じゃあそれにしてみるかな」
荷物を席に置いてカウンターへ向かう二人。がらんとした食堂では、控えめな音量でラジオが流れている。島のローカル番組のようだが、耳を傾ける人間は誰もいない。
ト□■□ーラ■□ 1
——はい、というわけで本日も始まりました、この番組! 本日のゲストは~? 宮無キズキくん! ぱちぱちぱちぱち~!(拍手の音)
「おわっ! えっ、何? 何これ? どこ、ここ?」
——緊張しているみたいですね~。リラックスリラックス。
「いや緊張とかじゃなくて何これ? きみ、誰?」
——わたしのことはどうでもいいんです。いまはゲストの人となりに迫っていくっていうコーナーですからね~。どんどん質問していっちゃいますよ~。宮無キズキくんは、おお、なんと、まさに本日、白弓学園に転入したということですが、この島は初めて来たわけじゃないんですよね? どうですか、五年ぶりに帰ってきた故郷は?
「……なんで知ってるんだ?」
——わたしはこの島で起きたことはだいたい知ってるんですよ~。この局のラジオパーソナリティですからね~。それで、どうです?
「どうも何も、まだほとんど出歩いてないからな……でもなんか、ちぐはぐな感じだ」
——ほうほう、ちぐはぐと。それはどういう意味で?
「知ってる景色があるかと思えば、まったく知らない景色もあって……それがモザイク状に組み上がって一枚の絵になってる。変な感じだ」
——なるほどなるほど~。じゃあもっとこの島を歩き回ってみないとですね~。ところで、キズキくんはなんでこの島に帰ってきたんでしたっけ?
「……帰ってきたっていうか……逃げてきたんだよ」
——ふ~む。なんだか並々ならぬ事情がありそうですね~。でも、逃げるなら別に他の場所でもよかったのでは? なぜ、故郷であるこの島に?
「それは……まあ、先生に言われたってのもあるけど……強いて言えば、探しに来たんだ」
——探しに。それは人を? それともモノを?
「人、かな。本当にここにいるかどうかもわからないんだけど」
——人探しですか~。この島けっこう広いから、なかなか大変かもしれませんね~。でも、見つかるといいですね~。ところで、探してる女の子はどんな子なんです?
「なんで女の子だってわかるんだよ!」
——そんなのわかるに決まってるじゃないですか~。それで? どんな子なんです? 年上? 年下?
「わからない」
——は?
「たぶん、ちょっと年上か……同い年ぐらい、だと思う」
——たぶん、って……。
「ある年の夏に、一緒に遊んだだけなんだ。正直、顔もよく憶えてない」
——それじゃ探しようがないじゃないですか……。
「でも名前は憶えてるし——そうだ、名前! きみ、この島のことはなんでも知ってるって言ったよな? だったら知ってるはずだ。その子の名前は——」
——あ~~~すいません。ここ、そういうところじゃないんで~。探しものは自分で見つけてくださいね~。
「ちょ、ちょっと待っ——」
——はい、というわけで本日のゲストは宮無キズキくんでした~。ではこのへんで一曲。今春のヒットナンバー。椎名ナルコさんで「チルハナノウタ」————
→→→→→→→→
「……ぃ。おーい。大丈夫か?」
「……ん——大丈夫って、何がだ?」
「いや、なんか急にぼんやりしてたからよ。貧血にでもなったのかと思って」
「……おすすめの薬膳カレーのあまりのまずさに気が遠くなってたんだよ」
「へっへっへ、強烈だろ」
してやったりといった顔で笑うサダメを睨みながら、キズキはコップの水を飲み干した。食堂のラジオでは激しい曲調ながら、どこか悲しい曲がかかっていた。自分はちゃっかり美味そうな唐揚げ定食を食べ終えていたサダメは、曲に合わせて鼻歌などを唄っている。キズキは知らない曲だった。キズキはまだ口の中が妙な薬臭さが気になるようで、水のおかわりを注ぎに席を立とうとした、そのとき、ヴヴッと端末が震動し、メッセージの着信を知らせた。
「ん? ……げっ」
『宮無キズキ。可及的速やかに《ライブラリ》本部へ出頭せよ』
メッセージの文面は簡潔だったが、有無を言わさぬ強制力があった。どのみち、遅かれ早かれ彼にはそうする必要があったのだが。それにしても、キズキの表情は優れない。
「呼び出しか?」
「そうみたいだ」
「どうせ異動に関する手続きかなんかだろ? テンコーセーは大変だねえ」
「それだけならいいんだけど……なんか、嫌な予感がするんだよな」
彼の予感は正しかった。
ライブラリ本部は学園からそう離れていなかった。それはそうだろう。学園はライブラリの直轄であり、その生徒はライブラリの実行部隊なのだ。指示を出すにも、人員を送り込むにも、近いほうが都合はいい。昼間は本部付近に生徒を集中させ、夜間は島の各地に点在する寮にて「待機」させる。敵——憑依体は、いつ、どこに出現するかわからない。授業中でも、放課後でも、あるいは就寝時間でさえ、ネイキッドの運営する「学園」の生徒には、名目上「休み」というものが存在しない。もちろん、生徒たちのコンディションや適性を考慮したうえで、彼らネイキッドはライブラリによって運用されている。週に一度の非番も設けられているが、緊急事態にはその限りではない。とはいえ、非番のネイキッドが戦場に駆り出されることは滅多にない。なぜならそれは、ほとんど世界の終わりが到来したことを意味するのだから。
閑話休題。とにかく、直線距離は離れていないのだが、学園からライブラリ本部までは急な山道を上らなければならなかった。そのうえ、本部は外からはひどくわかりにくく造られていた。「弓島郷土歴史資料館」と書かれた灰色のビル。その裏側に回って、ロックされた関係者専用出入口の鉄扉のパネルに指定された数字を入力。ガチャリという音とともにロックが外れ、ドアを開くと、ほとんど真っ暗な空間に出る。前方1メートルも見渡せない、ひんやりとした闇の中でキズキはぽかんとしていると、床が勝手に動き始めた。
「うわっ!……って、なんだ、エレベーターか」
暗闇の中にキズキの声が響く。エレベーターは単純に下降するのではなく、ポイントごとに下降したり、水平に移動したり、斜め下に進路が切り替わったりする。床は存外に広く、四方は手すりに囲まれているので落ちる心配はなさそうだが、それでもあまり気持ちのいいものではないだろう。
「なんなんだこのギミックは……首都でもこんな大掛かりじゃなかったぞ」
ボヤきつつ身を任せること約1分。ようやくキズキを乗せたエレベーターは移動を停止し、手すりが自動で収納されて前に道が開いた。必要最小限の青白い電灯の灯る薄暗い廊下を進むと、背丈の倍はあろうかという巨大な黒い扉の前に着いた。呪文を唱えるまでもなく、扉は自動で開いていく。キズキは明らかに気乗りのしない足取りで扉をくぐると、端末や計器が整然と並んだ広い部屋の、灰色に沈黙する無数のモニタの前に大人の女と——背の低い少女が立っていた。
 所在なげにぼんやりと立っている少女のほうはあえて確認するまでもない。例の、人型無銘刃・読み手の少女、
「イオ……三宮先生?」
今日できた悪友が連呼していた愛称を思わず口にしようとして、慌てて言い直すキズキ。
「ここでは室長と呼べ。私がアイランドD《ライブラリ》戦術資料室室長、三宮依織だ」
「なるほど……」
朝、キズキが担任の声に聞き覚えがあるような気がしたのはそういうわけだったのだ。あの日、少女に挿話を装填せよと指示してきた、あの声。あの日聞いた、そして朝にも聞いたのとまったく同一の、低く冷ややかな声で、三宮依織は言った。
「本日ここにお前を呼んだのは他でもない、《レーベル》組みについてだ」
「……俺はフリーの技師にでもなりたいんですが」
「語り手の素質をもつネイキッドを遊ばせておくわけにはいかん」キズキのささやかな反抗を、依織は一顧だにしない。「特に、未だかつて誰の物語も受け付けなかった読み手に、まぐれとはいえ挿話の装填を成功させた語り手などには、な」
「えーと、それはつまり……」
「宮無キズキ。お前はこの無銘ニアイコール・ゼロスリーと組んでもらう」
「やっぱりか!」
キズキは天井の高い資料室じゅうに響き渡る声で叫んだ。そして、滔々と語り始める。
「あのですね、俺はもう語り手として読み手と組むつもりはないんですよ。あの日のあれは緊急事態だったからそうしただけで……そもそもあんたも言ったように、あれはまぐれだ。この島の人間は知らないかもしれないけど、俺は種無しになって二年以上実戦から離れてるし、戦力として期待されちゃ困ります。技師が駄目なら、公式挿話の編纂とかでも——」
「何か勘違いをしていないか? これはお願いではない。指示だ」
「圧政……」
血も涙もない担任兼上官の言葉にキズキが愕然としていると、
「あのー」
初めて、無銘ニアイコール・ゼロスリーがこの場で口を開いた。
「なんだ、
「わたしもいやです。こんなひととレーベルなんて、死んでもごめんです」
今朝方とは正反対のことを言う読み手の少女。「こんなひと」呼ばわりされながら、あれは本当にその場しのぎのでまかせだったんだな、と逆に感心してしまう語り手の少年。
「しかし、そうしないとお前はまた凍結されるぞ。それでもいいのか?」
「むう……」頬を膨らませ、少女は不満を表した。「それは困ります」
キズキは、ハッとして読み手の少女を見た。
「凍結? それって……三倉とかいうヤツとの事故で……」
「そうだ。われわれは慎重に調整を進めていたのだが、三ヶ月前、最終段階——つまり、最後の挿話装填試験で、こいつは三倉蔵人の物語を拒絶した」
「おいしくなかったんです」
しれっとした顔で呟く少女を無視して、依織は続ける。
「こいつが事故を起こすのは初めてではなくてな。燃費が悪いうえに選り好みが異常に激しい。昨年だけで七人の語り手を病院送りにしている。そのうち、
「…………」
「お前も知っている通り、無銘刃には穴が穿ってある。その穴を通して向こう側——《虚空》へ接続し、物語を媒介して常ならざる力を引き出す。しかしその穴はあくまで仮のもの。ヒトが外側から定義したものに過ぎん。それに対して人型の無銘刃、読み手は虚無化したヒト。原理的に穴そのものだ。程度の差はあれど、生きているだけで世界の物語を消費する。このニアイコール・ゼロスリーは特にその度が激しくてな。
キズキは暫くの間、黙っていた。そして、返しを片方欠いた矢印のような灰色のアホ毛をうねうねとさせている、中等部の制服を着た背の低い少女をちらりと見て、言った。
「……お前はどうなんだ」
「なにがです?」
「だから、その、なんだ……俺の……物語はどうだったかって訊いてるんだよ」
「そうですね」少女はアホ毛をぴょこっと立てて言う。「まあ薄味でぜんぜん物足りないですけど、食べられないこともなかったです。及第点です」
「何様なんだよ、お前……」少年はため息をついて少女を睨む。「お前は、語り手と組むのと、その、凍結とやらをされるのと、どっちがいいんだ?」
「ぎりぎりですけど、凍結のほうがいやです。探しものがあるので」
「そうか。俺もだよ」
「そうなんですか」
「ああ」
束の間、部屋を沈黙が支配した。少女も、少年も、この部屋の長である女さえも、何も言わない。もはや言葉は尽くしたとでもいう風に、三宮依織は腕を組んで成り行きを見守っている。そして実際、もうそれ以上の言葉は必要なかったのかもしれない。少年は一度、深呼吸をして、わずかに憑き物が落ちたような、あるいは諦めたような顔で、言った。
「……やってやる」
「ほう? この読み手と、レーベルを組むと?」
「ああ。ただし、あくまで仮です。他の適正者が見つかるまでの、仮契約。それが精一杯の譲歩です」
「フッ。いまはそれで充分だ」依織はめずらしく、短く笑って、少女に顔を向けた。「お前も、それでいいな?」
「まあ、いいですけど」
嬉しそうでも不平があるようでもない、感情の読み取れない声で、少女は答えた。それでも依織は満足そうに頷いた。
「本日の用件は終わりだ。とっとと寮に帰るがいい」
「はあ」「そうですか」
気の抜けた返事をして、とぼとぼとエレベーターへ向かう少年少女の背中に、依織は最後に付け足すように言葉を投げた。
「ああ、そうだ、忘れていた。私は気が乗らんのだが——明日早速お前たちの実力を測るテストが行われることになった。明日はネイキッドスーツを忘れるな」
二人が地上に出た頃には、日が傾きかけていた。丸みを帯びた山々が、春の薄紫色の夕陽に染まっている。少年の前に立つ少女の、首の付根あたりで切り落とした灰色の髪にも、夕陽の色が移っている。少年の視線を感じたわけでもなかろうが、ふいに少女が振り返ったので、少年は慌てて目を逸らした。
「あなたの寮はどこですか」
「あー、えーっと……たしか
「場所はわかりますか」
「わからん」
「こっちです」
「知ってるのか?」
「はい。わたしも同じ寮なので」
言って、少女はキズキが先ほど通ってきたのとは逆の下り坂をぱたぱたと歩きだした。キズキは、少女が裸足にスリッパを履いていることに初めて気がついた。明らかに外履き用ではない、病院などに置いてありそうな深緑色の小さなスリッパ。前に見た患者衣ならわからないでもないが、制服のブレザーとプリーツスカートとはあまりにもミスマッチだ。とはいえ、キズキはキズキで制服のズボンに私服のパーカという姿なのだから、あまり人のことは言えないのだが。
どことなくふらふらと不安な足取りで歩く少女の後を、キズキは無言でついていく。会話はないが、特に気まずい雰囲気でもない。少なくとも少女に気まずさを感じ取る感性はなさそうで、それなら放っておけばいいのでキズキとしては不思議な気楽さを感じているぐらいだった。
「むっ」
下り坂の終わったあたりで突然、少女がアホ毛をピンと立て、道の脇の何かにぱたぱたと駆け寄っていく。猫でもいたのかとキズキが思っていると、
『…………』
「あれは、《断章》!? いや……野良テキストか」
一瞬、無意識のうちに高まった緊張を緩めて、キズキもそれに近づいていく。
野良テキスト。この世界から虚空へと流出し、変質して戻ってきた物語である断章と違い、自然発生し、《アーカイヴ》による収集および編纂からも漏れた、意味をもたないテキストの集合体である野良テキストは、特に害のあるものではない。いつの間にか部屋の隅に溜まっている埃のようなものだ。意味をもたず、物語として成立していないので、無銘刃の弾にもならない。放っておけばバラバラになり、他の物語に吸収されてしまう。それほど頻繁に見るものでもないが、そんな無意味なものを、少女は何をそんなにしゃがみ込んで観察しているのかとキズキが訝しんでいると、
「あーむ」
「げっ」
食った。
「むぐむぐむぐ——ごっくん」
食った。野良テキストを。道端に落ちている綿菓子のような見た目のテキストの塊を、少女は文字通り口に入れて、咀嚼して、飲み込んだのである。
「野良猫かお前は! 道に落ちてるものを口に入れるな! いや、そうじゃなくて……そんなもん食べて大丈夫なのか? ていうか、え、食べる? 食べたの? テキストを? どうやって……?」
混乱する少年をよそに、少女は立ち上がって、感想を述べた。
「おいしくないです」
「そりゃそうだろうな」
「たまに味がついてる当たりがあるんです。それでも、コダマが街で食べさせてくれるごちそうのほうがずっとおいしいですけど」
「へー……って、こんなことしょっちゅうやってるのか!」
「おなかが空くんだからしょうがないです」
「あーもう……これでも食ってろ」
そう言ってキズキはパーカのポケットをまさぐって、紙で包装された菓子を取り出し、少女に投げて寄越した。高カロリーかつ腹持ちがいいので有名な『シュニッカーズ』だ。少女は投げられたそれを暫く不思議そうに見つめてから、包装紙を裂いて出てきた半分溶けかかっている茶色い棒を口に含んだ。
「あむ、むぐ、むぐ、むぐ」
食べながら、少女はふたたび歩き始めた。少年もそれに続く。
「どうだ、美味いか?」
「むぐ、ん————味がしておいしいです」
「はは、だろ? 虎の子を放出したんだから、感謝しろよな」
「こんなおいしいものが出てくるということは、ごくり……あなたのそれは、ひょっとして、噂に聞く十四次元ポケットというやつですか? あなたこそ、トラの子ではなくネコ型なのでは?」
「なんだそりゃ。たまたま入ってたんだよ……そんなに見られても、もう何も出てこねーぞ」
「じゃあもういいです。どっか行ってください——あ」
「今度はなんだ?」
「もう着いてしまいました」
少女の言う通り、山道を抜けて程なくすると、三方を森に囲まれた開けた土地に洋風の立派な建物が二棟、建っているのが見えた。共用らしい玄関の前には、手を携えて立つ一対の男女の像。それぞれの背中には一翼ずつ翼が生えている。
「なあ、これは何の像だ?」
「さあ。なにかの神さまじゃないですか」
少女は何の興味もなさそうに言った。
「神様? こんな神様いたっけ」
少年はなおも興味を引かれているようだったが、少女が構わず扉を開けて建物の中へ入っていこうとするので、慌てて後を追った。
共通玄関をくぐって中へ入ると、すぐに幾つもの視線が突き刺さる。見慣れぬ転校生に向けられたものか、それとも悪い意味で有名らしい読み手の少女に向けられたものか、キズキには読み取れなかった。視線はすぐに霧散し、改めて中を見渡すと、寮の共用部らしいホールにはソファが何脚か、あとは自販機と吊り下げ式のテレビがあるだけで、特にめずらしいものは存在しなかった。奥には男女別に大浴場があるらしい。首都では叔父夫婦の家で暮らしていたキズキは、ネイキッド強化合宿で何度か利用した宿舎をなんとなく思い出していた。
少女が無言で左の廊下へ向かうので、キズキは何も考えずについていこうとすると、少女は立ち止まって、
「あのー」
「ん?」
「この先は女子棟です。男子棟はあっちです」
「あ、ああ、そっか。そりゃすまん」
「コダマに聞きましたけど、この寮はきびしいのです。男子が女子棟に立ち入ったり、女子が男子の部屋に遊びに行ったり、そういうのはだめです。なんか、すごく怒られるらしいです。意味はよくわかりませんけど。わたしは怒られるのは嫌です。だから、あなたも気をつけてください」
「お、おう。たしかに、怒られるのはイヤだな」
「わかればいいのです。では」
それだけ言うと、少女はぺたぺたと女子棟へ歩き去っていった。意味もなく、少女の後ろ姿を見送っていたキズキは、ふと、背中にまた視線を感じて振り返る。が、誰も見ていない。見ていないが、ソファで思い思いに寛いでいる風の同世代の少年少女たちが、キズキを意識しているのは間違いないようだった。転入生がめずらしいのか、それともやはり「あの」少女と一緒にいたからなのか。早くもキズキが集団生活の窮屈さを感じていると、
「ふぃ~~~。やっぱり風呂は一番風呂に限るぜ~……お?」
奥の通路から、湯気と石鹸の匂いを立ち昇らせながら、為永サダメが歩いてきた。
「おう、久しぶりだなぁお前さん。元気してたか?」
「ああ、二時間半ぶり」
「それで? 呼び出しってのは結局なんだったんだ?」
「あー、それは……まあ、明日になればわかるんじゃないかな……」
「なんだよなんだよ、ずいぶん気を持たせるじゃねーの。今日からお隣同士なんだから、仲良くしようや」
「お隣同士?」
二人は、少女が向かったのと反対の廊下を渡り、階段を上がり、ドアの並んだ細長い廊下に出た。サダメは階段至近の角部屋で立ち止まり、ドアの前にダンボールの積まれた部屋を指差した。
「お前さん、この302号室だろ? 俺はここ、301」
一応、端末で確認してみるキズキ。
「……たしかに、ここみたいだな」
「ま、なんかあったらオレの部屋へ来な」
「ああ、助かる」
互いの部屋の前で別れ、キズキはダンボールを退かし、ドアの横の認証パネルに端末をかざして解錠する。ダンボールを運び込み、初めて足を踏み入れた部屋を見回すと、
「…………」
部屋の中にもダンボールが積み重なっていた。もともと狭いうえに、備え付けのデスクとベッド以外には何もない部屋では、余計にダンボールの存在感が目立っている。
「こんな荷物を送ったつもりはないんだけど……」
ためしにキズキは手近なダンボールをひとつ、開けてみる。すると、中には米や缶詰がぎっしり詰まっていた。ひょっとして、全部のダンボールがこんな有様なのだろうか。だとすれば、軽く数ヶ月分の食糧がこの部屋に存在するということになる。
「叔母さん……」
キズキは、この部屋の惨状を生み出したであろう人物の好意を思い、嘆息した。そして、シーツも敷かれていないマットレスに力なく座り込み、間違いなく自分が送ったはずのダンボールを開ける。いちばん上に、かつて愛用した黒いネイキッドスーツがきれいに畳まれて入っていた。
「…………」
キズキはスーツを取り出し、目の前で広げ、暫くそれを見つめていた。そして短くため息をついてから、スーツを丸めてベッドに放り投げ、自分もベッドに寝そべった。
「荷解きは、明日でいいか……今日はなんか、疲れた……」
そう独り言ち、さしあたりすべての問題を先延ばしにして、キズキは目を瞑った。
→→→→→→→→
翌日。学園は朝から妙な熱気に包まれていた。その理由は今日が短縮授業だから——などではなく、短縮授業のあとに予定されている二組のレーベルによる公開闘技《ディスカッション》のせいだ。三倉蔵人率いる学園有数のエース級レーベル《聖戦姫》、そして、これまで何人もの語り手を病院送りにして長い凍結から目覚めたばかりの《物語喰い》ニアイコールと昨日転入してきたばかりの謎の転入生の語り手との即席レーベルの対抗戦なのだ。どこからか噂を聞きつけた生徒がそれを広め、それを聞いた生徒がまた広め、放課後になるまでにはほとんど全校生徒に知れ渡り、今か今かとその時を待ち望んでいる状況だった。
「ここまで大事にするつもりはなかったんですがね……」
学園外れの実習地の脇に建てられた観測塔最上階の教員用特別観覧室で、三宮依織はため息混じりに呟いた。
「まあまあ、いいではないですか。田舎者との誹りを受けがちな我が白弓学園ですが、この島こそが
「学園長……」
依織の隣に、幾分近すぎる距離感で立っている老齢の男は、呼び名の通り、この白弓学園の長であった。武力としてのネイキッド実行部隊の長は依織だが、「学園」として表向き生徒を預かる立場の長が、この明らかに欧州の血を引いている老人なのだ。名を三倉以蔵という。
「……お孫さんも、さぞお喜びでしょうね」
「ほっほっほ。先日の合同訓練でも、首都防衛隊からスカウトの話があったようですがね、もちろん断らせましたよ。聞けば、あの《物語喰い》の即席パートナーとなった少年は以前、首都にいたそうではないですか。果たしてどちらが本当の田舎者なのか、今日のこの試合ではっきりするでしょうな」
「…………」
べらべらと喋りつつさりげなく肩に手を回してこようとする老人の手を無言で払い除け、依織は眼下で準備の整いつつある対抗戦の参加メンバーに視線を落とした。イレギュラーな経緯でレーベルを組むことになった少年少女の実力を実戦形式で試す——そのこと自体には依織も否やはないが、このような見世物にすること(放送部による実況中継までするらしい)、そして何より相手が学園長の孫である蔵人のA級レーベルであること、これはあまりに作為に満ちている。そう、今日のこの「練習試合」には初めから、この老人の強力な意思が介入しているのだ。依織にとっては望ましい形とはいえない。
(まあ、多少はハンデを埋めさせてもらったがな)
「明日になりゃわかるとか言ってたけどよ、まさかオレまでこんな面倒事に巻き込まれるとは思ってなかったぜ」
「よくわからない間にこうなってたんだ。悪いとは思ってる」
「まったくよ。なんであたしがこんな蛆虫どもと……」
「コダマは面倒、ですか?」
「そんなわけないじゃないのニア~~! ニア、あなたはあたしがこのいやらしい男どもから責任もってキッチリ守ってあげるからね!」
5対2ではあまりに戦力に開きがありすぎる、そう主張して依織が適当に暇そうにしているのを見繕い、強引にキズキとニアイコールのチームに引き入れたのが、為永サダメと玉坂コダマなのであった。サダメはパッと見ではほとんど手ぶらなのに対し、コダマは——
「なんか、すごいな……」
自らの肉体そのものがひとつの無銘刃といえる無銘体——読み手は例外として、それ以外のネイキッドは語り手も含め、通常はひとつかふたつの無銘刃を武器として扱う。だが、コダマの武装は一種異様であった。一人で戦争でもおっ始めようというのか、と言いたくなるほどの重武装。両腕に添わせたブレードから始まり、両足はブースター付きチタン合金ブーツ、背中には何種類もの銃火器を携行するその姿は、一体の巨大な強化外骨格に納まっているというのが実情に近い。
「何よ、なんか文句あんの? 気に食わないけど、相手は学園指折りのレーベル《聖戦姫》なのよ。あたしみたいな凡人が相手するにはこれでも足りないぐらいよ」
「いや、文句は別にないが……」
「しっかし久々に腕通したなぁ、このNスーツ。男が着ても誰も得しねーっつーの」
ボヤくサダメを始め、実習地に集まった面々は全員《ライブラリ》謹製のネイキッドスーツ——通称Nスーツを身に纏っていた。柄や色合いはバラバラだったが、左胸に白抜きの円形の意匠が施されていること、生地は(目を凝らさないとわからないが)極小の矢印型の繊維で編み込んであることは共通していた。そして、男女ともに身体のラインが完璧に出てしまう、異様にピッチリとした作りなのである。上は七分丈の袖が主流で、下は実際のところ丈はなんでもいいのだが、男女ともにスパッツと呼んで差し支えないものが多い。一見すると防御力の面ではあまりに頼りなさそうだが、単純な打撃や斬撃では傷ひとつつかないし、着ているだけで自動的に汎用挿話を吸収・循環させ、《断章》や《挿話》など物語由来の攻撃への耐性、言わばバリアのようなもので体表面を保護してもくれる。さらに、語り手から読み手への挿話装填の成功率、そして効率も格段に上がる。——見た目はピチピチの薄い布だが。
そのような代物なので、着る者が着れば——コダマや向かい合っている聖戦姫のメンバーたちのように——形の良い胸部が強調されてしまうし、
「…………」
キズキは無言でチラリと隣に立つ上下黒で揃えたスーツに身を包んだニアイコールを見て、
(何も強調されないモノもある)
「いまなにかものすごく腹が立つ
ニアイコールはアホ毛をギザギザにしてキズキに向け、彼を半目で睨んだ。
「いやいや、気のせいだって気のせい」
「嘘です。わたしは物語にはびんかんなんです」
「あの、そろそろ始めてもらっていいかい……?」
目の前で仲睦まじげにやりあっている(ように見える)キズキとニアイコールの様子に内心穏やかではないが、こめかみに青筋を立てつつ努めて冷静に進行を促す三倉蔵人だった。
改めて、キズキたちの即席レーベルと蔵人の《聖戦姫》が向かい合う形となる。先頭には腕を組んで仁王立ちしている蔵人、その後ろに四人の無銘体の少女たちが控えている。キズキたちとは違い、《聖戦姫》の無銘体たちは一様に緋色のNスーツで揃えている。
「?」
キズキはなんとなく違和感を覚えた。四人? いや五人だろうか? 先日も見た少女たちが、なんだか増えているような気がする。が、正面から向き合っているとはいえ十五メートルほど離れているので、判然としない。尚もキズキは目を凝らそうとするが、
『そうだな。そろそろ始めてもらおうか』
スピーカーから拡張された依織の声がした。いつの間にか集まった、暇を持て余した学園の生徒たちが歓声を上げる。実習地の広い砂地には観賞用の巨大なモニタが複数設置してあり、それによりいまから自分たちはリアルタイムで彼らの見世物になるのだと思うと、キズキはまたぞろ腹の底からため息をつくことになった。
『ルールを説明する。普通にドンパチやってもらってもよかったんだが、今回の
『うおおおおおお~~~~~~~!!!!』
なんだかよくわからないが、とりあえず盛り上がる野次馬たち。すでに勝利を確信したかのように傲然とした態度で「敵」を眺める《聖戦姫》、耳を掻いたり砂地に絵を描いたりとまるでまとまりのないニアイコールたち。何もかもが噛み合わない闘技とやらがいま、始まろうとしていた。
『私の合図で直ちに散開。山に分け入って闘技スタートだ。ただし、実力行使は各レーベル全員が山に入ってからとする。勝利したレーベルには食券100日分を贈呈する。両レーベルとも健闘を期待する。では————
依織の合図とともに鬱蒼とした木々の中に飛び込んだ直後、キズキたちは事前の打ち合わせ通りにキズキとニアイコール、サダメとコダマの二組となって別行動を開始した。コダマはいろいろと文句を言っていたが、現時点でニアイコールに挿話を装填できるのはキズキだけ、それは彼女にもわかっていた。
(『宝探し』か…………)
学園の担任兼部隊長の放ったそのフレーズにも、キズキはなんとなく運命めいたものを感じていた。
二組に分かれてからの行動は各々に任せてある。ニアイコールは頭頂部の髪束をぴょこよこと動かしながらトテトテと勝手気ままに山の中を歩いていく。「こっちに何かある気がするのです」そう言うニアイコールに、キズキはおとなしくついていく。ニアイコールには未だ挿話を装填していない。Nスーツを着ているとはいえ、ほぼ無防備と言ってよかった。「敵」にとっては格好の獲物に見えるだろう。敵——《聖戦姫》のうち数人が木々に隠れながら音もなく、しかしすさまじい速度でこちらを追走していることにキズキは気づいていた。
(そろそろだな)
森のなかの少し開けた草地にたどり着き、ぽつねんとつっ立っているニアイコールに向けられる複数の殺気を感じとった瞬間、キズキは己の集中力を極限まで高め、拡張された意識のなかで一瞬にして挿話を編み、スーツの左胸、円形が描かれた部分に手を当て——
「
 叫びつつ、少女の同じく左胸の円の真ん中に投擲。光る矢印は瞬時に少女の薄い胸に溶けていく。少女の瞳、そしてスーツに包まれた全身に無数の文字列が浮かび上がり、ポッ、ポッ……と一文字一文字に火が灯り、全身を巡る炎となる。灰色の瞳は
「
呟く赤い少女を見て、ついに二人の聖戦姫が木々のなかから姿を現し、奇襲をかけようとするが——
「飛んで米びつに入るコクゾウムシとは、このことです」
頭頂部の髪束が恒星のように輝きだし、二つの矢印となって分かれ、それぞれがまるで熱線のように空中にまろび出た少女たちの胴を穿つ。
「がっ」「うあっ」
穿つだけではとどまらず、赤い熱線はおそるべき速度で少女たちを山の反対側まで吹き飛ばしてしまう。
ドオオォォォォォ……ォォォン
最後には切り離された炎の鏃が爆発し——キズキたちからは見えないが、山の一部が削れ、変形してしまった。スーツに守られ、肉体的ダメージは軽微とはいえ、炎によって彼女たちに装填されていた挿話は燃やし尽くされ、当然、聖戦姫の二人は一発で戦線離脱である。
「な、んだ……あれは……?」
「相変わらず、すさまじい出力だな」
予想外の展開に狼狽している隣の老人を見やり、内心痛快に思いながら依織は呟いた。予想外なのはモニタで中継映像を見ていたほとんどの学園生徒も同様であり、一瞬の静寂ののち、大きな歓声が上がる。だが、そのモニタのなかで、力を使い果たしたニアイコールがしゅるしゅると萎びていくかのように輝きを失い、文字通りの燃え尽きた灰になっていくのを見た依織は、こう付け足すほかなかった。
「出力だけは、な……」
「はあ、はあ……よくやった、ニアイコール」
「こんなの、お茶請けのザーサイです」よくわからないことを言って、「活躍したのはわたしなのに、なんであなたがそんなへろへろなんですか」
「病み上がりだっつったろ……おえぇぇ」
「物語酔いにしても、そんなひどいことになるひとを見たのは初めてです。ですが、わたしの力をここまで出せるひとも初めてなので、ねぎらってあげましょう。よしよし」
マテバシイの木の幹に身体を預けてへばっているキズキの頭を、スーツに羽織ったパーカの上からぞんざいにわしわしと撫でていると、「むっ」——ニアイコールのアホ毛がピクッと動き、少女はするどく草地の向こうの木々の奥に顔を向けた。
「あっちに何かがあります。間違いないです。食券100年分はわたしのものです」
単位間違ってるぞ、とツッコむ間もなく、少女は少年を放置してざくざくと森の奥に分け入っていってしまった。
「おい、こら……待て……お前、いま……挿話が……」
キズキはようやくといった調子でふらふらと立ち上がり、少女を追いかけようとする。
そのとき————
ギイイイイイイイイィ……ィィィィイイイイ
小山を覆うかのような、頭痛のような巨大な金属音——干渉音。《断章》が流入したのだ。それもひとつではない。
ギイイイイイイイイイイ
 立て続けに鳴る干渉音。キズキは耳を凝らす。観覧室にいるはずの依織も当然、状況は把握しているはずだ。しかし、実習地のあちこちに設置されたスピーカーからはいかなるアナウンスもない。この程度のアクシデントは織り込み済み。闘技は続行。むしろ、本来そのための
(あっちの方向はまずい……)
断章の降下地点、つまり憑依体発生予測地点は、まさにニアイコールが向かった先なのだ。
「……なあ、お姐さんがたよ。こんなとこで油売ってる場合じゃねーんじゃねーか?」
「まあそう言わず、もう少し遊んでいきなさいな」
 サダメとコダマの二人は、山の中腹で《聖戦姫》残りの二人と対峙していた。レーベル《聖戦姫》の四人の無銘体の能力は《
「ああもうっ、なんなのよあんたたちはっ! 早くニアのところに行かなきゃいけないのに……こんなどうでもいいお遊びなんかより憑依体を倒すのが先でしょ!」
「そんなの、蔵人様がなんとかしてくれるわよ」
「あんなナルシストに何ができるってのよ」
「……リーダーを悪く言わないでくれる?」
ギィイインッ
「くっ」
ここにきて初めて明確な殺意をもった超高速の攻撃を受け、それをどうにか両腕のブレードで防いだコダマ。
「それに……」
「それに、何よ」
「……いいえ、なんでもないわ。あれは私たちとしても不本意だし」
「そうね。だから、あなたたちはもう少しだけ私たちの相手をしてちょうだい」
サダメとコダマがまだしばらく不毛の地に釘付けにされるのは必至だった。
「くそっ、あいつ、どこまで行ったんだ!?」
物語酔いから回復したキズキは木々の間を駆けていた。昔とった杵柄で、憑依体の発生地点はほぼ正確に割り出せていた。おそらくニアイコールもそこにいる。そう遠くはないはずだ。初めて入った山なのに、キズキはほとんど迷うことなく獣道を駆け抜けていけた。記憶が確かなら、もうすぐ湧き水のきれいな泉に出るはずだ。そう、この木々を抜ければ——
「ぅぎゃんっ」
彼の記憶に齟齬はなかった。その開けた場所は小さな湿地帯で、水深の浅いうつくしい泉があり——そして、小さな地獄と化していた。湿地帯に出た瞬間、獣に吹っ飛ばされた少女が少年の足元にごろごろと転がってきた。
「ニアイコール!」
もう何度もそうされたのだろう。泉を占領する二体の巨大な虫のような二角獣により、一方的にいたぶられ、ぼろぼろになった少女の姿を見て、キズキは腹が煮え滾るような、言い知れぬ何かの感情が湧き立つのを感じた。挿話を装填さえすれば、少女の肉体的ダメージは一時的に回復する。キズキはいますぐにでも暴れだしたいような禍々しい感情に苛まれながら、どうにか挿話を練り上げ、足元に伏した少女に装填しようとするが、
「なんかそれ……いやです」
少女はそれを拒絶した。
「嫌ってなんだ! 早くしろ。このままだと死ぬんだぞ!」
「いやです……あなたらしくない、他のひとと同じような、いやなにおいがします。それは……食べたくないです」
少女はぼろぼろだったが、その意志は固く、口調はきっぱりとしていた。
「————」
少年は言葉を失い、立ち尽くした。行き場のない、青白く光る矢印が、彼の右手からだらりと垂れ下がった。少女に装填できなければ自らの無銘刃に装填する——そんな至極あたりまえのことすら、頭が真っ白になって瞬時には思いつけなかった。何がそんなにショックなのか、自分はいったい何に衝撃を受けているのか、彼自身にもわからなかった。しかし、状況は止まらない。
ギイイイイイイイイイイイイ
 さらなる断章の流入。泉からこちらの様子を悠然と伺っている二体の獣と同じ色、禍々しい紫の矢印が彼らのすぐ真上にゆっくりと落ちてきた。ここにきてようやく僅かに冷静になったキズキは辺りを見回す。この場所にこれ以上、断章がとり憑くための
ニアイコール。
そうだ。あの断章は、この少女に憑依しようとしている——!
『人型の無銘刃——読み手は虚無化したヒト。世界の穴そのもの————』
 昨日の依織の言葉が脳裏をよぎる。無銘体となった虚無化患者は物語を摂取することで意思をもち、
「くそっ!」
これ以上、自らを責めている時間はない。断章はいまにも少女にとり憑こうとしている。考えている暇もなかった。キズキは、いまだ手の中にあった青白い矢印、純粋な物語のエネルギーを紫色の矢印にそのまま、ありったけの力でぶつけた。ふたつの矢印が接触し、虹色の火花を散らしながらしばらくせめぎ合っていたが、
ボッッ
 断章と挿話はともに無意味な文字列と化し、霧散した。衝撃で、キズキは湿地に背中から倒れ込んだ。ニアイコールが断章に憑依される心配はこれで消滅したが、それだけだ。肝心の、角を活性化させた二角獣があと二体もいるのだ。少年は両腕を湿った地面に突き、どうにか頭を振る。少女は生きているようだったが、地に伏したまま動かない。《
「物語が必要かしら、語り手さん?」
《挿話 四月五日 その少女は》
「物語が必要かしら、語り手さん?」
まず、声がした。涼やかな声。そして、
シャランン……
その声にも似た、その音ひとつでこの地獄を浄化してしまうような、鈴の音。
音のほうを向くと、胴を貫かれ、一瞬にして意味消失し消滅した獣の片割れの後ろに、誰かが立っていた。見上げなければならなかったのは、その誰かが泉から露出した苔むした岩場に立っていたからだ。それは少女だった。いましがた、憑依体の一体を貫いた、見たこともない奇妙な槍型の無銘刃を優美に携え、傲然と、しかし一切の油断なく岩場に立つその姿は、まるで泉の主だった。俺は呆けたようにその少女を見つめてしまう。
春風にたなびく、長く艷やかな射干玉の黒髪。額の中心で分けられた髪束は長い二本の筋となって両頬の横から肩口まで伸びている。二本の髪束は真っ白な帯で結わえてあり、その片方——左の帯には揚羽蝶を模した髪留めが揺れていた。シャラン……耳に心地良い鈴のような音はあの髪留めから鳴っているみたいだ。切れ長の目尻に縁取られた琥珀色の瞳。尖峰の如く通った鼻筋に、鮮やかな紅色の薄い唇。長手袋のように指先まですっぽりと覆う一体型の袖と膝上で切れたスパッツはめずらしい白を基調として、紫のステッチが施されたネイキッドスーツ。スーツに包まれているのは細身の長躯。あと、おっぱいがでかい。
おっぱいがでかい。
おっぱい。
おっぱいが。
でっっっk
クス……と少女の洩らした笑いに、文学的考察は中断された。
「物語は補給できた?」少女の問いに、
「……ああ」
俺は力強く頷いた。
→→→→→→→→
少年は《即興》で挿話を編み、早速、隣で仰向けになっている少女に装填しようと歩み寄って、
「よし、ニアイコール。これで——」
「ぜったいにいやです」
先ほどよりはるかに強い口調で拒否された。
「え!? なんで?? 久々の傑作が書けたんだけど」
「ぜったいに いやです。そんなまずそうなもの食べさせられるぐらいなら死んだほうがましです。やるならひとりで勝手にやっててください」
「そうね、それがいいんじゃない?」
謎の少女もニアイコールの意見に同調する。状況が混沌としてきた。
「ひとりでってどういうことだ? これはそもそも読み手に装填するために——」
「きみのそれは、なまくらなの?」
「あ————」
 キズキは、腰に帯びた刀型の無銘刃の存在をたったいま思い出したように、手にとった。たしかにそれは、いまは
「……挿話、装填ッ!」
キズキは柄を握る。矢印として顕在化させず、仮想言語野に留めていた挿話をダイレクトに装填。切先に向かって描かれた矢印型の刃文に深海の如き深い青色の文字列が血のように滴り、刀身に広がっていく。石塊だったそれは、いまや理を超えた異形を討つための紺碧の銘刀と化した。否、虚無化する以前の本来の力をとり戻したのだ。
こうしている間、残った二角獣を適当にいなしていた黒髪の少女が、ふたたびキズキに問う。
「いけそう?」
「ああ」
「じゃ、お願いするわね」
少女は身を引き、少年が獣の前に出た。通常なら、読み手でも厄介な二角獣。だが、
「はぁッ!」
少年が振るった刃は青い残像となって獣の真っ芯を捉え、獣は頭から左右に真っ二つに裂けて、耳障りな金属質の断末魔を残して意味のない文字列へと還った。
一撃必殺。語り手単体としては、おそるべき戦果である。だが、当然、代償はあった。
「もう、無理。死ぬ。吐く」
キズキは途切れ途切れにそう言って、ふたたび泉に倒れ込んでしまった。いまにもきれいな湧水を己の内容物で汚染してしまいそうなのを、えずきながら必死で堪えている。その一部始終を岩場から見下ろしていた黒髪の少女は、言った。
「きみ、とても興味深いわ」少女の口調は、嘘や空世辞ではなさそうだった。「きみはなぜ、こんなに藻掻き苦しんでこんなことしてるの?」
「……宝探しを、してるのさ」
キズキはいまだ尻を水に浸したまま、謎の少女の謎の質問に答えた。意識が朦朧としているせいか、彼自身にもよくわからない答えが口から出た。
「宝探しって、今日のこれのこと?」
「そんなんじゃないさ。俺の探してる宝は、こんなんじゃない」
「そうなの。じゃあ、これはもらっていくわね」
そう言う少女の手には、キューブ状にキャプチャされたテキストが載っていた。今日の「宝探し」の「宝」そのものだった。
「ははっ、そういうことかよ」
キズキは力なく笑った。謎の少女は敵チーム——《聖戦姫》のひとりだったのだ。
「さっきちょうどここで見つけて、ね。私は勝負になんか興味ないけど、持っていかないとウチのリーダーさんがうるさそうだし……」
「しょっけん……ひゃくねんぶん……」
起きているのか寝ているのかも判然としないニアイコールの呻き声が聞こえる。
「そこの彼女には悪いけど、今回は勝ちを譲ってもらうわ。だから、お詫びといってはなんだけど——」
言いながら、黒髪の少女は泉に半身を浸しているキズキのもとへ近寄り、耳元で、
「今度、きみの『本当の宝探し』を手伝ってあげる」
そう、囁いた。少年の心臓が一瞬、ドクン、と鳴った。
そして、何事もなかったかのようにパッと身を翻し、蝶の髪留めをシャランと鳴らしながら宙を一回転して岩場に降り立って、鈴の鳴るような通りのいい声で言った。
「そういえば、まだ名乗ってもなかったわね。私は
「……宮無キズキ」
「宮無キズキ——キズキくん。うん。じゃあ、またね、キズキくん」
その言葉を最後に、綴クオンと名乗った少女は倒れ伏す少年少女を振り返りもせず、春の夕暮れに吹くつめたい風のように、森の奥へと姿を消した。シャランン……髪留めの鈴音だけを残して。
その後、どうにか二人を発見したサダメとコダマにより、それぞれ担がれてスタート地点へと戻った。改めて、審判の依織から敗北を告げられ、勝利した《聖戦姫》には全員に食券100日分が贈呈された(それをニアイコールはコダマの背中から恨めしそうに見ていた)。互いの健闘を称え合うなどの一幕も当然なく、闘技はお開き。本来すでに放課後なので、更衣室で制服に着替えてから(キズキだけは頑としてびしょ濡れ、泥だらけのパーカを制服の上から羽織った)、それぞれが帰途につくことになった。といってもキズキとサダメ、そしてニアイコールは同じ寮だったし、コダマだけは別の住所らしかったが、ニアイコールが肉体的損傷というよりはいまにも寝てしまいそうなので、寮まで担いでいくことになった。
学園と寮はほぼ隣り合っているのだが、校門との位置関係上、寮に帰るには山道を半周ばかりしないといけなかった。決して大柄ではないが健脚らしいコダマがニアイコールを担ぎながらずんずんと山道を登っていくのを、なんとなく少し距離をとってついていく形になるキズキとサダメ。島でひとつの都市を名乗っているのは伊達ではなく、このような山道にも等間隔で白色街灯が整備されているが、春になって間もない宵の口の帳のような薄闇は消し去りようがない。
道中、会話はほとんどなく、なんとなく、少しだけ気まずい雰囲気が四人の間に漂っていた。特にキズキは、ほとんど忘れかけていたさまざまな感情に振り回され、そのすべてにいまだケリをつけられない、そんな様子だった。灰色の少女が目の前でいたぶられるのを目にしたときの、正体不明の激情。その少女からの二度に亘る拒絶。そして、綴クオンと名乗る美少女からの誘い……。そのどれもが、いまの彼にとっては手に負えないもののように思えた。キズキはサダメに悟られないように、ちらりとコダマに背負われるニアイコールを見た。
『あなたらしくない……他のひとと同じような……いやなにおいがします————』
あのときの、灰色の少女の弱々しくも確固たる意志を宿した声。それが、少年の喉奥に鰊の骨のように突き刺さっていた。それを意識するたびに、両手で喉を掻き毟りたくなる。だが、その手は決してそれに届かないのだ。
(『あなたらしくない』? 数日前会ったばかりのお前に、俺の何が解るっていうんだ)
少年の思いは声にならず、言葉にならず、物語にならず、ただ胸の奥に沈殿していく。
寮に帰ってきた少年たちを、ふたたび一対の男女像が迎えた。片翼をもつ、一対の男女。先日からどうにもこれが気になってしかたなかったキズキは思わず、像の前で足を止めてしまう。
「ふぃ~~~、ようやく長い一日が終わるぜ……あん? お前さん、そんなカッコでそんなとこつっ立ってると風邪ひくぜ。早くひとっ風呂といこうや」
「ああ……うん。先、行っててくれ」
「そうか? ほんじゃまぁ、今日も一番風呂をいただくとするか~~」
サダメに気のない返事をして、男女の像の前に立ち尽くすキズキ。そして改めて、しげしげと像の造りを観察する。銅ではなく、何か灰色の石でつくられた裸像だ。銘はない。題名もない。こういった像にしては男は筋骨隆々でもなく、女はふくよかでもない。ふたりとも華奢な体型で、男と女というよりは少年と少女と言ったほうが近い。少年の左手は少女の腰に、同じく少女の右手は少年の腰に回されていて、そして少年の右手と少女の左手は固く結ばれて、ある一方を指している。キズキは思わず、彼らの指す方向を振り返るが——もちろん、何もない。強いて言えば、山と山の隙間から遠くの海が見える。
(海か……そういえば、あの夏はよく海辺で遊んだ気がする)
幼年期の記憶がほとんどないキズキの頭に唯一、鮮烈な記憶として焼きついている、五年前の夏。彼はその夏のほとんどを同じ年嵩の少女とふたりで過ごした。三年前の大災害によってこの島は一度壊滅し、少女もまた死んでしまったのだろうと思い込んでいた。だが、彼の主治医である女は言った。『彼女は生きている』——ならば、彼女を探さなければならない。少年が密かに決意を新たにしていると、寮の古めかしい玄関のドアが開いた。
「宮無、あんたまだこんなとこにいたの?」
出てきたのはコダマだった。おそらくニアイコールを部屋へ運び、寝かしつけてきたのだろう。その帰りしな、謎の像の前で呆けているようにしか見えないキズキに声をかけた。
「あ、ああ。えーと、玉坂」
「何よ」
「この像ってなんだと思う?」
「……オリジナル・ネイキッド」
コダマは、誰に聞かせるつもりもなさそうな小さな声で呟いた。
「オリ……え?」
「まあ、この島にとって神様といえば神様なのかもね」投げやりな口調でコダマは言う。「ライブラリが設立されるよりずっと前、その前身組織の《イマーゴ》とか、その他の研究所もまだひとつもなかった、この《アイランドD》がただの長閑な島——本当の弓島だった20年前、巨大な穴が開いたの。世界八空洞のひとつ、弓島大空洞。三年前の弓島大徴税なんかとは比べ物にならない物語災害だったらしいわ。それを止めたのがそこの二人——たった二人の、原初のネイキッド。あたしたち現在のネイキッド研究、運用の雛形になった、すべての始まりよ。あたしもこれ以上は知らない。なにせ名前も何も残ってないのよ。たった20年前のことなのに、言い伝えしか残ってないの。ただ、ひとつだけわかってるのは……彼らは『禁忌』を使って、世界の危機を止めたらしいわ」
「禁忌? それって、ひょっとして——」
「って、そんなことはどうでもいいのよ!」
コダマは眼鏡のつるに手をやって、ダウナーな語り口調から突然声のトーンを上げた。
「なんだよ急に」
「いちおう、あんたには感謝してんのよ。それだけ、言っておこうと思って」
「……それこそ急だな。何に感謝されてんだ俺は」
「ニアを、外に連れ出してくれたことによ」
「別に連れ出したつもりもないが……」
少年は率直な心情を述べた。
「知ってると思うけど、あの子は他の語り手と事故ばかり起こして、そのたびに凍結されてきたの。特に前回のはひどくて——相手が学園長の孫ってのがよくなかったんでしょうね。何ヶ月も眠らされたままだった。もしかしたらそのまま永遠に、もっとひどければ廃棄される可能性だってあった。宮無キズキという語り手が現れるまでは。ニアがふたたび外を歩き回って、それも楽しそうに歩き回るなんて、想像もできなかった」
「…………」
「だから……はっきり言ってぜんぜん納得してないけど、あんたには感謝してるの。でも、同じぐらい心配もしてるの。あんたが下手を打ったら、あの子は必ずまた凍結される。次にいつ目覚めるかもわからない眠りに就かされる」
キズキが意見を差し挟む隙もなく、コダマはまくし立て、
「だから、今日みたいな失敗は二度としないで」
最後にこう言って、先刻よりも深くなった春の宵闇のなかへ足早に消えていった。
釈然としない気分のまま、キズキは風呂場でシャワーだけ使って身体を洗い、ひとりで食堂に来て、適当に惣菜を選んで適当に食事をした。寮の食堂は無料である。それどころか、この学園には学費というものが存在しない。逆に、世界のほとんどの場所で現金と同様に使えるポイントという形で給料さえ支払われる。彼らは表向き「学生」を演じているが、その実情は命懸けで戦う兵士なのだから当然ともいえる。学園の食堂など一部有料の施設もあるにはある。給料であるポイントはレーベルのランクによって差別化されており、また、個別に憑依体討伐報酬としても都度支払われ、ランクは討伐数により上下するので、ランクが高ければ高いほど、実力があればあるほど、「余分なもの」にもカネが使えるといった寸法だった。組んで二日目のニアイコールとキズキはもちろん最低ランク——Dランクであり、月末に振り込まれるであろう給料は最低限の生活を保証する程度のものでしかない。学費や生活費にほとんどカネがかからないとはいえ、贅沢はできない。もっとも、キズキに贅沢するつもりはなく、食事など栄養さえ摂れればそれでよかったので、今日ももそもそと義務的にものを腹に入れるだけだ。
夕食時の食堂は学園の中等部と後頭部の男子と女子が入り混じり、それなりに盛況だったが、もう食事を済ませたのだろうか、サダメやニアイコールの姿は見えず、隅のほうに座っているキズキに声をかける者はいない。ひとりで食事をしている生徒は少なく、ほとんどが小さなグループでのお喋りに夢中で、備え付けのラジオから流れる音楽や声に意識を向ける者もまた、いない。
ト□■ャーラ■□ 2
 ——は~い、そういうわけで、本日もゲストをお呼びしました~! 
「あなたは誰ですか」
——失礼かとは思いますが、ちょっとややこしいのでニアさんでいいですか?
「いいですけど、あなたは誰ですか」
——早速ですけど、ニアさんは食べることに並々ならぬ情熱をお持ちのようですね。食に興味のなさそうなどっかの誰かさんと違って。いいことだと思いますよ~。食べることは生きること、ですからね。読み手としても、物語を「食べる」と表現しています。そんなニアさんがいちばん好きな食べ物ってなんですか?
「……喫茶竜宮のトマトラーメンです。あれは、いいものです。前にコダマが連れて行ってくれました」
——わかる~~~~! あれ美味しいですよね~~。塩ベースのスープにトマトの酸味が合わさって、夏でもさっぱりと食べられるんですよね~。でも、喫茶竜宮といえば名物・ドラゴンパフェも忘れちゃいけませんよ~。
「それは食べたことないです」
——それはですねニアさん、はっきり言って人生の半分を損していますよ。
「そうなんですか。今度またコダマか……あのひとにでも連れてってもらいます」
——食事は基本、他人にタカる。これもまたニアさんの萌えなところですね~。萌え~~。ん? ところでなんですが、「あのひと」っていうのは?
「……なんでもないです。あんなひとは学食の薬膳カレーでも食べてればいいんです」
——んんん~~、気になります。気になりますが、そろそろ番組終了の時間が来てしまったようです。この質問はまたの機会にとっておきましょう! それでは——
「ところで、あなたは誰ですか」
あなたは————誰なんですか————?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
 - 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
 - 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
 - フォローしたユーザーの活動を追える
 - 通知
 - 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
 - 閲覧履歴
 - 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
 
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます