ニアイコール・ネイキッド

アレノアザミ/角川スニーカー文庫

プロローグ


花は散り その色となく眺むれば

            むなしき空に春雨ぞ降る

                         式子内親王


   《挿話 三月三十一日 晴れ》


 今日、俺はここを去る。引っ越してきてから五年だか六年だか世話になった、まあ、住み慣れたと言ってもいいこの場所を。去って、どこへ行くかっていったら、生まれ育ったらしいところへ「帰る」、らしい。らしいが多いのは、そこにいた記憶がほとんどないのと、俺に決定権がないからだ。すべてが自主性に欠けている。

 まあとにかく、都落ちっていえばわかりやすいか。俺はここで用済みになったってわけだ。戦力外通告。そんなようなものだ。その決定は至極妥当なものなので、こっちに文句はない。残されたあと二年を何もしないままここで過ごすよりは、ずっとマシだ。

 人望がなかったせいか、友人と呼べる存在もなかったせいか——いや間違いなく両方なんだけど——、見送りに来てくれるような人材もいない。負け犬にふさわしい新たな門出だ。春は出会いと別れの季節らしい。少なくとも、別れのほうはすでに失敗している。大人たちとのごく事務的なやりとりがあっただけだ。出会いのほうにもたいして期待していない。これから行く場所——かつていた場所で起きた出来事、出会った人は、失われてしまったんだから。何もかも失った人間が、何もかも失われた場所に行くんだ。出会いがあるほうがおかしいだろ?

 最後に、通い慣れた巨大な建物のほうを振り返る。敷地に沿って、それぞれが結構な樹齢であるだろう大きな木が並んで植えられている。未だ葉をつけていないその木々はしかし、葉よりも先に花をつけていた。まだ三分咲きってところか。見事な青空の下、その可憐な花だけが、どうやら俺を見送ってくれるらしい。花には悪いが、いまは神経を逆撫でするだけだ。この国の春の風物詩ともいえる、その花を見るたびに、俺は今日のことを思い出すだろう。今日を境に、特にどうとも思っていなかったそれを、俺は嫌いになりそうだった。

 その花の名前は————

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