ねずみ仙人
テーマ: ブログ来年の干支はねずみですってね。
桃屋がある蛎殻町で生まれました。
のり佃煮の三木のり平が生まれた浜町で育ちました。
東京都中央区日本橋浜町が私のふるさと。
東京大空襲で焼出され、住むところがなくて転々としたので、小学校は4回転校。
卒業したのは久松小学校
中学は今はもう無い 浜町中学校
校章は「浜千鳥」
1年生は赤 2年生は黄色 3年生は緑
東京大空襲のとき、校舎の中で、大勢の方が焼け死んだので、
校舎内で「かくれんぼ」、怖くて隠れていられません。
「なんで早くみつけてくれないのー!」と、みんな半ベソで飛び出してきます!
浜町には「浜町音頭」があります。
大正生まれの母が踊った時代は1番から10番まであったそうです。
私が盛んに踊った戦後から昭和30年辺りまでは1番から5番まで。
現在保存会の皆さまが踊っているのは1番から6番まで。
何番までかということは重要。
それは、1番2番3番~歌詞に合わせて、全部振りが違うからです!
地元のひとしか踊れません。
櫓の上には、地方のお三味線がずらーっと並び、歌い方の男性がずらーっと並びます。
♪~いわいはやしてにぎやかに~♪と長唄ばりの声が流れると、僅かな緊張と踊れるという優越感で胸が膨らみました♪
藤本二三吉さんや、演歌歌手の白根一夫さんがいらして歌ったこともあります。
「若旦那の縁談」という映画を浜町で撮影したご縁で、榎本美佐江さんが歌う「若旦那の縁談」も盆踊りで踊ったのですが、現在、音源はみつかりません。
明治座前の小公園をグルッと囲んで、踊りの大きな輪が5重6重7重にもなります。
見学のVIP席には偉そうなひと達に混じって外国の方もたくさんいらしてました。
盆踊りは夕方6時ごろから始まって明け方3時位まで。
地元は料亭・置屋・御茶屋が多く、踊りのお師匠さんや葭町の芸者さん達の達者な踊りに惚れ惚れします。
夜10時ごろになると、明治座の舞台が跳ねて、役者さん達も踊りの輪に入ります。
なかには、舞台衣装のままや、メイクを落とさずそのままで踊りの輪に入る役者さんもいて、尚一層華やいできます。
そんな中
ちょんまげ姿で上半身裸、赤いけだしをヒラヒラさせて、縦横無尽に派手に踊りまくる、ヤケに脂ぎったオジサンが現れます。
踊っている女の子達はキャーキャー云って逃げ回ります。
『ねずみ仙人』です。
何故、『ねずみ仙人』と呼ばれたか・・・。
『ねずみ仙人』は人形町に住んでいました。
アパートを持っていて、住人の殆んどが、当時「パンパン」と呼ばれていた娼婦の女性達。
その女性達からオジサン オジサンと慕われている様子はよく目にしました。
あの頃はやたらとネズミが多くて、どこの家庭にもネズミ捕りがありました。
捕まえたネズミを持って行くと、『ねずみ仙人』が一匹10円で買い取ってくれます。
ネズミは『ねずみ仙人』の主食。
『ねずみ仙人』たる所以です。
ネズミを食べてると思うと気持が悪いので、私たちはキャーキャー言いながら逃げます。
それは遊びみたいなもので、誰も『ねずみ仙人』を嫌ってはいませんでした。
おとな達のもっともらしい噂…
「戦地で食べるものがなくて、ネズミを食べたのがヤミツキになった切っ掛けらしいよ」
来年の干支はねずみ
思い出したのが『ねずみ仙人』でしたっ!
現在浜町音頭は、『浜町音頭保存会」の方々が伝統の踊りを守ってくださっています。
投稿者K.