休日出勤で忙しい日に理不尽なオタクに絡まれた新橋九段ですどうも。
ことの発端はかつて、私がTwitterでたまたま見かけた「表現に悪影響はない」と主張するnoteを批判したことから始まります。私としては「いつものこと」だったのでいつも通りの型どおりな反論だけ指摘しておきましたが、どうも筆者がくどいようで……。
「いつものこと」というのは明らかに少数の論文で心理学における1つの研究分野の結論を断言できるという驕った態度のことですね。なのでそうした少数の論文から外れているものの一例として『フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』を挙げました。その結果、いまに至るというわけです。
まぁ、正直に言えば、彼がきちんと提示しした本を読んだのには感心しました。たいていの場合、理由をつけて読みすらしないというのが自由戦士ですから。しかし、本はただ文字列を追えばいいというわけではありません。内容をきちんと理解しなければ読んだとは言えないでしょう。彼はその辺をはき違えたようです。今回はその辺の指摘をしていこうの回です。
とはいえ、最近私も自覚し始めたところなのですが、私は愚かなのに自信満々な文章というのが地雷なようで、読むと心がげっそりします。この辺の傾向は青識の駄論に丁寧な批判を欠いていた時からなのですが、あれはまだ自分の専門分野から距離があったので大丈夫だったのかもしれません。しかし、今回はマジで駄目かもしれません。こんな文章ほぼ加害行為だろと思いながら読んでいます。
というわけで、今回は彼が書いた『フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』批判記事である『表現悪影響論を支持する書籍『フィクションが現実になるとき』の批判的検討』を批判していくわけですが、今回は「総論編」として当該記事の目次手前と1つ目の見出しまでを扱います。記事がいたずらに長くなるし、私のしんどいからです。とはいえ、あとで書く予定の「各論編」がなくとも、今回の記事だけで当該記事の価値判断は十分だろうとも思っています。というのも、大元の姿勢に問題があれば個々の事実誤認や誤読は所詮枝葉末節にすぎないからです。
事実誤認というのは畢竟、誤認を指摘するだけの話になってしまいますし、議論の余地はありません。事実誤認において重要なのはそれ自体よりも、誤認の指摘を受けたあとの態度です。まぁ、期待はしていませんが。
あと言っておくと、私は当該記事をすべて読んではいません。もちろん批判する場所は読んでいますが、全体を読んでその部分の解釈ががらりと変わる可能性はほぼ0でしょうし、それで十分だろうという判断です。単純に私が忙しいし心もしんどいという理由もあります。
で、なんでこういう本質的でないことをだらだら書いているかと言うと、表現の自由戦士には読解力が欠けているため、こういう些末なところの文章表現に引っかかって支離滅裂な反応をよこすだろうから、それでフィルターをかけられるという思惑があります。バカ発見装置としての序文なわけですね。いや、単に愚痴りたい気分だというのもありますが。論理的文章においてはいささか不誠実な態度かもしれませんが、これはあくまでブログですし、デマゴーグ相手に誠実さを保つことを要求されるのも理不尽ですし、なにより、そうした誠実寄りの解説というのはこのブログでもやり切っているので趣向を変えたほうがいいだろうと思います。
それでは始めましょう。なお、引用は特に言及がない限り『表現悪影響論を支持する書籍『フィクションが現実になるとき』の批判的検討』からです。
時系列データ(笑)
さて、最初に取り上げるのは当該記事目次手前で列挙されている『【ポイント】『フィクションが現実になるとき』のダメなところ』です。今回はこの箇条書きを中心に見ていきます。順番が前後しますが、まず最初のリストの最後を取り上げましょう。・いつものことだが、性犯罪や暴力犯罪に関する現実の統計データ(の時系列推移)に関する考察がまるで無い。これを見て鼻で笑えた人は、この先の文章を読まなくても大丈夫です。お疲れ様でした。
性犯罪や暴力犯罪に関する統計データの時系列推移については、ごく一例を示すと、ポルノの流通量と強姦事件の発生率を比較した次の図があるわね。
※引用者注:画像はFerguson & Hartley (2009). "The pleasure is momentary…the expense damnable?: The influence of pornography on rape and sexual assault"から
鼻で笑えなかった人のために解説すると、統計上のレイプ件数と(おそらくハードコアな)ポルノのタイトル数を見て「ポルノの数が増えているのにレイプは減っているならポルノに悪影響はないんだ!」と結論してしまったそそっかしい主張だということです。なお、私はこうした主張が誤りである理由を様々なところで散々述べており、感覚としては「5年間家庭教師で教えてきた中学生が分数の割り算を間違えた」のを目の当たりにしたのと同じ感じだと思ってください。
なぜこうした主張が愚かしいのでしょうか。まず指摘すべきなのは、統計に現れた性犯罪とポルノのタイトル数が、それぞれ性犯罪とポルノ仕様の実態を問題なく表していると考えるのが単純すぎるということです。性犯罪は言うまでもなく、ポルノの利用数もこの指標で問題ないかは疑問です。仮にこのグラフがポルノの作品数を表現しているとして、極端な話、超駄作タイトルが1万本あるけど誰も見ていないとき、逆に1本しかないけどすさまじい名作でみんなが何十回も見ているとき、タイトル数と利用実態は著しく乖離すると言えるでしょう。
ちなみに、当該記事筆者は『ゲームと犯罪と子どもたち』を以下のように引用していますが……。
・喫煙と肺がんのあいだには、摂取量と摂取した物質が引き起こす反応の関係を示す用量反応関係が成り立っている。遺伝的要因や、アスベストにさらされるなどの環境的要因にも左右されるが、一般に喫煙量の多い人ほど、肺がんにかかる危険性が高い。しかし、暴力的なゲームにさらされるほど、子どもに大きな影響が及ぶのかは、まだはっきりしておらず、「暴力的ゲームにさらされる」といっても、プレイ時間の長さ、プレイ年数、ゲームの流血量など、計測対象はさまざまである。私たちが中学生にアンケート調査を行ったところ、実際に興味深い相関関係が見つかったので、これについては次の章で紹介する。太字にした指摘はポルノにもそのまま当てはまります。なぜ「ゲームに悪影響がある」という主張では否定材料として持ち出される観点が、「ポルノが増えても犯罪は増えない」という主張を自らがするときには無視されるのでしょうか。非論理的というほかありません。
※引用者注:太字は引用者
加えて、これらは犯罪の増減について、それ以外の要因を完全に無視しているという問題があります。これもいささか極端に思える説明でしょうが、仮にポルノに悪影響があったとして、ここで取り上げられてない要因Xがその悪影響を上回る力で犯罪を減らしていたとすれば、統計上はポルノが増えているのに性犯罪が減っているように見えます。
そして最後に、これは全ての犯罪に言えることですが、犯罪は一般に未来に行けば行くほど減る傾向にあります。どうしてそういう話になるかはスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』とかを読んでほしいのですが、重要なのは犯罪にそういう傾向があるなら、時系列的に増加あるいは減少するものと組み合わせれば何でも相関が見いだせてしまうということです。日本ではコメの消費量が年々減少している言われていますが、犯罪件数と並べれば負の相関が見いだせるかもしれません。しかしもちろんそれは、お米を食べると犯罪者になることを意味していません。
もちろん、社会全体におけるポルノと性犯罪の関係を統計的に分析する作業は「丁寧に行われれば」有意義なものとなるでしょう。しかし、少なくとも表現の悪影響をメカニズムから論じる際には、ノイズがあまりにも多く大した役に立たないことは理解すべきです。
そしてこのことが、当該記事筆者の全般的な姿勢の問題にもつながっています。後続の議論でより明確になると思いますが、筆者は本書を評価する際に独自の評価軸を設け、それに触れなければ全てダメだとでも言いたいようなほど極端な判定を下しています。それがここで指摘した『いつものことだが、性犯罪や暴力犯罪に関する現実の統計データ(の時系列推移)に関する考察がまるで無い』という部分なのです。
本書の目的は、あくまでフィクションに悪影響があることを論じることであって、そこから社会をどうこうとか、規制が必要かどうかというのはメインの議論ではありません。本書の最後を読めばわかるように、著者のフィクションに対する態度はかなり牧歌的で、摂取量を気を付けようくらいのことしか言っていません。もちろん、本書においても時系列データに触れれば別の示唆を得られたかもしれませんし、著者がああいったデータをどう解釈するのかにも興味があります。しかし、このようなレベルの低いデータへの解釈を挟むのは不必要な脱線を生み議論を混乱させるだけだという判断も妥当なものでしょう。
つまり、本書はそもそも、当該記事筆者の考えているような目的で書かれているものではないのです。まぁ、この辺は私からの紹介という周辺の状況が予断を与えてしまったかもしれませんが。とはいえ、自分の想定していた目的に合致しないからと言って、本書の内容に全く価値がないかのように論じるのはアンフェアでしょう。
価値がないものは引用されない
さて、冒頭の箇条書きに戻りましょう。順番を正して1番上のものを引用します。・表現について、「悪影響は乏しい」「(悪影響論者が指摘するほどには)影響が見られない」とする極めて多数出版されている論文をすべてガン無視し、350ページにもわたって、ひたすら自説に合う論文だけを紹介している。(完全にいいとこ取り。いわゆるチェリーピッキング。)ここでのチェリーピッキングであるという指摘は、おそらく私が最初に彼の記事をそう指摘したことに対する意趣返しのつもりでしょう。しかし、意趣返しにばかり意識がいってしまい、本書への指摘として的外れなことになっています。
確かに、本書はゲームなどに悪影響がないと指摘する論文が取り上げられていません。しかし、これは本書の目的と議論の展開からむしろ当然のことだと考えられます。どういうことでしょうか。
まず前提として、(少なくとも私が把握している)ゲームに悪影響がないとする論文の大多数は相関研究です。そうじゃない論文があればぜひ教えてねということにしておいて、一方悪影響を見出した研究の多くは実験によるものか、縦断研究によって因果関係を推定できるものです。表現の影響に論点を絞って論じようというとき、相関研究は関連が観られないが因果関係を想定できる研究が関連を見出しているという大筋の知見があるなら、わざわざ相関研究に触れる意味はあまりありません。十中八九、相関研究が見られないのは何らかの要因がその関連を阻害しているからであり、その要因を取り除けている実験の結果こそ、メカニズムをより妥当に表現しているものだと考えられるからです。より妥当な研究があるのにそうではない研究、しかも結論が真逆の研究にわざわざ言及して議論を混乱させることに利益はないでしょう。
もちろん、相関研究に意味がないわけではありません。実験では関連があるのに相関は見られないとすれば、その関連は弱いものであるとか、まだ未知である要因が影響しているかもしれないと論じることが可能です。とはいえ、それは本書の目的ではないのでオミットされたというだけの話です。
ところでこれは余談ですが、筆者の言う多数の論文って何なんでしょうね。私のブログを長らく読んでくれている人はわかると思いますが、カチンスキー報告のように自由戦士にもてはやされる論文の多くが、実際には相関係数すら算出していない程度のものにすぎないということは本ブログで散々やりました。当該記事に引用されているFerguson & Hartley (2009)も、あのグラフを大真面目に使っているのだとすれば期待できなさそうですが。
ちなみに、カチンスキー報告についてのまとめは『【九段新報総集編】ポルノに悪影響がないというエビデンス「カチンスキー報告」を追って』がnoteにあります。300円です。でたらめな記事に1000円も払うよりいいでしょう。
「仮想論敵」は本当に「仮想」なのか
・上記の理由から、逆の結論を支持する論文群よりも、自分たちが支持する結論のほうが正しいとする根拠・理由もまったく提示されていない。(本書における仮想論敵は「表現にいっさいの悪影響がないと信じる人たち」であり、自分たちの仮説と対立する学術論文は取り上げていない。)次です。なお、『上記の理由から』始まる括弧の前の文章については上の反論で事足りるので無視します。重要なのは、本書の仮想論的が『表現にいっさいの悪影響がないと信じる人たち』である点を批判的に指摘していることです。
筆者はこの点が本書の信頼性や価値を下げるかのように論じていますが、これも身勝手な評価だと言わざるを得ないでしょう。もちろん、そうした目的のために書かれた議論にも興味はありますが、これはあくまで一般向けの書籍であり、より一般に近いであろう態度を持つ『表現にいっさいの悪影響がないと信じる人たち』な人を相手方に仮想することは的外れではありません。そうすることで本書の価値が下がるわけでもありません。
ここまで見てわかるように、当該記事筆者は自身が勝手に決めた価値基準に従い、そこから離れていることを理由に本書を否定します。しかしこれは、狭量な基準によって些末を取り上げて全体の印象を下げる類の詭弁でしかないでしょう。記事のタイトルは『批判的検討』となっていますが、これは批判でも検討でもありません。
なぜ筆者がこうした方法に走ったかと言うと、本書に登場する知見を具体的に否定することができなかったからだと思われます。これは、知見の数が膨大でそのような作業が非現実的であるということにしておきましょう。事実そうですし。そして現に、彼は(少なくとも私が読んだ範囲では)具体的な知見について批判することは全くしておらず、自分の読んだ論文や本を粗雑に引用しながら地に足つかない空中戦を行うことでなんとか本書を否定しようとしています。
しかし、そもそも本書の知見を否定しなければ表現は規制されてしまうのでしょうか。もちろんそんなことはありません。表現に悪影響があろうと表現の自由は大切だと主張すればそれで済むのです。できもしないのに英語の論文を読む必要はありません。あるいは、彼の把握しているという大量の論文をもって「表現に悪影響があるかもしれない、しかし直ちに規制しなければならないほどではない」ということも可能です。無理をせず、単にそうすればいいだけなのです。
ちなみに、本書における仮想論的たる『表現にいっさいの悪影響がないと信じる人たち』が全く的外れななものかといえば、そうではありません。アメリカの事情はさておき、日本の事情はまさに『表現にいっさいの悪影響がないと信じる人たち』が大暴れしていると言えるでしょう。『表現にいい影響はあるが悪い影響はない』と臆面もなく言った人もいましたし、大田区議はゲームに悪影響がないというニュース記事を呟いては承認欲求を満たしている始末ですから。
なお、想像よりも記事が長くなってしまったので簡単に触れるだけにしておきますが、彼は箇条書きの部分でこうも書いています。
・アンダーソン論文に基づき成立したカリフォルニア州ゲーム規制法が、裁判で「違憲」とされた件について、著者は「科学的根拠の不備ではなく表現の自由が優先されただけ」と説明しているが、イリノイ州における同法がやはり「違憲」となった件についてはまさに「科学的根拠の不備」で却下されたことに言及していない。しかし、この部分にはあまり意味はないでしょう。法律の専門家(つまり心理学の素人)たる裁判所がかつて下した判断を、その後一生心理学研究の評価として固定的に崇めなければいけないというのはあまりにも馬鹿げているからです。
抽象概念操作の粗雑さ
最後に一つだけ、当該記事筆者の問題にも触れておきましょう。公平を期すために言えば、彼個人の問題ではなく自由戦士に共通する問題ですが。それは抽象的な概念の扱いの粗雑さです。以下の会話が象徴しています。
抽象的が故に説明も面倒なのですが、会話としては
私「著者は『法律で規制すべきほど悪影響がある』とは言っていない」
相手「私も著者は『規制を推進している』とは書いていない」
となります。この会話が嚙み合っていないことに気づくでしょうか?
『法律で規制すべきほど悪影響がある』というのは、あくまで悪影響の規模の表現として『法律で規制すべきほど』と言っているだけであり、少なくとも私の発言は「著者が法規制を推進している」と要約できるものではありません。しかし、相手方はそのように要約してしまっています。些細に思えるかもしれませんが、意外と重要なところです。
心理学は当然ですが、目に見えない抽象的な概念を扱います。その際に何より重要なのは、その概念を正しく理解し、また表現することです。自尊心と自己愛は似て非なるものであり、似ているからと言って自尊心を自己愛と表現したり自己愛のように扱うとおかしなことになります。彼が犯した失態というのはそういう類のものです。
私が言いたいのは、心理学における抽象概念の重要性に対する軽視がこうした会話から伺えるということです。彼は化学で修士号を持っているかもしれませんが、心理学においては体系的な訓練を受けていない素人であることは自覚すべきでしょう。それは素人が口を出すなという意味ではなく、非専門分野も専門分野のように扱えると勘違いするなということです。化学は音こそ同じですが、所詮科学の一側面に過ぎません。そして、心理学もまごうことなき科学であり、適切に行われた心理学研究はどんな分野の研究よりも科学的であると、これは専門家の贔屓目もありつつ自負しているところです。
ちなみに、この会話からは「著者が規制を推進してないとわかっているなら、どうして冒頭で無関係な規制の話を入れたんですかね?」ということもできます。不誠実ですね。
>抽象的な概念を扱います。その際に何より重要なのは、その概念を正しく理解し、また表現することです。
これは私も同意で、貴方のブログ記事読むとそんな感じです。
たとえば表現の自由という抽象概念を理解してないように見えますからね(たとえば、明確な基準がない方が表現の自由にとって良い等)。
他人には本を読めといいながら、憲法の本とか読んでないという姿勢もいただけません(もし読んでたらすみません)。
それと、心理学について私は素人なのでわからないですが、
貴方が批判する様々な人間行動は、心理学的に説明できるものではないのでしょうか?
貴方の批判を見る限り、それらの人間行動に対する心理学者としての冷静な目線を感じませんし、心理学的解決のアプローチを感じないのですが。
今回博士と修士の対決ということで改めて気になりました。