「……ない」
慣れた手つきで装備を解こうとした矢先のことである。
花結が、ない。
ベルトに結んであったはずのそれが、どこにもなかった。
花結。カムラの里に伝統的に伝わるお守りで、ハンターにとってはその効果で狩猟の助けとなる“装備品”の一つ。
だがランゼの使うそれは、彼にとってそれ以上の意味を持つものだった。
「兄さん、ない。花結がない、どこで……俺、落とし、て――嘘だ」
狩りの間は当然あった。帰りの道中でも確かにあったはずで、集会所に帰ったときもあった……気が、する。わからない。思い出そうとすればするほど、記憶の中の風景が歪んでいく。
「――っ、落ち着いて。大丈夫だから」
兄の声もどこか遠く、呼吸が整わない。
「探しに、行かないと」
ランゼがここまで取り乱すのには相応の理由があった。
あれは、幼い日に兄と贈り合った花結。兄がランゼのために作ってくれた、世界でただ一つの“お守り”である。ランゼにとって、文字通り何よりも大切なものなのだ。
引き戸をがたんと乱暴に開けてふらりと外に出る。
「待って、もう遅いんだから明日でも、」
「嫌だ」
兄の制止を遮った。
狩猟に行けないとかそれ以前の問題だ。ランゼにはあの花結がないといけない。
何故なら、兄は――もう。
「わかった。わかったから落ち着いて、がむしゃらに探すんじゃなくて順番に行こう」
順番に、順番に。
なんとか深呼吸した。
大丈夫。きっと見つかる。見つかるはずだ。
船着き場、集会所、オトモ広場、修練場。里に帰ってから訪れた順番だ。
逸る心臓をなだめて、焦りを鎮めて、順番に、丁寧に。
けれど、探せど探せど見つからない。
そんなはずはない、絶対に里の中にあるはずだ。
ちょっとした物陰、茂みの中、落としそうなところはくまなく探した。
まだ探していないところがきっとあるはずだ、きっとそこにあるはずなんだ、そう言い聞かせて。
こんな時間になっても賑やかな声が聞こえてくる集会所の前を通ったとき、ふとその
……盗られた、あるいは誰かが隠したのでは?
これだけ探して見つからないのだから、あり得ない話ではない。もう探し始めてから優に
本当にそうだとして、これからどうしたらいいのか? その答えをランゼは持ち合わせていなかった。
漠然とした不安感、どこへ向けたら良いのかわからない怒りを抱えたまま、ふらふらと歩く。
気が付けば、自宅の前まで戻ってきていた。
それだけならきっと、もう一周、と引き返していたのだろうが。
自宅の前に、長い黒髪を高い位置で一つに結った女が佇んでいた。
何か用だろうか。自分に?
混乱したランゼがその場に立ち尽くしていると、女はこちらに気づいて振り返った。
「ランゼ、だな」
そう声を掛けられて、わざわざ訪ねてくるほどの用は何かと警戒しながらも歩み寄る。
脳内では未だあらゆる感情がぐちゃぐちゃに吹き荒れている。
今すぐ帰れと怒鳴りたいところだが、そういうわけにもいかないと拳を握りしめた。
服装――装備からして彼女はおそらくハンター。問題を起こせば、今でさえ安定しているとは言い難い里とギルドでの立場が危うくなるのは自分だ。
「何か、用かよ」
唸るように問いかける。
「あぁ、これを――」
彼女が懐から取り出したものを目にした途端、思わず身体に力が入った。
花結だ。俺の。
「……お前が」
その胸倉を思い切り掴み上げる。
先ほどまで考えていたことなどもうすっかり頭になかった。
「盗ったのかよ……っ!」
握った右の拳が、べきべきと音を立てた。
女の次の言葉次第で、躊躇なく殴る。そのつもりだった。
「落ち着け、騒ぎになって困るのはお前じゃないのか」
彼女はランゼの右手に軽く手のひらを添えた。決して力が入っていたわけではないが、それは『それ以上はさせない』というはっきりとした意思表示だった。
女は恐れも怒りもせず、弁解も謝罪も否定もしなかった。その深緋の瞳はただ真っ直ぐにランゼの目を見ていた。
「……ちッ」
すっかり毒気を抜かれてしまったランゼは、女の胸倉を掴んでいた手を乱暴に放す。
渋々ながら自宅の戸を開けて、振り返ることもなく言った。
「入れよ」
夜もすっかり更けた頃だが、里は広いようで狭い。その場で騒ぐのが不味いことは事実だった。
女はランゼに続いて家に入り、静かに扉を閉めた。振り返ったランゼは、不機嫌な態度を隠そうともせずに彼女を睨みつける。
「で? 何が望みだ」
金か、素材か、はたまた他の何かか。
腹立たしい思いはあれど、この際花結が返ってくるなら何でも良かった。
しかし彼女は、ランゼの言葉に心底不思議そうな顔をして首を傾げた。
「いや、私はこれを届けに来ただけなんだが」
「……あ?」
つまりそれは、対価を必要としていない、と?
里にはお人好しが多いが、それでもランゼに好き好んで親切をする人間はもうほとんどいない。彼女が何を言わんとしているのかよくわからなくて、思わず聞き返した。
「大切なものなんだろう」
黒髪の女はあっけらかんとそう告げる。
それは確かに……そうなのだが。
真っ直ぐに見つめる深緋色の瞳に呑まれるようにして、困惑しながらも気づけば頷いていた。
彼女は何か言葉を続けようとして、しかし何も言わずに口を閉じる。しばらく迷うような素振りを見せたが、やがて躊躇いがちに言葉を紡ぎ始めた。
「悪いが、ゴコク様から聞いてしまったんだ。亡くなった兄――ナギトに、もらったものだと」
――亡くなった兄に。
そのフレーズを認識した途端、時が止まったかのような錯覚を覚えた。息が上手く吸えない。
何の反応も示さないランゼに何を思ってか、女はしばらく小首を傾げていた。が、やがて花結を受け取ることすら忘れていたランゼの手を取ってそれを持たせ、「じゃあ」と踵を返す。
「もう落とすなよ。次も私が拾ってやれるとは限らないからな」
がらり、と引き戸を開ける音。はっと我に返ったランゼはやっとのことで絞り出すように答えた。
「二度と、来るな」
返事はなかった。けれど、そんなことを気にしている暇はなかった。
彼女の言う通り、兄は、ナギトはもう死んでいる。
「……兄さん」
彼女が帰ってからもその場に立ち尽くしていたランゼは、しばらくしてようやく口を開いた。
「大丈夫だよ。僕は別に気にしてない」
ランゼが何を言わんとしているか察して、兄は落ち着いた声でそう告げた。
しかしランゼはただ首を振って、震える声でありもしない罪の許しを求める。
「ごめん」
聞かせたくなかった。自分が既に死んでいるなんて周囲の認識を改めて突き付けられて、いい気分のはずがない。
それに、彼が許したとてランゼ自身が納得できない。気持ちとしては、そちらの方が大きかった。
兄は今までも一度たりと嫌がる素振りを見せたことはないが、それでも、彼は自分のことが許せなかった。
「――いいんだ。誰が何と言おうと僕は今ここにいる」
彼の言う通り、ナギトは今この瞬間もこうしてランゼと共にいる。
だが女の告げたように、里の住民が『兄』と認識する一個人は五年前に死んだ。それも確かに、一つの事実で。
矛盾する二つの事象について、ランゼは――。
兄が憑いている、と認識している。
当然誰にも話してはいない。誰に言ったところで『家族を亡くしたショックで気が触れた』と思われるのが関の山でしかないからだ。それに、話をする理由もメリットもない。
そのせいで兄に窮屈な思いをさせているのは申し訳ないと思っているが……それでも、奇異の目に晒される方がずっと耐え難かった。
ランゼが黙り込んでいると、兄は「それよりも」と話題を変えた。
「あの人は善意でわざわざここまで届けに来てくれたんだよね? 焦る気持ちはわかるけど、もう少し落ち着いて考えたっていいだろ」
「それが純粋な善意だって保証がどこにある。……んなもんはねぇんだよ」
噛みつくように反論する。
ランゼは『善意の皮を被った何か』が何よりも嫌いだ。
純粋な善意なんてものも、存在するなどとは思っていない。
結局のところ、自己満足、偽善や見栄、そういったものが混ざり合って『善意』を構成しているだけに過ぎない。
「ただ良かれと思ってやったことでも、それ以外の何か醜い
「それは勘違いを正当化する理由にはならない」
痛いところを突かれて黙り込んだ。
ランゼが焦りと動揺で勘違いをして暴力に訴えたのは、紛れもない事実である。
「元のところに置いておけばいい、ていうのだって結果論だよ。落としたのが狩場だったら? 雨で流されたり風で飛ばされたりしてたら? 戻ったところで自分では見つけられないかもしれない」
「ちッ……」
「ランゼの気持ちはわかるよ。わかるけど……もうちょっとマシな態度だってあるだろ」
普段はランゼが頑なであまり耳を貸さないせいかそこまで口うるさくない兄が、今回ばかりは引き下がらなかった。
確かに今回の件に関しては、ランゼも自分が悪いとは思っている。認めざるを得ない。腹立たしいが。
「次やったらしばらくご飯作ってあげないから」
「わーったよ。俺が悪かったって」
頭をがりがり掻きながらため息交じりに言う。
怒り方が妙に子供っぽいし別に飯はさして堪えないが、珍しく本気で怒っているらしい兄と対立したくはなかった。
もうしないとは言ったものの、あの黒髪の女とは、できればこれ以上関わりたくないというのが本音だ。彼女の射抜くような視線に、ランゼはどこか苦手意識を覚えていた。
しかし里のハンター同士、今後意図せず顔を合わせる機会はあるかもしれない。そうなれば必然的に何かしら落とし前を付ける必要がある。
「はぁ、くっそ……最悪だ」
布団も敷かずに畳に寝転がって、誰にともなく呟いた。