「これは……」
椎名が深刻そうな顔で呟いた。彼女の視線の先には仄暗い空が広がっている。
「急ぐ?」
「走るのは得意では……」
「え、おぶるよ?」
彼女は驚いたようにこちらを見た後、困り顔で断った。「それはさすがに」
「そっか。効率的だと思ったんだけど」
「スカートですからね。それに、重いだなんて思われたら、女子たるもの傷つきはしますし」
ああ、なるほど。それは考えが及ばなかった。ズボンならまだしも直に足を触れられると嫌な人もいるか。ボクは
しかし、後者は問題ないだろう。
「ボクが体重なんかで見る目を変える質ではないと知っているだろうに。腕力には自信があるから、キミを三人同時に持ち上げることくらいはできそうだ」
袖をめくりあげながらそう言うと、彼女は苦笑して再び空模様へと意識を戻した。
もしかしたら密着することに躊躇いがあるのかもしれない。ボクだって不可抗力でもなければ必要以上に異性と物理的な距離を詰めようとまでは考えないし、無理強いすることではないだろう。折角中学時代に六助主導のトレーニングで培った筋肉を人の為に活用する機会が来たと思ったんだが……残念。
「あっ」それから数分歩いたところで、不意に椎名が声を上げた。「降ってきました」
「ありゃ、頬に落ちた?」
「はい。――あ、また……」
すると次第に周囲のオブジェクトから水の打つ音が響き始め、ついに見上げた自分の顔にも水滴が付き始めた。
「……一雨くるな」
こういう時は本降り前にと思って急ぐ矢先に土砂降りになってぐっしょり濡れてしまうのがオチだ。実際まだ寮までは時間がかかるし、間に合わない可能性は高い。
ボクはすかさず椎名に提案する。「あそこで雨宿りしよう」
「え、いや、浅川君は傘を持っているんじゃ……」
「いいからいいから」
有無を言わさずボクが先導して物陰に移動する。椎名も仕方なく付いてきてくれた。
「傘があったって濡れるものは濡れるものさあ。たとえキミの身体が悲鳴を上げずとも、そこに入っているブツは堪ったもんじゃないだろう」
落ち着いたところで椎名のバッグを指差した。
雨の中では当然自分の身体を優先して傘に入れる。そうなると肩掛けしているバッグはある程度濡れてしまうはずだ。防水が並程度では中にしまってある本も多少傷んでしまう。
もし生粋の読書家である彼女が本を優先させたとしたらそれはそれで椎名自身が濡れてしまうのでよろしくない。
「そこまで気遣ってくれたんですか。何だか申し訳ないです……」
「気遣いはいつだって好意から生まれるものだよ。受けて感謝することはあれど罪悪感を覚える必要はない」
そこを理解していない人って意外といるよね。「こういう時は『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だよ」ってセリフを偶に聞くけど強ちその通りだと思う。
その旨を理解してくれたかはわからないが、笑いながら「そうですね。ありがとうございます」と言ってくれたのだから大丈夫だろう。
「ですが、よかったんですか? 本当に」
「ふぇ、何が?」
「浅川君なら、『相合傘』なるものに興味がおありなのではないかと思いまして」
「ああ」言われてみれば確かにそうだ。「なくはないけどなあ」
「では、どうして?」
「どうしても何も――ボクだって濡れたくないし」
しょうもない理由だ。たとえ女々しいと嗤われようと、自分の身体や物を濡らしたくないのだ。
しかも、噂には「相合傘は男子が女子を庇って外側の肩を濡らす」という暗黙の了解があるのだとか。ああやだやだ。確かにタフさが売りなのは事実だが、プライド底辺のボクはそんな格好つけのためなんかに健康を損なうマネをしたくない。
かと言って椎名が濡れることを厭わないのかと言われればそんなわけないので、結果的に相合傘はしないという結論に至るわけだ。
「まあ、軽い憧れのために窮屈な思いをする必要もないですしね。先程話した勉強会の方が余程理に適っています」
「おうおう。わかってくれるじゃん」
「勿論ですとも」
エッヘンとでも言うように胸を張る椎名。何を誇りたいのかは判然としないが、上がり調子な気分を害する発言はしない方がいいだろう。
そこでようやく、無言の時間が生まれた。もう気まずさを感じるような間柄でもないし、今はとっておきの天然BGMがある。
ポツ、ポツポツ。ポチャン。ポツポツ、ポン、ポチャン。
道路のアスファルト、手すりや柵の金属、できたばかりの水たまり。あらゆる物体から別々の音色が奏でられる。聴覚に集中しようと目を閉じていると、うっかり聞き惚れてウトウトしてしまいそうだ。
もしも自分がこのジメジメとした幕の中でダンスでも踊るとしたら、なんて妄想をしてみる。きっと今の小綺麗な波に大きなノイズが加わるはずだ。
ポツポツジャバン。ジャバジャバ、ポツ、ジャバン。――こんな具合に。
ある意味芸術的な角度から見れば邪道なのかもしれないが、純粋無垢な少年少女が音源なのだと考えると、それもまた微笑ましいワンシーンなようにも感じられる。
「雨、
「平和ですね」
こうしていると、自分たちの学校の異常性もどこか別の世界のもののように思えてくる。――なんて言ってしまっては、地球のあちこちで戦争が絶えないにも関わらず、それとは全く無縁の世界でのうのうと暮らしているという事実の縮図になってしまうか。
「面倒臭いなあ。Sシステム」
「ふふ、今更じゃないですか」
「よしなしごとに早いも遅いもありゃせんよ」
椎名は端末で現在時刻を確認し、少し伸びをしてから立ち上がる。「そろそろ帰りましょうか?」
「えー。まだ屋根から水が滴っているじゃないかあ」
「それは止んだ後も暫くは残りますよ」
「ほら、雨垂れは三途の川って言うだろう?」
「さっきとはまるで逆な意味の言葉ですね」苦笑する椎名を傍目に、屋根の下から雨空を覗き込む。うーん、確かにこれは最悪今日中に止まない可能性がある。
だけど――全く根拠のない話だが、素直な理由を答えた。
「ここから出たら、何だかこの平和な一時が終わってしまうような気がしてね……」
ボクが実家の玄関を跨いだ時。一年D組のドアを開いた時。図書館に足を踏み入れた時……空間を超える様々な場面で、目には見えない決定的なきっかけがあったように感じる。
特に思い入れのないと認識しているこの場所すら、そういう重大な転換点になるような気がしてしまったのだ。それも、極めてボクにとって不利になるような。
しかし、椎名はどうやらボクとは相反する持論を抱いていたようだ。「心配要りません」
「どうして?」
「簡単な話です。この時間を育んでいるのは、雨でもこの建物でもありません」
雨の届くスレスレまで歩んでから、彼女は朗らかな表情で言った。
「私たちがこうして一緒に過ごしているからこそ、生まれた安寧なんですよ。それは決して、易々と崩れ去るものではありません」
「……それは、合点いくなあ」
これは一本取られた。そう言われては、雨粒如きで揺らぐものではないと言い切れてしまう。
彼女はやはり、ボクの悲観的な考えをいとも容易く塗り替えてしまう恐ろしく素晴らしい友人だ。
キミは何度もそうやって、意図せずボクを支えてくれるんだな。
そういう存在を――優しさや温もりで包み込んでくれる存在を、人は何と呼ぶんだったか。
ボクはゆっくりと立ち上がり、椎名に
「ただ、これがないと平和より先に身体が壊れてしまうよ」
ボクの返しに、彼女はにっこりと笑う。「そうですね」
ボクは手早くバッグから携帯傘を取り出し、椎名の隣に並んで雨の降りしきる外へ出た。
すると、先まで鼓膜に届いていた音楽に、ボト、ボトと言う鈍い音が加わり始める。
――ああ。こんなところにもあったんだな。
頭のすぐ上で紡がれる音色に小さな喜びを感じながら帰路を往く。
隣の少女となら、これからも綺麗なものを――いや、汚れてばかり見えていたものでも、確かに秘められている綺麗な部分に気付かせてくれるような気がした。
その点ではボクらは相性がいいと言えるのかもしれない。それがちょっとだけ嬉しくて、こそばゆかった。
安らぎを与えてくれていた雨音がほんの少し勢いを強める。
それはまるで、ボクの中に広がった幸福を、細やかに祝福しているようだった。
しかし――『今』になって思う。
やはり自分の予感は間違っていなかったのだ、と。
決定的なきっかけ。それは既に起こってしまっていた。
振り返る度に実感する。根拠はないが、ただ一つ言えることがあった。
この日は結局、雨が上がることはなかった。
――空に、虹はかからなかった。
ワンチャンこの話で、オリ主が椎名に抱いている想いが、誰かが誰かに向けている想いとかなり似ていることがわかると思います。それくらい大事な回です。
まあそこは二章で焦点を当てる予定なんですけどね。そういう意味では伏線回なのかもしれません。
どこまでやる?
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船上試験&原作4.5巻分
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体育祭(ここまでの構想は概ねできてる)
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ペーパーシャッフル
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クリスマス(原作7.5巻分)
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混合合宿or一之瀬潰し
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選抜種目試験~一年生編完結