以前『なぜハラスメントする研究者は研究者として劣っていると断言できるのか』という記事を書きましたが、北村紗衣氏への誹謗中傷、およびオープンレター『女性差別的な文化を脱するために』関係者への罵詈雑言がやむことがありません。Twitterでも書きましたが、端的に言ってこの状況は常軌を逸しており、誹謗している人は何か悪い病気にやられて正気を失ったとしか思えない有様です。
誹謗者の主張は様々ですが、一貫しているのは次の2つです。まず第一に、呉座勇一氏が所属先の日文研に処分されたことに象徴されるように、北村氏を擁護する勢力やオープンレターによって(男性)研究者の言論が弾圧されているという部分。もう一つは、呉座氏の事例にせよ、北村氏が代理人を通じ大学と協議しながら対応を進めたことで現在処遇が取り沙汰されている某氏のように、こうした「言論弾圧」によって職を失うのはおかしい、不当な「キャンセルカルチャー」であるという部分です。
しかしながら、こうした主張は単純な事実認識すらままならない的外れなものに過ぎません。前者の点は後で論じますが、特に後者の点に関しては、現在批判されている人々の発言からして、むしろどうしてこのような発言を公で行っておきながら大学教員であり続けられると思えたのか疑問でしかありません。
私に言わせれば、こうした誹謗者は2つの面で大学教員および研究者として重要な資質を欠いており、ほかの点をさておいてもそれだけで大学教員の職を失ってもやむを得ないと断ずることができます。もちろん、女性差別的であるというのもそれだけで大学教員にふさわしくない要素ですが、そうした側面からの議論は私より適切な人たちによってなされるでしょう。何より、女性差別であるという点を意地でも無視しようとする人たちのために、彼らの努力が実を結んでも結局は無駄なのだということを突きつけるためにこの記事を書くこととしました。
そもそも、前述のように、誹謗中傷を行っている者の多くは、オープンレターや北村氏を擁護する言説が言論の弾圧にあたるという立場をとっています。しかし、実際には誰もそのようなことは主張していないのです。オープンレターは呉座氏個人を糾弾する内容でもなければ、大学に処分を求める内容でもありません。オープンレターはあくまでこうした問題が起こる構造的な問題を指摘したにすぎず、その意味ではかなり曖昧でふわっとしたものでもありました。故に、言論を弾圧したという主張は、仮に「誹謗中傷もまた言論なのだ!」という無理筋を完全に認めたとしても成立しません。
そういうわけで、いま現在オープンレターに噴きあがっている人々というのは、その多くがそもそも存在していない主張に対して反応しているとしか思えず、彼らにはあの程度の量の文章を正しく把握する能力がないか、あるいは単に文章を確認すらしていないと考えられるのです。
いうまでもなく、研究者の活動を支えるものの1つは過去の文献を読み込むことです。それには当然、論理的読解力が必要とされます。オープンレターの文章は文字数にして3500字に満たないものであり、これより短い論文は滅多に存在しません。少なくとも心理学には存在しないと断言していいでしょう。つまり、オープンレター程度の文章を正しく読めない人が、自分の分野のより長い論文を正しく読めるとは到底考えられません。そして、論文も正しく読めない人間が研究者として活動できるわけがありません。
また、実は大学教員の職務は文章によるコミュニケーションと密接なかかわりがあります。なぜなら、多くの場合教員は学生のレポートなり論文なりを添削し採点する立場にあるからです。3500字というのは普通にレポートで要求する量でしょう。3500字を正しく読めないということは、学生のレポートを正しく採点できないということと同義でもあります。そういう人が教員の職を果たせるかは疑問です。
そういうわけですから、オープンレターの「誤読」を1つの重大な要素としている誹謗者は、大学教員の職を全うする能力を欠いていると言わざるを得ず、仮にそれが原因となって失職してもそれは妥当な処分でしかないと言うほかありません。これはイデオロギー以前の能力の問題です。
これに関しては、誹謗中傷の相手が北村氏であるというのが、ある意味では強力な証拠になっています。
誤解を恐れずに言えば、北村紗衣氏は研究者のなかではそこまで立場の弱い人ではありません。すでに武蔵野大学の准教授であり、(おそらく)任期のないポストについているからです。むしろ氏を誹謗していた某氏のほうが非常勤講師という点では弱い立場ですらあるでしょう。
しかしこのことは、裏を返せば、どれだけ職業上の地位にあろうが、女性であるという一点だけでここまで異様なハラスメントを受ける、しかも職業上は自分よりも立場が弱いはずの人物からもということを示しています。
(補足すると、ある側面から見ると立場が強いはずの人が弱い人からハラスメントを受けるという逆転現象は決して珍しいものではありません。特に女性が受けるセクシャルハラスメントにはそうした側面があり、女性教員が男子学生からハラスメントを受ける事例や、女性看護師が男性患者から被害を受ける事例箱の典型でしょう)
そして、相手が女性であれば准教授でさえ誹謗中傷するということは、そのまま「相手が女性であり、職業上の立場が准教授よりも弱い」女子学生のような相手に対してはさらに苛烈に振る舞うだろうという当然の推測を導きます。
もちろんこれは推測に過ぎず、実際はわかりません。しかし、わからないというのはあくまでわからないというだけにすぎず、その推測を否定する根拠にはなりません。ハラスメントの性質を考えれば、むしろ「被害者が黙らされてるからわかっていないだけだ」という推測も成立しますし、この状況ではその推測も不当なものでもないでしょう。SNS上で女性研究者を中傷したという具体的な事実は、こうした推測をもとにリスク回避として学生に被害が及ぶ前に解雇しようと大学が動くことを正当化しえるものだと思います。
現実問題としては、労働者は法律で保護されているので解雇が難しい事情もあるでしょう。私は労働法に明るくないのでその辺のことは正直分かりません。とはいえ、学生にハラスメント行為を行う蓋然性が高いと推測するに余りある問題が出てきてもなお解雇できないということは流石にないのではと思われます。
法律上の処理はさて置くにしても、SNS上で研究者を誹謗中傷する、しかも差別的な動機からというのは上述のような理由もあって、職を失っても同情されないことであるというのは原理原則として理解しておくべきでしょう。簡単な話に思えますが、そのことすら理解できていなさそうな「研究者」が少なくなさそうというのが問題ですが。
そういう研究者がごそっと首になれば、若手の雇用問題も少しはましになりそうなんですけどね。
誹謗者の主張は様々ですが、一貫しているのは次の2つです。まず第一に、呉座勇一氏が所属先の日文研に処分されたことに象徴されるように、北村氏を擁護する勢力やオープンレターによって(男性)研究者の言論が弾圧されているという部分。もう一つは、呉座氏の事例にせよ、北村氏が代理人を通じ大学と協議しながら対応を進めたことで現在処遇が取り沙汰されている某氏のように、こうした「言論弾圧」によって職を失うのはおかしい、不当な「キャンセルカルチャー」であるという部分です。
しかしながら、こうした主張は単純な事実認識すらままならない的外れなものに過ぎません。前者の点は後で論じますが、特に後者の点に関しては、現在批判されている人々の発言からして、むしろどうしてこのような発言を公で行っておきながら大学教員であり続けられると思えたのか疑問でしかありません。
私に言わせれば、こうした誹謗者は2つの面で大学教員および研究者として重要な資質を欠いており、ほかの点をさておいてもそれだけで大学教員の職を失ってもやむを得ないと断ずることができます。もちろん、女性差別的であるというのもそれだけで大学教員にふさわしくない要素ですが、そうした側面からの議論は私より適切な人たちによってなされるでしょう。何より、女性差別であるという点を意地でも無視しようとする人たちのために、彼らの努力が実を結んでも結局は無駄なのだということを突きつけるためにこの記事を書くこととしました。
論理的読解力の欠如
先ほど『誹謗者は2つの面で大学教員および研究者として重要な資質を欠いて』いると書きましたが、そのうちの1つは論理的読解力です。これはつまり、彼らがオープンレターなどに象徴される本来の主張の内容を正しく把握することができておらず、であれば研究に必要な論理的読解力も当然欠いているだろうという推測です。そもそも、前述のように、誹謗中傷を行っている者の多くは、オープンレターや北村氏を擁護する言説が言論の弾圧にあたるという立場をとっています。しかし、実際には誰もそのようなことは主張していないのです。オープンレターは呉座氏個人を糾弾する内容でもなければ、大学に処分を求める内容でもありません。オープンレターはあくまでこうした問題が起こる構造的な問題を指摘したにすぎず、その意味ではかなり曖昧でふわっとしたものでもありました。故に、言論を弾圧したという主張は、仮に「誹謗中傷もまた言論なのだ!」という無理筋を完全に認めたとしても成立しません。
そういうわけで、いま現在オープンレターに噴きあがっている人々というのは、その多くがそもそも存在していない主張に対して反応しているとしか思えず、彼らにはあの程度の量の文章を正しく把握する能力がないか、あるいは単に文章を確認すらしていないと考えられるのです。
いうまでもなく、研究者の活動を支えるものの1つは過去の文献を読み込むことです。それには当然、論理的読解力が必要とされます。オープンレターの文章は文字数にして3500字に満たないものであり、これより短い論文は滅多に存在しません。少なくとも心理学には存在しないと断言していいでしょう。つまり、オープンレター程度の文章を正しく読めない人が、自分の分野のより長い論文を正しく読めるとは到底考えられません。そして、論文も正しく読めない人間が研究者として活動できるわけがありません。
また、実は大学教員の職務は文章によるコミュニケーションと密接なかかわりがあります。なぜなら、多くの場合教員は学生のレポートなり論文なりを添削し採点する立場にあるからです。3500字というのは普通にレポートで要求する量でしょう。3500字を正しく読めないということは、学生のレポートを正しく採点できないということと同義でもあります。そういう人が教員の職を果たせるかは疑問です。
そういうわけですから、オープンレターの「誤読」を1つの重大な要素としている誹謗者は、大学教員の職を全うする能力を欠いていると言わざるを得ず、仮にそれが原因となって失職してもそれは妥当な処分でしかないと言うほかありません。これはイデオロギー以前の能力の問題です。
准教授を中傷するものは学生も……
もう1つの側面は、もはや言うまでもないことでしょうが、その人の倫理面ないしは「学生と適切に接することができるか」という面です。SNS上で他者を誹謗中傷する人間が学生をまともに扱うと考える義理は特にないでしょう。これに関しては、誹謗中傷の相手が北村氏であるというのが、ある意味では強力な証拠になっています。
誤解を恐れずに言えば、北村紗衣氏は研究者のなかではそこまで立場の弱い人ではありません。すでに武蔵野大学の准教授であり、(おそらく)任期のないポストについているからです。むしろ氏を誹謗していた某氏のほうが非常勤講師という点では弱い立場ですらあるでしょう。
しかしこのことは、裏を返せば、どれだけ職業上の地位にあろうが、女性であるという一点だけでここまで異様なハラスメントを受ける、しかも職業上は自分よりも立場が弱いはずの人物からもということを示しています。
(補足すると、ある側面から見ると立場が強いはずの人が弱い人からハラスメントを受けるという逆転現象は決して珍しいものではありません。特に女性が受けるセクシャルハラスメントにはそうした側面があり、女性教員が男子学生からハラスメントを受ける事例や、女性看護師が男性患者から被害を受ける事例箱の典型でしょう)
そして、相手が女性であれば准教授でさえ誹謗中傷するということは、そのまま「相手が女性であり、職業上の立場が准教授よりも弱い」女子学生のような相手に対してはさらに苛烈に振る舞うだろうという当然の推測を導きます。
もちろんこれは推測に過ぎず、実際はわかりません。しかし、わからないというのはあくまでわからないというだけにすぎず、その推測を否定する根拠にはなりません。ハラスメントの性質を考えれば、むしろ「被害者が黙らされてるからわかっていないだけだ」という推測も成立しますし、この状況ではその推測も不当なものでもないでしょう。SNS上で女性研究者を中傷したという具体的な事実は、こうした推測をもとにリスク回避として学生に被害が及ぶ前に解雇しようと大学が動くことを正当化しえるものだと思います。
まともな研究者はもっといる
私の考えでは、こうした大学教員はさっさと解雇してしまうべきです。差別も誹謗中傷もしない、もっとまともな教員は大勢いますから、わざわざ学生を傷つけたり無能だったりするリスクのある研究者を雇う必要はどこにもありません。現実問題としては、労働者は法律で保護されているので解雇が難しい事情もあるでしょう。私は労働法に明るくないのでその辺のことは正直分かりません。とはいえ、学生にハラスメント行為を行う蓋然性が高いと推測するに余りある問題が出てきてもなお解雇できないということは流石にないのではと思われます。
法律上の処理はさて置くにしても、SNS上で研究者を誹謗中傷する、しかも差別的な動機からというのは上述のような理由もあって、職を失っても同情されないことであるというのは原理原則として理解しておくべきでしょう。簡単な話に思えますが、そのことすら理解できていなさそうな「研究者」が少なくなさそうというのが問題ですが。
そういう研究者がごそっと首になれば、若手の雇用問題も少しはましになりそうなんですけどね。
このブログでもnoteでも、専門的な知識や知見がなければ書けないような記事は一切ない以上、どこまでいっても「自称」でしかないがな