雑記(2022)
[疑問]
体験が人を作る、というのは一面の事実だと思う。そして、その人の精髄が作品である、と見ることもできよう。
してみると、体験が作品の質を規定してしまうのだろうか。体験の解釈も大事であるという反論はあり得るが、教科書的でない、ユニークな解釈を可能にするのは、結局体験からにじみ出る何ものかではないか、とも考えられる。
ひとは体験の通り道なのだろうか。体験はみずからの顕現を求めてひとをさがすのだろうか。私的な書き物が誰かのこころにうったえることがあるのを見ると、こんな奇妙な考えが浮かぶ。
[疲弊と混濁と茫洋と]
さしあたり、今作だけは完成させたい。彼の最期を描いて某氏へのレクイエムとしたい。私自身のための中仕切りでもある。ここらへんが自分の納得できる落としどころだ。
以後のゲーム制作は無理であろう。表で活動するには汚れすぎた。過集中が切れて、環境の変化が目についてきたというのもある。客層の入れ替わりも、また。
区切りがついたら、ここでなじみのひとたちとひっそりやっていければと思う。あとは力尽きるまで不器用に歩み続けるのみ。
[<悪>を描く器]
近作で「一人称の犯罪心理学」めいたものにとりかかったのだが、うまくいったとは思わない。私は彼ではないし、彼の内在論理を把握できているわけではない。何か、実行した者とそうでない者を隔てる「踏み越え」を扱いきれなかった。踏み越えたという一線において「怪物」的様相をもちつつも、私(われわれ)と原理的に陸続きであるところの……。
また、どうしても、物語的なまぬるさが残った。語りにならないというか、語ったとたん別物になってしまう機微を扱うというパラドックスに屈した。私自身のかそけき「向日性」が悲劇の徹底を妨げたのもあろう。私は、性質としては、ドストエフスキーよりもトルストイに親しみを抱く。道徳への希望を捨てきれない。それは私の射程であり、限界でもあろうか。
[遺書セラピー]
最期のことばを想定してなにごとかを書くのは、存外治療効果があるかもしれない。
まず、書くことによる客観化。苦悩との一体化を打ち切り、理性的分析がはたらきやすい。抱える問題がたとえ解決できないものであってもかまわない。問題に目鼻がつくこと自体が苦悩の減圧をうながす。
次に、本質を洗い出す。書くに値しないことは消え失せ、本当に伝えたいことが残りやすい。生の内部の浮き沈みよりも、生そのものを対象化しやすくなる。
また、生そのものの対象化によって、「中仕切り」がしやすくなる。遺書を書いた時点における自分の生全体をカッコに入れて考えられる。逆説的であるが、「これからどうするか」を考える一助になる。
もっとも、誰にでもすすめられる方法かはわからない。本当の遺書になってしまうかも。
[遺書全文]
すこしずつ書き溜めたものを配列して遺書の代わりとさせていただきます。じっくり書き下ろすことはもはや叶いません。もとより乏しい構成力がここ数年で一気に衰微してしまいました。加えて、文意不明瞭なところがちらほらあると思いますが、ご海容願います。
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いままでの人生をある程度俯瞰していえば、私の対人関係は「狭く浅く」であったと思う。家族であっても他人に深入りしなかった。2011年に病いが悪化してからは情緒的つきあいに巻き込まれること自体をなるべく避けてきた。
この傾向は歳とともに増した。たとえ家族であってもそばにいるとくつろげない。他者がそばにいること自体が私にとって強いプレッシャーであった。私の「こころがけ」による部分もあろうが、端的にいって「身体が恐怖する」のである。改善へ向けたあらゆる意識的とりくみは無効であった。
なぜこうなったか。因子を独立に取り出すことは困難であろう。したがって、記憶をたぐり、その中の印象深い断片を重ね絵のように合わせてみる。そうして仄見える何ごとかをもって「説明」としたい。いわば諸断片の描く布置を設問への回答とするわけである。
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過去をふり返ると、「傷」に似た記憶が乱舞する。傷の最古層は記憶以前であり、当然想起できないが、いまに至るも私の世界像を強く規定しているのではないか。
たとえば両親の離婚である。すくなくとも父親にはそれなりの覚悟があったようだ。当時、青年が離婚した父を殺す事件があった。「ああなってもいいの?」と母は尋ねた。「かまわん」と父。
離婚のショックだろうか、私はしばらくしゃべれなくなったらしい。「〇〇の可能性があるって保健所のひとが言ってた」と母が語ったのは私の成人後である。〇〇が何であるかは失念したそうである。
「人生は離別の連続である」という私の世界像は、父親との離別を「芯」にして、次第に生長していったのかもしれない。記憶以前の体験が、無意識からのあやつり糸となって私の人生行路を攪乱した、というのはあり得るストーリーだと思う。
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保育園に入っても自分からひとに話しかけるのが苦手であった。かなりの引っ込み思案であったが、世話焼きの女子が「通訳」になってくれたおかげで、ほかの園児とささやかながら意思疎通できた。
私の「根無し草性」はこのときすでに見られる。自分の置かれた状況の把握が苦手であった。運動会や発表会はとりわけ鬼門であった。全体の状況がさっぱりわからないから、自分が何をすべきかわからず、ぽつんと立ちすくむこともあった。現実感の乏しさが常にあった。ふわふわしたところをあてもなく漂う感じがした。現実に根づいていなかった。
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小学校入学後も事情は同じであったが、しばしば強い不安にさらされたことを思い出す。ルールのさっぱりわからないゲームに強制参加させられ、思わぬ行為がルール違反であると咎められるのに似たつらさがあった。破れたテスト用紙の交換をうったえてクラス中のブーイングを浴びた。放課後の掃除時間、黒板に翌日の日直を書いて教師に怒鳴られた。ある行為が状況に即しているかどうかうまく判断できなかったのである。
世の中のきまりごとと私の先天的判断がどこか噛み合わないようだ、とおぼろげに感じたのは小学校中学年のときだった。この齟齬を「弁明なしに矯正すべき欠陥」「周囲に許してもらうべき道徳的劣等性」とのみ受け取られるのは我慢ならなかった。自分のペースを乱されることへの強い嫌悪感は、私の人生を貫く感情であった。
生のはかなさをはじめて感じたのは小学1年生のときである。学校のグラウンドの片隅にスズメの亡骸が転がっていた。窓ガラスに激突したらしい。クラスメートが集まって、みんなでスズメを埋めることになった。その光景をすこし離れて眺めていた私は、自分もいつか死ぬのだという思いにめざめた。
人間的しがらみとは無縁に生きているスズメや蝶や野良猫がうらやましかった。私にとって学校のあらゆる集団行動は苦痛だった。わけもわからずやらされることばかりの毎日にうんざりしていた。ひょっとすると、死んで楽になれたスズメをうらやむ気持ちもあったかもしれない。
私の厭世観はすこしずつ育っていった。叔母からもらった図鑑と、図書室通いで得た知識をもとに、この宇宙について思いめぐらせた。シマウマがライオンに食べられている写真をみて痛ましく感じた。赤黒い内臓をむさぼる血みどろの顔がいまも脳裏に浮かぶ。宇宙図鑑でブラックホールを知り、その壮大な虚無に恐怖した。絶滅動物の話を読んで、人間もいつか滅びるということに思い至り鬱々とした。いつか滅びるのに、なぜつらい思いをしながら頑張らないといけないのか、わからなかった。苦しまずに死にたいと神社で願ったこともある。もっとも、生の背後(出生)に目を向けられるほど聡明な子供ではなかった。
「生きることはつらい」という結論はそれ以来ずっと変わっていない。こういう実存的問題を話せる相手がいなかったことも生きるつらさに含まれる。問いを理解しない、話を打ち切る、嘲笑する、私個人の感受性を否定する、というのが周囲の反応の大部分であった。生の問題についての考えを深めたかったのだが、そののぞみは、まあ、叶わなかった。
しかし小学生のころは希望がずいぶん残っていた。社交性に乏しい私なりに、おずおずと話せる相手が少数ながらいた。向こうが合わせてくれたのだろう。よく話す女子がふたりいた。ただ、どちらも立て続けに転校したときは茫然とした。悲哀よりも人生の容赦ない流転を感じた。
同性の友人は、小学校入学直後に親しくなったふたりに尽きる。いじめとまではいかないにせよ、私が軽い意地悪を受けた――家に帰らせてくれなかった――ことからはじまった関係である。ひとりはサッカーが好きなT君。私のへたくそなサッカーを大目に見る度量があった。運動音痴を「晒しもの」にする嫌味なところが彼にはなかった。サッカーがほんとうに好きだったのだと思う。もうひとりはアイヌのクォーターのE君。スポーツをやるがテレビゲームも好き。ひょうきんでどこかつかみどころのない性格だった。彼のおばあさんの招待でアイヌ記念館を訪れたり、おじいさんから旬の牝鮭を一尾まるごといただいたことも思い出す。
小学校卒業までこのふたりと遊ぶことがしばしばあったが、進学後は疎遠になった。小学校卒業間近、担任教師から「おまえは中学では通用しないと思う」ということばを賜ったのだが、奇しくもその通りになった。私は「すこしおくれた子」であったのかもしれない。
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「傷」のかなりの部分は中学時代に形成された。軽いいじめを受け続けたのである。逐一の行動監視と実況、聞えよがしの陰口、肩や背中を強く叩く、給食をほとんど奪う、など。いま思えば他愛無いが、毎日のように泣いた。出口のないトンネルのようだった。一日が苦痛に満ちた永遠に感じられた。平穏無事な日は恩寵であった。
中学1年の2学期から私のようすはおかしくなった。成績の急激な低下。常に手で顔を隠す。頭の中のひどいざわつき。笑い声に対する怯えと恐怖。全身の感覚の鋭敏化――ひとの話し声が比喩ではなく「身体に突き刺さる」ほどの。空間のアメーバ的揺曳。時間秩序の潰乱。
2年になると状況は悪化した。家庭内暴力を起こした。感情の抑えがきかなくなった。口汚くなった。「一方的な被害者」という、ある意味心地よいアイデンティティを手放した私はいっそう不安定になった。自尊心の失墜が悪循環を生んだ。毎日死を考えた。死ねない自分に嫌気がさした。
極めつきは中学2年の宿泊学習であった。私はあいかわらず集団行動が苦手だった。用足し中に記念写真の撮影が終わった。展覧品をじっくり眺めて置いて行かれそうになった。行動のテンポが集団と合わなかったのである。
私を快く思わない者がいた。クラスメートのUである。遊覧船に乗っているとき、Uが寄ってきて、私に怒鳴った。「お前いらねえ、もう来んな」。私の何かが崩壊した。水上を呆然と眺めるよりほかなかった。「統合失調症前夜」だった。
とはいえ、Uのことばは統合失調症発症の直接の「原因」ではないと思う。精神医学の啓蒙書にしばしば書かれているように、「引き金を引いた」に留まる気がする。拳銃でいえば、引き金を引くことと、拳銃に弾がこめられていることは別である。Uのことばはたまたま私の自我の脆弱性を突いたのだろうか。
私かぎりの「発病神話」はともかく、これはよほど強烈な体験であったらしい。宿泊学習から中学3年に入るまでの記憶がまったくない。私の意識的反省を拒む何かがこのあたりにありそうだ。
中学3年になってほどなく心療内科に通いはじめた。診断は統合失調症であったが、当時は私には知らされなかった。薬のおかげで頭のざわつきが薄れた。心身の疲れが意識にのぼりやすくなった。
病状は多少ましになったが、学校の授業をすべて受けられる精神状態ではなかった。午前中のみの登校がやっとであった。「登校は善である」という前提を疑う者は私もふくめ周囲にいなかった。苦しみのもととなった場所への性急な復帰を強いるのはよく考えると残酷なことだと思う。余談ながら、ひきこもりや発達障害者などの「社会復帰」にも同じ機微を感じる。
中学卒業は「出所」のごとくであった。相互監視、相互牽制、はてはさまざまの権謀術数に巻き込まれる濃密な閉塞空間からの解放であった。
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高校時代は学校生活の印象が薄いが、そのかわり、ネットでのかかわりが印象に残っている。描いた絵を喪板の絵スレに投下すると感想が書き込まれた。多くは好意的であった。
私の自尊心が多少なりとも回復したのは当時のネット空間によるところ大であると思う。たしかにえげつない荒らしは当時もいたが、いま振りかえればSNS以前は牧歌的な世界だった気がする。
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成人後、作業所に入った。交通機関の利用がつらいにせよ、ほぼ毎日通い、仕事をこなした。自分から話しかけるのは苦手だが、声をかけてくれる利用者さんが幾人いた。たまに招かれる著名人や、大学からの実習生とのやりとりもよい刺激になった。
しかし2011年12月に統合失調症が悪化する。家庭内の不和、失恋、仕事の過重などが近い時期に重なって耐えきれなかったのだろう。どれかひとつだけなら凌げただろうか。タイミングが人生を左右することは存外多いのかもしれない。
自宅療養中、私ははじめて「声」を聞いた。幻聴であったか、ヌミノーゼであったか。ともかく声は超越性を伴っており、神か悪魔かと紛うほどであった。それは奈落の底の底から轟かせる調子で、厳かに言った。「死ね」。
私は砕けた。ことばの意味よりも、響きのほうがはるかにおそろしかった。かつて聞いたどんな音調よりもまがまがしく、それでいて甘美な蠱惑性があった。私のいままでの全人生が虚妄に思えるほどの現前強度をもって迫ってきた。声にしたがわねばならない。しかし動けない。じりじりした緊張ののち、私の全身から力が急激に抜けていった。立ち上がれなくなった。1か月ほど寝たきりになった。
年末を控えた昼下がり、世界中のかなしみが流れ込む気がした。いや、主客の別は希薄だった。ただただ形而上的に高められた世界=感情であった。「それ」から出たとき、私は不思議とやすらいでいた。このときかぎりの、生まれてはじめて感じるやすらぎだった。
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以後、この体験に目鼻をつけることが私の生の動機となった。創作活動の新しい動機でもあった。これらはすくなくとも20代半ばまでの私を支えた。
一生のいとなみにしたいと思っていたが、あいにく向こうに見放された。どんな神秘家も、創作者も、その歴程のどこかでアリディティに呻吟するものである。むろん、困難を克服して「より開かれる」場合もあろうが、乗り越えられる困難だけが人を襲うものではない。荒れ野の不毛に乾ききった者はぼろきれとして退場する。涙をそそぐ者もなく。
条件の整わない変容意識体験は遠からず人を破滅させるものらしい。生きるために立ち上がる力も意欲も、数年がかりで消散していった。そうと気づけば創作の癒しは失せていた。粘りけのあるしんどさが日々沈殿していった。交換不可能な絶望に閉じ込められた。
やがて私は自分の精神展開力の限界に達した。生まれてこなければ何もしんどい思いをせずにすんだろうなと、ふっと思ったのである。つまり問題は生の内部ではなく生そのものにある。生まれさせられてしまえば老病死は不可避である。原理的に、誰もが自己保存のために他者を犠牲にせざるをえない。そうして遠からず灰と煙に消える。たとえ勝ち組とやらに生まれても、最善を尽くしても、幸運に恵まれても、受肉は災厄である。生命と救いはおそらく両立しない。――ここまでにしよう。
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涅槃の人と鬱夫の人へ。私のゲームはすべてあなたたちの後追いです。向こうで会えたらコラボしませんか。
サイトの常連さんたちへ。やりとりできて嬉しかったです。喪板時代からの長いつきあいもありましょう。個性的なゲームをプレイさせていただきました。ねぎらいのギフトにありがたくも驚かされました。有益な本を教えてくださったり、真摯な忠告をいただいたりしたことに感謝します。生きづらさを語らうとき、心の重荷を一時下ろす思いがしました。変わらぬ見守りに何度励まされたことでしょう。ありがたいことばかりでした。
みなさんに幸いがありますよう。生きとし生けるものに幸いがありますよう。
[生か死か]
自殺できなかった。信頼できるひとたちとの語らいのうち、何かしらの萌芽になりそうなものをここに記す。<あいだ>性の濃密な時間であったから、発言者は無記とする。
・身体感覚の水準で、人生そのものが対症療法であると観念した。そのような生存のなすことは、おのずと「かのように」「あえて」「しかたなく」という性質を帯びてしまうのではないか。それは生の冒涜を意味しないか。
・社会奉仕の重要性。あなたの死体は誰が処理するのか。悲しむ人の顔を思い浮かべよ。生きてほしい。あなたには奉仕できる力がある。ただそれに気づいていないだけ。
・つながりは重要であろうが、時に重荷に感じられる。そういったものすべてを投げ出してでも楽になりたいと思う瞬間がある。
・ふっと「それが入り込んでしまう」。むなしさか、さびしさか。病気がそうさせるのか。無理しないこと。一気に変わろうとしないこと。
・信念、あるいは立ち位置は重要である。しかし学べば学ぶほど迷いやすい。単なる学習と、立ち位置形成のあいだには次元の違いがある。どこかで腹を括ること。
・何を責めるにせよ、いったん社会が悪いと考えてみること。その憂鬱は今のご時世と無縁じゃないと思う。
・社会よりも自分の出生を責めていた。ここ数年、毎日思っていた。「生まれたくなかった」と。死ねなければ、なんだかんだ生きていくだろうけれど、そこに希望はあるのか。
・立ち止まること。社会奉仕と一口にいっても、その形はさまざま。自分の苦悩を言語化するだけでも、自分に似た誰かのなぐさめになるかもしれない。自分にできる社会奉仕を考えてみること。
・社会は妄信できないが、しかしひとは社会で生きてゆく。だから支えあいが必要。仙人になるのは、可能だとしても途方もない難行だ。きみは仙人の器か。
・ヨガや瞑想が救いかもしれない。「対症療法」ではあるけれど。
・たしかに、創作を続けることはできるだろう。けれど発展してゆくものがない(ように感じられた)。行き詰まりを打破できない(と断定した)。それならばいっそ……(と思いつめた)。
納得できることも、そうでないこともあった。いますぐ答えを出すことはできそうにない。いや、一生かけても出ないかも。ならばせめて問いを深めたい。問いがしみこむのをじっくり味わおう。
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