ご自宅で瞑想体験ができるお寺

高野山真言宗 如実庵

〒259-0145 神奈川県足柄上郡中井町田中81-17

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法話のページ
(庵主の法話を掲載します 随時更新)

お地蔵さま⑤

 前回と同じくお地蔵さまの功徳をあらわした和讃、賽河原地蔵和讃(さいのかわらのじぞうわさん)」のお話の続きです

 前回紹介した和讃の内容では、幼くしていのちを落としたお子さんの賽の河原での修行の様子が描かれていました。修行と言いましても、守ってくれる人、慰めてくれる人もおらず、本当に孤独で辛く悲しい生活です。積み上げた石の塔を、積み上げるたびに地獄の鬼に突き崩される終わりのない行為の繰り返しは、修行というにはあまりに過酷だと言わざるを得ないでしょう。しかも、子どもたち自身が罪をつくったわけでないにも関わらず、「人間世界に残ったお前たちの親が悲しみに暮れてお前たちの供養をしていないから、お前たちがこの苦しみを受けるのだ!」と言われるに至っては、理不尽ささえ感じようものです。

 

  峰の嵐の音すれば父かと思うてはせ登り

  谷の流れと聞くときは母かと思うてはせ下り

  あたりを見れども母もなく 誰とて添乳を成すべきや

  西や東に駆け廻り石や木の根に躓いて 手足は血潮に染めながら

  幼心の味気なや 砂を敷きつつ石枕 泣く泣く寝入る折柄に

  また清冷の風吹けば 皆一同に起き上がり ここやかしこと泣き歩く

 

 鬼が去った後の描写は、子どもたちの孤独を表して余りある光景です。物音に親がいるかと思って必死になって探し回っても、しかし誰も見つけるができません。このような賽の河原での生活に光はないのでしょうか。このあわれな子どもたちに救いはないのでしょうか。

 和讃は、ここでお地蔵さまの登場を告げてくれます。かわいそうな子どもたちを救いに来たのです。

 

  そのとき能化の地蔵尊揺るぎ出でさせたまいつつ 何をか嘆く稚児(おさなご)よ

  汝等いのち短くて 冥途の旅路に来るなり 汝が父母娑婆にあり 

  娑婆と冥途はほど遠し 我を冥途の父母と思うて明け暮れ頼めよと

  いまだ歩まぬ嬰児を錫杖のつかに取りつかせ

  忍辱慈悲の御肌に抱きかかえてなでさすり 大悲の乳房をあたえつつ

  泣く泣く寝入る哀れさは 譬え難なき御涙 袈裟や衣にしたしつつ

  助け給うぞありがたや 我が子を不憫と思うなら地蔵菩薩を念ずべし

  南無や大悲の地蔵尊

 

 お地蔵さまは子どもたちに語りかけます。「あなたたちの人間としてのいのちは短くて、冥土の旅に来てしまったね。お父さんお母さんは人間の世界に生きてらっしゃるから、とっても遠いところなんだよ。これからは私をお父さんお母さんと思って頼りなさい」と。そして寒さに震える子たちを衣の中に入れてあげ、まだ歩くことさえ適わない幼子を、その錫杖につかまらせてあげます。

 子どもたちは、これまでの不憫を思うのか、或いはやっと得られた安堵の訪れを思うのか、涙を流しすすり泣きながら疲れて寝入っていきます。その姿は何にたとえようなく涙を誘うものです。和讃は最後に結びます。「我が子を不憫と思うなら地蔵菩薩を念ずべし」と。

 お地蔵さまの功徳を一言で申すなら「代受苦」と言えると思います。大地のようなおおらかさで人びとの苦しみを身代わりになって受け止める地蔵菩薩を、古来私たちのご先祖さまは、厚く信仰してきました。

 道端のお地蔵さまを見かけたらそのときは、たくさんの方々の想いを集めてきた仏さまと思ってください。多くの悲しみと憐れみ、そして切なる願いを一身に受け止めてきたお地蔵さまでございます。

 そして私たちもまた、ほんの少しでも誰かの苦しみを受け止める生き方ができる「菩薩」を目指して生活を営んでまいりたいものでございます。

お地蔵さま④

 今回はお地蔵さまの功徳(くどく)をあらわした和讃、賽河原地蔵和讃(さいかわらのじぞうわさん)のお話です。

私がこの和讃(わさん・和文で書かれた讃)を初めて知ったのは、十代の中頃でした。その頃は親にも反発していて、お寺で生活しながら将来僧侶になる気持ちは全くありませんでした。子どもの頃は自分から進んで唱えていたお経も、いつしかまったく唱えることはなくなっていました。

 そんなある日、お寺に水子(みずこ・出産前、あるい出産後った赤ん坊供養される女性がお参りに来られました。私はそのとき、たまたま本堂の隣の部屋にいました。そして父が唱える「賽河原地蔵和讃」を生まれて初めて聴きました。「どんなことを唱えているのやら」とうがった気持ちで、聴くともなしに聴き始めた私は、いつしかその内容に胸が熱くなり、思わず涙が込み上げてきたことを今も鮮明に覚えています。親に反発している十代の青年の心を揺さぶるくらいの、悲しくもあたたかい和讃がこの「賽河原地蔵和讃」です。 

  

  これはこの世の事ならず、死出(しで)山路(やまじ)の裾野なる賽の河原の物語、

  聴くにつけても哀れなり、二つや三つや四つ五つ、十にも足らぬ嬰児(みどりご)が、

  賽の河原に集まりて、父恋し、母恋し、恋し恋しと泣く声は、

  この世の声とは事変わり、悲しき骨身(ほねみ)を通すなり

  

 幼くして人間としてのいのちを終えてしまった子どもたちが行くのは、三途の川のほとり、賽の河原という場所です。年端もいかぬ子どもたちは、大人のような罪を犯すことはないため、地獄には堕ちません。しかし、石と岩ばかりの風景が広がるこの河原で、子どもたちは行き場もなく、守ってくれる者も慰めてくれる者もおらず、悲しさと寂しさのあまり力の限り泣き叫びます。迷子のお子さんが「ママー!!」と涙に暮れながら泣いてお母さんを呼んでいる光景を目にしたことがあると思います。あのような状態がいつまでもいつまでも続きます。その立場を想像すれば、どれほどに孤独で悲しいことでしょう。しかも子どもたちには、ある務めが課されているというのです。 

  

  かの嬰児の所作として、河原の石を取り集め、これにて回向(えこう)の塔を組み、

  一重組んでは父のため、二重組んでは母のため、三重組んでは古里の兄弟我が身と

回向して、昼は独りで遊べども、日も入相(いりあい・日暮地獄(あらわ)れ、娑婆(しゃば・父母(ちちはは)追善作善(ついぜんさぜん)明け暮(なげ)(むご)可愛(かわい)不憫(ふびん)汝等苦患(くげん)黒金責め幼児(おさなご)あままえ(ふ)(おが)

積みなく思うかや、母の乳房が出でざれば泣く泣く胸を打つときは八萬(はちまん)地獄(じごく)也、終日(ひねもす)抱かん(はな)天地奈落(てんちならく)消え失

 

 賽の河原での子どもたちは、周囲に広大に広がっている石を集めて、ひたすらに塔を組む行を課せられます。そして昼間石積みの行を続けてきた子どもたちの前に、夕方になると地獄から上がって来た鬼が現れます。地獄での鬼は、堕ちてきた人びとを徹底的に責め続けるのですが、さすがに子どもたち相手に直接責めを行うようなことはしません。しかし、折角に子どもたちが積み上げた石の塔を容赦なく金棒で突き崩してしまうのです。しかもそれは、人間世界に残った親御さんが悲嘆に暮れていて、お前たちの追善供養をしないから、お前たちがこのような苦しみを受けるのだ!と言うのです。さらに、崩した状態から、また積み続けろ!と責め立てます。子どもたちに罪があるはずもないのですが、親に悲しみを与えてしまったことが罪というには、あまりに酷なことでございます。

 一方娑婆(人間世界)では、お母さんは体が弱り疲れ切ってしまっています。そのお母さんをお父さんが抱きかかえて介抱するのですが、お父さんもまたあまりの悲しさからお母さんの体を抱いたまま離さずに悲しみに暮れるような生活を送っているのだ、と鬼は言います。

 子どもたちは恐ろしさと悲しさから「ごめんなさい、ごめんなさい」と手を合わせて許しを請いますが、鬼に情けはありません。子どもたちを責め続けて、鬼は去っていきます。

 昔から際限のない単純作業を例えて、「賽の河原の石積み」と言います。まさに子どもたちの石積みの行から来ている言葉です。このような環境で、果たして子どもたちに救いはあるのでしょうか。続きは次回のお話と致します。

お地蔵さま③

 今回から「和讃」(わさん)という日本語で書かれた讃(仏教の讃歌)のお話をしてまいります。

 一口に「お経」と申しましても実に多種多彩で、インド起源のお経から、仏教が中国に渡ってから作られたお経など様々です。一例を挙げますと、多くの方が名前はご存じかもしれないお経に、「般若心経」があります。このお経の起源は遠くインドまでさかのぼります。「西遊記」の「三蔵法師」で有名な玄奘(げんじょう)三蔵というお坊さまが天竺(てんじく・現在のインド)まで苦難の旅をして原典を持ち帰り、自身で翻訳したのが「般若心経」です。お経の最後の「ギャテイギャテイ、ハラギャテイ…」は、意味まで訳する「意訳」をせず、インドの原典の音をそのまま残した「音訳」です。262文字という短いお経ですから、何度も繰り返して聴いているうちにそらんじることができるようになります。私もまだ小さかった頃、お寺の住職だった祖母の仏前でのお勤めを毎日見ていて、自然と唱えられるようになりました。

 しかし、当然意味はわかりません。これは昔の方も同様だったはずで、なんとなく耳覚えはするけれど、実際にどんな内容のお経なのかは、きちんと学んだ人たち以外は全くわからなかったでしょう。

 そんな中、仏教の功徳を和語、つまり日本語で書いた「和讃」が生まれました。日常語で構成されるこの和讃は、字を読むことができなくとも、聴けば意味を理解できます。この和讃ができたことで、仏教信仰がより民間に広がり、身近になっていきました。

 数多ある和讃の中の一つにお地蔵さまの功徳を読んだ「賽河原地蔵和讃」(さいのかわらのじぞうわさん)があります。この和讃は、お地蔵さまの功徳を、賽の河原でのお話に特化して著した和讃です。乳幼児の致死率が高かった時代、幼子を亡くして悲嘆に暮れる人びとに向けて著されました。

「賽の河原」とは三途の川のほとりに広がる河原です。まだ物心もつかない幼子が亡くなると、ここに行くとされています。ここでの苦しく悲しいお子さんたちの行と、その子たちを救い上げるお地蔵さまのあたたかさが描かれています。この和讃、実は結構に長い和讃です。内容についてのお話は次回からといたしましょう。

お地蔵さま②

 前回は、お地蔵さまのお名前の由来と、六道(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)で救済と教化(きょうけ・仏の道へと導くこと)の行を続けてらっしゃる仏さまであることをお話ししました。

 でもそれだけで、全国各地津々浦々にお地蔵さまが祀られることになっていったのかと言いますと、そこはさらに理由がありそうです。

 如実庵の玄関の前にも、釧路の岸福寺からお引っ越し頂いたお地蔵さまが並んでいます。私の祖父母の出身地、栃木県の大谷石で彫られ、北海道に渡って風雪に耐え、また海を渡って今度は神奈川にやってきました。一体は「水子地蔵」、一体は「子安地蔵」と言います。ここにお地蔵さまを信仰した人々の想いが込められています。

 昔の日本は、新生児・乳児死亡率がとても高い国でした。普段からの栄養状態の悪さに加え、飢饉や災害が起こると、たちどころに貧困が蔓延し、当然栄養状態もさらに悪くなります。平均寿命自体が低かったのですから、赤ちゃんにとって、現代では想像もつかないほど過酷な環境だったことでしょう。

 赤ちゃんやお子さんが亡くなって行くところはどこかご存じですか?そこは「賽の河原」と申します。無垢なお子さんですから、地獄には落ちません。餓鬼、修羅といった貪りや争いの世界にも行きません。三途の川を渡らず、河原で石積みの行をおこないます。石を積みながら、親御さんと別れた寂しさから涙にくれ、泣き疲れては眠りに落ち、また起きだしては石を積みます。しかもせっかく積んだ石は、地獄からやって来た鬼が金棒で突き崩してしまいます。「お前たちが亡くなったことで、両親はどれだけ悲しんでいることか」と言って。いのちを落としてしまったお子さんに罪はないはずなのに…。しかしそこでお地蔵さまが現れます。ご自身の持つ錫杖に小さなお子さんを掴まらせ、温かいころもの内に抱き入れます。そうして亡くなったお子さんたちを救い上げるのもお地蔵さまなのです。

 人びとは、亡くなった赤ちゃんがどうか安らかにあってほしいと心から祈り、そして今生きているお子さんの健やかな成長を切望しました。そんな切なるお気持ちが、道端のお地蔵さまを増やしていったのではないでしょうか。次回からは「賽河原地蔵和讃」(さいのかわらのじぞうわさん)という日本語で書かれたお経のお話をしてまいります。

お地蔵さま①

 如実庵の御本尊は、北海道釧路市の岸福寺からお引っ越し頂いた地蔵菩薩(じぞうぼさつ)さまです。昔からよく「お地蔵さま」「お地蔵さん」と呼ばれていますね。今でもあちこちの街角に祠(ほこら)があったり、道端に小さなお地蔵さまが並んでいる光景を目にします。

「地蔵」というお名前は、インドから中国に仏教が渡り、仏さまのお名前が漢字に翻訳されたときに、意味まで訳する「意訳」がなされて、「地蔵」となりました。もともとはインドの古典語であるサンスクリット語で「クシティ・ガルバ」と言います。クシティは大地を、ガルバは胎内を意味します。つまりいのちを生み出し、そして還っていく大地のようなおおいなる働き(ちから)を蔵する仏さまという意味です。

 ところでみなさまは「六道」という言葉を聞いたことはございますか?人間界も含めた六つの世界のことで、「天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」をいいます。この六つの世界での生まれ変わりを繰り返すのが「輪廻転生」(りんねてんしょう)です。この六道というのは実は迷いの世界でして、「天上も迷いの世界!?」と思われるかもしれませんが、ひとつの世界を終えると、次はまた別の世界に生まれ変わりますから、どこまでも不安(迷い)が尽きない状態を繰り返すことになるのです。

 お地蔵さまは、この六つの世界・六道で迷いのただ中にある者を救済する行を続けられている菩薩として「六道能化」(ろくどうのうけ)とも呼ばれています。「能化」は、「能(よ)く教化(きょうけ)する」、迷える者に指導と救済を続ける菩薩をいいます。ですから、私たちが生きている人間世界の、いたるところにお地蔵さまが祀られているわけですね。昔から私たちにとって、いちばん身近な仏さまと言えると思います。

あなたの思う「幸せ」は窮屈ではありませんか?

 電車での移動中、ある会話が耳に入ってきました。三人組のスーツ姿の方々です。

「宝くじ買った?」「買ったよ。○億当たらないかなあ。当たったら仕事やめるよなあ」「そうそう!」。口々に出てきて止まりません。もしかしたらこのように考えている時間も楽しいのかもしれませんね。

 少しおいてその中のお一人が、誰にともなく訊きました。「お金があれば、幸せになれるのかな」。「そりゃそうだよ」と返ってきます。「まず住宅ローンを払って、それからあれも欲しいしこれも欲しいし、それで旅行にも行きたいし」と。「いくらあれば満足なんだろう」「わからないけど、とにかくたくさんあったらいいんじゃない?」。そして、「どうしてこんな生活してるのかなぁ」とつぶやきました。現在の生活には満足されていないご様子です。

 私たちは自身の不満ですとか不遇を、自らの責に嫁したくないものです。周りのせいにしてみたり、「こんなはずじゃなかった」と呻いたりします。しかし、現在不満に思っている現実は、突発的に起こったのではありません。確かに周りの影響も一つの要素であることに間違いはありませんが、すべてではありません。たくさんの、ほんとうにたくさんの積み重ねと関わり合いを経て、いま私たちの前で繰り広げられています。

「因果応報」や「因縁」という言葉をお聞きになったことはございますか?なにか「悪いことをしたら報いがある」とか「因縁めいている」といったような使われ方が多いようですが、ネガティブなことを意味する語ではありません。「すべては関わり合っている」と意味します。あらゆるものが関わり合い、絡み合って現在の事象があると。

 例えば、目の前に料理があります。これだけでお腹いっぱいになりますか?実際にお腹は満たされませんね。料理を「いただく(食べる)」ことでお腹はいっぱいになるでしょう。同じように、現在就いているお仕事、お勤めになっている会社、通っている学校、これらがあるだけでは私たちとはつながりません。「募集を行なう」、それに私たちが応えて「応募する」「受験する」といった関わりがあってはじめて関係が始まります。応募したり受験したりの前の私たち自身の状況もありますし、入社や入学した後の状況も人それぞれにあります。実は私たちが思っている以上に、はるかに複雑にいろいろなものが関係しあって今があります。そして未来もあります。

 では「これからどうしよう」と悩んだとき、私たちにできることは何でしょう。まず、どうしていまこうなっているのかを、自分にとって都合の悪いことも含めて、時間をかけて考えます。「あの人がどうだったから」ではなく「自分はどう考えて動いてきたか」。自分自身の「振り返り」ですね。意外と若い頃に良い考えを持っていたと気づくこともありますし、これからへの答えの発見につながることもあります。

 そしてもう一つ。「こうならなかったら幸せではない」という幸せの条件を固定させてしまうと、それは「窮屈な幸せ」になりませんか。「こうじゃなきゃダメ」と思っていることは、本当にそうでなければいけないことですか。

 水面に映った美しい月をいくら手に入れたいと望んでも、それは虚しいことです。ところが目に見えているものは、時に魅力的に、時に絶対に思えてしまいます。現実の生活は、常に人をいざなってやみません。それだけ満たし続けたい欲求の苦しみも増すのです。でも一歩、まず一歩立ち止まってみましょう。立ち止まったら一息ついて、自分で作っている「壁」を考えてみましょう。

 現実の生活を完全に捨て去ってしまうことは適いません。それだけ現実もまたたやすい相手ではありません。でもせめてこころの中の「窮屈さ」から解放される時間を持ってみてはいかがでしょうか。仏教が瞑想を勧める所以もここにあります。これから「阿字観」のページでも瞑想の「呼吸法」を紹介してまいります。日常生活のちょっとしたお時間の中でご活用ください。

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