いい匂いがした気がして目を覚ますと、目の前には既に食事が用意されていた。
「おはよう。今出来たから起こそうと思ってたんだ」
そう告げたナギトは、ランゼが眠っている間に朝食を作っていたらしい。
「このまま僕が食べても良かったんだけどね。せっかくだから食べなよ」
「……ん」
兄と入れ替わりで前に出て、くぁ、とあくびをひとつ。
今日はどれくらい寝ただろうとぼんやりした頭で考える。
いつも寝床に入るとどうしても色々考え込んだり思い出したりしてしまって、夜明けも近くなって気絶するように就寝することがほとんどだ。
壁に掛かった大きな姿見の向こうを覗くと、ぼさぼさの灰青髪に濃い隈を作った目つきの悪い男がこちらを見ていた。
「
「そりゃ、そうだよ」
独り言に近い呟きに、どこか諦めたような声でナギトが答える。
「ほら、食べよう。そしたら早く行こう。せめて身体くらい動かさないと」
「別に、言われなくても」
昨日は行かなかった。だから今日は行く。
狩猟は――狩猟だけが、今のランゼの生きている理由である。
※
ランゼに気づいた受付嬢は、微かに目を伏せた。
「すみません、今日は狩猟人数が複数人制限のクエストしか残っていなくて」
盛大に舌打ち。
ランゼは他人と狩猟するのが嫌いだ。
会話をすることさえ願い下げなのに、大概のハンターは連携がどうだのもっと気を配れだのと文句を言う。
好きにやらせてもらえないことがストレスでしかない上、人数が増えれば増えるほどモンスターと対峙したときの高揚感も薄れる。
だが、気に入らないからと言って断るわけにもいかなかった。
どうやらこの『単独で出発できるクエストがない』状況には、何者か――わかりきっている、十中八九あの狸爺だ――の意思が働いているらしく、この場で突っぱねると次回もほぼほぼ間違いなく複数人のクエストを回される。
嫌がらせの類か何なのかは知らないが、毎回渋々ながらも受けざるを得ないというのが実情だった。
早くも苛々しながら受注手続きを進める。
「狩猟対象は」
「蛮顎竜です。場所は砂原、少々気が立っているとのことで人数制限が付くことになりました」
傍迷惑なことだ。これも先日入った『百竜夜行来たる』の報せとの関連か。
数多の竜たちが大挙して里に押し寄せる“それ”は、なんでも五十年振りの現象らしい。
戦闘に生きがいを見出すランゼとしてはそそられないでもないが、その影響はさざ波のように、しかし如実に、日に日に広がって行く。人間・動物問わずありとあらゆる生き物がどことなく浮足立っているような空気は、何となく気に食わなかった。
「――以上です。同行するハンターはお一人で、間もなくいらっしゃいます。ご準備を整えてお待ちください」
受注書を受け取ったランゼは、連れてきた二匹のガルクに目を向けた。複数人の狩猟では、オトモは一匹までとギルドの規則により定められている。
「ハヤテ。今日は留守番だ、いい子にできるな?」
藤色の瞳に視線を合わせてそう告げると、白い毛並みのガルクは元気よく鳴いて返事をした。
ハヤテの装備を解いてやったり、自身とツキヨの装備を確認したり、持ち物――そう多くはない――を整理したりして、準備を終えたランゼはクエスト出発口にほど近い席に腰を下ろした。
今回はどんな奴が来るのやら。あまり口うるさい奴じゃないといいが、と嘆息する。
ほどなくして、そいつは現れた。
「すまない、遅くなった」
ひとつにまとめた長い黒髪。深緋の瞳。
人の顔は覚えない
花結女だ。あの。
「…………」
「そう露骨に嫌な顔をすることはないだろう」
“それ”に気づいたランゼは余程酷い顔をしていたらしい。「さすがに傷つくぞ」と女は苦笑した。
「
「シオだ」
ついと視線を逸らして吐き捨てると、女ハンターはため息交じりに言葉を被せた。
「あ?」
「シオ。私の名前だ」
※
「ところで」
いざ出発、というタイミングで声を掛けられて、ランゼは立ち止まった。
先日の件があるせいでないがしろにするわけにもいかない。先ほどのやり取りだって、きちんと会話が成立しているだけランゼにしてはよくやっている方――と本人は思っている。
「今日はちゃんと花結は持って来たのか?」
「……あ?」
思わずベルトに結んだ花結に目をやった。ちゃんとある。明らかに、見ればわかる。
数秒考えこんでやっと、
意味がわからない。くだらないにもほどがある。
大きくため息を吐いて、クエスト出発口の暖簾をくぐった。
今回の狩場は砂原。カムラの里とは全く異なる環境・気候のフィールドだが、実はさほど移動に時間はかからない。
他の地域については詳しくないが、この辺りは水運が発達している関係らしい。砂原だけでなく、里のハンターが活動するフィールドのほとんどが、数刻小舟に揺られる程度で到着する場所に位置している。
そういうわけで、せいぜい十人乗れるかどうかといったほどの小さな船の上から、ランゼは何をするでもなく水面を眺めていたのだが。
「用なら言え。何もねぇならじろじろ見るんじゃねぇ。不愉快だ」
先ほどから同乗者の視線が気になって仕方がない。一瞥もくれずに告げると、微かに動揺する気配が伝わってきた。
「あ、すまない。……癖なんだ」
女の答えに、ランゼはふんと鼻を鳴らした。珍しい癖もあったものだ。
「では、と言ってはなんだが」
そこで大人しく引き下がるかと思いきや、女は再び口を開いた。『用なら』と言ってしまったのが悪かったらしい。
頼むから放っておいてくれ、とランゼは内心辟易しているのだが、彼女は気づいているのかいないのか。
「ランゼはどうして弓を使うんだ?」
飛び出した質問の意図も解し難い。いや、そもそもランゼと会話しようなどという時点で意味がわからないのだが。
「わざわざ答える必要がどこにある」
眉をひそめて聞き返すと、女は懲りずに言葉を続けた。
「純粋に興味がある。それに、一緒に狩りをするハンターの狩猟スタイルは知っておきたいだろう」
「あ? ……んなもん別に要らねぇよ。戦闘中に後ろから射られたくなきゃ黙っとけ」
ランゼとてハンターがその武器を他人に向けるのが禁忌であることはもちろん理解している。だから本当にやるつもりこそないが、それくらいは言っておかなければ気が済まなかった。
この女は初対面のハンター全員にこんなことを聞くのだろうか。この調子でまともに狩猟ができるのか。
まだ狩場に着いてすらいないのに、先行きが不安で仕方がなかった。
※
気刃一閃。
普段のランゼは他人の動きになど興味もないのだが、目に入ったその太刀筋の美しさに「へぇ」と思わず感心の声を漏らす。
力強く、しかし決して力任せでなく、速さと技を兼ね備えた一太刀。
身体全体での突進をいなされた上すれ違い様に一撃を入れられたアンジャナフは、怯むことなくすぐさま振り返って体当たりを繰り出す。
その鼻っ面に矢をまとめて叩き込むと、黄色の瞳がぎろりとランゼを見据えた。
大きく頭をもたげた竜の口の端から、炎がちろちろと零れる。
「ブレス、来るぞ!」
炎の壁のように押し寄せるブレスを、矢で斬り払うようにして回避。蛮顎竜の頭の横へ回り込む。
さらに一射、そして畳みかけるように剛射。
次々と命中した矢は竜を怯ませるだけならず、大きく体勢を崩したアンジャナフはそのまま地面に倒れ込んだ。赤熱していたその喉からぱっと熱が引く。
すかさず前に出て、矢斬りを交えつつ一気に矢を撃ち込む。視界の端、尻尾側で太刀が閃くのがちらりと見えた。
あの女ハンター、なんだかんだで腕は確からしい。自分から射線上に立っておきながらランゼの立ち回りに文句を言うような輩とは違って、最初からしっかり彼の邪魔になることなく動いている。
正直言ってやりやすい。腹立たしいことに、だが。
『合わせてくれてるんだよ、あの人が』
兄の言葉に、ランゼは鼻で笑った。
だから何だって言うんだ。俺も合わせろと?
ナギトのため息が聞こえてくるようだ。が、ランゼは他人に合わせたことなどないし、これからもそんなことをする気は微塵もない。
足をばたつかせていたアンジャナフが起き上がると同時に仕掛けてきた噛みつき攻撃を、大きく後ろに距離を取って回避。
その
元より執念深いことで知られる蛮顎竜だが、こいつの気が立っているのは本当らしい――当たらぬのなら当たるまで攻撃すれば良いとばかりに、立て続けにランゼを狙ってその牙を振るう。
むしろ好都合だ。そう思っていたのだが。
後肢を軸に繰り出される回転攻撃を矢尻で流したところで、その大きな尻尾が発生させた突風にぐらりと身体が揺らぐ。
なんとか踏みとどまったものの、風圧に思わず目を細めて、
「――後ろに跳べ! 早く‼」
響く女の声、間近に迫る気配。半ば反射的に地面を蹴る。
次の瞬間目に映ったのは、鼻先を地面に擦りつけるようにして猛然と迫る蛮顎竜の大きな瞳だった。
名前が出たのでシオちゃんについて補足を。
彼女は友人のあんばさんからお借りしている子で、本作は物語自体もあんばさんとの合作です。