日本の政治上もう一つの危険性は、政治の要職にある者が身の安穏を計る為に「累を皇室に及ぼす」と言うことを好い遁辞にして責任を逃れ無為無策に甘んじ國民の進取発展を阻害する事である。日本近代の重臣は一様にこの傾向が強かった。これがどれくらい國民の気分を腐らせたか測り知れぬものがある。戦争末期に民衆の間から盛んに起こった大権発動論、天皇親政論はこういう両様の政治家に対する民衆の不信と絶望との反映であって外国ならば当然民衆革命の起こるところであるが日本の國體ではそういう時に必ず民衆は創造的地位に立つ天皇に直結しようとするのである。こう言う弊害を調整する(checks and balances)為に政府に対して両院と枢密院とがあったのであるが、それが何れもその職責を尽くさなかったので政治的責任は主として政府議会枢密院にある。天皇に政治的責任はない。然し乍ら天皇の道徳として深い「自責」は御ありにならねばならぬ。歴代天皇の詔勅を拝見すればその点実に厳粛である。
Anne of Lorraine アンナ・ド・ロレイン(1522~1568) Antoine of Lorraine 善良公アントワーヌ・ド・ロレーヌ(1489~1544) René II ルネ2世。ロレーヌ公、バル公、ヴォーデモン伯(1451~1508) Yolande of Lorraine ロレーヌのヨランド(1428~1483) (註:ヨランド・ダンジューはYolande de Lorraineと呼ばれ、英語ではYolande of Lorraine となる。また、その娘のYolande は英国に嫁いだのでYolande of Lorraine と呼ばれる。ここのYolande は前者) René d'Anjou ルネ・ダンジュー(1409~1480) Isabella of Lorraine イザベル・ド・ロレーヌ(1400~1458)(ルネ・ダンジューの妃) Charles II シャルル二世(シャルル禿頭王)(1364~1431) John I ジャン1世(ロレーヌ伯)(1346~1390) Adolf of Nassauナッサウのアドルフ(1540~1568) (ナッサウのアドルフに該当する人物は次の6人居るがここではナッサウ伯アドルフを指す ・Adolf, King of Germany (c. 1255–1298) ナッサウ伯、神聖ローマ皇帝(1292~1298) ・Adolph II of Nassau (1423–1475) マインツの大司教 ・Adolf of Nassau (1362-1420) ナッサウ-ディレンベルク伯ヨハネス一世の息子 ・Adolf of Nassau (1540–1568) ウィリアム(ウィレム)一世の六男。ヘイリヘルレーの戦いで戦死。 ・Adolph, Prince of Nassau-Schaumburg (1629–1676) ナッサウ-ディレンベルクのルイ・ヘンリーの息子 ・Adolphe, Grand Duke of Luxembourg (1817–1905), ナッサウ公、後のルクセンブルク大公) Albert Iアルベルト一世(ドイツ王)(1255~1308)
セト-アテン信仰者のパルティア支流に話を戻すと、二人の女性が指導的人物として登場する。それは女王テア・ムサ・オウラニアThea Musa Ourania*とその娘、アディアベネの女王ジュリア・ヘレナである。彼女らは紀元1世紀に生き、権力に狂った女族長クレオパトラ7世の縁者であり、彼女らはローマ帝国全土の支配権の合法的主張者であった。猶太教に改宗して後、ヘレナはエデッサに住み、その息子をローマ帝国の王位に就けようと策謀し、それによって自らの名において世界の支配者になろうとした。
「…イエスとマリアが赤毛であったとすれば、このジンジャーゲノムが北方ヨーロッパの王家に入った未だもう一つの文化的遺伝的経路があることになる。「マグダラのマリア-オラニエの王女」の中で、マグダラのマリアが南フランスのオラニエの街に定住した、と更に議論されている。しかしフランスのオラニエの王子たちは結局その小さな都市国家から亡命して代わってオランダのオラニエの王子になる。しかしオランダの王家はずっと長い間、8世紀後半のギヨーム・ド・ジェローヌ -オラニエ(Guillaume de Gellone-Orange)以来、現在のオラニエのウィレム・アレクサンダー王子に至るまで、ずっとジンジャー髪の原種であった。」―ラルフ・エリス著「イエス:エデッサの王」
「私は正真正銘の記録から示して来たが、修道僧によるそのフランスへの導入から国王ジェームス一世の治世の到来まで、英国のメーソンは、純粋にカトリックで私が公式の一覧を指示したその大棟梁は専ら宮廷、貴族或いは高位聖職者から選ばれた…1694年のオレンジ公ウィリアムの特有のメーソンの誕生にも拘らず、古代ブリテンのメーソンはその古代の法令をプロテスタントの国王の下で温存し、ローマカトリックのままでいた。この事の証拠は、私が発行を提案する、そして、1747年の近代メーソンの改革者の手による狂った過度の破壊騒ぎを逃れた貴重なメーソンの記録に見いだされる。」―テダー平修士著「フランス大東社の不正行為(1909年)」(Brother Teder L’irregularite du Grand Orient de France, 1909)
「オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)の祖先はフランスのローヌ川の左岸、アヴィニョンの北にかけてのオランジュの町と公国から来た。13世紀にオラニエ伯は自らを公(王子)と名乗り、1544年にはそこのラーン川がプファルツとの境界をなす独逸のナッサウ家の伯爵の一人、ウィリアム沈黙公がウィレム一世としてオラニエ公となった。彼はオランダ(ネーデルランド)に広く領地を持っていた…そして1544年彼の従兄弟ルネの死によりナッサウ-ブレダ家とシャロン-オラニエ家の連結財産を相続した。」―ニコラス・ハッガー*著「西洋の秘史Secret History of the West」 *Nicholas Hagger(1939~)は英国の詩人、作家、文化史家、哲学者で、哲学的普遍主義の主要な支持者。
「私は正真正銘の文書から示して来たが、英国のメーソンはその修道士によるフランスへの導入からイングランドのジェームス一世の治世の出現に至るまで、純粋にローマカトリックであったし、私が公式一覧を提供した、その大棟梁たちは宮廷、貴族、高位聖職者から選ばれた…。1694年にウィリアム・オレンジ独特のメーソンの誕生にも拘らず、古代のブリテンのメーソンはプロテスタントの王の下でもその古代の規則を守り続け、ローマカトリックであり続けた。この証拠は、私が出版することを約束する、そして、1747年の近代メーソン刷新者たちの気違い沙汰の破壊の手を逃れた貴重なメーソンの文書に見出すことができる。」―結社員Teder著「フランス大東社の変則(不規則性)L’irregularite du Grand Orient de France(1909年)」