• 一般社団法人芙桜会 | FUOHKAI

性自認で法的性別を上書きする制度がもたらすもの。

済む話ではありませ「すべての人が自分らしく生きられる社会を目指します」

最近、LGBT施策を実施する地方公共団体は、このフレーズを使って、その施策がLGBTの人権を考える上で素晴らしいものであると、そこに住む人々にその必要性を説明しています。


また、性同一性障害(性別違和)についても、”医療モデル” から "人権モデル” での対応を求める、つまり、性同一性障害特例法が定める要件のいくつか、例えば、いわゆる「(未成年の)子なし要件」や「身体要件」は厳しすぎるから廃止せよという主張が見受けられます。


そして、それらを根拠に、「自分が思う性別で生きられないのは人権侵害」だと主張する人もいます。


仮に、自分が思う性別で生きられる社会(セルフID社会)になった場合、どういった社会が実現するのか、今回は考えてみたいと思います。


用語の確認

  • 生物学的性別:外性器、内性器、性染色体、性ホルモン分泌などにみられる生物学的特徴から出生後に確定した性別(身体的性別やからだの性とも表現される)

  • 性的指向:人の恋愛・性愛がどういう対象に向かうのかを示す概念

  • (法務省が言う)性自認(生物学的性別を尊重する考え方):自分の性をどのように認識しているのか、どのような性のアイデンティティ(性同一性)を自分の感覚として持っているかを示す概念

  • (LGBT団体や個人活動家が言う)性自認(生物学的性別を無視した考え方):「自身の性をどのように認識しているか」という自己意識の概念。性自認と身体的性(身体構造上の性)は関係がない

  • 性同一性障害:性自認と生物学的な性が一致しないために違和感を覚え、それに加え、からだの性をこころの性に近づけるために身体の手術を通じて性の適合を望むことさえある

  • セルフID:トランスジェンダーが医学的な診断を受けずに法的な性別を変更できるようにする考え方

  • セクシュアリティ:狭義の性行為だけでなく、性と欲望にかかわる人間の活動全般を指す語。ただしこの語は、「セックス」や「ジェンダー」と複雑に絡み合っており、厳密な定義は困難である。

  • ノンバイナリー:「男か女か」という男女二元論にとらわれない性自認を持つ人の総称

  • ニュートロワ:ジェンダーが中立か、あるいは存在しない人

  • Xジェンダー:自身のことを男性/女性のどちらかであると思っていないセクシュアリティ(中性、両性、不定性、無性がある)

  • クエスチョニング:自身のセクシュアリティがどのようなものか悩んでいる。もしくは意図的に決めていない状態

  • FtMトランスジェンダー:身体的性が女性であり性自認が男性

  • MtFトランスジェンダー:身体的性が男性であり性自認が女性


「自分が思う性別」とは何か

簡単に言えば、「自分が男だと思えば男だし、女だと思えば女である」ということです。

それは、生物学的性別、つまり、からだが男であっても、女になれる。

逆もしかりです。


ところが、セクシュアリティを考えると、様々なセクシュアリティが存在するのですから、男にも女にもなれるし、男でも女でもないものにもなれる、更には、男にも女にもならないこと、そして、複数(二つ及びそれ以上)の性別になることもあります。


「自分が思う性別」とは、単に男か女かのどちらか、あるいは男と女がカバーする領域に限定できないことを、先ずは理解したいと思います。


このことは特に、生物学的性別を尊重する考えの人々が、そうとは考えない人々と議論するうえで、議論の不成立に陥らないためにも、留意しておくべきポイントです。


性自認に制限はない

結論から言うと、「なんでもあり」になります。


性自認を、第三者が否定することは出来ません。


それは、従来なら、”思い違い” や ”妄想”と言われるものまで、性自認とされる可能性を意味します。


セクシュアリティの中には、自分を男女のいずれでもない「なにか」だと思うものもあります。


一方、セクシュアリティが元々、セックスやジェンダーとの境界が曖昧なものであることからも、ジェンダー化しているものがあり、あたかも性別かのような扱いで語られる向きもあります。


つまり、”自己の性自認が、性別として認められなければならない” とする主張も出てくるのは、想像に難くありません。


「男」と「女」だけでは対応しきれないものに、どうやって対応するのかなどということは、今まで検討されたことがあるのでしょうか。

皆無だと思われるのですが、皆さんはどう思われますでしょうか。


トランスジェンダーとはなにか

  1. 性自認に制限がなく、第三者がその正誤を判定できない

  2. 性自認を元に数多くのセクシュアリティが形成されている

  3. 性自認によって性的指向が決まるものでもない

  4. 性自認は生物学的性別を無視できる

これらの事実からして、トランスジェンダーであることは、生物学的性別と反対の性別で生きることとは限らないことが、分かります。


日本では、法的性別を変更したい人のために、性同一性障害特例法が存在します。

法的性別を変更するまでもない人は、生物学的性別で生きています。


ところが、「生物学的性別を温存しながら、法的性別を変更できるようにしろ」という主張が大きくなっています。


別の記事でも、問題提起していますが、トランスジェンダーとは何か、その定義すら、曖昧で解釈が異なる現状は、様々な要求があげられ、デモ活動などに発展している事実を考えれば、今後、社会問題を引き起こしかねないのではないか、と私は憂慮を禁じ得ません。


例えば、Xジェンダーと言われる人に、「中性」という状態の人がいますが、これは、男の体でも、女の体でも、本人の性自認が「中性」であれば、Xジェンダー(中性)です。

(中性だからと言って、中世の人に性的指向が向くとは限らないことにもご留意ください)


また、昨今、「トランス女性は女性だ」というスローガンを掲げ、様々な運動が繰り広げられていますが、

  1. 生物学的性別を尊重すれば、性的指向がどうであれ、男性の体で、法的性別が男性であれば、トランス女性は男性です。

  2. 生物学的性別を無視すれば、性的指向がどうであれ、男性の体で、法的性別が男性であっても、トランス女性は女性です。

このように、解釈が別れます。


トランスジェンダーという用語の定義が定まっておらず、過去においても、今後においても、変化し得るとされているのは、共通言語としては不適格であると言わざるを得ず、いらぬ混乱や対立を起こさせないためにも、国が主体的に定義づけなどに取り組む必要があると考えます。


性自認もトランスジェンダーであることも、なりすましや詐称を排除できない

人間には、善人もいれば、そうではない人もいます。

それは、一人の人間が、善を成す時もあれば、そうではない時もあることでもあります。


そうであるにもかかわらず、性自認はもとより、性自認を基準とするトランスジェンダーで

あることは、第三者がその正誤を判定することが出来ません。


これが、性自認やトランスジェンダーという用語の致命的な欠陥です。


人が、自己の思うところで生きていることに、なんら罪はありません。


問題は、性自認やトランスジェンダーであることの悪用をどうやって防ぐかなのです。


これを解決しないままに、性自認だけで法的性別を上書きできるようにするのは、誰にとってもメリットがないのは、はっきりしています。


この問題の解決に真正面から取り組まないままで、性自認だけで法的性別を上書きすることには、その導入(セルフID社会の実現)による社会的影響が甚大である以上、反対を表明せざるを得ません。


セルフID:いつでも、何度でも、何にでも

性自認や性的指向など、セクシュアリティにかかわるものは、一定の人もいれば、流動的であったり、男と女の枠からはみ出たものであったり、分からないものまで、存在します。


ということは、単に一回だけ法的性別を上書きすれば良いというものではありません。


生物学的性別、つまり、身体機能を、男から女へ、女から男へ、と完全に変えることは出来ません。

しかし、性自認は自己が思うように、「いつでも、何度でも、何にでも」なれます。


つまり、セルフIDを導入するのであれば、性別の上書きは、いつでも、何度でも、何にでもなれるものでなければならなくなります。


ところで、セルフIDは、それを導入することに留まらず、それを運用するために、社会のルールを改める必要を生じさせます。


こと、日本においては、戸籍を始めとし、生物学的性別の別で構築されたものは全て、セルフIDを元にアップデートや、場合によっては廃止されなければならなくなります。

”履歴書の性別欄を、記述式にしました” で済む話ではありません。


これは、社会の大転換、根底からの社会変容を意味します。


なぜなら、ひとりでも、セルフIDを利用できないなら、その人(そのセクシュアリティ)に対する差別を国が行うことになるからです。


既に、一部の地方公共団体では、性自認による差別を条例で禁止していますが、どういう前提でそう決めたのか、とても気になります。


今は実際に起こっていなくても、「何者か分からないというのが私の性自認だ」という人が現れたら、どう対応するのか、その地方公共団体に考えを聞いてみたいものです。


結局、性別はなくなる

結論から言うと、「もう、性別なんてなくせば良い」という世の中になるしかないでしょう。


なぜなら、今では100以上もあると言われるセクシュアリティのひとつひとつに対応するのは、それによって生まれる作業量は膨大なものになると考えられ、現実的ではないからであり、そうなのであれば、いっそのこと、性別というものをなくせば良い、という考え方に行き着いても、不思議ではないからです。


現在、LGBTを巡る議論は、「人権」や「差別」という用語を根拠に大雑把な検討で済ませ、なし崩し的に方向性が定まり、多くの人がそれを知る機会が十分とは言えない中で実施が決まり、LGBT施策が実行されることが確定した時点で、多くの人がそれを知るという状況が、往々にしてあると言われます。


それをもってして、 “SDGsの目標を達成した!” などと考えておられる組織や個人がおられると聞きますが、果たして、それでいいのでしょうか。


今は、それでいいのかも知れません。

でも、将来に禍根を残してはいないでしょうか。


もし、将来、今、施行したLGBT施策が社会問題を引き起こしたら、誰が責任を負うのでしょうか?


私は、安易に、性自認は「『自身の性をどのように認識しているか』という自己意識の概念。」だけで定義づけるのは危険だと考えます。


やはり、生物学的性別を尊重していることを明確にしたうえで、LGBT施策を推進しなければ、国が方向性を明確にしていない以上、負担は全て、良かれと思って施策を講じた地方公共団体が負うことになるはずです。


まさかとは思いますが、国が方向性を決めてくれれば、後から施策を「国が決めたから」と言ってひっくりかえせる・・・なんて思ってはいないですよね?


善意でLGBT施策に取り組んだ人々や組織が、「あなたの言うことを信じて、やったことなのに」と泣きを見るようなことがないことを、祈っております。

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