「――よくあんな場所を見つけたな。滅多に足を運ぶものでもないと思うが」
「のんびりするには海沿いかなと思っていたらたどり着いたんだ。ちょっとした思い入れもあったことだし、今回の場に決めさせてもらったよ」
十三夜月の照らす
錦の御旗を示し合わせた後、僕らはしばらくその場で黙っていた。心通わせたことに安心したのか、緊張で疲れてしまったのか。恐らくどちらもだ。清隆が「そろそろ行くか」と切り出してくれなければ、もう十分くらいはそのままでいただろう。
時刻は八時を回る頃だろうか。既に夜は更けており、周囲には固い地面を小突く足音が響くのみである。
別に彼との無言の時間に気まずさは感じないが、単に積もる話――さっきまでの時間、世間話はほとんどしていなかった――があったので、口を一文字に結んで帰路をなぞることにはならなかった。
「夕暮れを過ぎてから落ち合ったのも初めてだな。どうしてまたこんな時間に?」
「……理由は、二つかな。一つは、湧きあがった思いをできるだけ忘れない内に伝えたかったから」
これは椎名に対しても言ったことだ。その場その時にしか語れないことや、乗せられない思いがある。相手にも自分にも齟齬を生まないためには、早急かつ正確に表現すべきものだろう。
「それじゃ、二つ目は?」
すると次に返ってくるのは、当然の疑問だ。
僕は徐に空を仰ぐ。
「……夜だから」
「夜?」清隆もつられて視線が上に行く。
「夜にはさ、
「月の魔力、というやつか?」
「それはちょーっと違うかなあ」稀にそんなまことしやかなロマンを耳にすることもあるが、生憎月は信用していない。彼もそのことを覚えていたようで、あまり驚いた反応はしなかった。
闇に紛れる隠密性故だろうか。腹を割った話をしたり思いのたけを伝え合ったりする機会は夜に多い。他にも大人の飲み会や恋人の待ち合わせなどと、人はその不思議な現象を暗に理解しているのかもしれない。無論風流という理由もあるのだろうが。
「夜は人を感傷的にさせる。シリアスは、本心を吐き出すのに打ってつけってわけさ」
「……なるほど、そういうものか」
何か思うところでもあったのか、やがて彼は納得した表情をした。すぐに考えつくのは、鈴音を説得した放課後のことだ。
初めは視線の先の昏く沈んだ景色に、一つの『諦観』を抱いていた。今もそれは、拭えたなんてとても言えない。僕は、
だけど、それだけではないと――別の意味を見出せた。泥に囚われていた視界を星へと向け始めて、やっと気づけた可能性だ。
そして、そのきっかけを与えてくれた
僕は、親友の顔を見る。
共有したいことがある。交わしたい言葉がある。しかしそのどれもが、これからいくらでも時間のあることだと確信していた。
だから今は、ただ彼と一緒にいる喜びに浸りたかった。
この感情が色あせない内に、噛み締めたかった。
「…………ありがとう、清隆」
自然と、感謝の言葉が出る。
彼はこちらに目を向け、バツが悪そうな顔をした。
「別に、オレは思ったことを言っただけだ」
「それが一番だったんだよ。君もそれをわかっていたから、僕に打ち明けてくれたんだろう?」
「……まあな」
随分と理性的な振る舞いの多い清隆のことだ。ああいう感情論めいたものを吐くことには、あまり慣れていないのかもしれない。
「……お前の言う通りだな。確かに夜は、どことなく人を素直にさせるのかもしれない」
「そうでもなきゃ、僕らは気難しい生き物なんだろうさ。捌け口がないだけで窮屈に感じてしまう矮小さからは、逃れられないものだよ」
反例に成り得るのは六助だろう。あれ程の自由人になるのは気が引けるが、弱さを見せないどころか自分自身を絶対に疑わない精神力は、自分からすれば敬意すら抱いている。でもなければ、かつて同じグループでつるもうなどとは思わなかっただろう。
「君はどうして気付けたんだ? 何を伝えるべきなのかを」
「教えてくれたやつがいるんだ。言わなくても伝わるのだとしても、言えばその想いも届きやすくなるってな」
「――櫛田かい?」
「ああ。あいつから学ぶことは多いかもしれない。オレとは対極的な立場にいる彼女なら、オレにはない視点を持っている」
確かに、『処世術』を習得しているという面で彼女は学年最高峰と言っても過言ではない。彼女自身が異性であることだし、人との付き合い方に難を感じている清隆には打ってつけの相手かもしれない。
櫛田は清隆にとっての先生、とでも呼ぶべきだろうか。ただ、彼の彼女に対する信の置き方はどこか違和感があるようにも思えるが……相応しい表現がいまいち浮かばない。一種の『人格形成』や『情緒発達』を起こす人材。一体何と表すのが正しいか……。
答えを出す前に、清隆に質問を返された。「お前はどうなんだ?」
「僕は……色々あるよ。色んな人に貰った物があるから。でも、強いて言うなら、何があっても支えてくれる人――優しく包み込んでくれる人がいるって、安心できたからかな」
人は『作者』だと、彼女は言った。あの表現が、自分の中で綺麗に収まったのだ。
僕は確かに『主人公』なんかにはなれないけれど、それとは全く異なる物語を描くことはできる。その事実を認め信じることで、ようやく僕は自分が『どうすべきか』を見つめ直し、実行する決意を抱くことができた。
「お互い、同じような存在と出会えたみたいだな」
「そうだね。一期一会って言葉がどうしてあんな頻繁に持ち出されるか、少しだけわかったような気がするよ」
恐らく、僕が彼女に向けている感情と清隆が櫛田に向けている感情は似たようなものだ。今は上手く言い表せないが、何となく、そんな気がした。
それからはまた、他愛もない雑談に戻っていく。
どうやら、寮まで口が減らない程度には、僕らの土産話は溜まっているようだった。
―――――――――――――――――――――――――――――――
楽しい一時にも終わりは付き物。昼と夜が否が応でも繰り返されるのと同じだ。
程なくして、僕らは寮の前までたどり着いた。
「喉が渇いてないか? ちょっち水分補給して行こうよ」
名残惜しさを感じていたのは事実だが、割と本当にしゃべり過ぎて喉を潤したかったので清隆に提案してみる。彼は「そうだな」とだけ答え、二人ですぐ側の自販機へと歩んだ。
「――たはずだ。お前に――ない」
「そうでな――――さんに認め――です」
何だ――?
当然清隆も違和感に気付いたようだ。顔を見合わせ、忍び足で音源へと近づく。
「昔からお――――なじよう――ないとその――きないようだな」
「兄さん――しは」
目的地は曲がり角の先にあるようだ。バレないよう、顔だけを覗かせて状況を窺う。
見えたのは――
「恥を知れ」
はっきりと見えるより先に、ドンという鈍い音を知覚する。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。しかしいつまでも放心してしまうほど落ちぶれているわけでもない。
よく知っている、何度も言葉を交わしてきた彼女と、だいぶ前にその示威を目撃した彼――。
――
肺から空気が漏れ出しせき込む鈴音を、生徒会長は能面のような顔のまま冷徹な瞳で見下ろしている。
この距離ではどんな会話が行われているか詳細はわからない。僕は耳打ちで清隆と話し合う。
「どうする。二人で割って入るか?」
「まだ続きそうならそれしかない。だが……お前はここにいろ」
「何だって?」
「カメラを構えておけ。もしオレや鈴音に暴行を仕掛けてきたら、決定的な証拠になる」
「仕掛けてきたらって……一人で対応できるのかい?」
軽く見回したが、現場は寮の裏なだけあってギリギリ監視カメラの死角だ。それをわかっていたから二人はここにいるのだろう。
しかし今は、証拠がどうと言っている場合ではないのではなかろうか。はっきり視認したわけではないが、生徒会長は鈴音を本気で付き飛ばしたように思う。そこに見ず知らずの目撃者が乱入したところで飛んで火にいる夏の虫、口封じにかかるに違いない。そうなった時、いくら清隆とて捌き切れるのだろうか。
彼は表情を一切変えることなく答える。
「別にやり合おうってわけじゃないんだ。大怪我しないように立ち回るから心配するな」
そうは言うが、と、更に反論しようとした時だった。
視界に捉えた状態を維持していた生徒会長が鈴音の胸倉を掴み、壁に叩きつけた。
さすがの清隆も焦りが垣間見え、「頼んだぞ」とだけ言い残して飛び出そうとする。
「ああもう……どうにでもなれだ。分が悪そうなら僕も行くよ」
「それでいい。――そうだ。念のため言っておくが万一の時は――」
「わかってるよ。
彼は薄く笑いかけた後今度こそ飛び出し、振りかぶった生徒会長の腕をガシッと掴んだ。その間に僕も端末を取り出し録画を開始する。
「……何だお前は」
「誰でもいいでしょう。寧ろこっちのセリフです」
ぎらつく視線が清隆へと移る。彼は欠片も臆することなく墾然と言葉を返した。
「生徒会長が新入生の女子に暴行。野次馬大好物なスキャンダルだ」
「盗み聞きとは感心しないな」
「自販機寄ったら偶々会話が聞こえたことを盗み聞きと言うならそうでしょうね。ただ、あんたの方が感心できないことをしているのは明白だろう?」
「いいからその手を放してもらおうか」
「あんたが彼女から手を離したらな」
双方決して引くことなく睨み合いが続く。何だかそれを遠くからボーっとカメラを向けて突っ立っている自分が場違いな気もするが、固唾を呑んで見守っておく。
すると、次に声を発したのは鈴音だった。
「綾小路君、どうして……」
「それは何に対する疑問だ?」
「あなたがこんな時間に出歩いているなんて――」
「おかしいか? オレからすれば、今こうして密会をしているお前も大概だと思うが」
清隆の正論に返す言葉はなかったようだ。彼女は言葉に詰まる。
清隆はその様子を一瞥し、生徒会長に再び厳しい目を向けた。
「鈴音はオレの友達なんです。これ以上虐めるのは勘弁してくれませんかね?」
「ほう、鈴音の……」
生徒会長は感心したような声を零す。
一方鈴音は弱々しく俯いたまま何も言わない。やはり彼女、兄のことになるとめっぽう女々しくなるらしい。女子としては珍しい挙動ではないが、鈴音の場合かなりレアだ。
「妹なんでしょう? 何故そこまで傷つけるマネを――」
「お前はよその家庭事情に首を突っ込めるほど偉いのか?」
「躾と称して暴力を振るう家族の有り様を看過すべきではないことぐらい誰でもわかる」
「出来損ないを甘やかして優秀な妹に育ってくれるとは思えないがな」
二人は微動だにしないまま弁舌を繰り広げるが、その間鈴音は悲し気に兄の方を見つめていた。やがて彼女は力ない声で清隆に訴える。
「やめて、綾小路君……」
「鈴音?」
「お願いだから……」
意外だ。清隆もそう思ったのか、訝し気な顔をしながらも従い生徒会長からゆっくりと手を放す。
その時だった。恐れていたことが起こったのは。
目で追えるかわからないくらいの速さで、相手の裏拳が清隆の顔面に襲い掛かる。スレスレで回避したのはさすがの反射神経といったところだ。
続いて飛んできたのは半開きの右手。鈴音と同じように掴んで投げ飛ばすつもりなのだろう。当然清隆は手の甲で払いのける。
その反動を利用し、生徒会長は体を回転させ右回し蹴りを放った。ここで遂に体の動きが付いて来れなくなった清隆は、ダメージを最小限に抑えるべく両手をクロスし衝撃を緩和した。一メートル程後ずさったものの、体勢は全くと言っていいほど崩れていない。
生徒会長はそれを瞬時に理解すると、次にこちらへ目を向け急接近し――
「ってマジかよ……!」
間違いない。彼はこちらの存在に気付いたことを悟らせずに、攻撃を仕掛ける機会を窺っていたのだ。
まんまとその策がハマり、僕は反応が遅れてしまった。画面越しに状況を見届けていたのも原因の一つだ。
端末を手にしていなければまだ回避のしようはあったが、今の状態の僕には一歩後ろに下がり蹴りの届くタイミングをずらすので限界だった。
あまりの衝撃に端末が宙高く飛ばされ、近くの茂みに落下した。
「いっつぁー……」
痛みが左腕にまで伝わり、思わず右手で抑える。
「そんな隠れ方でバレないとでも思っていたのか?」
そう貶しながら、生徒会長は僕の端末を拾い勝手に操作する。何をしているのかは、確認するまでもない。
「一年坊主の技量じゃこれで精一杯ですわ。あ、ありがとうございます」
端末を返され、僕はそそくさと清隆と鈴音の方へ駆け寄る。最初の僕らと生徒会長の立ち位置が入れ替わった状況になった。
「浅川君まで……」
「やあ鈴音。水臭いじゃないかあ。僕らにもあれくらいしおらしい態度を見せておくれよ」
目を白黒させる鈴音に普段のような口調で挨拶する。返事がないのは寂しいな。
「二人揃っていい動きをする。何か習っていたのか?」
生徒会長が徐に問いかけた。関心は多少清隆に偏っているようだ。僕は一回きりの行動だったが、清隆はたて続けに彼の攻撃を凌いでいる。偶然を疑う余地はないというわけだ。
「まあ、武道は一通り?」
「チェロと華道なら」
相手はなおも興味深そうに、観察眼をこちらに向ける。張り詰めた空気が和らぐ気配はない。
「綾小路清隆に、浅川恭介か……やはりお前たちは、名実共に新入生の中でも極めて特徴的なようだ。」
「何か問題を起こした覚えはありませんけどね。オレたちはどこにでもいる平凡な一生徒ですよ?」
「片や入試も小テストも全て五十点、片や入試で学力二位でありながらDクラス。興味を持たないやつがいると思うか?」
「……今、図書館の国語辞典を確認して『個人情報』と『プライバシー』の項目が消えていないか確認したい気分になりました」
衝撃的な事実だ。生徒会ともなれば新入生のデータを把握するなど造作もないということか。僕の古傷の件も、あるいは知られてしまっているのかもしれない。
彼は視線を妹へと移す。相変わらずその瞳には、いっそ敵意まで映っているようだった。
「鈴音、まさか彼らがお前の友達だったとはな」
「二人は友達じゃ……偶に話す仲では、あります」
煮え切らない回答に、彼は鼻を鳴らした。
「その様子だと、やはりお前は孤高と孤独をはき違えているようだ。言ったはずだぞ。今のお前にはAクラスに上がるなど到底無理な話だと」
「そんな、こと……」
「聞き分けのない……不肖の妹が同じ学校だと要らぬ恥をかく。お前は今すぐにでもここを去るべきだ」
容赦のない一言一言が、鈴音の心に突き刺さっていく。盗み見ると、瞳が震えていた。
とても兄妹とは思えない、冷たい会話だ。僕の知っているものとは、全く違う。
家族の形は人それぞれ。確かにそうかもしれないが――果たしてそれだけなのだろうか?
涙を流す子供を見て愉悦を読み取ることがあり得ないように、たとえ唯一解でない問いにも絶対に間違っていると言えるものがあるはずだ。
今までの話を聞く限り、生徒会長は少なくとも『昔のままの鈴音ではAクラスへの導き手にはなれない』ことを体に叩き込むためにここにいる。
僕はそれを、黙認していていいのか?
「ここはお前が考えているほど甘くはない。俺を追い掛けてきたのは、失敗だったな」
そう吐き捨てて、彼は身を翻し帰ろうとする。
何も言い返せない悔しさ? 兄に見放された悲しさ? 惨めな自分への怒り? あるいはもっと別の――。
いずれにせよ、感情が飽和した鈴音は耐えられずへたり込み、
――――ついに、一滴の涙が頬を伝った。
「待ってください」
もう、迷いはなかった。
決めたのだ。自分は、『僕』の物語を描くのだと。
ならば、絶対にここで黙ってはいけない。言ってやらねばならない。
かつて幸せだった頃にずっと感じ取ってきた、知り尽くしている信念から、僕はもう目を背けない。
振り返った生徒会長に、僕は言った。
「謝ってください」
「何だと……?」
「さっきから鈴音に対して取っている言動の全てを、ここで謝罪してください」
鈴音は呆然とこちらを見つめる。清隆は、何も言わなかった――しかし、あの時とは違う。僕のしたいことを理解し、後押ししてくれているように感じられた。
「なぜ俺がそんなことをしなければならない?」
「家族なら、兄妹なら、どうして少しも関わってやれないんですか?」
「お前まで、赤の他人の家庭に口を挟む気か」
「なら言い方を変えます。あなたは、今の自分のやり方が本当に正しいと思っているんですか?」
生徒会長の視線が一層険しいものになる。虚勢だ。
「悪いけど、今のあなたは間違ってる」
「……言い切るな」
「当たり前です。あなたのそれは、誰にだってできることなんだから」
家族、友達、他人……全ての関係には意味がある。
友達がいたから、僕は変わることができた。他人がいたから、自分がどんな姿をしているのかを信じることができた。
なら、『家族』は――『キョウダイ』は、一体何をしてやれる存在なのだろう。
鈴音は兄を慕っている。これまでの言動も、今のこの状況も、全てがそれを証明している。
その情愛を向けられた者として、『兄』はどうあるべきなのか。
正否を分ける手がかりは、傷みを代償に握ったものだ。
「一番近しい人だったはずのあなたが、いの一番に拒絶した。だから鈴音はわからなくなってしまった――独りになってしまった。孤独を間違いだと咎めるのなら、まずあなたが彼女を見てあげなきゃいけなかったんだ」
「俺が鈴音のことをわかっていないと、そう言いたいのか?」
「当然」
既に彼の表情には、興味の感情は残っていなかった。明らかに彼は、僕の言葉に苛立ちを感じている。
それこそが、今の彼が間違っているのだと思える理由だ。
「たかだか一か月の付き合いのお前に、何が理解できる」
「たかだか一か月来の友人の方があなたよりも今の彼女をわかってるって言いたいんだ。でなきゃあんな酷いことを、今の鈴音に言えるはずがない」
僕と清隆も、鈴音も、揃ってコミュニティが狭かった。だから一緒にいる時間が多かった。嫌でもわかる。入学したての、自己紹介すら拒否していた彼女とは、少しずつ変化していっている。
「彼女がこの学校に来てから、どれだけ僕や清隆と会話を重ねてきたと思ってるんですか。どれだけ、心を開いてくれたと思ってるんですか。その軌跡を、否定しないでいただきたい」
「詭弁だな。人はそう容易くは変われん。今まで一番近くで鈴音を見てきた俺にはわかる」
過去を知っているからこそ、どういう人間なのかわかっている。確かにごもっともだ。
しかし、それは違う――。
言い返そうとした時、別の人物から横槍が入った。
「『会話が苦手な人にオススメ。コミュニケーション10のコツ』」
その場にいた他の人間が一斉に彼を見る。
当然、声の主は――、
「清隆?」
「話を濁さないでください生徒会長。恭介が言いたいのは、あなたがその観念に縛られていることに対してなんですから」
訳のわからない単語に続いて、彼は堂々と啖呵を切る。言葉の綾からは、本の題名といったイメージが浮かぶが……。
呆けていると、鈴音は何か思い当たることがあったのか顔を赤らめ、焦りの滲んだ表情に一変した。
「ちょ、ちょっと待ちなさい綾小路君! あなたまさか、あの時……」
「悪いな鈴音、盗み見するつもりはなかったんだ」
「本当、あなたって人は……」
呆れ果てたように額を押さえる鈴音を傍目に、清隆は再び生徒会長と向き合う。
「確かにあなたは、鈴音がどういう人間だったのかは知っているのかもしれない。でもそれはこの際関係ないんですよ。大事なのは、鈴音は当時のままなのかどうか。彼女は――変わろうとしていますよ。ずっと必死に」
「…………」
「簡単に変われないからこそ、ここで成長する機会が与えられているのでしょう? その兆しはとっくに現れているんだ。兄であるはずのあなたの、全く知らないところで」
僕が言おうとしていたことをそっくりそのまま言ってくれた清隆に内心感謝し、続きを継ぐ。
「どんな事情があるのかまでは、僕らにはわかりません。何か考えがあってのことだとしたら、厳しい態度を取るのも一つの形として認めるべきだと思います。でも、今のあなたには、既に彼女の可能性を否定する資格はないんですよ。鈴音と関わることから、逃げてしまっているあなたには」
僕は初めから言っている。決して「優しくしろ」とか「寄り添え」とかではない。手を施さず「関わってやらなかった」ことを咎めている。
たとえ愛情が潜んでいたのだとしても、それで「関わる」ことからも逃げてしまっては尚更間違っているのだ。
僕の言葉に対する反応の数々は、どう考えても妹を大事に想っている兄としての矜持によるものだ。それを確認できたからこそ、僕は今の彼の態度に合点がいかなかった。
「彼女の言葉に、耳を傾けてあげてください。何を考えているのか、どんなことをしているのか、知ってください。関わり方を決めるのは、その後でも遅くはない。もしこのままでいて、鈴音が大事な何かを諦めてしまったら、間違いなくあなたは後悔する」
先程までの責め立てるようなものとは違う、誠実に懇願するような口調で彼に語り掛ける。
僕の最愛の兄弟は、もうこの世にはない。最も近しく、最も支えである存在のかけがえなさを、僕は痛いほどに知っている。
この間までの僕なら、所詮エゴだと言い聞かせて何も言わずに鈴音の兄の背中を見送ることしかしなかっただろう。だが、彼もまた妹に愛情を抱いているのだとしたら、お節介だとしても疑問を投げかけるべきだと思った。
たとえそれで、何も変わらなかったとしても。
「…………お前たちは、どうしてそこまで鈴音に肩入れする」
沈黙を経た次の言葉は、静かだった。
「理由は、特にありません。偶然から始まった友達に過ぎませんから」
正直に答える。無理に理性的な回答は捻出できなかった。
「友達が少ないからですかね」
清隆は冗談か本気かわからない答えだった。真面目な表情からして後者なのだろう。
「……そうか。お前たちなら、Aクラスに勝ち上がることも不可能ではないかもしれないな」
「さあ、どうでしょう? 少なくとも、僕らはその担い手があなたの妹さんであればいいなと思っていますよ」
彼は徐に眼鏡をクイッと上げる。動作を終えた表情に変化はないが、手で顔が隠れていた時の口角は僅かに緩んでいたような気がした。
「……鈴音」
「――! はい」
「良い友達を持ったな」
「兄さん……」
「今のお前の力では到底これからの試練を乗り越えられるとは思えん。その考えは変わらないが――それが覆される日を諦めるのは、保留にしておこう」
期待とも取れる言葉を聞き、鈴音は愕然とする。
その腑抜けた姿に近づき、彼は素早い動作でメモを書き込み一枚の紙を差し出した。
「あまり込み入った話に答える気はない。が、一応渡しておく」
恐らく、勝ち上がるための具体的なアドバイスをするような贔屓はご法度だと言いたいのだろう。
しかし、兄として――鈴音の家族としてなら、ほんの少し前向きになろう。そんなささやかな意思が垣間見えた。
鈴音はおそるおそる手を伸ばし、疎遠に感じていた兄と自分を久しぶりに繋ぐ鍵を受け取った。
能事畢れり。彼は今度こそ僕らに背を向け、その場を後にする。
「死に物狂いだ。それでもと足掻き続けることこそが、Aクラスへと辿り着く唯一の方法だと肝に銘じておけ」
激励の言葉を最後に、彼の姿は見えなくなった。
長い沈黙が、流れる。
何も言う必要はないと思うし、何かしら言った方がいいかとも思える、絶妙な間。
最終的にそれを破ったのは、他でもない自分だった。
「大丈夫かい、鈴音。ケガはない?」
未だ尻餅をついたままの彼女に近づき問いかける。
「え、ええ。私は平気。浅川君は大丈夫なの?」
「あー、わかんない。当たり所が悪かったみたいでさ。今もあんまし動かせない」
そう言って僕は左腕をぶらぶらさせる。痛みで力が入らないのだ。
「その、ごめんなさい。迷惑をかけてしまって」
「こういう時は『ありがとう』だろう?」
「そ、そうね。ごめんなさい」
「はあ……やれやれ」
不器用な一面に難色を示していると、彼女は再び口を開いた。
「……驚いたわ。まさか兄さんにあんな風に啖呵を切るなんて」
「まあ、思ったことを言っただけだな」
先刻二人で話していた時にも聞いたセリフが清隆の口から飛び出し、僕は苦笑する。その通りなのだから他に答えようがないのは事実なのだが。
「君にだってできないことじゃないだろう? 僕らに対してやっているみたいにすればいい」
「それは……そんなこと、できるわけないわ……」
いつしか清隆が言っていた。鈴音が兄へ向ける感情には、尊敬と畏怖が混ざっていると。決して他の人間には抱かない思いが湧きあがることで、緊張で頭の中が真っ白になってしまうのかもしれない。
ただ、それ以上に感じられるのが、
「君は、お兄さんのことが大好きなんだなあ」
「な、何でそうなるの?」
「初対面の人相手に罵詈雑言ぶつけるやつが急に大人しくなるなんて、そうとしか考えられないよ。おまけにあんなやりとりを聞いちゃねぇ」
兄の背中を追い掛けて進学先を決めるなど、余程の情がなければできないことだ。大方、今回の密会も鈴音の方から生徒会長に持ちかけたのだろう。それに曲がりなりにも応じてあげたあたり、やはり兄の方も彼女のことを忌々しく思っているわけではないはずだ。
「お前は、兄に憧れて、認めてもらうためにAクラスに執着しているんだな」
僕らの間では既に予想がついていたことを、清隆はついに本人に確認した。
鈴音はさえない顔のまま、コクリと頷く。
「……兄さんは、凄い人よ。何でもできた。この学校でAクラスにいることを知った時だって、微塵も驚きはしなかった。そんな兄さんのようになりたくて、私は、私なりな努力を続けてきた」
彼女は壁にもたれ、膝を抱え込みながら話し始めた。
「だけど君の兄は、それを喜ばなかった」
「……ええ、段々と兄さんは、私を遠ざけるようになっていった。今日ほどじゃないけど、叩かれたこともあったわ」
昔と変わらない鈴音に呆れている彼ならば、当時も同じような対応をしていたとしてもおかしくはない。その頃から、恐らく生徒会長は妹との関わり方に悩んでいたのだろう。
「全部、否定された気分だった。でも諦めきれなくて、私は兄さんと同じ学校に行って、近くで認めてもらおうと思った。そしたら、配属されたのは最底辺のDクラス……」
「焦っただろうな。だからお前は、職員室へ殴り込みに行くほどに必死だったわけだ」
憧れを追い求めたら、その相手自身に否定される。さぞ辛かったはずだ。にも関わらず背中を追いかけることができるなら、それはもう執念と呼んで差し支えない。
「初めはどうしてそんな評価を下されたのかわからなかった。何が足りないのかわからなかった。――あなたたちのことを見るまでは」
彼女は俯いていた視線を上げ、僕らの顔を見た。
「綾小路君、あなた、言ったわよね? 友達は、自分を変えてくれる存在だって」
「ああ、確かに言った」
「あの時は馬鹿々々しいと思っていたけど、その考えはあなたたちを見ている内に少しずつ変わっていった。あなたたちは、本当に影響を与え合っていたから」
清隆はどうやら、僕と関わることで友達づくりに積極的になったし、冗談を交えることも増えていった。僕も、自分の中で彼の存在は非常に大きいものとなっている。その様を第三者の視点から間近で見続けてきた彼女には、思うところがあったようだ。
「兄さんも、変わらない限り私はAクラスに上がれないと言っていたわ。その通りなのだとしたら、私に足りなかったのは……」
自分を呪うような険しい目付きは、実に痛ましい。
「そして、それを痛感する時がきた」
「中間テストか」
「切り捨てるか、救うか。独りだった私には、選ぶ勇気も持てなかった。迷っている内に、勉強会は崩壊してしまった。もし私が変われていたら、こんなことにはなっていなかったのでしょうね」
そんなことはない、と返すことは今はしない。
変化の始まりは、自分では気づきにくいものだ。今の迷いこそが成長している証であるのだと、彼女はまだ簡単に認めようとはしないだろう。
彼女の内心の吐露の意味は、彼女自身の中にあるのだ。
「私は、他人と関わる術を持ち合わせていなかった。それが良くないことだって、今なら痛いほど理解できるわ」
誰からも慕われる兄と、孤独を貫いてきた自分。
その決定的な差を、彼女はようやく気付くことができた。
ヒントはそこかしこに転がっていたのかもしれない。しかし、それをきちんと拾い上げて自分の中で見つめることができたなら、それだけで十分誇れることだろう。
「私は今まで、ずっと間違っていたのね…………」
彼女の告白は、自責の念を示すことで終わりを迎えた。
再び、重い沈黙が場を支配する。
鈴音は兄の幻影に囚われ、自分自身を締め付けてしまっている。生徒会長もその歪さに気付いたから、今まで通りでいるわけにはいかなくなってしまったのだろう。
今の彼女に、どんな言葉をかけるべきだろうか。将又、何も言わないべきだろうか。
独り整理する時間を設ける? ――既に終えた段階だ。
答えにたどり着けたことを褒める? ――そんなの僕でなくともできることだ。
自分が今最も彼女に送るべき言葉、それは――
「――間違っていない」
拳を握りしめ、凛とした態度で僕は言った。
彼女は涙を拭うことも忘れて顔を上げる。
「君はまだ、何も間違ってなんかいない!」
咎めることなんて誰にでもできる。
慰めも、清隆がやってくれるはずだ。あるいはもうやってくれていたのかもしれない。
ならば、僕にしか言えないことを。
僕だから言ってやれることを、絞り出そう。
「どうして……だって、私は――」
「兄に憧れたことも。その背中を追ってこの学校へ来たことも。何一つ間違いなんかじゃない!」
恐らく彼女は、
その道理を経て、彼女は後悔に苛まれている。このままでは、自分自身を否定してしまうことだろう。
しかし、それよりも前に、忘れていることが『一つ』ある。
「君の想いが、誰かの心を傷つけたか? 不幸な結末をもたらしたか? 違うだろう。だってまだ、何も終わってなんかいないんだから」
僕は過去に間違えた。それはあの日々がもう戻ってこないことを確定づけてしまったからだ。
でも、幸せだったあの頃を、否定することだけは絶対にしなかった。したくは、なかった。
「大切な物は、一つとして失われていない。それを本当に失ってしまうのか――間違っていたのかどうかを決めるのは、これからの君だ」
静かに、思い出させてあげよう。
彼女が、
それがきっと、救いの言葉になるはずだから。
「お兄さんに憧れたから、君は強くなろうと思ったんだろう? その気持ちが嘘でないなら、君が前に進む意志を持つ限り、君を間違っていたなんて誰にも言わせない!」
憧れている内は理解には遠く及ばないと言われるが、憧れがなければ始まらないこともある。
それはまさしく、大いなる『原動力』だ。
「だからさ、そんな哀しいこと言うなよ。かつてのひた向きな君が、あまりに可哀想だ」
拙いながらも必死に努力してきたことを、鈴音は今まで誰にも認めてもらえなかった。それが自分自身が認められなくなることに繋がった。
だからそろそろ、近くにいる誰かが認めてやるべきだ。それで初めて自分を許し、肯定できるようになる。
――そうだろう?
――
本当はその最初の人間が兄であれば最高なのだが、生憎時間は待ってくれない。
これからを戦う上で、鈴音には『きっかけ』となった情熱を忘れないで欲しかった。
「どう、して……?」
彼女の瞳が再び潤む。
「どうしていつも、あなたたちは優しいのよ……」
「それは、これから君自身が気付いていくはずさ」
顔を俯かせて腕で覆い、小さく嗚咽を漏らし始めた。
今、ようやく彼女の中で整理がついたのだろう。
無駄ではなかったのだと、間違っていなかったのだと、初めて他人に言ってもらった。その安心感は、然るべきものだ。
儚い旋律が止んだところで、今度は清隆が彼女に声を掛ける。
「鈴音。実はな、オレたちがこの時間に外にいたのは、勉強会について話していたからなんだ」
「勉強会の?」
「ああ。延いては今後のことにもなってくるが――恭介も一緒に協力したいと、そう言っている」
一連の会話の中で、どことなく僕の変化を感じ取っていたのだろう。僅かに目を見開いたが、大きな反応はなかった。
清隆は穏やかな顔と声音で問いかけた。
「どうする?」
「……許可、するわ」
「おいおい、違うだろう?」
未だ震えたままの鈴音の回答に、彼は軽く笑ってあしらった。
彼女は気まずそうな顔をし、彼を一睨みしてから僕の方を見る。
「……浅川君、お願い。私に力を貸して」
『お願い』と、彼女は言った。
僕と同じだ。初めて鈴音は、他人に素直に助けを求めたのだ。
それはあの時――僕が鈴音を拒絶した時に、密かに求めていた言葉だった。
「こちらこそ。よろしくな、鈴音」
僕はやっと、長いこと出し渋っていた手を差し伸べた。驚くのを忘れてしまう程、衝動的な動きだった。
彼女は一瞬ポカンとした顔を見せたが、最後にはゆっくりと握ってくれた。
「泣きべそが整っているやつはいないらしいぞ?」
「……うるさいわね。デリカシーのない」
引き上げながら揶揄ってやると、恥ずかし気にしながら怒られる。いつもの調子が戻って来ただろうか。
「何はともあれ、良かったな。丸く収まって」
「僕のせいで随分と遠回りしちゃったけどなあ。申し訳ない」
「問題自体は解決していないわ。気を緩めているわけにはいかないわよ」
「そう肩を張りすぎるなって。前に言ったばかりだろう?」
「いつまでも腑抜けているのとは違うでしょう」
確かに目先の問題が進展したわけではないが、先刻清隆からおおよその状況は聞いている。そう遠くない内に回復の兆しが見えることだろう。そうなれば、後は鈴音の裁量次第だ。
「――それに、忘れたとは言わせないわよ? 綾小路君、あなたやっぱり見ていたのね」
「え! い、いや……だから覗くつもりじゃなかったって」
「見たことに変わりはないわ」
「さっき言ってたやつか。清隆、何を見たんだ?」
「コミュ力を鍛えるための本を買っていたんだ――いって! 脛を蹴るなよ……」
「これでチャラよ」
「良かったなあ清隆。キック一つで許されたぞ」
「お前……鈴音に毒されてないか?」
テンポの良いやり取りが始まる。ついさっきまでのシリアスが嘘のよう――。
「そ、そうだ。恭介、お前武道なんかやってたんだな。驚いたよ」
「ん? おお、まあなあ。この身を守る術くらいは身に付けとこうかと思って」
「私も多少の覚えはあるけど、気になるわね。どれ程のものか」
「誇示するものでもないさあ。僕からすれば清隆の方が意外だったかな。ピアノにチェロ、書道茶道に華道まで。なかなかいないよ、そんな芸達者は」
「疑っているのか? コンクールで賞だって取ったことがあるっていうのに」
「マジか! だったら明日、早速音楽室の使用許可を取りに行こう」
「え、いや、ちょ――」
「そうね。余程腕に自信があるみたいだから、悦に浸らせてあげましょう。これから暫くは忙しくなるけど、どんな演奏をするのか楽しみにしておくわ」
「……駄目だ。あまりの心地良さで寝落ちして先生に怒られてしまう」
「くぅ……なら、寮で」
「ポイント、勿体なくないか?」
「…………じゃあ、枝と葉っぱで楽器を作って」
「どんだけ聞きたいんだよ……」
こういう時間が一番愉快なものだと悦びながら、人知れず会話が弾んでいく。
――夜はやはり、本心を語るに打ってつけなようだ。
三人の間に蔓延っていた歪な何かが、ようやく溶けてなくなったような気がした。
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――それでいい。
――お前の歩みは、往く川の流れに逆らうが如く。
――オールを漕ぐ手を止めれば押し戻され、動かすことでようやく現状が維持される。
――休めてはいけない。
――お前はまだ、進めていないぞ。
どこまでやる?
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船上試験&原作4.5巻分
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体育祭(ここまでの構想は概ねできてる)
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ペーパーシャッフル
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混合合宿or一之瀬潰し
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クラス内投票
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選抜種目試験~一年生編完結