序章 警報(アラーム・コール)


 空がひび割れる音がする。

 世界が軋む音がする。

 ギイイイイイイイイイイイ————

 巨大な金属を擦り合わせるような、あるいは、もう何年も開かれたことのない重い扉を開くような、いかなる者の耳にも不吉に聞こえずにはいられない音が、島の上空に響き渡った。

 終末の喇叭アポカリプティック・サウンド

 ある者はそれを、そんな風に呼ぶ。

 それはたしかな凶兆を孕んでおり、また、それを耳にした者すべてが、それが疑いなく災いの兆しであることを理解していた。

「まったく、いつもながら警報要らずだな、これは」

 島の中東、さして標高のない山の中腹部に半ば埋もれるように建つ灰色の壁、「郷土歴史資料館」の地上3階にある薄暗い総合会議室で、壁一面を占めるモニタを見上げながら中年の男がぼやいた。モニタには、いまのところ眼下の平和な町並みしか映っていない。

「まあ、一応鳴らしますけどね、規則ですから」

 もうひとりの男が、顔も上げずにパネルを操作する。程なくして、島のあちこちに設置されているスピーカーから人工音声による警報が流れ始める。『こちら、災害対策本部です。現在、14時03分。特別災害警報が、発表されました。不要不急の外出を、お控えください。繰り返します。こちら……』しかし、上空に渦巻く轟音の前では、ほとんど小鳥の囀りのようなものだ。まともな人間は、こんな音の響くなかを呑気に散歩などしない。

「何度聞いても慣れないもんですね、部長」

「そうだな。朝なら目覚まし代わりにちょうどいいんだが」

 眼鏡をかけた痩せぎすの男に部長と呼ばれた男は、薄い頭部を撫でながら、気のない声で応える。しかし次の瞬間、右上のモニタに視線を飛ばし、存在しない頭髪を弄ぶ指を止めた。

「……来たな」

 モニタは、何もない中空から巨大な青色の矢印が、地表に向けてゆっくりと垂直に落ちてくるのを捉えていた。

「来ましたね。ということはそろそろ……」

 眼鏡の男が言うや否や、中央の最も大きなモニタの画面が切り替わり、不機嫌そうな女の顔が大写しになった。女の口が開き、やはり不機嫌そうな低い声が響いた。

「《断章フラグメント》の流入を確認した。間もなく憑依体が発生する。これより、指揮権はわれわれ《ライブラリ》ネイキッド実行部に移行、武力行使を開始する」

「……了解」

 男が短く応えると、回線は一方的に遮断され、モニタはふっつりとブラックアウトする。女を映していた画面のみならず、すべての画面が沈黙し、窓のない会議室はより暗さを濃密にした。

「お役御免ですか」

 眼鏡の男がそう言うと、

「いつものことだ。われわれは飾りのようなものだからな」

 禿げた男がシニカルな声を返す。

「しかし、最近多くないですかね?」

「そうだな、まあ……」こみ上げてきたあくびを噛み殺しながら、いくぶん投げやりに男は言った。「春だからじゃないか?」


「春だからかな」

 不機嫌そうな女が、ノイズ混じりのモニタを睨みながら、誰にともなく呟いた。

 地下13階の「戦術資料室」。人里から離れた山間部にひっそりと建つ弓島郷土歴史資料館、地上部はその名の通りの退屈な施設で、訪れる者など滅多にいないが、人の目に触れぬここが、こここそが、この街、いやこの巨大な人工島の防衛の要とも言うべき場所だった。

 何から身を守るのか?

 決まっている。世界の危機からだ。

 人々から捨てられ、忘れられ、失くされた物語による復讐から。

「春だから、ですか、室長!? 何か関係あるんですかっ、それ!」

 若い女性オペレータが、あわあわと忙しなくキイボードを叩きながら上司の呟きを律儀に拾った。だだっ広く薄暗いこの部屋では、他にも数人の若い男女が、同じように余裕のない表情で計器に目を飛ばしたりパネルを操作したりしている。

「もちろんある」

 オペレータに室長と呼ばれた女——血の色のような真紅のリブニットの上からいい加減に白衣を羽織った二十代後半の女性、三宮みつみや依織は腕を組んで断言した。

「春は出会いがあり、別れがある。言うなれば、一年で最も不安定な季節だ。出会いの数、別れの数だけ物語が生まれる。あらゆる時、あらゆる場所で生まれる物語を記録・編纂し、保存する《アーカイヴ》の処理能力が追いつかないぐらいに」

「その割に出会いがないんですけどっ……あっ、干渉音が止みました!」

 オペレータの言うとおり、大気を震わせていた金属を擦るような不快な音が止み、同時にモニタが捉えていた矢印が地表に到達し、ズン、と重い震動を残して消えた。そして次の瞬間、びりびりに千切られていた紙細工が元の形に戻るようにして、三つの角をもった巨大な獣が出現した。モニタはどこか開けた場所に現れた獣と、横に長い建物を映している。獣の体長は建物の三階にまで到達する大きさだ。

三角トリコンか……まあまあだな。干渉音の大きさからして、四角テトラコンも覚悟していたが」

「いやいやいや、充分ヤバいですって!」

 いつまでも呑気な口調を崩さない上司に、オペレータは冷や汗をかきながら声を荒げる。

「さっきから何を慌てている。あそこは再現F区画、遺構名《旧分校》——つまり学園うちのすぐ近くだろう。ヤツらにはあらゆる物理兵器も役に立たないが、うちの《ネイキッド》を四組レーベルほど引っ張り出してタコ殴りにすれば……」

「その《ネイキッド》がいないんですってば!」

「……は?」

 部下の大声にぽかんとした顔を向ける依織。

「いない? なぜ? いくら春休みだからといって、明後日から新学期が」

「その新学期前日、つまり明日まで! 中等部と高等部の主要戦闘構成員全員! 本州に首都防衛隊との合同強化合宿に行っているからですっ!」

「だ……誰だ! そんな日程を組んだのは!?」

『あんただよ!!』

 その場にいる全員が、声を揃えて自らの上司に怒鳴った。そして束の間、水を打ったように気まずい沈黙が部屋を支配する。

 ズウウウゥ……ゥゥウウン

 そうこうしている間に、獣が暴れ始めた。巨躯を震わせ、前足を振り上げて《旧分校》の校舎にのしかかる。それだけで、薄っぺらい壁の一部が崩れ、三階のどこかの教室が青空教室になった。その様子をモニタ越しに無言で見ていたイオリは、少し考え込むように顎に手をやって、艶やかな口を開いた。

「……ええと、つまりこれは、少しだけ、まずいのかな?」

「ええ。まずいです。まずいんです。大いに!」

「ええい! 誰か、ひとりぐらいいないのか! 実習をサボって寮で寝てるような不真面目な奴は!」

「そんな不真面目な学生は室長が全員更生させました!」年若いオペレータは健気に反抗する。「言いにくいですけど、いまからでも本州に応援を要請したほうがいいんじゃ……」

「いや、しかしそれは……」

 依織は難しい顔で言い淀む。オペレータは尚も言い募ろうと口を開きかけた、そのとき。

 モニタのひとつが小さな人影を捉えた。

 少女のような形をしたその人影は、すぐ近くで巨獣が暴れていることなど意にも介さず、校庭の隅にしゃがみ込んで何かを探しているようだった。

「まさか、逃げ遅れた一般人!?」

「いや、そんなはずはない。それに、あの髪色は……」

 モニタが少女の横顔を拡大する。画像は荒いが、三宮依織は何かを確信した様子で備え付けのマイクに呼びかけた。

≒0.001ニアイコール・ゼロスリー。そこで何をしている」

物語喰いソードイーター……まさか、彼女が……?」

「凍結されているはずでは!?」

 にわかにざわつきだす室内。少女はマイクを通した声に反応して立ち上がり、中空を——モニタ越しに「こちら」をじっと見つめた。そして、小さな口を開いた。

『探しものをしています』

 幼く、澄んだ声がスピーカーを通して資料室に響いた。

「そうか。邪魔してすまないが、一度、右を見てくれないか? お前から見て、右を」

『右? ……でかい憑依体がいます』

「そうだ。あれに暴れられ続けると困る。なぜ病棟で眠っているはずのお前が立ち入り禁止のはずのそこにいるのか、いまは問わない。そして非常に気が進まんが、この非常事態に際し、お前の力を借りたい」

 手応えのない会話にこめかみを押さえつつ、三宮依織は少女に対して指示を出した。

『……わかりました』

「助かった——と言いたいところだが、お前にはパートナーの《語り手ナレート》がいない。そもそも、実戦投入できる《語り手》が不幸なことに、今日に限ってひとりもいない。その上、お前は病み上がりだ。それでもいけるのか?」

『……《アーカイヴ》開架領域の7%を使用させてもらえるなら』

「7%か。さすが、高くつくが……構わん。無銘ネイムレスニアイコール・ゼロスリー、ただちに《アーカイヴ》と接続、汎用挿話エピソードを読み込め。選り好みはするなよ」

『了解…………完了』

 言うや否や、少女の全身が光を放ち始める。たちまち、モニタは赤い光で埋め尽くされた。そして資料室の各種計器が、彼女の放つすさまじいエネルギーを観測する。「すごい……」誰かが呟く。

 光の放出が収まるや否や、赤い光となった少女が巨大な獣を一撃で逆の隅まで吹き飛ばした。

「やった! いける! いけるぞ!」

「……あのー、室長?」

 まるで少女のように喝采を上げるアラサーの上司に、大卒二年目のオペレータは暗澹とした顔で呼びかける。

「なんだ? いまがいいところなんだ! あいつ、あんな小さな身体であのデカブツを巴投げにして——」

「いえあの、それはいいですけど……室長、そもそもなんで彼女が凍結されてたか、覚えてます?」

「え?」ぽかんとする三宮依織。

「いや、彼女、燃費が……」

 画面の向こうの状況は、オペレータの懸念を実現した。


「くっ……まずいです」

 少女は己の劣勢を感じていた。憑依体との何度かのやり取りで、三つある角のうち一角はどうにか落とすことができた。獣の象徴であり、力そのものである角を落とさねば憑依体は倒せない。この憑依体はまだ二本の角を残しており——そして、少女の力は尽きかけていた。

 燃費の悪さ。わかっていたことだ。ついさっき装填した汎用挿話を、少女はすでにほとんど消費し尽くしてしまった。しかし原因は他にもある。

「味が、うすい……」

 汎用挿話は、この島で起きるすべての事象を観測し、保存した《アーカイヴ》から自動的に制作されるが、所詮それはインスタントフード。人の手によって編み出される物語とは、質において比べものにならない。

 少女の装転ドレスが解けかけている。燃え盛る恒星のようだった赤光が、いまにも消えようとしている。発生したばかりの憑依体には「目的」がない。しかしいまや、この青い獣には目的がインプットされていた。それは至極単純な目的——つまり、目の前のか弱き存在の「破壊」だ。いま、この瞬間にも憑依体の攻撃は止まず、少女はどうにか耐え、回避しているが——次の攻撃は避けられない。

「ぎゃん!」

 巨大な青い前足に薙ぎ払われ、校庭の端の金網まで吹っ飛ばされた。少女は両手で土を握り潰しながらよろよろと四肢を起こし、巨獣を睨みつける。そして、言った。

「おなかが空きました」

 装転は解けている。挿話はすでに燃焼し尽くした。少女にはもう普通の人間以下の力しか残っていない。それでも、少女は震える膝を掴み、立ち上がる。

「探しものが、ある、んです」

 それを見つけるまで、少女は止まらない。

 しかし、その少女のすべてを否定しようとする暴力が目の前に迫っていた。憑依体が少女の命を確実に奪うため、その巨大な前足を振りかざす。踏みつぶすつもりか、あるいは八つ裂きにするか。いずれにせよ、足のひと振りで少女は死ぬ。

「っ——」

 次の瞬間、たしかな衝撃が少女の全身を襲った。しかしその衝撃は穏やかで、

「あたたか、い……?」


   《挿話 四月二日 曇り》


 緩慢なテンポで上下に揺れ続ける床に寝そべっていたら気分が悪くなってきたので、風に当たろうと思い、ふらふらとした足取りでデッキに出る。錆の浮いた鉄柵にもたれかかり、曇天を見上げると、潮の匂いを含んだ風が身体を通り抜けていく。胃のむかつきは相変わらずだったが、悪くない心地だ。潮の匂いなんてもう何年も嗅いでいなかったのだ。でも、少し風が強すぎる。大型のフェリーだったがそれなりに速度は出ているらしい。首都を出て数時間、あと30分もすれば目的地に到着するはずだ。俺は、横っ面に吹きつける湿った海風にわずかに顔をしかめ、パーカのフードを目深にかぶり直した。

 懐かしい潮の匂いに刺激されて、少しだけ昔のことを思い出した。

 六年前。俺と、彼女のいた、あの場所のこと。

 一度きりのあの夏。マルメロの実のような柔らかで強い陽光。そして————

「…………」

 記憶は書きかけの地図のように曖昧で不確かだった。掴めそうで決して掴めない、夢のような手触り。もう彼女の顔もうまく思い出せない。

 俺はいま、その場所に向かっている。かつて弓島と呼ばれた、俺の故郷。だが、俺の見知っている人や町並みはもう残っていない。彼女も含めて。なぜなら、あの場所は————

「やあ、ここにいたのか。探し回ってしまったよ」

 横からかけられた声とたばこの匂いで、物思いは強制的に中断された。目を開けると、すぐ横にこの旅の同行者が立っていた。上下紫色のパンツスーツ姿は嫌でも目を引く。奇抜な色だからではなく、異常なほど似合っているからだ。こんなものを着こなせる人間は他にいない。着ようと思う人間もいないと思うが。

「顔色がよくないみたいだが、船酔いでもしたのかい?」

「あんたの言いつけを実行してたんだよ」

「ああ、なるほど。訓練か」同行者はたばこを咥えたまま、片方の口角をつり上げて笑顔を作った。「その前に、ちゃんと先生と呼びたまえ先生と。私はきみの主治医なんだぞ」

「医者なら医者らしく、白衣でも羽織ったらどうですか、暮町くれまちセンセー」

「嫌だなぁ、反抗期かい? それに白衣、白衣だって? あれを羽織っていれば患者は治るのかい? あんなものは衛生に何も寄与しないよ。あれが守っているのはただのイメージだ。それに……」

「それに?」

「もし私が医者らしい格好なんかしたら、なんだかいろいろなものがたまらなくなってしまったきみが私に襲いかかってしまうかもしれないじゃないか」

 独特な匂いのたばこのせいもあって、俺はゲホゲホと咳き込む。何を言い出すんだこの人は。しかし、まあ……改めて見ると、短い髪やすらりとした体躯のせいでたまに忘れるが、俺の主治医であるこの暮町未明という人は、まぎれもなく女性なのだ。涼やかな目元と人を食ったようなシニカルな笑みを作る口が特徴的な、まあ、美人でもある。

「医者らしく、というきみの要望には応えられそうにないが、しかし年長者らしく振舞うことにかけては私も吝かではない」

 そう言って、暮町先生は、いったいどこから取り出したのか、両手にそれぞれジュースを握ってこちらに差し出してきた。いままで左手に挟んでいたはずのたばこは艶やかな唇に再び移動している。どんな早業だよ。

「好きなほうを選びたまえ、少年」

 右手にはペットボトルの、100%オレンジジュース。

 左手には缶の、果汁が1%入っているかどうかも怪しい得体のしれない炭酸飲料。

「…………」

 俺は無言で100%のオレンジジュースを取り、キャップを回し開けてゴクゴクと飲んだ。そんな俺を暮町先生は薄い目で見ながら、自らの手に残ったゲテモノ系飲料を美味そうに飲み、また吸いさしのたばこに口をつける。煙を吸い込むのに合わせてたばこがばちばちと鳴る。そして、甘ったるい煙を俺に向けて吐き出す。医者の要素が一個もねえ。

「きみはまた何か言いたげだが、私は内科でも小児科でもないのだから、これ以上のクレームは受け付けないからね。しかし、たしかに医者ではある。かなり特殊な専門の、ね」

「知ってるさ」思わずふてくされたような声が出てしまう。

 特殊な専門医。俺のような、俺たちのような人間を専門に診る、いや研究する。

「煮え切らないね。その専門家の意見を言わせてもらうとすれば——もったいないと思うよ、純粋にね。きみほど優れた《語り手ナレート》もなかなかいないというのに。この二年あまり、『種無し』なんていう罵倒を甘んじて受けていたようだけど、きみの挿話エピソード生成能力はもう回復してるはずだ」

 なんでもお見通しか……だけど。

「誰になんと言われても、もう《読み手リード》とは組まない」

「私はそれでも構わないが……さて、きみの運命がそれを許すかな?」

 言って、女医は最後に大きく煙を吸い込み、錆まみれの灰皿に吸い殻をねじ込んで、煙を潮風に溶かした。それが合図かのように、イミテーションの汽笛が鳴った。

「迷える思春期男子に、最大のヒントをあげよう」女医は、蠱惑的な低い声を汽笛の音に紛れ込ませた。「彼女は生きている」

「————え?」

 言葉の真意を尋ねようとした俺を、しかし目の前の大人の女性は煙に巻いた。たばこの煙はもう、はるか後方に消えているというのに。

「見たまえ少年。あの虚ろな島がきみの行くべき場所、きみの帰るべき場所——再現都市Dだ」

 まったく医者らしくない医者の指差すほうを向くと、きらめく波の向こうに巨大な島が見えた。あの日、地図から消えたはずの島が。

「そろそろきみの、きみ自身の物語を始めてもいい頃だと思わないかい、宮無キズキくん?」

 女医の謎かけじみた声とふたたび鳴らされた汽笛の音が重なり、暗く深い青色の波間に落ちていった。


 →→→→→→→→


「っ……どうだ!?」

「……装填リロードには成功。でも装転デコレートに必要な最低深度に達していません」

「駄目か。くそっ」

「はっきり言って薄味です。それにこの挿話からはなにやら女のにおいがします。成熟した魅力的な年上の女性への思春期丸出しの劣情でいっぱいです。ばっちいです。ぺっぺっ」

「久しぶりなんだからしょうがないだろ! あとなんだ女とかって」

「それよりなんでまだいるんですか。わたしへの挿話装填は失敗しました。語り手が挿話を記述できるのは一日に一度……あなたにできることはもうありません。はやく逃げてください」

「いや——もう一度やってみる」


   《挿話 四月二日 曇り #2》


 暮町先生とは島北端の港で別れた。

『学園』への転入手続きはもう済ませてあり、荷物も寮に送ってあるはずなので、実際のところ今日は特にやることがない。強いて言えば《ライブラリ》に下見、というか顔出しぐらいはしたほうがいいか。とはいえ場所もわからない。できれば案内してもらいたかったのだが、先生はなんだか用があるとかでさっさとどこかへ行ってしまった。ネイキッド用の端末で地図を出せば、表向きは別の施設を名乗っているはずのライブラリの場所は当然入力されているはずだが——まあいいか。別にどうしても行きたいわけじゃない。というか、行きたくない。どうせ近いうち出頭しなくちゃいけないんだし、先延ばしできるならそれに越したことはない。

 そのように自己完結して、俺はだだっ広い近代化された灰色のポートエリアを抜け出し、曖昧な記憶を頼りにかつて自分が住んでいたはずの島の東側へと歩きだした。

 歩きながら、さっきの先生との会話を反芻する。

 ——もう《読み手》とは組まない。

 そのつもりだ。もう長いこと《挿話》の記述もしていない。かといって、いまさら普通の学生になれるわけでもない。これからは一般のネイキッドとして働くか、そうでなきゃ無銘刃ネイムレスの技師にでもなるさ。だが……。

 ——彼女は生きている。

 そんなはずはない。この島は一度、大災害によって壊滅したんだ。とはいえ、確実な情報もまた、存在しない。それに、暮町先生あのひとがこんなことで嘘をつくだろうか? あの女医の言うことはたしかに冗談めかしたことばかりだが、それでもこんな冗談を——冗談にしてはたちの悪い冗談を言うとも思えない。だとするならば。

 出口のない思考を巡らせながら歩くことしばし。足の向くのに任せていたら、いつの間にか山間に入り込んでいた。山間といっても海からそれほど離れていないのは、なまぬるい風に混じった潮の匂いでわかる。潮の匂いを辿っていくと、木々が疎らで下界を見下ろせる場所に出た。見えるのは、小さな港と、小さな街。背の低い灯台と、短い防波堤。錆をまぶしたような、古ぼけた家々。うすぼやけた記憶と、寸分違わぬ景色があった。

 なぜ、こんな場所が残ってるんだ。三年前、海の藻屑と消えたんじゃなかったのか。しかし次の瞬間、かつて弓島と呼ばれたこの場所が、いま、なんと呼ばれているのかを思い出す。

 再現都市。

 そうだ。この島は、一般に『大噴火』とされた、この世の裏の理を知る一部の連中からは『大旱魃』と呼ばれる巨大な特殊災害——《物語》の大流出により《虚無化》したこの島は、同じく《物語》によって再建されつつあるんだ。物理的に死んだヒトや壊れたモノは二度と蘇らない。だが、理不尽に失われたモノは《物語》によって蘇る。

 だとすれば、

 ————ィィィィィィィイイイイイ

「うっ——」

 突然、耳鳴りが始まった。質量があるかのようなひどい耳鳴りと、頭痛。痛みを伴った音。お馴染みの音だった。そう、耳鳴りなんかじゃない。内側からではなく、外から聞こえる、音。よく聞き慣れた金属音。これは、

 ギイイイイイイイイイ————

 干渉音。

断章フラグメント》がこちら側に流入したんだ。

 つまり、もうすぐ『敵』が現れる。人類の敵が。

 音の大きさからして、出現地点はそう遠くないはずだ。おそらくは、それなりに強力な個体が一体。これまでの経験から簡単に予測して、俺は出現予想地点に向けて走り出した。ほとんど反射的に。しかしすぐに足を止める。俺が行ってどうなる? 二年以上も実戦から離れ、もはや満足に挿話を編むこともできない俺が? それに、この島は物語災害対策機関《ライブラリ》のお膝元。実力は俺のいた首都防衛隊と同等か、それ以上。世界で最もネイキッド研究の進んだ場所と言われている。そうだ、すぐにでもお抱えのネイキッドが……。

『こちら、災害対策本部です。現在、14時03分。特別災害警報が、発表されました。不要不急の外出を——』

 次元の軋むような干渉音に比べてあまりに呑気すぎる警報がスピーカーから流れ始めた。山間に人の気配はもともとない。現場に駆けつけるはずの、少年少女ネイキッドの姿も————

 ズン

 巨大な震動。断章フラグメントが地表に到達したのだ。行き場を失った、誰かの物語のなれの果て。断章は空白を求める。そして物語を喪った亡骸に憑依し——世界に牙を剥く。

 ドオォォォンン

 衝撃音。いや、これは戦闘音か。誰かが戦っている?

「……誰かが戦ってるなら、俺が行く必要もない、よな」

 そういえば喉が乾いた。鬱蒼とした雑木林の入り口のガードレールにもたれかかり、背負っていたリュックサックを雑草だらけの歩道に下ろしてジッパーを開き、飲みかけのオレンジジュースを探す。するとその手にガチャリ、という硬質な感触。思わずそれを手に取る。

 無銘刃ネイムレス

 ナイフの形をしていて、刀身に沿って矢印型の溝が走っている以外は、文字通り、名も無き灰色の石塊だ。このままではペーパーナイフの代わりにもなりはしない。だが、持つべき者が持つことによって、この石塊は秘められた力を解放する。物語なまえを喪ったものに、ふたたび名前ものがたりを与えること。それが挿話装填。それが、か弱き人類がヤツらと戦う術。

 だが————

 ズドオオォォォォンンン

 ふたたびの衝撃音。さっきのものとは比べ物にならない。

 俺は走り出した。考えなど何もない。出現地点は近い。いや、もう見えた。緩い坂の上、小さな学校の敷地だ。また目眩を感じた。さっきの港町と同じだ。俺はあの学校を知っている。通っていた記憶はない。だが、なぜか知っている。裏の金網に通り抜けられる穴があって、

「!」

 錆の浮いたうす緑の金網越しに、息を切らしながら、俺はそれを目撃した。

 灼けた四角形の大地の上に立つ巨大な青い獣と、それをすさまじい力で蹂躙する赤い少女を。

 通常物理兵器を無効化するヤツらに対抗できる、対憑依体特殊武装・無銘刃。それは言ってみれば、もともと名のある武具が物語を喪い、虚無化したものだ。名前を喪失したそれらに仮初の物語を装填することで、それらは常ならざる力を発揮する。では、もし虚無化したヒトに同じことができたら? その答えが目の前に在った。

 炎のようにゆらめく赤い髪。

 その動きに追随して迸る赤い残像。

 何よりも、単身で憑依体と互角に戦う異能の力。

 少女の形をしたそれは、無銘刃そのもの。いや、それ以上だ。

 人型の無銘刃。その別名は————《読み手リード》。

 すでに少女は三角獣の一角を落としているようだった。

 あんなのがいるならやっぱり逃げるのが正解だったか……と思いかけた、そのとき。

「ぎゃん!」

 それまで猛攻を躱しきっていた少女が、ついに憑依体の前足を食らった。フェンスまで吹き飛ばされ、うずくまる。よく見れば、先ほどまでの赤い輝きは鳴りを潜め、いまや露わになったぼさぼさの灰色の地毛のところどころに、火の粉がちらちらと張り付いているばかり。それでも少女は立ち上がろうとする。そこへ迫る青い化け物。

 まただ。考えるより先に身体が動いた。

 俺は塞ぎかかったフェンスの穴をこじ開けて全速で走り、走りながら腰のホルダから使い捨ての爆弾型無銘刃ネイムレスを抜く。即座に投擲。憑依体の頭部付近で白色の爆発が起きる。詰めてあるのは汎用挿話なのでダメージはまったく期待できないが、目眩ましぐらいにはなる。獣が獲物を見失った一瞬の隙に少女を抱きかかえ、さらに校舎前の干乾びた花壇の前まで走ってデカブツと距離をとった。そして、腕の中の少女に叫んだ。

「おい、大丈夫か!」

「————だれ、ですか」

「俺が誰かなんてどうでもいい。ここから逃げるぞ」

「にげ、ません。あいつを……たおします」

 途切れ途切れに言いながら、俺の肩を掴み、よろよろと立ち上がろうとする少女。そこで俺は初めてその少女をまじまじと見た。抱えて走れるぐらい小さな体躯に、入院患者が着せられているようなうす青色のワンピースを纏っている。さっきまでの戦闘のせいであちこち破れかけた裾から伸びる白く細い足は、なぜだか知らないが裸足。何より、眠たげな灰色の瞳と、同じく灰色に褪色し、毛先にかけて焼け焦げたような錆色を成した毛髪。

 そして、炎のドレスを脱いでも全身に残る、熱。

「あなたこそ、逃げてください」少女は小さな口を動かす。「わたしは、戦います。戦って、探さなくちゃいけないんです」

「探すって、何を」

 そこへ突如、校庭のフェンスに取り付けられたスピーカーから誰かの声が割り込んだ。

『そこの少年、聞こえるか』

 ノイズ混じりだが、たぶん見知らぬ女性の声だ。思わず辺りを見回す。

「え……?」

『時間がないのでずばり訊くが、少年、お前はネイキッドだな?』

「……まあ一応」

 混乱しつつ、姿の見えない誰かに応答する。

『語り手の経験は?』

「……まあ、なくはないけど」

『そうか。ならば命ずる。その娘に《挿話エピソード》を装填せよ』

 俺は一度大きく深呼吸してから、姿の見えない女に言い放った。

「やなこった」

『…………は?』

「わたしもお断りです」読み手の少女もなぜか同意してきた。

『…………』

 スピーカーの向こうから狼狽する気配が伝わってきた。しかし、ここで少女と意見が合ったところで、目の前の脅威は変わらない。そう、いますぐにも——

「危ない!」

 ぼんやり立っていた少女を突き飛ばし、その勢いで二人揃って地面を転がる。数瞬前まで少女の立っていた場所に憑依体の青白い角が突き立っていた。ネイキッドといえど、装転を解いた状態であんなのを食らったら一撃で死ぬ。

「あの、痛いです」

 身体の下から無感情な声がした。見れば、勢い余って少女を押し倒したような体勢になっていた。

「うわっ、すまん」

 慌てて身体をどかし、手を貸して少女を立ち上がらせる。そして向かい合う。

 少女は、表情のない顔でこちらをじっと見つめている。まるで、ここにきて初めて俺を認識したように。俺は状況のまずさも忘れ、その少女の光も飲み込んでしまいそうな鈍く底のない瞳に見入ってしまった。

「あなたは語り手なのですか?」

 感情の乏しい、だからこそ、それは純粋な問いかけだった。嘘をつくことは、俺には難しかった。

「まあな。ほとんど引退同然だけど」

「わたしは語り手が嫌いです」

「奇遇だな、俺もだよ」

「ですが、このままだとわたしたちは死にます」

「そうなんだよなぁ……」

「なので……今回だけ、わたしに挿話を装填してください」

 俺は腹の底から巨大なため息をついた。まったく、言ったそばから、なんでこんなことになるんだ? あの女医め、何が運命だ。だけど————『彼女は生きている』————だとしたら、こんなところで名前も知らない少女と心中するわけにはいかない。俺は右と左の頬を自分で交互に叩いて、言った。

「わかったよ畜生! 今回だけだ。けど俺は病み上がりみたいなもんだからな。さらに調整も何もしてない相手とぶっつけ本番なんて、どうなるかわからないぞ」

「わたしも病み上がりです。なので大丈夫です」

「余計不安になってきたなあ!」

 軽口を叩いたのは、少しでも緊張をほぐすためだ。

 挿話記述。そして、装填——だが。

 最初の装填は失敗した。いや、装填は一応成功したが、読み手の力を引き出すには深度が足りなかった。しかし、考えている暇はない。

「もう一度やってみる」

「挿話の連続装填……? そんなの不可能です」

「へっ……見て驚くなよ」

 挿話の連続装填——《即興アドリブ》が俺の武器、落第した語り手である俺に残された唯一の武器だ。やるのは約三年ぶりだし、代償もそれなりにあるんだが……と、その前に。

「なあ、名前を教えてくれないか」

「……この状況で、必要なことですか」

『そうだ! 乳繰り合ってる場合か! 早くしろ!』

 スピーカーから聞こえてくる怒鳴り声を無視して、

「読み手の名前を知ってるのと知らないのとじゃ、筆のノリも違うからさ。俺の名前は宮無キズキ。あんたは?」

「……識別名・無銘ネイムレスニアイコール・ゼロスリー、です」

「覚えにくい……ニアイコール、だけじゃ駄目なのか?」

「駄目ってことはないです」

「じゃあそれで」

 そう言って、俺は自分の左胸に右手を当て、目を瞑る。そして、意識の中で《挿話》記述のための手順を進めていく。第七器官の定義、成功。架空言語野の拡張、成功。刹那時空への接続……成功。記述を開始。現実の何倍も引き延ばされた時間の中で、俺は今日あったことすべて、いまこの瞬間までのすべてを挿話に込めた。そして——


     →→→→→→→→


挿話エピソード装填リロード!」

 少年が自らの左胸から淡く光る矢印を引き抜き、向かい合う少女の左胸に突き立てる。

「——っ」

 矢印は少女の胸に溶けていき、次の瞬間、少女の全身が発光を始めた。両の瞳に無数の文字列が浮かび上がり、灰色の瞳と毛髪が燃え盛る赤へと変わっていく。それとほぼ同時、憑依体の二つの角も、まるで呼応するかのように青い光を放ち始めた。

「今度こそ、あなたにできることはもうありません。逃げてください、いますぐ」

 言われるまでもなく、少年は横に飛ぶ。一瞬遅れて、憑依体が猛然と少女に突っ込んだ。少女は両腕でガードするが、そのまま獣の巨体とともに背後の木造校舎へと突っ込んでいった。

「くそっ、間に合わなかったか!?」

 少年は一瞬前に逃げろと言われたことも忘れ、崩れかかった校舎を覗き込む。しかし次の瞬間、獣の巨体だけがすさまじい勢いで校庭に蹴り出された。そして、もはや完全に倒壊した校舎の瓦礫の奥から、真紅の陽炎がゆらりと立ち昇る。

 怒気を可視化したかのような赤いオーラを放つ少女が、その薄い唇を開いた。

「装転、完了。二度もわたしを張り倒したお返しに——ぶち焦がします」


「……なんとか間に合ったようだな」

「はい……間一髪でした」

 薄暗い戦術資料室で、三宮依織とオペレータが言葉を交わす。二人の声には若干の安堵が篭っていた。

「命じた私が言うのもなんだが、調整もなしで初対面の読み手に挿話の装填を成功させるとはな。しかも二人ともネイキッドスーツを着用していなかったんだぞ。あまつさえ連続装填だと? 彼は何者なんだ?」

「ええ、そのことなんですが」

 オペレータはキイを叩き、モニタのひとつを切り替えた。

「あの男子生徒の身元がわかりました」

「ほう」

「宮無キズキ。16歳。元・首都防衛隊所属の語り手です。この春から、白弓学園高等部への転入が決まっているようです」

「そうか、喜ばしいことだな。語り手は慢性的に不足している」

「しかし……」

「しかし?」

 イオリは横目でオペレータを見る。オペレータはどこか腑に落ちないというような表情をしていた。

「語り手としては、彼の成績にはかなり奇妙なところがあります。そして情報がところどころ抜け落ちています。おそらく、何者かにより、意図的に。さらに……」

「まだあるのか」

「はい。彼、宮無キズキは、どうやら三年前の夏を最後に実戦から退いています」


 少女は焦土の只中にいた。いや、焦土ではない。そこはたしかにかつての《旧分校》へと至る長閑な通学路だった。それがいまや、憑依体とのたった数分の戦闘によって、爆撃の跡のように見る影もない。道の脇に立つポプラの木は一本残らず焼け焦げており、綿毛の代わりに火の粉を散らしていた。

「《金句キラーフレーズ》! 『燃え立て 詩篇451』!」

 少女が叫んだ瞬間、頭頂部の跳ねた髪束が巨大な燃え盛る矢印となり、一瞬で獣の角へ巻き付き、爆発音とともに角を消し炭にした。役目を終えた髪束はすでに元に戻っている。

 しかし憑依体はしぶとくも生きていた。三本あった角のうち二本までは落としたが、完全に活性化した残りの一本を攻めあぐねている。残った一角が一瞬にして膨張し、その青白く輝く矢印の先で少女を貫かんと空気を切り裂いて伸びてくる。少女はそれを紙一重で躱しながら、右手に纏わせた炎を獣に浴びせる。獣は煩そうに頭を振るだけで、有効打になっていない。

(まずい、ですね)

 少女は心の中で呟く。またしても燃料が切れそうなのだ。《金句》で仕留められなかったのは痛い。自らの燃費の悪さ、そして少年から供給された挿話の深度の低さは想定外だった。それでもさすがに《アーカイヴ》由来の汎用挿話よりは効果が高かったが……。

 しかし、少女に少年を責める気持は一切なかった。

 未調整の相手への挿話装填、挿話の連続装填、金句の発動……それらすべてがどれだけ難度の高いことなのか、他ならぬこの少女がいちばんよくわかっていた。

 少女の燃え立つ炎色が薄れていく。巨獣は、棒立ちになった少女を見下ろし、とどめを刺そうと残った一角を膨張させる。少女は先ほど自分を助けるために少年が姿を現した石垣の上、穴の開いたフェンスを見上げた。もちろん少年の姿はない。ちゃんと逃げてくれたようだ。

 激しい戦闘によりほとんど裸になった少女は、自らのささやかな胸に手を当てる。

(なんだか、久しぶりにあったかかった、です)

 巨獣が咆哮を上げる。そして右の角が限界まで膨張し、恐るべき速度で少女に襲いかかろうとして——

「逃げられるわけねえだろおおおおおおおっ!」

 雄叫びとともに空から落ちてきた少年が、その手に握った青く輝く刃を振り下ろし、獣の角を根本から断ち斬った。咆哮が止み、少年の着地した背後で獣の巨体が突如崩折れ、ばらばらと青色の肉体が縄のように解けて、意味を失った文字列へと還り、煙のように消滅していく。変質した物語である《断章》、それが虚無化物ヴォイドへと乗り移った憑依体の最期——意味消失。少女はあいかわらず無表情ながら、わずかに見開いた目でそれを見ていた。挿話による装転は完全には解けておらず、まだらに赤い髪のあちこちに、残り火のように炎が燻っていた。

 少年は立ち上がり、震える手を無理やり握りしめて口を開いた。

「いやー疲れた疲れた。久しぶりとはいえ一回剣を振るのが精いっぱいとは情けねえ」

「一回じゃないです」

「ん?」

「あなたは都合三回連続で挿話を記述しました。いくら語り手でも、そんなの普通耐えられるわけありません」

「よく知ってるな。まあでも、多少無理すればこれぐらい——お?」

 言いながら、少年の身体がぐらつき、ついには路上に大の字に倒れ込んでしまった。少女はすたすたと少年の頭の上までやってきて、

「……顔色が真っ青です。物語酔いテキスト・デリリアの症状です。間違いありません。資料室にあった本で読みました。一刻もはやく治療を受けるべきです」

 物語酔い。語り手は挿話の記述のために、物質世界と異なる別の位相にアクセスする。一瞬ともいえないわずかな時間だが、その別位相からのフィードバックにより、一時的な意識の低下状態に陥る。見た目には激しい乗り物酔いに近い。少年はもはや首を動かすのも億劫そうに眼球だけを動かして少女を見上げ——ふいっと目を逸らした。

「……なあ、ちょっと、そこに立たれると困るんだが」

「? なぜですか。治療は無理ですが、診察ぐらいならわたしにも」

「わっ、バカ! 顔の上に立つな! 見える! なんかもう全部見える!」

「?…………!」

 ただでさえ戦闘でボロボロとなった患者衣はもともと少女にはサイズが大きすぎで、倒れ込んだ少年が見上げれば、焼け落ちた裾の間のすべてが見通せてしまう。

「……見たんですか?」

「いやぁ、なんていうか、それは」

 静かに燻る熾火のような少女の声を聞きながら、少年は恐る恐る答える。

「見たんですか?」

「……見てない」

「一時のこととはいえ《レーベル》となった語り手が読み手に嘘をつくんですか? 見たんですね?」

「見てないって言うと嘘になるけど、俺の心証としては必ずしも嘘じゃないんだ。つまり、なんていうか、見るほどのものは見えなかったっていうか……」

「そうですか。どうせ病院に行くなら外傷もまとめて診てもらうのがお得です。そういうわけで——」ちりちりと全身から火の粉を立ち昇らせながら、その口からは背筋が凍るような底冷えした声を吐き、少女——無銘ニアイコール・ゼロスリーはその身体に残した読み手としての力を振り絞って右手に集め、目前の新たな敵——宮無キズキと名乗る少年に向けて撃ち放った。「ぶち焦がします」


     ト□■□ー■■□ 0


(刹那時空 ??領域)

 あーあ、失敗しちゃった。あんな横槍が入るなんてなぁ。

 あの子にはなるべく自然に接触してほしかったのに。うまくいかないなぁ。

 ま、失敗を悔やんでもしかたないか。次、次!

 この場所から、わたしにできることは限られてるけど、それでも。

 もう一度だけでいいんだ。もう一度だけ、わたしは——

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