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2011年04月12日

再編再録:カンナギは正義を求める(1)

または、タミル劇場型政治に巻き込まれた古代の貞女の困惑。選挙が近づいて何だか落ち着かない気分になり、昔(2004年)に書いたものを引っ張り出してきて再録。2001年末にタミル・ナードゥ州の州都チェンナイで起こった奇妙な事件について。

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まずは、あまりに面白くて思わず全訳してしまった ChennaiOnline 記事 Kannagi paves the way。2001年12月後半のものと推定。誤訳あったらご容赦を。

カンナギが道をあける

12月14日の朝、いつものようにマリーナを歩いていた、あるいはバスに乗ろうとしていた人々は息を呑んだ。過去約34年間その場に立ちつづけてきた有名なランドマーク、片手にアンクレットをもち正義の裁きを求めるカンナギの銅像が忽然と消えていたのだ。さらに彼らが我が目を疑ったことには、銅像が建っていた場所、そしてさらにその先まで、ひいたばかりのアスファルトの匂いを立ち上らせながら新しい道路が伸びていたのだ。ほどなくその場では、像の消失をめぐって深刻気だったり茶化し気味だったりする解説を各々が開陳しはじめ、通りがかりの野次馬も加わって議論は活況を呈した。

事の次第
12月6日の未明、AP州出身の運転手アーナンダンが運転するトラックは、ハンドル操作の誤りから、像の周りを囲っていた柵を突き破り、台座に衝突して停止した(台座の周りには相当なスペースがあった。どうしてトラックが柵に当たって突破した上で台座を破損することができたのか、普段マリーナビーチを歩いている人々は疑問に思った)。数日後、像を覆う囲いが組まれ、像は通行人の目から遮断された。当局は事故でダメージを受けた像と台座に補修作業が行われていると説明した。

警察の説明によれば、その後、毛布にくるまれ麻袋に覆われていた銅像を何者かが持ち去ったのだという。警察はかくも重要な公共財産の盗難に気がつかなかったのか?銅像が持ち去られるのを黙って見ていたとでも言うのだろうか?問題の場所のすぐ間近に交番があるのを知っているものなら誰でもそう思うだろう。何者かが銅像を持ち去ったという情報自体を警察はどこから入手したのか?2つある公式見解のどちらを信じるかという範囲でしか我々には選択肢がないのだろうか。しかもどちらの公式発表も首尾一貫していないのだ。片方は、像の盗難は12月9日の夜であったといい、別の部局の発表によれば12日の夜であったという。ともかく14日の夜明けには、台座が完全に取り去られ、新たな道路が岸辺に向かって伸びていたのだ。

それは全く理屈に合わない、その近所が受け持ちの交通警察官は言う。第一に台座の周りの柵を壊すのはそれほど容易なことではない。仮に柵を壊してトラックが台座に衝突することが可能だったとしても、像自体が破損することは考えにくい。像は台座上にしっかりと設置されており、台座の端から像までは少なくとも3フィートの余地があった。トラックがどんなスピードでこの台座に衝突ようとも、堅固な台座を破壊してそのうえ像にもダメージを与えることは不可能だ。これは巧妙に仕組まれた「事故」だ、彼はそう感じたという。

巻き起こったドラマの数々
政治にかかわっている人々は、これは前州首相(当時)ジャヤラリタ女史お抱えのヴァストゥ(訳注:インド版の風水師、ここでは具体的に Parappanangadi Unnikrishna Panicker を示す、この事件でも名前が挙がった人物)の進言によるものに違いないと感じた。女史が現在多数の訴訟や批判にさらされているのはこの銅像のせいなのだと風水師が主張したというのだ。この説は州政府与党の中にさえ広まっていった。

銅像の撤去は、州政府がその必要を認めたから行われたのではない。トリプリケーン(訳注:像のあった場所に近い街区、タミル名はティルヴァッリケーニ)の住人達は過去実に15年間に渡って撤去を求め続けてきた。公共事業局はこのような訴えを繰り返し地区の一般住人から受けている。彼らによれば、まさにカンナギ像があるせいでこのエリアに土地改良事業が行われることは絶えてなく、しかしながら当局は訴えに対してこれまで全く耳を貸そうとしなかったというのだ。だが今ジャヤラリタ女史にまつわる噂が恐ろしい勢いで広まり始めたことを考えると、結局風水がものを言ったわけになる。ある公共事業局のスタッフは匿名を条件に以上のように語った。

風水師の主張
カンナギの像は南西方向を向き、憤怒の表情を浮かべていた。風水上の見地からすると、これはとてもよろしくないことなのだという。もし像が男性のものだったなら、同じ方角を向いていても無害なものだったはずだ。女性、南西向き、さらに加えて憤怒の表情、この組み合わせが絶対的にまずいのだ。やはり匿名を希望する有名風水師による分析である。しかし別の風水師たちは、これらマイナス要因は、像の背後に横たわる海によって大幅に相殺されたはずだとも言っている。

大多数の人々は、事故は像を撤去する口実をつくるために巧妙に演出されたショーにだったのではないかと疑っている。像の修繕・再設置はどうするのか?また像の突然の消失の原因は?なぜこれほどに急いで新しい道路が敷かれなければならなかったのか?そもそも今像はどこにあるのか?各方面からあがってきた矛盾する報告や、混乱した諸声明は、結局一般大衆のこの疑念を確信に変えるだけのものだった。

像の在り処に関する諸説は驚くほどバラエティに富んでいた。あるマスコミはチェーパーク(チェーパーックム)の公共事業局本局の埃まみれの一室にあるとすっぱ抜き、別の社によれば博物館に安置されているという。混乱は増すばかり。

政府の役人は誰一人として口を開こうとはしない。公共事業局に尋ねれば、チェンナイ都市開発公社に聞けというだろう。公社に聞けば彼らは交通局の方向を指差すだろう。たらいまわしというやつだ。

我々は当該エリアの土木技師補ナーチヤッパン氏にインタビューを申し入れたが、彼は休暇中だった。公共事業局の長官であるクトラリンガム氏はオフィスに不在で、何かとても重要な会合に出席しているとのことだった。一般の人々は、そして特にトリプリケーンの住人達は、この一連のオペレーションの背後で一体何が進行していたのかを知りたいと切に願っている。政府には説明する責任がある、仮にマスコミに対してはなくとも、少なくとも市民に対しては。

ともかくタミル・ナードゥ州は他州に比べて記念像の数がやたらに多いことは事実である。もし州政府がこれらの像をまとめて撤去して博物館なり何なりに収納するならば、それは歓迎すべきことだ。すくなくとも反対すべきことではない。しかし、ただ一つの像だけを取り上げて、これを撤去しさえすれば全ての障害が取り除かれるなどという迷信に基づいた予言を真に受けるのは、まったくもってドラヴィダ民族主義諸政党の伝統的な非合理性に特有のものだ。これはあらゆる点で糾弾されるべきものだ。(了)

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カンナギ像が撤去されたあとの空間、画面奥がマリーナ・ビーチ。2005年3月撮影。

その後、面白すぎる騒動を経て、カンナギ像は盗まれたという警察発表は嘘で(おいおい)、州立博物館に移された(ただし展覧はされず収蔵庫行き)ということが判明した。そのあたり、もいっちょ駄目押しで勝手訳、Frontline誌2002年1月5日-18日号のオンライン版の記事、Controversy over a statue (by S. Viswanathan)の全文。

像を巡る対立

タミルの理想的女性像であり正義への希求の象徴でもある叙事詩のヒロイン・カンナギ、その銅像が12月中旬チェンナイのマリーナ・ビーチの一等地から撤去されたことは広汎な抗議を呼び起こした。州政府によれば、銅像の撤去は12月6日未明のトラックの衝突によって台座が損なわれたことに起因するものだという。しかしながら最初期の報道では、台座は「若干傷付いた」が銅像自体は無傷だったはずだ。銅像の管理責任者である公共事業局(PWD)は、数日後に像を撤去した。像はPWD本局に保管され、後に州立博物館に移された。州政府の発表によれば、PWDの担当者が調べたところ、台座は高さ10フィートのブロンズ像を支えきれない状態になっていたという。

像の撤去は当初一切の告知なく行われた。約一週間、像は竹で組まれた足場とヤシの葉の覆いで隠され、何か修復作業が行われているかのように見えた。足場と覆いが取り外され、深夜の突貫作業で道路が作られたあと、はじめてマスコミは像の消失を報道し、すぐさま抗議運動が開始された。

ドラヴィダ進歩連盟(DMK)党首にして元州首相であるM.カルナーニディ氏は12月16日の声明で、像の撤去は「タミル人の誇り」に対する挑戦、タミル文化への宣戦布告、そしてタミル的感性に対する侮辱であると非難した。同氏とその他の政党のトップたち、タミル学者、文筆家、文壇関連機関は像が元の場所に再設置されることを求めている。

州首相、O.パンニールセルヴァン氏(訳注:この時点での州政府与党は全印アンナ・ドラヴィダ進歩連盟=AIADMK)は、この要求を拒絶し、その理由として像がスムースな交通を阻害しているため移設することが望ましいというチェンナイ市警(交通科)の見解を引き合いに出した。首相は像を修復したのちどこに移設するかについては触れなかった。しかし抗議の声が雪だるま式に膨れ上がったため、19日に政府は像はマリーナ・ロードぞいの浜辺の「適切な場所」に再設置されるだろうという声明をやむなく出した。設計技術者、警察、そして政府担当者による委員会をもうけて場所を策定することになるという。

市警察のK.ヴィジャイ・クマール長官は記者会見で、像の周辺が事故多発地帯になっているとの交通科の報告を受けて、道路を拡張したのだと述べた。

像が交通の邪魔になっていたという説明にカルナーニディ氏は納得していない。像は過去33年間その場所にあり続け、また同じ道路ぞいの他の像はよりいっそう車道に近い場所にあるのだ、というのが氏の主張だ。彼によれば像の撤去は占星術師による風水の見地からの助言に従ったものなのだという。一部の報道によれば、AIADMKの書記長・ジャヤラリタ女史が再び権力を掌握するために、その邪魔をしているカンナギ像を現在の場所と設置形式から移動しなければならないという主張が風水師たちによってなされたという。パンニールセルヴァン首相とM.タンビ・ドゥライ教育相は、このような占星術上の理由を否定した。もしそれが本当なら、像は第一次ジャヤラリタ内閣時代(1991-96)に撤去されていたはずだというのだ。

C.N.アンナードゥライ首班の第一次DMK内閣時代に公共事業相をつとめていたカルナーニディ氏は、1968年の第二回国際タミル学会にあたって、カンナギ像を建立した際の立て役者であった。タミル文化の卓越性の喧伝者として、同氏はイランゴー・アディハル作の3世紀の叙事詩『シラッパディハーラム(アンクレット物語)』(カンナギが主役である)から引用することを常としていた。彼はまたこの叙事詩に基づいた映画『プーンブハール』の脚本家でもある。

『シラッパディハーラム』の物語中、チョーラ王国の首都プーンブハールの若き商人コーヴァランは、高級遊女マーダヴィと恋仲に陥り、妻であるカンナギ(貞淑の象徴である)を顧みなくなってしまう。彼は全財産を失ってから妻の元に戻り、夫婦はパーンディヤ王国の首都マドゥライに赴く。コーヴァランは妻のアンクレットを金細工師に売ろうとするが、実はパーンディヤ王妃のアンクレットを盗んだところだった金細工師の奸計にひっかかり、盗人に仕立て上げられてしまう。金細工師はカンナギのアンクレットを王妃のものだということにしてしまったのだ。王はコーヴァランを処刑したが、カンナギは王の審判が誤りであったことを証明する。自責の念に打たれて王と王妃はその場に倒れ死んでしまう。カンナギはその憤怒によってマドゥライの街を焼き払う。

カルナーニディ氏は、像が元の場所に戻されなければ、タミル人の「自尊心に訴えて」全州的な抗議運動を展開すると宣言した。

労働者党(Pattali Makkal Katchi)の創設者S.ラームダース博士は「あらかじめ仕組まれた」像の撤去は、世界中のタミル人に対する背信であると述べた。復興ドラヴィダ進歩連盟(Marumalarchi Dravida Munnetra Kazhagam)のヴァイコ書記長、タミル愛国者運動(Tamil Nationalist Movement)の指導者P.ネドゥマラン氏、そして国民会議派タミル・ナードゥ委員会(Tamil Nadu Congress Committee)のE.V.K.S.イランゴーヴァン総裁らも、像の撤去を遺憾として元の場所への再設置を求めている。この動きに同調するインド共産党(マルキスト派)のN.シャンカライア州書記長、インド共産党R.ナッラカンヌ州書記長もそれぞれに、州政府のこのような行いは各種の不祥事から州民の目をそらすための策略であると指摘している。

M.ナナン博士、アブドゥル・ラフマーン氏、インキラーブ氏、ヴァイラムットゥ氏、プラバンジャン氏などタミル学者や文学者も政府を非難し抗議活動を計画している。インド共産党の文芸部(Tamil Nadu Kalai Ilakkkia Perumandram)のポンニーラン書記長は、カンナギはタミル文化の根幹をなす二つの価値観、すなわち aram(道義的正しさ)とveeram(剛勇)のシンボルであると述べた。タミル・ナードゥ進歩的作家協会(Tamil Nadu Progressive Writers Association)のS.センディルナーダン会長は、宮廷で行われた不正な審判に対して敢然と立ち向かったカンナギはタミルの「抵抗文学」の体現者であると言明した。

カルナーニディ氏の計画する抗議集会には、他の多くのリーダーたちに加えてインド人民党(Bharatiya Janata Party)や労働者党の指導者も参加するという。これら政党はタミル文化学会を1月2日(後に5日に延期された)に開催することを決定している。

これに関連して、大タミル会議派(Tamil Maanila Congress)のピーター・アルフォンス書記長は、これらの政党が本当にタミル文化に対する脅威を憂えているのなら、なぜサング・パリワールの saffronise education(訳注:教育におけるヒンドゥー復古主義化)の試みに対しては無反応であったのか、と疑問を呈している。彼はまた占星術が大学のカリキュラムに取り入れられた時、またタミル語を古典語として認めるようにという要求に中央政府が無視を決め込んだ時に、これら諸政党はなぜ沈黙していたのかと指摘している。(了)

上の訳文中での政党名の日本語訳は『10億人の民主主義―インド全州、全政党の解剖と第13回連邦下院選挙』(広瀬 崇子著、御茶の水書房 、2001年)に従った。

投稿者 Periplo : 03:23 : カテゴリー バブルねたtamil

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