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與那覇潤氏の「警鐘」への感想とお詫び

 本記事は「與那覇潤氏の呉座勇一さんに関する記事への反駁(1)」「同(2)」の続篇です(なお両記事を以下「(1)」「(2)」と略します)。

 私が「(1)」を発表したのは11月8日でしたが、早くも10日には與那覇潤氏がその記事に対する反論として「嶋理人さんへの警鐘:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える③」(以下「與那覇4」と略します)なる記事を発表し、さらに私がさまざまな所用で先の記事の続きを書かずにいる間の15日には「専門家を名乗る学者が起こす「専門禍」:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える④」(以下「與那覇5」と略します)を発表していました。さらにようやく私が23日に「(2)」を公開したところ、それに対して27日に與那覇氏が「オープンレターがリンチになった日:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑧」(以下「與那覇6」と略します)を矢継早に発表されています。

 

 私はこの間、「與那覇4~6」については発表から数日後には存在を知って読んではいましたが、所用も重なっていましたし、直接の反論は控えてきました。その間書いていた「(2)」の論旨に影響するものではありませんでしたし、何よりまず「與那覇4」を読んで愕然とし、心底もの悲しさに打たれざるを得なかったからです。

 それは、與那覇氏との「議論」は現状においてほぼ不可能であるという痛切な思いでした。天才である與那覇氏にしてみれば、鈍才の私など対等に議論する存在ではなく、一顧だにせずに切り捨てて構わない存在として扱われているようにしか見えないのです。もとより與那覇氏の才能について何ら異存はありませんし、私が無能で怠惰な人間であることも承知はしています。しかし建前としてすら対等な人間としてすら扱おうとしない與那覇氏の姿勢には、さすがに憮然たらざるを得ません。

 ですのでこの文章は、與那覇氏への反論などといったものではありません。私が何を書いても、どんなに証拠を並べ、論理を筋道立てて説明しても、與那覇氏の耳には届かないようです。ですので本文はただ私が與那覇氏の記事を読んで愕然とした気持ちを説明するもので、感想と題した所以です。

 ですが、天才といえども間違えることがないわけではなく、鈍才であっても時にはそれなりの意味あることを考えることもあるのだと信じて、若干の思いを述べる次第です。

 

 まず「與那覇4」を一読して、私が愕然となった理由から述べます。「與那覇4」が直接の対象としている私の「(1)」は、與那覇氏の3月の論稿がまったく事態を矮小化して論じたもので、加害者である呉座さんを無理やりに被害者に仕立て上げ、呉座さんの問題発言で傷つけられた方がたへの二次加害をする、重大な問題のある文章だということを論じたものでした。その際に私は、ウェブ魚拓サービスや5ちゃんねるの過去ログを可能な限り漁って、呉座さんの差別的・ハラスメント的発言の様相を実証的に示そうと努めました。

 これに対し、「與那覇4」は、私のそのような実証について、何も触れていません。内容に全く触れずに、一方的に「これは中傷だ!」と騒ぎ立てているのです。

 しかもその際に、極めて恣意的な言葉の切り取りを與那覇氏はしています。私は「〇〇という論拠から、與那覇氏の書いていることは間違いだ」というように、根拠を示して與那覇氏に対し批判的な評価をしています。その「間違いだ」のような、批判した文言だけを切り取って並べ、「これは中傷だ!」と主張しているのです。論拠に全く触れずに言葉だけ切り取るというのは、あまりに不誠実な姿勢ではないでしょうか。

 あまつさえ與那覇氏は、「そうしたやり方(引用注:中傷のことらしい)を拡散させたくないため、あえて嶋氏の当該記事自体にはリンクを張りませんでした」と、私を攻撃する記事において私の文章へのリンクをしていないのです。これは読者から、私の文章と與那覇氏の文章を比較して考える機会を奪う、はなはだ誠実さを欠く行為といわざるを得ません。第一、與那覇氏からして

 炎上と論争の違いはどこにあるかというと、「読者には、相手方の主張内容も踏まえた上で、それでも自分の側が正しいと判定してもらいたい」という姿勢で行われる討議が論争だ。そこには、読者の良識やリテラシーへの信頼がある。

 逆に「こちらが勝つためなら、読者に相手側の主張を教える必要はない。否、むしろ読ませてはいけない」といった態度で行われるなら、いかにご立派な学位や著作歴を持つ有識者が関与していようと、それは炎上にすぎない。

ご自身で書いているというのに、この態度はあまりにご都合主義ではないでしょうか。もし與那覇氏が上掲引用の考えを改めていないのでしたら、「嶋の書いたことはケシカラン中傷に決まっているから、議論の必要はない、炎上させて懲らしめてやれ」とでも考えているとしか思えません。しかし先にも述べたように、私が具体的・実証的に指摘した内容について、與那覇氏は「與那覇4」で一言も触れていないのです。

 

 あるいは私を炎上させる論拠としてなのか、與那覇氏は私の過去ツイートを探し出して張り付けています。

  なるほど、これは確かに配慮が足りませんでした。私は、與那覇氏はご自身の精神の病を公言して活動しているし、「平成の鬱をこえて」と自分で書かれていることもあり、與那覇氏の近年の言論のおかしさへの違和感から、余計なことを書いてしまいました。たとえ本人が公言していることでも、他人がそれをどうこう言うのは良くない場合もありますし、まして素人が精神病の診断めいたことを勝手にいうのは重大な問題があります。この点についてはお詫びして、ご要望であればツイートも削除します。

 ただ、このツイートは本件とは直接関係ありません。それをわざわざ張り出して(私の文章にはリンクすら張らないのに)いるのは、要するに「この論者は信用できない人格である、だからその指摘は無視していいのだ」と主張したいのだろうと思います。それは本題から話をそらした印象操作のように思わざるを得ません。私の「人権感覚」が問題というのであれば、その私の感覚が、私の「(1)」の実証を如何に歪めているかを論じる必要があるでしょう。それ抜きに、「こいつは俺の病気を揶揄した! だから全否定できるのだ!」というのは、揶揄のようなことを書いたのは重ね重ねお詫びしますが、さすがに暴論ではないでしょうか。

 そして挙句の果てに與那覇氏は「警告」を発して、その中で

私への中傷を今後とも続けるなら、しかるべき時期に、「実証的」だと自称されているあなたの記事がいかに不公正な手段を用いているか、このアゴラの連載にて批判させていただきます。それはおそらくあなた個人の信頼を超えて、あなたに「実証」というものの意義自体を錯覚させた学問や教育カリキュラム全体についての、社会的な信用を失墜させるでしょう。

 などと、私の受けた教育や、その教育システムに関わる人びと――つまり私の広い意味での同業者の方がた――まで「失墜」させるぞ、と大上段に構えています。これは脅しではないでしょうか。同業者まで人質にとって、削除しないと潰すぞ、という姿勢からは、とうていまともに議論しようとする意図は感じられません。

 もっとも余談ですが、私の学歴は東京大学大学院人文社会系研究科日本文化研究専攻日本史学専修、俗に言えば「本郷の日本史」ですが、ここは與那覇氏が無理くりに擁護している呉座さんと全く同じ研究室です。私が受けた学問や教育カリキュラムが失墜すれば、呉座さんも巻き添えを食いそうな気がしますが、近代と中世は別だというのでしょうか。あるいは與那覇氏の眼鏡にかなった呉座さんは例外、とでもいうのでしょうか。

 

 私は「與那覇4」を読んで愕然とし、與那覇氏がここまで無茶苦茶というか独善的な考え方をする人になってしまっていたのか、と悲しい思いをせざるを得ませんでした。内容を無視し、言葉を切り取り、参照の便宜を図らず、論者の人格の問題を強調し、脅しをかける。議論の際にすべきではないことばかりです。

 「(1)」でもちょっと引用した與那覇氏の「コロナ以後の世界に向けて「役に立たない歴史」を封鎖しよう」にあるように、歴史を語っていいのは「歴史感覚」を持つ一握りの與那覇氏を含む天才だけ、あとの連中は「與那覇2」で私を代表として挙げたような「歴史にも学問にもなにひとつふさわしい素養を持たない」連中なので、発言をまともに取り上げる必要はない、ということなのでしょうか。私は自分の鈍才を承知してはいますが、だからといって最初からまともに相手にされず、一方的に削除を迫られ、あまつさえ同業者にまで累が及ぶぞと脅されて、ヘイコラするほど自尊心がないわけでもありません。ですので私は記事を削除せず、また返事もしませんでした。

 それにしても與那覇氏は、ああやって脅せば言うことを聞くと本当に思っていたのでしょうか? もし本当に思っていたとするならば、あまりに人を馬鹿にしています。むしろ挑発してもっと炎上させようというのでしょうか?

 

 與那覇氏は私が記事を削除せず、返事もしないことにしびれを切らしたのか、「與那覇5」を発表します。その内容もまた先と同様の感を改めて抱かせるものでした。

 まず與那覇氏は、私の「(1)」の記事を「実証的に」論証したという架神恭介氏のブログを論拠に挙げます。自分の手を汚すまでもない、ということなのでしょうか。しかしその架神氏のブログたるや、架神氏が社会学者の橋迫瑞穂さんへ読ませようとツイッターで宣伝した挙句、その内容の粗雑さを橋迫さんに厳しく指摘されている有様です。もっとも架神氏はそれを受けて、ブログの内容を加筆修正しているので、その点は誠実とは思いますが、それもあってたいへん読みづらく論旨の把握しがたいものになってしまっているのは否めません。しかもその内容は、自分で呉座さんのツイートのデータにあたったものではなく、私の記事の孫引きにとどまっています。これで私の記事が実証的でなく、架神氏のブログが実証的であるとする與那覇氏の言には戸惑わざるを得ません。

 とはいえ、私も「(1)」の校正の不行き届きに気がついたので、架神氏にはその点のご指摘は感謝します。最初は「主婦」ではない他の言葉の検索結果をリンクするつもりだったのが、途中で変更したために、呉座さんのRTしかない「主婦」の検索結果を、呉座さんのツイートそのものがあると受け取られかねない表現で紹介したようになっています。この点は誤解を招くものとしてお詫びします。

 この点は陳謝しますが、全体の論旨にさしたる影響はないとも考えます。RTは一つや二つでは、賛同したのか単にメモ的なものか判断しづらいですが、多数の結果をまとめてみれば、そこにおのずと文脈や傾向が伺われ、RTした人の考えが読み取れるでしょう。たくさん集めることが大事なのです。そして、多数の「主婦」をめぐる呉座さんのRTの全体を見れば、呉座さんが主婦に偏見を抱いていて、與那覇氏が「與那覇5」で鬼の首を取ったように掲げるRTは例外的なものと判断できます。例外的な事例を取り上げて一般的傾向を否定するのは、シンドラーを取り上げてホロコーストを否定するような、歴史修正主義的手法に接近しかねない、問題のあるものです。

 そして、與那覇氏の具体的反論は、手法として問題のあるこれだけで、あとは Researchmap を張って専門家として自分の方が偉いぞと、マウンティングしています。そんなことは私も最初から分かっております。ただそれが、個別具体的な論の正しさを直接的に意味するわけではありません。そして「専門禍」という言葉まで作っておきながら、専門家としての権威によって自分の「正しさ」を示そうとするのは、いささかご都合主義のように思われます。

 

 「與那覇6」については、もはやこれ以上冗言を費やすのも空しくなるばかりです。私が「(2)」で指摘した、現在進行中であり與那覇氏も加担している二次加害の問題は全く無視されています。ただただ、私の論ずることはまともに向き合うに値しない、その無能さを同業者ともども糾弾して炎上させてやればいい、そうとしか思われていないのでしょうか。

 與那覇氏は他にも本問題に関する記事を書き、現時点ではアゴラで8回にまで及んでいます。そのどれもが、與那覇氏が本問題に関して北村さんらへ二次加害をしており、日歴協声明やオープンレターの必要性を生じさせるのに自身も影響があったと考えらえれることに対して、全く向き合っていません。さらに言えば、與那覇氏は書かれていることを読み取ろうとしない一方で、書かれてもいないこと――オープンレターが呉座さんの処分を日文研に要求している、など――を勝手に読み取り、妄想を暴走させるばかりなのです。

 このように與那覇氏は、私(その他の方も)の指摘と向き合おうとせず、脅したり権威ぶったりと、人格攻撃のようなことばかりしているとしか私には思われませんでした。それも畢竟、「歴史感覚」を持つ自分は、「歴史にも学問にもなにひとつふさわしい素養を持たない」連中にまともに対応してやる必要はない、バカは黙ってろということなのでしょうか。私が鈍才なことは繰り返し述べているように認めていますし、本記事でお詫びしたように書いたものにも欠陥はいくつもあります。しかしだからといって、鈍才は常に天才のご高説を拝聴していればいいのだという考え方は、與那覇氏が「與那覇2」で掲げたような「誰もが参加できる自由な言論空間を作ってい」くという目的に資するものとは思えません――「誰も」が「歴史感覚」を持つ選ばれし者のみを指すのでなければ。

 

 何度も繰り返しますが、そもそもの問題は、呉座さんがツイッターの鍵アカウントで、女性研究者はじめ多方面への差別や中傷、罵詈雑言を恣にしており、しかも「界隈」とでもいうべき取り巻きの研究者や「ネット論客」などが一緒になって暴言で遊んでいたことなのです。そして呉座さんは事態が発覚して謝罪し処分を受けることになりました。処分の度合いが適切か、その手続きに遺漏なきかは議論の余地があるにしても、呉座さんはやったことの責任を取ることになりました(報道によれば、呉座さんは日文研への訴訟でも、「処分することが不当」で争うのではなく、「処分が重すぎる」と争うそうなので、処分に相当することを自分がしてしまったこと自体は認めていると思われます)。呉座さんは被害者ではなく加害者であり、決して「どっちもどっち」ではありません。

 しかし、「界隈」で遊んでいた連中は処分もされず、どころか反省すらせず、逆に中傷へ反発した被害者に対し、二次加害に及んでいる有様です。そこへ便乗して、二次加害を加速させ、呉座さんが謝って済むかもしれなかった問題を深刻にした一人こそ、與那覇潤氏なのです。呉座さん一人の問題ではないから、ことがここまで大きく深刻になったのです。にもかかわらず、深刻にした連中や、それに便乗した連中は、事態が深刻になったのは中傷被害者が反撃したからだと責任を転嫁しているのです。盗人猛々しいとはこのことでしょう。

 彼らは一見呉座さんを擁護しているように見えますが、実のところは呉座さんがどうなろうとどうでもいいのではないでしょうか。呉座さんを肴にわいわい騒ぎ、「偉そうな」「正義ぶった」研究者どもをバカにして遊ぶことが目的になっていないでしょうか。呉座さんの処分がどうなろうが、訴訟に勝とうが負けようが、騒いで誰かの悪口を言うネタにさえなればいいのではないでしょうか。なるほど、さんざんツイッターで人をネタにして遊んでいた呉座さんが、今度はネタにされるということだけ見れば因果応報かもしれません。ですがその応報は本来、呉座さんと一緒に遊んでいた「界隈」も等しく背負うべきもののはずです。その連中が反省するどころか、新しい「呉座裁判」「オープンレターいじり」というネタに飛びついて盛り上がっているのは、醜悪と呼ぶほかありません。

 與那覇氏にしたところで、氏が逆恨みしているようにしか見えない歴史学界の悪口を言うネタにさえなれば、呉座さんの今後など大して気にかけていないのではないでしょうか。與那覇氏のアゴラの連載を読んでいれば、だんだん話が呉座さんの身の上を離れ、私を含む周辺人物への攻撃や、北村さんなどへの二次加害に熱が入っているのはすぐ分かります。與那覇氏は、呉座さんの加害を矮小化して問題をすり替えることが、呉座さんの救済になると思っているのでしょうが、それはそもそもの呉座さんの被害者の口をふさぐ、二次加害に他ならぬことは、何度でも繰り返し強調しておきます。

 

 私も少し疲れました。不条理な被害に遭われた方に少しでも寄り添い、そのような差別やハラスメントを繰り返さないと同時に、大きな失敗をしてしまった呉座さんが復帰できる道はないのか、私なりに考えて発信してきたつもりでした。しかし被害に遭われた方の救済や呉座さんの復帰などどうでもよく、本件を利用して二次加害で一時の快を貪り、内輪褒めの空間を誇示して、自己の虚栄心を満足させるような人々が少なくないことに、私は辟易しました。不条理な加害を不条理と思わず、加害者が被害者を自称し、証拠を並べても無視する、そんな顛倒がまかり通っているのです。その問題ある言説を批判してもまともに取り合われず、かえって余計な炎上を広げてしまいかねません。

 私は、呉座さんの一件に関する與那覇氏の問題については、ひとまず筆を擱くことにします。何を書いても與那覇氏がまともに取り合わず、議論とは到底言えない脅しをしてくるようでは、新たな反駁を書いても與那覇氏が炎上を起こす燃料にしかならないでしょう。私の擱筆を以て「與那覇先生が嶋を論破した!」などと盛り上がる「界隈」もいることでしょうが、「論破」などということにこだわること自体、もはやこれがまっとうな議論ではなく、きだみのるが『気違い部落周游紀行』で描くところの「言い負かし」となっていることを証していると思います。

 私が筆を擱いたからといって、與那覇氏が鉾を収めることはないでしょうが、與那覇氏がこれからアゴラで書きそうなことは予想できなくもありません。史料を読むしか能のない、「歴史感覚」を持たない連中の言うことは全部ゴミである。史料を読ませるばかりの日本史教育自体が人間の思考を狭めて世間知らずの「歴史感覚」のない人間を「専門家」に仕立て上げている。そんな連中は追放して、既存の歴史学界など潰せばよい。それに代わって、天才である自分のような「歴史感覚」を持つ者の、史料を超越した偉大な言説を聞け(なお詳しくは拙著云々)。たいていの人文的研究対象はテクニカルな史料解読でアプローチできる、それ以外の手段はない、という19世紀末の風潮に待ったをかけたのがニーチェだと聞きます。それはそれで立場としては成り立つのかもしれませんが、與那覇さんもその方向に行かれるのでしょうか。とはいえそれは私には、ニーチェ研究者だった西尾幹二氏が、秦郁彦先生を相手に実証史学を否定しながら、それに代わるものを示せずにいた一件を思い起こさせるのですが。

 

 日歴協やオープンレターの、本当の問題点を挙げるのならば、それは二次加害に苦しむ人びとへの精神的な支援にこそなれ、実態としては二次加害を抑える役割を十分に果たせなかったということのように、私には思われます。もとよりそれは、宣言一つでどうにかなる短期的な問題ではなく、粘り強く原理原則を守り続けることによってしか実現しないのでしょう。もっともそれは大して難しいことではなく、「差別発言をしない」「ハラスメントしない」という当たり前のことに気を付けるというだけなのですが、それに逆上して文句つける人の多さには、先が思いやられます。それだけ、まさに呉座さんがはまってしまったように、ネットで人を傷つけることは「楽しい」のでしょうが、それを峻拒することが理性の役割です。

 先の見えない長い道ですが、鈍才はそもそも先が見えないために、その道を馬鹿の一念で貫くことができるかもしれないと思うことにします。

 

※追記:本記事は数日前に脱稿しておりましたが、その後修正や公開の作業をしている間に、本日與那覇氏が「歴史学者はいかに過去を捏造するのか:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える⑩ 」なる記事を発表したことを聞きました。しかしもはや、これ以上與那覇氏の言説を相手にしても、炎上の燃料にしかならないことを痛感しておりますので、特に本記事に加筆せず公開して、しばらく筆を擱くことにします。